@





       
ENGLISH
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
メイン
   大正の時代
     浜で育った松の木 『限秒』より
投稿するにはまず登録を

スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | 下へ
投稿者 スレッド
夏子
投稿日時: 2012-10-2 16:40
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
Re: 浜で育った松の木 『限秒』より
やっすー、こと安田さん、はじめましてm(_ _)m

『限秒』は非売品で、書店などでは売っていないと思います。

著者の孫である松岡氏が、米子市に住んでいますので、
問い合わせてみますね。

もしかしたら、発行の際の残部があるかもしれません。

著者も明治30年代の生まれのようですから、同じ時期に
同じ小学校に通っていた可能性は高いですが、孫の代では
分かるかどうか。

ご先祖様のことが、いろいろお分かりになるといいですね。

では、しばらくお待ちくださいm(_ _)m
やっすー
投稿日時: 2012-10-2 1:29
登録日: 2012-10-2
居住地:
投稿: 1
Re: 浜で育った松の木 『限秒』より
前略

突然失礼致します。
私は東京に住んでおります、安田と申します。
私の祖父が大篠津の出身で、明治30年代の生まれです。
私は祖父や祖先の事を調べているのですが、祖父も私が生まれる20年も前に鬼籍に入っており、祖先の事など分かる者が周りにおりません。
また大篠津に親類はいるようなのですが、祖父の代に交流が絶えており、連絡先等全く分かりません。
大篠津に数年前に訪問し、公民館の皆さまや和田御崎神社の宮司さまにはご親切に対応して頂いたのですが、祖先の墓も祖先の事も全く手がかりが掴めませんでした。
そんな折、夏子さまや松岡さまのことを偶然ネットで拝見し、松岡さまのご著書「限秒」を拝読したいと思い、いろいろ手を尽くしたのですが入手できませんでした。
そこで夏子さまにお伺いすれば、何か入手方法のヒントをご教示いただけないかと思い書きこまさせて頂きました。
見知らぬ者のいきなりのぶしつけなお願いですが、もしよろしければどうかよろしくお願い申し上げます。

敬具
夏子
投稿日時: 2005-9-2 14:19
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その14 ★ 育った松のこぼれ話 ★ (最終回)
1 小学校低学年時代の遊びの一つ「汽車ごっこ」遊びは、人気のある遊びで暇さえあれば停車場(駅)に行って、汽車の発着状況を見学したものだ。

級友の一人が構内に「しば」が繁って居ったので、秋枯れの「しば」に火をつけた。初めは大したことでなかったものが、風が出て大火となり構内の柵にまで燃え移り子供の手で消すことが出来ず大騒ぎとなり、駅員の応援を得てようやく消し止めた。

私達五人は駅につれられ色々と事情を聴取せられ、米子の管理局に送られることになったが、五人の一人に父親が鉄道員であることがわかり説諭で放免《ほうめん=解き放たれる》となった。学校にこの事が報ぜられば、学力優秀品行方正の池田賞受賞が出来なかったのだが幸いこれも難をのがれた。

当時の同僚は今は既に故人で、私一人が生存している。汽車ごっこの発展は、こんな邪道にまで進行してストップ。


2 鳥取師範入学許可され、いよいよその出発の日が来た。祖父は可愛い孫が出発するので駅まで見送った。発車になると祖父は「学校がつらいと帰って来い」としきりに言った。

折しもその列車には当時の有名校長であった箕蚊屋高等小学校校長松本秀松先生が同車して居られ、その一幕をつぶさに眺め、こんな家族の見送りでは立派な教師になれないと嘆かれた。

後で崎田茂信先生に、大篠津は教育村というが、子供を教育するには一考を要すると諭《さと》されたと聴く。今も身にしみ、松本秀松先生の骨のある教師らしい姿が浮かび恥ずかしい。


3 大正十一年訓導を拝命し、いよいよ教壇に立つ身となった。当時の足立正一校長は余子(夏子注:あまりこ)小学校松篠允先生や境の柳楽さん等と境晋《しん》門会を結成し、境港の真光寺を会場として、京都清水寺管主大西良慶師を招いて仏教講座を開かれ、月一回数ヶ年続いた。

