メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2010-7-11 9:54 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 15 三条の刃物・2 私が、三条、与板の問屋を通じて、鍛冶職人の手打刃物と関係を持つようになったのは商売を始めた昭和50年代のことですが、かんな、のみ、鋸、工具、盆栽はさみ、握りはさみ等を扱うようになって、過去の歴史を知ることになりました。 江戸を販売先として、金物問屋、鍛冶屋が総意工夫の努力を積み重ねて、三条の金物は明治、大正、昭和に全国へと販路が広がって行ったのですが、その原動力となったのが、鍛冶職人でありました。 何百年もの続いて来た、三条金物文化の中で、各分野に、名工と云われた鍛冶職人が居りました 私も、取り扱い商品の中で、大工道具の、大工さんの間で、あこがれの「中屋伊之助」の鋸を扱ったことがあります。また、鉋では、与板の碓氷健吾氏のものを販売しました。 私は、問屋を通じて、鍛冶職人の最高峰の技を知り、野鍛冶の私に、教科書として、刃物の奥深さを教えてくれたのでした。 そうした、名工の居た、三条周辺の鍛冶職人の世界にも、一人、二人と鍛冶屋の灯を消す時代が訪れる時が始まるのでした。 その、鍛冶屋の灯の消し役となるのが、大量消費時代に向けて、大量販売競争に伴ない、手仕事から機械力へと、技術が人間の手から、機械に託され、ホームセンター出現から、価格競争が加速され、海外に技術を移し、低価格商品をもって、さらに、大規模ホームセンターの出現によって、鍛冶職人の手が加わらない電動刃物工具が消費者に選択されてしまったのです。 消費者が、ホームセンターで買い求めるようになってから、金物店も、三条の問屋も、鍛冶屋も激減してしまいました。伝統技術を継承した匠の刃物工具がこの世から、なくなる日は、そう遠くないでしょう。 しかし、燕、三条は生産場所を工業団地に移し、大量生産の基地として日本トップの金物産地の地位を守りつづけております。 昭和から平成へと時代が流れて行く中で機械力製造品の飛躍で手づくりの鍛冶職人の商品は、販売競争に敗れたのであります。 三条には何度か問屋、職人との交流の機会で足を運びましたが、 燕、三条と云う所は、器用な職人が多く、苦境に強く、新しい利器製品を開発する素晴らしい技術集団が生まれる所なのです。 つぎは、何処の産地を語りましょうか。お楽しみに! |
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