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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     ある学徒兵の死 (スカッパー) <一部英訳あり>
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スカッパー
投稿日時: 2007-2-3 15:26
登録日: 2004-4-11
居住地:
投稿: 25
ある学徒兵の死 (スカッパー) <一部英訳あり>
 
 今更 63年も前の出来事を と考えましたが 忘れようとしても忘れられない青春時代の 痛恨の思い出 を書くことで こんな青春を送った人もあるのだ という事を 現代社会の若い方々に送り 最近「硫黄島からの手紙」が映画上映され 感激した方も有るやに聞きますが これに勝るとも 劣らない戦場での 悲惨さがあった事も知っておいて 戴《いただ》きたい との 思いから 綴《つづ》ります


 これは昭和18年《1943年》12月 中央大学法科から学業半ばで学窓から 学徒出陣《がくとしゅつじん=学生の間は徴兵されなかったが1943年、この制度が廃止され、文科系の学生が招集された》で海軍に入った日から 始まるのである 鹿児島海軍航空隊での基礎。術科教程終了後 出水航空基地の405飛行隊から新編成の763航空隊に配属された M海軍少尉の物語である

  昭和19年12月下旬比島(ヒリピン)ルソン島のクラーク中飛行場に無事(当時は制空海権も米軍に握られていた)着任した
 この手記を書いたのは 彼M少尉と同時着任し 彼の最後を見届けたT海軍一等整備兵曹《へいそう=》〔生還者〕の遺族宛《あて》の手記から 転載するものです

 当時の比島での戦況は 既にマッカーサー麾下《きか=指揮の下にあること》の米軍は レイテ島に大挙来襲して 上陸に成功し さらに比島奪回に陸 海 空軍の全力を投入して 総反撃に転じており その圧倒的な敵戦力の前に日本軍の敗色は濃厚であった 
 かつて精鋭を誇った クラーク基地群所在の各航空隊の保有機数も激減 在比第一航空艦隊並びに台湾から応援に駆けつけた第二航空艦隊も壊滅状態に陥り 第一航空艦隊大西司令長官は在比塔乗員を台湾に脱出させ 第二航空艦隊を第一航空艦隊に吸収 昭和20年1月5日急遽《きゅうきょ=大急ぎで》 残された航空隊所属隊員に クラーク防衛海部隊の陸戦隊編成を命じ 長官他司令部要員は 台湾に移動した
   
 1月9日には既に敵米軍は大挙 リンガエン湾に上陸開始し 逐次《ちくじ=次々と》クラークに進撃が始まった
 急遽編成された 陸戦隊も陸戦の経験もなければ 訓練も無い 航空部隊の地上勤務員で構成され 陸戦に必要な兵器とて 満足に無く 弾薬 医薬 糧秣《りょうまつ=兵と馬の食糧》など 誠に乏しく 辛うじて 機上搭載の機銃《=飛行機の中で使用する機関銃》を改造したもの(長期間使用すると銃身が焼ける)等々 見るべき兵器無しで 戦はねばならないのである その上50キロ西方のピナツボ山麓《さんろく=やまのふもと》に 一夜作り《=短時間で作った間に合わせ》の 塹壕《ざんごう=土を掘って身を隠す穴》に篭《こも》り 敵戦車 航空機 重砲《口径の大きい強力な砲》を迎い撃たねばならない その総員約23,000名 戦線を11戦区から17戦区に配備 彼M海軍少尉の展開先は16戦区で約6,000名の中の一員で部下50名の小隊長として悪戦苦闘が始まるのである

 1月末には敵はダウまで進出 いよいよ各戦区での迎撃戦が始まり 16戦区では右翼第一線の赤山黄山陣地で地形を利用して奮戦したが 手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる小型爆弾》と機銃《=機関銃》が主力兵器で敵の重砲 戦車には 抗しきれず 相当な損害を受けるに至った 