講義教本(原人論、仏説四十二章経、その他)会員一同は熱心に受講した。私は其の後の努力成長がなかったので、平凡な人生行路になった。

大僧正は「静坐養高志」と揮毫《きごう=書画をかくこと》してくれた。今や老師は百何歳の齢にも生き生きと説教に余念なき姿は有難き極みである。


4 東京どまん中、中央区の教育長として活躍した浜田忠治君は小学校の同級生で、交際は今も続く。

彼は小学校を卒業するや大志を抱き上京し、向学の念に燃え努力力行大学を経て区役所に就職した。

たまたま上京すると必ず彼氏を訪れたものだが、最後は銀座裏を散歩、浜弁(夏子注:鳥取県西部、弓ヶ浜半島の方言)そのまま語り続けた。同席していた者ども何のことやら英語なら多少わかるけど、浜弁は絶対他人のものにならず、談は益々《ますます》快調、二人で一夜をあかしたものだ。(中略)

私も米子の教育長をやらされ、NHK、山陰放送のマイクに立つ機会を得て標準語でやったつもりが全く浜弁でものにならなかった。浜っ子は何処《どこ》までも浜っ子で、下手な東京弁を止めて、純粋な浜弁が人間らしいことをさとった。

浜の松は白砂青松に育つことが意義がある。

 松岡忠男 著  『限秒』より「浜で育った松の木」 終わり
夏子
投稿日時: 2005-8-29 16:22
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その13 ★ 学校の松つくり ★
 中浜小学校に勤務すること八ヶ年にて、昭和四年《=1929年》四月郷里の愛労小学校に主席訓導として転任を命ぜられた。(中略)

 時に第一次世界大戦は、大正三年《=1914年》に勃発《ぼっぱつ=突然起こる》し大正七年まで五ヶ年にわたる世界戦史上にもかつてない大戦であった。当の我が国は日英《日本、イギリス》同盟の関係で連合軍に参加したが、地理的関係上直接的な戦禍はなかったものの精神的影響は甚大《じんだい=極めて大きい》であり、結果として世界の五大強国に列し、これに伴って政治思想生活の全面が世界化され、従って思想も直接に影響を受けた時代となった。

明治末期よりの理想主義時代から物質主義的な傾向となり現実主義の方へと動いていった。

 好景気時代より不況時代に移った農村郷土は、村の財政にも影響あり村費負担の教員給与も順調には支払出来ず、止むなく俸給一部を寄付採納《さいのう=取り入れる》して、村財政に援助するという珍現象が起こり、各地に農民運動も起こって経済は一層深刻となった。

後に教員給与は全額国庫負担となり、市町村財政と関係は直接なく給与の安定は確立されたのである。

 学校は七学級小規模な学校であったが、校長は歴代識見高邁《しきけんこうまい=見識が特に優れていること》以下職員組織も常に恵まれ、職員の努力によって教育内容充実の傾向に進んだ。(中略)

 尚作業教育を重視して清掃環境整備を学年別に配当、動植物飼育を児童の発達段階に適応した指導計画をたて、動物飼育については鑑賞的動物、なつかしみのある動物、やや労働を要する動物、更に生産的動物、これ等の飼育については学級児童の当番制にて責任をもたせ総合的勤労観を味わう全体観に立った作業を課した。(中略)

 更に書道教育に力を入れてみた。境港大港神社の天神祭に弓浜北部の小学校児童の書道展が毎年開催されているので、それに出品してみたが見事落選し一人も入選作なく平素の指導を疑うようにも思われたので特訓にふみ切り、基本的指導の必要を感じ、当時角盤校訓導の影山盤蹊氏を招へいし、全職員率先して書道練習をして指導観の確立を図り、翌年出品してみると、今回は全員入選特に特選入選で他校の驚きの場面となった。

教師の教材研究、生徒の自主的学習の姿は労作教育の真をついた気がした。

 崎田茂信先生が愛労校在職時代、浜灘の小松を奉安殿《ほうあんでん=御真影や教育勅語を収める建物》の横側に移植したのが年を重ねて相当な松樹《しょうじゅ=松ノ木》となっていた。然し松は毎年手入れをせねば、見るような松とならぬもので、手入れを怠っては、と注意を受けるが、経費の関係上そのままになっていた。

春の農繁休業中(夏子注:農家の児童生徒に農繁期の労働の手伝いをさせるため、学校を休みにしていた)職員作業でやることに決定したが、手入れの手ほどきが必要となり、基本を植木屋より受け、新芽とり、枝さばき、枝つくり、なかなか思うようにはならずも庭園作業はなされた。尊い作業体験だが、松作りはむずかしいものである。

