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   大正の時代
     私の生家「赤壁の家」その1
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投稿日時: 2007-1-20 19:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
父と島崎藤村・その4
 その後明治四十一《1908》年まで毎年一回、一泊または二泊しているが、四十年に亘《わた》る父と藤村との交友の中で最も重要な二日間となったのが、二回目の明治三十八《1905》年三月のことである。
 この頃、藤村はそれまでの詩人としての活動から小説家に転向することを決意し、「千曲川のスケッチ」に続いて最初の長編小説「破戒」の出版に取りかかっていた。その挿絵《さしえ》にする写真を父に依頼し、五百頁ぐらい書くつもりだという原稿の最初の二百頁を見せられている。その出版費の四百円は奥さんの実家函館《はこだて》の秦慶治さんに出してもらうことになっていたが、出版するまでの生活費については目処《めど》がついていなかった。

 いろいろ思い悩んだ末、半年前に立派な赤壁の家を訪ね、お互いに心を許す友ともなっていた父に頼む以外はない、と決意したのがこの日のことだった。ところが、この日はひどい寒波の襲来で朝から吹雪になっていた。岩村田から志賀まで一里半の道中には、「切り通し」という窪地《くぼち》があって、どうしてもそこを通らなければならない。吹雪の時は十年に一度死人がでるというぐらいの難所である。この日のことを藤村は小説「突貫」に、次のように書いている。

 「私は、猛さんに話してみることに決心した。単独で雪を衝《つ》いて倒れるところまでいってみる。岩村田で馬車を下りる頃は、私の身体は最早水を浴びせ掛けられるように成っていた。恐ろしい寒気だった。時々眠くなるような眩暈《めまい》がして来て、何処《どこ》かそこへ倒れかかりそうに成った。私は未だ曾《かつ》て経験したことのない戦慄《せんりつ》を覚えた。終《つ》いに息苦しく成って来た。まるで私の周囲は氷の世界のようだった。もうすこしで私は死ぬかと思った。私の足許には氾濫《はんらん》の跡の雪に掩《おお》われたところがあった。私はその中へ滑り込まないように気をつけながら、前へ、前へと辿《たど》って行った。前へ…、前へ…」
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題名 投稿者 日時
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