 他戦区の13,14,15戦区は壊滅状態になり 3月5日戦線の第一次整理が発令 16,17戦区は現状を確保 他の戦区は後退し17戦区に収容となる 

 3月中旬の残存兵力は16戦区で1,300名〔編成当初の21%〕負傷者を含む 総員2,750名〔編成当初の12%〕で80%以上が戦陣に埋もれた事となる


 4月中旬 司令部は今後の作戦方針を 
 1、治療を要しない病人と負傷者は西方及びイバに先行分散 自活を計る 
 2、戦闘可能な者は集団行動により ピナツポ山西方又はイバ方面に出て 畑を占領 自活を計り 好機に乗じて ゲリラ戦を行う
  
 16戦区でも 4月17日生存者の中から戦闘可能者を集め 部隊の新編成が行われ 同時に戦闘不能の負傷者及び栄養失調 マラリア チフス 赤痢《せきり》等の患者は 適宜戦線を離脱し 山野を彷徨《ほうこう=さまようこと》する

 「死の旅」に発つ運命となる 「この日以降 連絡不能 消息不明の者は<戦病死>とみなす」と言う事であった

 これまで指揮小隊長として 病(マラリアと赤痢)をおして勇戦敢闘していたM少尉も 部下の殆ど《ほとんど》を失い 心身共に疲労困憊《こんぱい》して戦闘不能の状態で 患者隊に編入された
 
 4月24日から28日にかけて 敵はピナツポ山麓の我が軍に対し一大殲滅《せんめつ=みなごろし》作戦を開始 
 この山の北北東 オンドネル川の水源地に「桶谷」という 小さな谷があります 
 この谷で私の所属しておりました 海軍第16戦区部隊(指揮官佐多直大佐)は 前方の左右後方から敵を迎える事になり 直ちに傘下《さんか=中心的な人物の周りに寄り集まること》の第2連隊を迎撃隊として後方に急派し 又第1連隊(連隊長田中次郎中佐)を 谷の西方ピナツポ山北稜線《りょうせん=山の尾根》下の ナマコに進出させて ここに連隊本部を構えさせた そして主力をこの付近から西側の崖《がけ》の密林 マロナット川の川原にかけて 布陣せしめた やがてマロナット川に沿って進攻してきた 敵と一大決戦が展開される 特に24~25日のナマコ山での激戦は まさに凄惨《せいさん》な「死闘」で 殆ど《ほとんど》が戦死を遂げた


 私(T一等整備兵曹)は この戦闘においても 不思議にも命を永らえ 幸運としか申し上げようがありません 生き延びた私は 全く偶然に M少尉にお目にかかったのであります 

 5月15日だったと記憶しておりますが マロナット川の下流方面に 食料の偵察《ていさつ》に行った私は 崖《がけ》に沿い煙草を吸いながら帰路を急いでおりました

 「オーイ オーイ」と かすかな声で呼ばれているような気がして立ち止まって辺りを見回しますと 20メートル程右手の大きな石の陰から 誰か手を振っているのが目に入り 思わず駆け寄りました 小高いバナナ林から流れる小川があり その川原の石の間に色褪《あ》せて汚れきった三種軍装の士官が蹲《うずくま》っておりました

 黒線二本の略帽《=艦内帽》をかぶり 階級章はありませんでした 髭《ひげ》は伸び放題《ほうだい》 痩《や》せ細って憔悴《しょうすい》し切った顔は 土色で 腰から下は既に腐って異臭を放ち 目を覆う惨状を呈しておりました その士官から 「16戦区か?」と聞かれ 「そうです」と答えますと 「煙草を吸っているのか。。。俺《おれ》にも一服吸わせろよ。。。。俺も16戦区だ」と言われました 私がポケットから煙草を出そうとすると「その吸いさしでいいよ」と言われ 一口吸って「うまいなー」と言って 私に返されました 暫く間をおいて 「俺はもうだめだ。。。。動こうにも動けなくなった 今度はもう助かりそうにない。。。。この下の川原の戦闘で。。。皆死んで俺1人になってしまったのだが こいつの始末に困っているんだ」と 横に置いてあった軍刀を手にして「君にやるから 持って行ってくれ。。。」と言われ 一言いっては 肩で息をすると いった状態で まことに痛ましい限りでした 
 私は辞退しましたが それでも「持って行ってくれ。。。」と 苦しい息の下から何度も言われました 
 