 農繁休業中は職員も忙しい。第一松の手入れ、庭園樹木の手入れ、教材教具の整備、更に社会事業それは農繁期愛労臨時託児所《たくじしょ=保育所》の開設であった。

  開設場所 小学校教室
  収容児  村内農家子弟(約一二〇名)
  指導保母《ほぼ=保育に従事する女子職員》 女子職員中心、婦人会有志、校長夫人、教  職員夫人、郵便局長夫人他
  炊事設備 家庭科教室、臨時施設
  遊戯教具 小学校低学年用
  時間   農繁休校中 朝八時より夕方六時

この施設は農繁休業を利用し臨時的に開設したもので、園児もなつきその効果は十分上がったと好評を受けた。(後略)

夏子
投稿日時: 2005-8-25 10:10
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その12 ★ 新任教員 ★
 鳥取歩兵第四十連隊に一年現役兵として入隊も大正十一年三月三十一日満期除隊となり、陸軍歩兵軍曹に昇任となって多くの村民達に迎えられて郷里に帰った。

 翌四月一日より教育界にその第一歩を踏み出した。入隊中は愛労小学校訓導(月俸《げっぽう=月給》四十円)として名簿上の配置であったので、愈々《いよいよ》実務としては中浜小学校訓導(月俸五十円)が初めての赴任となる。校長は鳥取師範附属小学校訓導より抜擢《ばってき=多くの中から引き抜くこと》された足立正一校長、学級数十四学級、当時は大規模校であった。

同日赴任訓導は黒川顕憲(後に米子工業高等学校長)、長曽初子、拙者《せっしゃ=自分》の三名、当時は近隣の学校には講堂(体育館)の設備がないのに、新築の大講堂で新任挨拶は如何《いか》にも教師となった感を深く印象づけた。

(中略)

 この大正時代は教授方法の一大変革期でもあって、コペルニクス的展廻《コペルニクスてきてんかい=天動説から地動説に変わった事に例えて、考え方が正反対に変わること》という当時の教育界の流行語が示すように、教授法あって以来の一大転換であった。即《すなわ》ち従来の教師本位の教授を児童本位の授業が尊重され、教育は教師のために行われるものでなく、児童のために行われるものであり、児童が学ぶに都合のよい形に改められねばならないと主張された。

自由主義的な新教育運動は当時の私立小学校を中心に展開されたが、官立《=国立》小学校では東京・広島・奈良の各高師《=旧制高等師範学校》附属小学校等が進んで新学習法の研究と実践の推進力となり教育界に一旋風を巻き起こした。

 大正十二年十二月奈良女高師附属小の新学習法研究発表講習会(一週間)に中浜小学校より派遣されこの講習に参加した。当西伯郡教育界よりも崎田茂信・金畑誠一等他六人参加し、地方教育振興のため気を吐いたのである。

(中略)

奈良女高師附属小の児童中心の新教育は西日本の教育名所として全国各地より参観人は押すな押すなの盛況でアメリカ流のプラグマチズムの思潮《しちょう=思想の傾向》を背景にした能率学習ともいうべきものであった。

この波紋は私達の身辺にも迫り、分団《=グループ》学習のため問題提起用の小黒板をバフン紙《=わらを材料とした粗末な厚紙》を墨で塗って作り、教室一杯につって問題を発表提示し、机の配列を討議型にして討議研究、尚《なお》文集を児童が編集して発行、図画展を学級独自で開催、運動競技の指導あれやこれや多忙の新任教師であった。
夏子
投稿日時: 2005-8-19 22:56
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その11 ★ 一つ星から金線 ★
 大正一〇《=1921》年三月、師範卒業と同時に兵役服務《へいえきふくむ=国民の義務として現役兵となること》となる。生れ本籍が西伯郡内であると、当時は松江歩兵第六十三連隊(夏子注:原文では聯隊、以下同様)に入隊なれど、学校の関係上徴兵検査《ちょうへいけんさ=兵役に服するための身上・身体検査》を在学中鳥取で受検(第一乙種《甲種・第一乙種・第二乙種・丙種の別がある》合格)のため、鳥取歩兵第四十連隊に入隊することとなった。そして従来師範卒は六週間現役であったが、大正十年度から一年現役となったので、最初の一年現役兵だ。

