メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) 戦時下を送る日々 | 投稿するにはまず登録を |
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編集者 | 投稿日時: 2014-7-17 7:52 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
戦時下を送る日々 はじめに この記録の メロウ伝承館への転載につきましは、長野清一様のご了承を いただいております。 メロウ伝承館スタッフ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 戦時下を送る日々 1 第二世界大戦が、昭和十六年十二月八日、日本は、米英ソ連中国など四か国に、対して宣戦布告し、早三年の歳月が、経ち敵味方、各方面に於いて連日の激戦を展開、戦局は、益々熾烈の度を、極めて来た。 私の住まいは、深川高橋の一角から月島の学校及び、工場まで、5キロ程あり、その当時市電が、通っていたが、乗ることは、禁じられ、身体強化訓練を、目途として5キロ~10キロは、徒歩にて、通う事を旨とした。 私は、深川尋常小学校を卒業後昭和十八年四月より、月島にある京橋実業校に入学、当時戦況は、益々激化の度を増し、学校から5,6百メートルに位置する巴鉄工所(日本発送電会社より受注し、鉄塔工事を生産加工をする会社)に中学生といえども報国隊として、学徒動員に、加わった。私共も、各部所に鉄板鉄骨の運搬等の業務を担当、私は、鉄塔建設部門の設計部に、配属される。のちに、設計図面等には、仕事上大いに役立った。 工場の勤務時間は、午前9時~午後5時まで就業、昼食後1時間は、各科目毎、勉強する事となり、学生としての、ひと時の分際を、守る事が出来た。 昭和十九年初冬十一月、何時もと変わらず、工場に出勤、就務中、突然{空襲警報発令}と、ラジオ放送が、流れる。間もなくすると、上空から、爆音がしたので、 フト!頭上をみあげるとB29が数機、ユウユウと飛来して来るでわないか、そして突然ヒュウヒュウと、猛烈な音がし、白い筋状の落下物、目に入り、思わず、壕の中に伏せる。{これが、戦争だな}と初めて実感する。 後でラジオ報道で、分かった事だが、B29機より爆弾が、数発投下の空襲であった。 銀座四丁目の近くに、富士バンクの裏手の料亭で将校連中が打ち合わせ会合!爆弾にて飛ばされたとの事のようだった、、、、、、亦有楽町の日劇の前でキップを求める為 三、四十人程並んで居た人ひとが、爆風で多数の死傷者があったとの事 爆弾は{1トン級のもので}例えば、鉄骨鉄筋のコンクリート造りの丸ビル8F~B2まで、楽に、貫通する程の破壊力の代物である事、、、、、、、亦三原橋の袂に1トン爆弾が、投下20M余りの穴が、深く抉られて、其のうち雨水が溜まり池の様になり其のまま、数年放置されていた。昨日の空襲後、私は、社用にて、青写真を焼きに、銀座の会社へ赴く。爆弾によって建物は破壊、瓦礫となり、無残に未だ白い煙をだして燻っていた。 |
編集者 | 投稿日時: 2014-7-18 6:54 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
戦時下を送る日々 2 あれから四か月後、年も明けた、三月十日未明に、深川、本所、墨田一帯に、大空襲波状攻撃で、何んと百三十機に、及ぶ焼夷弾投下にて、見る見るうちに、火の海と化し、何処へ避難して良いやら分からず、道路に、出ると火の粉が川の流れの様に走り、枝の様な火の粉が飛んで来て私の首元に入り、ジリジリと焼ける。すぐに、手で払い出したが、大きな火傷.二叉に来ると風が強く吹き、身を屈めても、吹き飛ばされそうになり、家族四人がうでを組んで、一丸となり早く、火の気のない、暗い場所の方えと、逃げつつ、ヤツト!隅田川に架かる清洲橋の袂(現在は芭蕉記念公園)の所 あの当時は、区の塵芥集積所コンクリート造りに囲まれた小さな十坪の所に二十人程かたまり合って、ヤツト!の思いで助かった。生きられた。東の空がしらじら明るくなり始めどの顔も、大人も、子供も煤で真っ黒、本当に奇蹟としか、思えない様な気がした。 墨田区に今は聳え立つスカイツリーの場所から門前仲町まで僅か三時間半程で、一面の焼野原に、なり道路へ一歩出ると男女区別も付かない真っ黒焦げの死体がゴロゴロと横たわり、非戦闘員、一般住民が一晩で、尊い命が、十万人も奪われるなんて、惨い、哀しみの泪が、出てきて止みません。 私も無論、着の身、着のまま、下駄履きで逃げて、唯、生きていたからこそ、思う事一階の八畳の間に明日着てゆく、学校の制服を、そのポケットには、昨日学友と、一緒に日本橋の白木屋でパイロット杜の万年筆を初めて、使う事楽しみにしていたのだが、これも夢となってしまい、当分の間、お預け、貯めていたお遣いも消えてなくなり、万年筆も書かずに、消えてなくなりました。チョツト!した心残りが、学生だったから!。。。。でも、突発的な、身の危険に差し迫った時、即動作が{逃げること.物に就着すると、大事な尊い命をも落とす)と人生経験の知恵を幼き私に、後輩に、聞かせ、教えて呉れた。 そこから若い人達は学びとる事物は何時でも働いて手に入れる事ができる。命こそ有れば、、、、 この私の、手記も、事実を体験したから、、、こそ戦争を知らない若い人達に伝え、そこから、何かしら受け止め、此れからの生き方、新しい希望のある日本を築いて頂きたく思って居ります。私も八十余年を多くの周りの人びとに助けられ生きてまいりました。語りべも本当に少なくなりました。 私も、老骨に鞭を打ちつつ、健やかに,更に、世のため、人のために尽くして行きたいい所存です。 満八十三歳と八か月 長野 清一 |
編集者 | 投稿日時: 2014-7-19 6:52 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
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編集者 | 投稿日時: 2014-7-20 5:45 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
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編集者 | 投稿日時: 2014-7-22 6:54 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
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