 普通の刀とは異なり 士官の制式軍刀ですので「戴《いただ》いて宜しいのですか」と念を押しますと「うん」と頷《うなず》き 微《かす》かに にっこりされました 「カビが生えて美味く無い煙草ですが二本しか ありませんが吸って下さい」 私は半ば強引にポケットに入れました 士官は何かつぶやきながら 一度 こっくりして私を見上げました 私は戴いた軍刀を持って「偵察の帰りですので これで失礼します お大事になさって下さい 又参ります」と言って別れを告げましたが 士官の顔には 微かな安堵《あんど》の色と寂しい影が浮かんでいました 士官の名前は幾ら尋ねても 最後まで申されませんでした


 帰隊後 直ちに小隊長I少尉に報告しますと 「あれはM少尉だよ」と言われました 私は声が出ない位驚きました
 それは あまりにも変わり果てたM少尉の姿であり そしてナマコ山を脱出後三週間余り あの死闘の戦場を病気の身をもって どの様に切り抜け あの川原までたどり着かれたのか。。。。常識では想像も出来なかったからでした 

 私は小隊長の言葉を信じかね「まさかあの方が M少尉とは。。。。」と申しました 
 しかし本部では しきりに偵察を出し 状況を最もよく把握しておられた参謀のD大尉や本部付のS中尉 I少尉等が本部へ復帰を勧められた際 M少尉は「部下を全滅させておいて なんの面目があって本部に帰れますか 私の配置は飽くまで第一線です」と答え 頑として応じ無かったとのことでした 学徒出身の士官でありながら その責任感の強さに私は深く感動いたしました 

 M少尉は陸戦隊の指揮小隊長として 50名の部下を率いて クラーク基地を後に密林に入ってから 悪戦苦闘を続ける事約四ヶ月 小隊は全滅しながらただ1人生き残り しかも病苦をおして最後まで軍人らしく第一線の配置を守り通したのです 
 
 そして海軍士官の名誉にかけて 軍刀を持ったまま 野垂れ死の姿を さらしたく無かったに 違いありません 士官は全員拳銃《けんじゅう》を持っておられたのですが 当時のM少尉はもって おられませんでした 多分自ら処分されたのでしょう 

 ピナツポ山北稜線下の いわゆる「ナマコ山の決戦」の頃 すでに我が軍には空腹を満たすに 一口の食料もなく 病気を治療する医薬品もないという 状態でした

 M少尉は僅《わず》か数名の部下と ピナツポ山麓か マロナット川辺を彷徨《ほうこう》中 敵と遭遇されたのでは ないかと 思いますが これと如何《いか》に戦い 如何に生き永らえたかを知る人は 最早やこの世におりません 恐らく所持していた拳銃で 弾丸を撃ち尽くし さらに倒れた部下の銃を執り 病躯《びょうく》に鞭《むち》打って 死に物狂いで戦われたのでしょう そしてマロット川を押し渡り 上流西岸の密林に潜んで 敵の鉾先《ほこさき》をかわしている間に 部下は次々に 息絶えて ついにM少尉1人きりになってしまったと 思われます その後病気で衰弱した体を回復すべく 密林の小さな流れにいる 小蟹《かに》や蛙《かえる》 或は昆虫や カタツムリ を食べられたようです (総ての人がこうしていたからです)
 
 しかし 此れが好転しかけていた病気を 再び悪化させる原因になったと思われます 猛烈な下痢《げり》に苦しむ日が続き ついに川原の石の間に倒れ 歩く事も出来なくなり 精も根も尽き果てて静かに死を待っておられた と想像するものです