 愈々《いよいよ》三月三十一日、大篠津駅出発に際しては“祝入営松岡忠男君”という幟(夏子注:ノボリ)数本立て、村民大勢の人々を始め小学校全児童の楽隊のもとに送られ出発した。この風景は日清《=1894年日本と清国(中国)との戦争》日露戦争《=1904年日本とロシア(ソビエト)との戦争》以来、出征兵士の歓送迎には続けられていたのである。御国のために頑張る気持ちは、いやが上にも若人には漲《みなぎ》っていたようだ。

 三十一日は鳥取吉方温泉泊り、翌四月一日鳥取歩兵第四十連隊第六中隊に入隊、私服は総て付添人であった従兄《じゅうけい=いとこ》の足立重市に渡して、二等兵の軍服に着替え、軍人としての誓文《せいもん=誓いの文言》を朗読して帝国軍人としての活動が始まった。

          誓 文
  今般御読聞相成候読法条々堅ク相守リ誓テ違背仕間敷候事右宣誓如件《こんぱん およみきかせあいなりそうろう とくほうのじょうじょう かたくあいまもり ちかっていはいつかまつるまじくそうろうこと みぎせんせい くだんのごとし》
     大正十年四月一日

  参考
     讀法(夏子注:トクホウ)

   兵隊ハ皇威《こうい=天皇の威光》ヲ発揚し国家ヲ保護スル為メニ設ケ置カルルモノナレハ此兵員ニ加ル者ハ堅ク左ノ条件ヲ守リ違背《いはい》スベカラズ

   第一条 誠心ヲ本トシ忠節ヲ盡《つく》シ不信不忠ノ所為《しょい》アルベカラザル事
   第二条 長上ニ・・・・・(夏子、以下讀法を省略)

 二等兵新兵二十人(鳥師同期生)の全員は第六中隊第六班にまとめられ、班指導係に中川良胤伍長勤務上等兵、前田上等兵が当った。(中略)

 入隊第一夜の想い出
 入隊しても班全員が同期生だけでの編成であったから、師範寄宿舎を移動したようなもので和気あいあい、食事も入営祝すというので赤豆ご飯、一同思いもない大歓待、すっかり気分よく鼻歌でも一つ位出すものもあった。軍隊生活はこんなものかと喜んだ。

いよいよ第一就寝の時間前指導係上等兵より廊下に集まれの号令が降《くだ》る。不動の姿勢のまま聞けというわけで大きな声“諸君等の魂は腐っている学校とは違う、帝国の軍人だ。只今までのぶざまはなんだ”とばかり一同暫く立たされた。今にぶたれるかと思って居ったがそれはなかった。一同各々《おのおの》歩兵銃にお詫《わ》び敬礼して漸く寝につくことが出来た第一夜であった。

 第二日目からは起床ラッパで起き、室内の整頓、清掃、朝食すませ、休む暇なく舎外に集合、服装検査、敬礼、各個教練、学科(勅諭《ちょくゆ=軍人勅諭》)等暫くこの日課は続いた。郷里への便り書く暇なく、時間あれば歩兵銃の手入れ多忙な新兵さん生活である。外では敬礼、内では整頓、座れば居眠り、多忙な毎日であった。

(中略)

六月二十七日第一期検閲《けんえつ》無事通過、(学校入学試験以上)8月一日に一等兵に進級する。幾度となく肩章を眺め星二つは嬉しかった。星一つの新兵は連隊中何人にも失礼なく一々敬礼をして動作に移るのであるが、一等兵ともなれば幾人か先に敬礼してくれる立場となる。子供のようではあるが嬉しかった。又それだけ自重することでもある。行きたくない便所でも敬礼を受ける嬉しさで無理に行きたくなる一等兵さんであった。

教育課程は一年志願兵とほぼ同様であったが、除隊後は国民教育にたずさわるというので、精神教育に重点がおかれ、軍隊生活を積極的に経験するよう炊事・縫工・医務・諸般の施設等の見学を始め軍隊生活の理解を深めるため大隊長(横山少佐)連隊長(中頭大佐)と共に会食して教育談をなすなど配慮があった。時に徹夜の衛兵《えいへい=番兵》勤務は印象が深い。

(中略)

