メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2014-8-8 6:19 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 52 (営業の失敗を生かして) 実用新案の販路開拓の難しさを経験して、本田刃物店が羽生の鍛冶屋として、根を張るには、本田刃物店の、名前と場所、業務内容を地元に知ってもらうことが先ず必要であることを、知らされました。それにはどうするか?、私はチラシを入れることが早道と考えました。私の店は非常に分かりずらい、羽生駅から歩いて5分なのですが、鴻巣県道と本町通りの大通りを結ぶ4mの入り道と呼ばれた、狭い通りから、これまた狭い、3,6メートル巾で25メートルも奥に引っ込んだ所のために、お客さんには、非常に分かりずらく、本田刃物店を地元に知ってもらうことに大変苦労しました。ただ、田舎教師のゆかりの寺、建福寺があり、花屋さんと中村眼科、後に東の新入口に富田脳外科クリニック、そして吉沢歯科が出来て、それが救いの目印となりました。駐車も2台以上となると、車の入れ換えでも毎日何度となく苦労させられました。 それでも、当時は、近くに駐車場がなく、そのような、悪条件で本通りの商店と比べたら、何倍ものハンデを抱えての、商売の日々でした。 当時の時点で、お客さんに店に来てもらうために可能なことは、切れる刃物を作ること、上手にハサミや庖丁を修理すること、お客さんの無理を聞いてやることでした。 それでも、本田刃物店の良さが人の口から口へと伝わるには、食品等と違って、息切れするほどの時間がかかり過ぎることで、宣伝の苦労をさせられました。 外商での経験で知名度と販路がなかったために壁にあたってしまった。条件が悪い中、本田刃物店を知ってもらうための一案としてチラシを新聞折り込みを市内にすることにしたのでした。 商売にはパンフレット、チラシ宣伝は必要であると昭和54年から、今日においても続けております。これも、二徳万能販売での壁にぶつかった時に教えられたことなのです。・・・ |
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