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   大正の時代
     私の生家「赤壁の家」その1
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投稿日時: 2007-1-9 9:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の生家「赤壁の家」その1
 本編は、すでに「大正生まれの戦前・戦中記」をご投稿いただいている、神津康雄氏の著書「随処に主となる」の一部を著者のご了承を得て転載させていただくものです。

1. 私の生家「赤壁の家」その1

 長野県は、日本列島の真中にある。中部地方の中心で群馬、埼玉、山梨、岐阜、富山、静岡、愛知、新潟の八県に東西南北を囲まれ、面積は北海道、岩手、福島両県に次いで全国第四位である。山岳地帯が多いので人口は十六位で、日本の屋根と呼ばれている。

 私はその長野県の一番北東の端で群馬県に接する佐久市、昔は北佐久郡であった志賀村で大正八《1919》年二月二十七日、父猛、母てうの六男として生まれた。兄弟は十人だったがいま生き残っているのは、私一人だけである。

 私の生まれた家は、「赤壁の家」とか「赤壁御殿」という名で呼ばれ、三百年以上を経た家屋敷が今もそのまま志賀の地にひっそりと建っているが、実際にこの家で生まれた一族としては、私が十人兄弟中最後の一人になってしまったわけである。
 それで兎《と》にも角にも、まずは自分が生まれ育った生家「赤壁の家」の由緒を辿《たど》ることから、記述を始めていくことにしたいと思う。

 「赤壁の家」の神津家は、長野県の名家の一つに数えられていた。然し、父の代になってから昭和四《1929》年、アメリカのニューヨーク・ウォール街で起こった世界大恐慌《せかいだいきょうこう=1929年、アメリカの株大暴落で始まった最悪の経済状態》の波が目本にも押し寄せ、その煽《あお》りを受けて日本の銀行は三分の一が潰《つぶ》れ、父の経営する信濃銀行も倒産して、神津家もまた破産同様となり、田畑山林などの資産を皆売り払ってしまったが、家屋敷だけは未だ昔通りに残っているのである。屋敷の部屋は三十二室あり、私はその真中にある「お部屋」と呼ばれる座敷で生まれた。

 私が生まれて最初の記憶として残っているのは、大正十二《1923》年九月一日の関東大震災である。四歳七ヵ月のときだった。「お部屋」のすぐ上にある二階で、母達が布団の手入れをしているのを傍で見ていた時、グラグラッときた。母はすぐ私を背負って梯子段《はしごだん》を駆け降りた。中の間から六畳を通り越して廊下の向こうにある池の傍らに飛び降りると、杉の木の下に立った。揺れが止まってから玄関の前にある植え込みに移り、夕方まで余震の収まるのを待ったが、あの大地震は遠く信州の山の中にまでこんな震動を伝えていたのである。

 その頃、父は志賀銀行という名の銀行が合併により次第に大きくなり、信濃銀行となって本店を上田に移したので、私も六歳の時から上田市鷹匠《たかじょう》町の新居に連れて行かれ、幼稚園、小学校から中学二年の一学期までをこの家で過ごした。だから志賀と上田の間は頻繁に往復することになったが、夏、冬、などの休みのときは志賀の家で暮らすことが多かった。
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