メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2012-3-4 6:39 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 24 鉄筋屋 鉄筋屋という仕事は、請負が主で、コンクリート打ちこみが迫り間に合わなくなると、仲間の同業者から、梁やスラブ(床)配筋の時、臨時に応援の声が掛かります。そのような時は通常の日当の5割増しとかになるため、喜び勇んで、同業者仲間の現場に行くことになり、3日とか1週間で現場が変わります。そのために、都内を中心に、転々と渡り歩きます。当時の郵政省(14階建て)、赤羽駅東口の今は無きダイエー、西口に建設された5階建ての公団アパート、溝の口の事務所ビル、中野のマンション、浦和東口の西友、そして浦和郊外の社員寮など、電車を利用して、現場通勤を致しました。 当時は、羽生から東武電車に乗り、久喜で東北線にのりかえ、都心に向かいました。都内に通勤するサラリーマンで、電車内はぎゅうぎゅう満員で座れることはまれなことでした。帰りは始発である上野駅から乗ることを選びました。それは、座席に座れるからで、仲間の中には、酒の好きな人が多く、今では考えられないことですが、電車の中では、裂きイカや、柿の種をつまみに、飲酒が目立ったものでした。帰りの東北線電車内は、ハツリ屋、仮枠大工、などの都内で仕事を終えた見慣れた人達の会話で賑やかでもありました。 私にとって、鉄筋屋の仕事は製図を学んでいたことで、難しくはありませんでしたが、50キロから60キロの鉄筋棒を担ぐ作業なので、肉体的には、きつかったのかもしれませんが、若かったせいもあり、苦にはなりませんでした。郵政省での仕事をした時、14階のてっぺんで作業しながら、霞が関ビルや、東京タワー、番号が書かれた森ビル、下の道路を見下ろせば、交差点で堰を切るように走りだす車の列、まさしく、アクセルをふかして日本経済が急成長して行くような光景でありました。 |
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