メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2013-4-24 6:37 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 42(奮闘記その11) 刃物鍛冶精進の道(日本刀) 青森県陸奥湾川内町で江戸時代から先祖が燃やしていた鍛冶屋の火を昭和52年11月、先祖の血を引く私が、埼玉、羽生の地で40年ぶりに灯した。 お祖父さんを知らない私ですから、お祖父さんから鍛冶屋の仕事を仕込まれたわけではなく「いつの間にか、お祖父さんがやっていた鍛冶屋を始めることになった」ということであり、私自身の人生の紆余曲折の試練の中から、鍛冶屋の火を灯すことになったわけです。 その後の刃物店のことは後に記すことにして、鍛冶屋の火床にコークスが燃え、スプリングハンマーの調子に慣れる練習の日々を送りながら、鋼材の買い入れ先に足を運びました。一般特殊鋼は、熊谷市の熊谷特殊鋼、刃物鋼は東上野の岡安鋼材が買い入れ先に決まりました。 そして、私が、勉強先として、よく足を運んだのが、熊谷の刀匠、四分一二三さんの所です。当時は秋田と山形から二人の弟子がおりました。四分一さんは、娘さんが、通信教育大学講座を勉強した私の後輩でもありました。 そういうこともあってか、私に対しては、もったいないくらいの対応をしてくれました。 「武州住熊谷太郎源重秀」が刀匠、四分一さんです。奥さんは八重子さん、教養を備えたしゃべりの中に、鍛冶屋を始めた私を讃える言葉が、いつもありました。 四分一さんは、私を弟子にしたいような気持ちで、刀の鍛錬場で、刀の出来るまでを何度となく見せながら、教えてくれました。時には、私は刀の焼き入れを手伝ったこともありました。 また、四分一さんは、日本刀を由緒あるところに奉納したり、後に酒井雄哉氏、大阿じゃ梨に刀を贈られもしました。 刀匠、「武州住熊谷太郎源重秀」昭和53年当時の写真ですが、私は横で玉鋼を鍛えながら、32768枚の層になって刀となって行く過程をじっと見ておりました。 四分一さんから学んだことは、いくつもありますが、また、折りに触れて記することがあると思います。 |
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