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   大正の時代
     私の生家「赤壁の家」その1
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投稿日時: 2007-1-11 22:02
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その4
 四百年続いてきた神津家の家系は、父が晩年に長い年月を費やして調査、作製し、それを長兄得一郎が補遺《ほい=漏らした事項をおぎなう》、整理した「神津家一族系譜」という資料に明らかである。本家十三代、分家三十三軒の詳細な分岐系統図が整然と記されている。

 神津一族の中には近世日本の社会に貢献した人が何人かいる。まず曾祖父《そうそふ》の包重であるが、幕末政情不安の最中、小作争議の頻発、莫《ばく》大な御用金や献金などに悩み、新時代の到来を望んでいた時、赤報隊事件に連座。慶応四《1868》年官軍に肩入れをして頭部に三ヵ所の傷を負うような活躍をした。

 祖父の禎次郎は、硬骨の父包蔵への反発からか文筆を好む人となり、法律家を目指していた。十六歳で司法省の法学校に入学し、明治十六《1883》年、長野の郡書記から京都の裁判所書記となり、厳しい研讃《けんさん=学問を究める》の末、法律解説書を上梓《じょうし=出版》している。

 明治二十五《1892》年、禎次郎は父包重の重体を知って志賀に帰ったが、包重は間もなく逝去し、その遺言により十一歳の猛が神津家十二代目を相続することになった。

 神津一族には、明治から大正、昭和初期にかけ、長野県内でさまざまな事業を興した人がいる。信濃銀行を起した父のことはあとで書くことにして、まず日本のスキーのメッカ、志賀高原スキー場を開発し、長野電鉄を敷設した神津藤平。志賀高原という名前を神津一族の本拠である志賀村の名前からとった人である。その業績は志賀村の入り口に銅像となって称えられている。

 藤平の弟神津傲佑は、東北帝国大学で初代の地質学教授となり、当時最も注目されていた水晶の結晶構造を解明して世界の学者を驚嘆させ、日本で第七番目の日本学士院会員に選ばれている。

 神津一族のうち、現役で最も活躍しているのは神津善行、中村メイ子夫妻である。善行氏は既に三百にも上る映画音楽を手がけ、作曲に演奏に八面六臂《はちめんろっぴ=一人で数人分の活躍をすること》の活動を展開しているので特に記述するまでもないが、本名は充吉、夫人は五月のご夫婦である。

 現役といえば、親族でもう一人、神津藤平の娘淑子の婿羽田武嗣郎の長男、羽田孜元首相がいる。昭和四十四年以来衆議院議員に当選九回。農林水産大臣、大蔵大臣、外務人臣を歴任して平成六年内閣総理大臣になった。いま、波瀾《はらん》に富む政界の中で重鎮として活躍している。
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題名 投稿者 日時
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   » 私の生家「赤壁の家」その4 編集者 2007-1-11 22:02
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