メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2010-4-10 8:18 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋・9 本田 裕 衣料の町羽生とハサミ 自分自身の鉄の仕事から離れて、昭和の時代に、隆盛を誇った衣料の町羽生の、当時を語りたいと思います。今は、海外に圧され元気がなくなりましたが、昔は仕事が山ほどあり、金持ちが多く、裕福な町でした。 戦前戦後の羽生は、足袋と被服の製造、販売によって、栄えました。昭和30年代、私の記憶の中には、町の何処へ行っても、ミシンの音が鳴り響き、大小合わせて数百社もあり、1万人以上の市民が、(じいちゃん、ばあちゃん、子供)までが、なんらかの地場産業の衣料に関わっておりました。羽生駅の朝,夕は近隣市町村から被服工場に勤める1000人近い女性が電車に乗降して広場やホームはごった返しました。 駅通りには衣料問屋が立ち並び、店の中は、地方から、買い付けに来た小売屋さんが、商談をしていた光景が目に残っております。 また、羽生市には、「ああ、上野駅」の作詞家がおりますが、集団就職の時代、羽生市に昭和20年代から、40年代にかけて、東北から、述べ、一万人を超える若き女性が、被服工場や繊維加工工場に集団就職して、衣料の町で汗を流し、羽生の衣料を支えておりました。 そこで、被服製造に欠かせないのが、裁ちバサミ、小バサミ、裁ち庖丁、目打ち等です。これらの、刃物は、当時は、東京、三条を中心とした、ハサミ職人が作っておりました。このハサミを羽生市に於いては、鍛冶屋が造ったハサミが被服製造に活躍して、その数は、昭和40年当時の羽生市の人口44000人を上回る(50000丁)前後の裁ちバサ、小ばさみ、が繊維に関する地場産業に、活躍していたものと推測されます。町には、専門にハサミを扱う店や研ぎやさんが目立つ程ありました。 昭和40年は、私は重電機メーカーで、鉄に関する技術を修行していましたが、12年後に羽生の地場産業の、縫製に欠かせない、ハサミの修理に、「羽生の鍛冶屋」再点灯と共に、大きく関わることになります。そのお話しをするのは、まだまだ、先になりますが、お楽しみに! |
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