 十月一日は上等兵に進級星三つとなる。星三つの兵隊は成績優秀でなければならない。一年現役兵の全員進級は有難いことであった。早速日曜外出には上等兵進級の記念写真撮影をし、郷里や親友にも送ったのである。

(中略)

 一月一日には歩兵伍長《ほへいごちょう》(下士官)に全員進級、班長見習勤務となる。軍隊もいよいよ終末段階で隊長より盛んに宿題が出される。一般兵士に対する講話原稿(例えば靖国神社祭について)一ヶ年に次々来る祝祭日、講演原稿提出には、日曜外出は止むなく中止して、宿題整理に励まねばならないことしばしばあった。

 三月末除隊近くなれば一ヶ年の軍隊生活はなつかしくもなり、名残りつきぬ愛執《あいしゅう=愛着》を覚えだした。それは同期生二十人は同じ苦難を味わったことで、師範二部の一年間はそこ迄届かなかったのだ。

それに角度を変えた人間性の一年、共に同じ水を呑《の》んで同じ汗を流した青春譜、それは教官山口少尉の架け橋指導の賜《たまもの》と感じとることが出来る。少尉は佐賀県出身独身で、若くて陸大《陸軍大学》を志望し勉学家で、そして教育愛に燃えても居った。(中略)軍隊は要領と何とやらというが、山口少尉は師弟同業の教育の場を作った人であった。一年現役兵の目的は十分達したようであった。

 三十一日歩兵軍曹に進級と同時国民兵役《=教育を受けて除隊した兵が属する》に編入せられ除隊満期。翌一日には国民教育勤務となり訓導《くんどう=小学校の正規教員》として教育界に入る。

夏子
投稿日時: 2005-8-17 20:43
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その10 ★ 教生と唱歌指導 ★
 大正九年四月から鳥取師範《しはん=師範学校(旧制の教員養成校》二部に入学することになった。

先ず第一の理由は男の子一人なので家から離れないこと。その二、郷里で就職できること。その三、東大に進む能力がないこと。その四、家庭が母子家庭であること。等の理由であったようだが勿論《もちろん》教師を志望する考えは当時入学するまではなかった。

師範は全生徒寄宿舎《=学生寮》生活で、私は南寮第四室に配当となった。(中略)米中時代陸上競技に関係していたというので私に対する諸君の取扱い方は好感がもたれた。然《しか》し二部生は一年間で卒業して行くので学校に対する愛着はあまりなかったようだ。

 寮生活は若き青春時代には想い出のある生活だ。起床・食事・自習時間・就寝総て時間制で規則正しい規定があり、外出も自由でなく許可制であった。放課後になると二、三人組んで市中を往来するは師範生に多く見かけられたが、そば・うどん屋に出入する生徒もあったようだ。一方運動選手は熱心に運動に励み陸上競技は全国的レベルで優秀な選手も輩出《はいしゅつ=優れた人材が次々と出る事》した。

 第二学期は過ぎ第三学期になると教生(教育実習)だ。(中略)教壇に立てば教案の作成もしなければばらず、これには相当の時間がかかり、何べんも書き直す訂正もした。音楽授業(当時唱歌)は私には苦手中の苦手でこれには苦労した。幸い低学年であったからやれたものの・・・・。

心配していた公開の研究授業は唱歌と体操でやれとの命が出たのである。これは大変だ、腹を決めてやらねばならぬ。先ず毎朝二時間前に出校して、オルガンの練習を続け子供達に視線を向けつつオルガンが弾けるところまで練習の行が必要となった。

いよいよ当日がやってきた。教材は文部省唱歌「兎」《うさぎ》。第一時である。さし絵をかいてうまく導入したように思ったが、本旨《ほんし=本来の目的》歌唱指導に入るとオルガンは弾けても咽喉《いんこう=のど》からうまく声が出ないので子供達が上手にリードしてくれて指導の段階を通過、四十分の授業を終った。ヤレヤレである。

教える教師よりもよく出来る子供等に助けられた授業であったことは汗顔《かんがん=恥ずかしい》。小学校の教師は全教科がこなせる教師でなければと評を受く。音楽指導はこれが最初であり終わりでもあった。運よく小学校の免許状獲得訓導《くんどう=小学校の正規教員》として卒業が出来たこと、唱歌に感謝せねばならぬ。

