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   大正の時代
     私の生家「赤壁の家」その1
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投稿日時: 2007-1-13 21:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その5
 志賀村には、長い歴史の中で「神津一族系譜」とは別の神津の各家がある。もちろん同じ親戚で墓地も一緒であるが、その著名な先覚の一人が神津邦太郎である。志賀村から一つ峠を越えた向こう側の群馬県に牧場を開発して神津牧場と名付けた。明治初年、イギリスに渡り日本には初めての乳牛、ジャージーを輸入し、牧犬としてスコッチコリーも連れてきた。日本の牧畜産業産みの親の一人とも言うことが出来る。

 また芸術の分野では、日本の洋画界の草分けとして大正初期から昭和後期にかけて活躍した神津港人がいる。大正九年渡英し、ロイヤルアカデミーで学び、帰国後は構造社に加わり絵画部を創設したが、のち帝展の改組に際し構造社を脱退して緑港会を創設、第一美術協会と合併するなどして注目された。
 確かな写実と温暖な色調を基にした画風で、風景、人物、静物など幅広い領域に多くの傑作を残している。

 しかしいま挙げてきた人物像のうち、現役の善行、メイコ夫妻と羽田孜元首相の他はもう皆故人となってしまった。四百年に亘《わた》る長い歴史の中で志賀の神津家に生まれ黄泉《よみ》の国に旅立って行かれた方が何人になるか、いま手元に正確な資料はないが、その方々が永久《とわ》の眠りに就いているお墓はいま家の裏山「正住寺山」の麓《ふもと》に数多くの奥つ城《おくつき=墓所》となって鎮まっている。

 屋敷の北側の隅にある裏目の門を開けると、眼の前に広がる畑の向こうがすぐもう草地の入り目である。かつて父の招きで訪ねてきた白樺派の作家で画家の有島生馬氏が、この墓地について次のように書いている。

 「神津家の菩提寺《ぼだいじ》を法禅寺と称し、その墓地は神津家の裏に連なってゐ《い》る。古くは延文、天文、大正時代のものから、現代に至るまで累々《るいるい》二百基という苔《こけ》むした墓石が整然屏立《へいりつ》してゐ《い》る。一家一族の墓所でかく完全に保存されてゐ《い》るのを見たことのない私は、人生の悠久と時勢の推移を思ひ《い》、深い感慨に打たれた。之《これ》も交通不便な僻邑《へきゆう=片田舎》に隠されてゐ《い》た賜物というべきである」

 広い墓地の北側正衝には、石垣が一段と高く積まれてご先祖様方の墓石が一列に並んでおり、その真中に一際高い遠祖八代のお墓がある。年代順に奥から手前に並んでいる墓石には夫々《それぞれ》時を物語る特徴があるが、どれも丁寧に刻まれた同じ高さの墓石が粛然と佇《たたず》んでいる墓地には静謐《せいひつ=静か》な空気が漂っていて、何か心温まるものがある。お墓参りのときは、夫々の家族の思いを込めてその一つ一つにお線香が手向けられる。
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題名 投稿者 日時
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