メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2010-4-6 7:43 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋・その7 本田 裕 職場配属への第一歩 私は、昭和39年に3ヵ年の認定職業訓練、技能訓練所を卒業しました。卒業と同時に重電機メーカーの、変電所や大きな工場にある変圧器、遮断機、配電盤の本体の製造部門の職場に、配属されました。 3000人近く働く工場の中の、私の職場は100人程の、男だけの職場です。技術的には、溶接、板金、製缶、鍛造、プレスに関する技能をもって、1チーム10人の役割り分担で、製品が造られておりました。 専門的になりますが、変圧器、遮断機、配電盤は、鉄板、アングル、チャンネル、といった、1トン近い重量の鋼材が、図面に基づいて、リーダーの指示に従って、正確に、制作して行きます。私の職場には、溶接、板金等に、高い技を持った先輩がおりましたから、私は、先輩のやっている仕事を盗むことが、仕事の中での仕事でもありました。 会社勤めという組織の中は、出世競争が潜在する中、ライバル心が強く、その反面、それが良い意味での、技術の向上の原動力でもあったように思えます。 技能訓練生という、肩書きをもって、職場に配属された私は、常に、先に出て、上でなければならない、プレッシャーもありました。当時、年若い私は、人間関係の調整が未熟でありました。そんな、大組織の職場で、本庄市から通勤していた高橋さんは、1年制の職業訓練所を卒業した先輩ですが、私には、良く面倒をみてくれた 三ッつ年上の兄貴的存在でした。 溶接は、金子先輩、板金は羽鳥先輩、製缶は荻原先輩、鍛造は柳田先輩、の指導と技を、「盗む技こそ」が、自分の腕を向上させ、職場の中で1番にならなければならないという「負けず嫌いの私に」成長させたのではないかと思います。 火花飛ぶ グラインダーに 向かい合う 防塵マスクを しっかり付けて |
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