 そして 偶々《たまたま》近くを通り掛かった私を見かけ 最後の力を振り絞って 声をあげ手を振り呼び止め 気がかりで死のうにも死ねなかった軍刀の処置を私に託されたのだと 思われます

 この頃16戦区司令部は マロナット川最上流 ピナツポ山北西内懐の奥深い密林の中にありましたが 餓死する者 栄養失調で動けなくなる者 敗戦による不安から逃亡する者等で 支離滅裂となり 地獄の敗残兵とも言うべき 無惨な有様でした


 私はM少尉の事が気がかりでしたが 雑務に追われて直ちに行く事が出来ませんでした 数日後の偵察の際 M少尉のおられた地点に行って見ましたが 既に その姿は無く 誰かの手によって周囲を石で囲われておりました 
 
 一面の川原で 土をかけ様にも それが無いのです 恐らくM少尉を良く知っておられた D大尉がそうされたのでは 無いでしょうか そのD大尉も先年故人となられ 確認のしようもありません  
 前述の通り 私がM少尉と運命的な巡り会いをしたのは 昭和20年5月10日でしたから その時の状態からして 亡くなられたのは 11日か12日頃では 無いかと 思われます

 遥かに遠く故国を離れた ルソン島中部の奥地 ピナツポ山西麓《せいろく》マロナット川上流西岸 その荒涼たる石の川原に 23歳を一期として 護国の鬼となられた M少尉の墓前に額《ぬか》ずき 合掌しながら私は 男泣きしました 

 気作《きさく》に下士官達のところに来ては 談笑しておられた元気な頃の M少尉を偲《しの》びつつ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 M少尉の戦没の公式発表は「5月25日戦病死」ではなかったかと思います 
 瀕死《ひんし》の士官を無情にも見殺しにしたと蔑《さげす》まないで下さい
 それぞれが生きる事に一生懸命で 「今日の人の身も 明日は我が身」と言う 毎日でした 
 何時自分が死ぬか 夢夢生きて帰れるなんて 思ってもいられなかったのです
 「殺されるか 餓死するか 自決か」の三つしか 考えられませんでした。。。。。以下省略します

 その後の クラーク防衛海部隊の動向は 当初23.000名の隊員が 終戦時には 僅《わず》か 450名(2%に満たない)の生存者と成る程の 激戦地であった  
 
 まだM少尉は最後の状況が少しでも判明した事は 幸いな方で 何時《いつ》 何処《どこ》で 如何《どう》して も判明しない 多くの戦死者が殆どあります 
 ただ一片の「戦死公報」のみでご遺族にすれば 表現できない 悲しみが残るものと 偲びます



 スカッパー
 


 
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題名 投稿者 日時
 » ある学徒兵の死 (スカッパー) <一部英訳あり> スカッパー 2007-2-3 15:26
     ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について KyoYamO 2007-4-29 3:46
       Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-4-29 19:33
         Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について KyoYamO 2007-4-29 23:18
           Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-4-30 15:16
             Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-4-30 19:10
               Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-4-30 21:07
                 Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について KyoYamO 2007-5-1 0:30
                   Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-5-2 11:42
                     Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について KyoYamO 2007-5-3 18:23
                       Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-5-3 21:33
                         Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について スカッパー 2007-5-4 8:33
                           Re: ルソン島 クラーク西方での戦死者(祖父)について KyoYamO 2007-5-4 16:27
                             戦没者調査の参考として KyoYamO 2007-5-15 23:00
                               祖父の戦死記録調査1 KyoYamO 2007-6-15 0:48
                                 祖父の戦死記録調査2 KyoYamO 2007-6-15 0:49
                                   祖父の戦死記録調査3 KyoYamO 2007-6-15 0:51
                                     祖父の戦死記録調査4 KyoYamO 2007-6-15 0:53
                                       祖父の戦死記録調査5 KyoYamO 2007-6-15 0:55
                                         祖父の戦死記録調査6 KyoYamO 2007-6-15 0:56
                                           祖父の戦死記録調査7 KyoYamO 2007-6-15 0:58

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