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   大正の時代
     私の生家「赤壁の家」その1
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投稿日時: 2007-1-9 19:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その2
 志賀は標高七百十メートルで、軽井沢と同じくらいの高さである。夏は涼しくて過ごしやすいが、冬の寒さは厳しく尋常一様《じんじょういちよう=普通、ひととおり》ではなかった。家が広く廊下が長いので雨戸を毎日開け閉《た》てするわけにはいかない。長く家を使わない時は沢山の雨戸を閉めたままであるが、普段は開け放しである。各部屋とも障子《しょうじ=間仕切り用建具》だけで火鉢《ひばち=炭火を入れる火おけ》を置くほか暖房はないので、零下何度という戸外と同じ温度の中では、炬燵《こたつ》の上で硯《すずり》を磨《す》っていても墨は黒くならない。白く凍ってしまって字が書けない。万年筆もインクが凍ってしまうので使えない。だから冬は鉛筆で手紙を書いていた。

 私にはすぐ近い親戚《しんせき》に耕ちゃん、重ちゃんという本当に仲の良い幼友達がいた。志賀にいる間中は三匹の猫のようにじゃれあって遊んでいたが、三人の一番の楽しみは広いトタン屋根の上で遊ぶことだった。食堂の窓の外に生えている桐の木を伝わってよじ登り、緩い勾配《こうばい=傾斜》の広い屋根の上を駆け回っては下の大人達から怒鳴られていた。

 小学生になってからは、三人でよく「一番」と呼ばれる蔵の周りで遊んだ。茶の間の北側で中庭の真中にあるこの蔵から、足軽《あしがる=最下位の武士、雑兵》用の甲冑《かっちゅう=よろい、かぶと》を三人で持ち出して着たりした。もちろんガブガブであるが、耕ちゃんが着て立っている写真が残っている。その耕ちゃん、重ちゃんが二人とももうこの世にいない。寂しい限りである。

 「赤壁の家」の屋敷が今のような構えに整えられたのは、祖先の時代からは大分たってからだろうと思うが、母屋から南西に張り出している「御殿」と呼ばれる部屋は、元禄十五《1702》年に建築されたものであるという。この建物の柱には、ところどころ木を嵌《は》め込んだ跡があるが、これは百姓一揆《ひゃくしょういっき=農民のさまざまの闘争、暴動》に襲われたとき傷つけられ傷跡を修復したものである。

 母屋の西側は広い畑に面しており、その真中に位置して父が気に入っていた書斎の窓からは、天気が良いと正面の遥か《はるか》彼方《かなた》に日本アルプスの山並みを望むことが出来る。山が好きで日本山岳会会員だったという長兄が、戦後私が海軍から持ち帰った艦橋用の大型双眼鏡で、ここから何時までも長い間アルプスを眺めていた姿が目に残っている。この西側のほか屋敷の南北東三方はガッシリと粗い赤壁で固められた蔵で囲まれていた。
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題名 投稿者 日時
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