教育学は真田三六先生で中々気概ある先生であったが、授業は進行せず教訓めいた話で、時間は終って後で読んでおけ、さする中に《=そうしているうちに》卒業一ヶ年は終了した。他に黒川多三郎先生は舎監《しゃかん=寮の監督者》兼務担当教科は博物《はくぶつ=旧教科の一つ、自然、動植物、などの総合的な学科》・博学で生徒は鍛えられ、舎監でも厳格そのもので印象深い先生であった。漢文国語で池田粂次郎先生、数学の松田光男先生、体操の松岡重徳先生、音楽の関塚晋先生、手工《しゅこう=旧教科の一つ、図画、工作》の田淵達己代先生等の各先生には異なった印象が深い。

特に手工・音楽は不得手であったが、入学して間もない手工の時間、一本の木片が材料として二寸《約6センチ》角の棒を作るよう提示され作業にかかった。鉋《かんな》けづり二寸角にやった作業が一寸五・六分までけづられてしまった。

先生曰く「君の二寸角は面白い一寸五分で二寸とは大哲学者だ、フウン。」指導処理の段階に入れず約十分も立ったまま授業は終った。その時の先生のお顔が今も浮かんでくる。手工室は一糸乱れず諸工具が何時でもきちんと整理せられ、道場にでも入った気分がするのであった。音楽の関塚先生には特別音楽劣等生指導の労を謝する私である。
夏子
投稿日時: 2005-8-16 21:33
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その9 ★ おふくろの味 ★
 明治三十五《=1902》年頃境港より山陰の鉄道が始まったけれど、米子に出かけるにも境に行くにしても歩いて用達をしたもので、浜のほぼ中央(夏子注:著者の住む大篠津は弓ヶ浜半島の突端の境港と根元の米子との中間あたり)、の大篠津は往来者の小憩場所で、飲食店も多く宿場《しゅくば=交通や経済の要所》的な様相であった。

大阪屋という、浜では設備のよい宿屋があった。この店には“大阪屋の甘酒”といって近在に珍しい評判の甘酒が売ってあった。大正《1912~1925》の初期頃までは続いていて、道中の人々を慰めたのである。

 雪がチラチラ山茶花《さざんか》の花がほころぶ頃寒くなると、甘かゆ(夏子注:甘酒)に酒を注ぎ生姜《しょうが》を入れてあたためれば、また格別の味を出して人々の想い出は深い。

浜では正月になると何処《どこ》の家でもご馳走《ちそう》として造り、出来の悪い酢ばい(夏子注:酸っぱい)のでも無理に頂いたものである。


   == のっぺ汁 ==

寒空にのっぺ汁はよくにあうものである。昔よく採れた中海の赤貝(夏子注:サルボウガイ)のだしで、ごぼう・人参・こんにゃく・里芋等の野山の産物にゆっすらとカタクリ粉をまぜた汁に少々生姜を入れて汁のしまりをする。なるべく煮立ての温かいのがご馳走である。

   == ハマバウフウ(防風) ==

春になると浜では防風つみだ。幼い頃祖母が今日はバウフウつみだといって、大きな負い籠《かご》を背負って浜に出て、そこら一面に生えているバウフウを一、二時間で籠一杯とって香の高いのを味噌つけ用にした。時には酢ものにして大人は酒の口取りとしたらしい。その香りは何とも言えないものだ。先だって昔を想い出し家族そろって浜に出て見たが一本も一芽も見出すことが出来なかった。

 植物図鑑によると、
 せり科多生年草、中国の原産、多く海浜に自生する。茎葉共に特殊の香気と辛味とを有する。其《そ》の新茎葉を食用に供し風味あり、とある。


   == 松露《しょうろ=食用きのこの一つ》 == 

 春雨の頃は松露だ。図鑑は海辺もしくは内地の松樹下の砂中に多く生ず。大小種々あれども通常球状をなし直径七八分(夏子注:2,3センチ)を有し、表面に多少根状の菌糸を附着すとある。小松林に雨あがり松葉かき(夏子注:熊手)で松露探しは風情《ふぜい》あるものだ。

松露には米松露と麦松露といって二種類あり、米松露はやや白くきめ細かく一寸《ちょっと》上品だ。麦松露の方はやや褐色きめあらく、どちらも何とも云えない風味を持つ。茶碗むしに二、三ヶ入れたり、お吸物にもよい。特に大きいのを串《くし》刺しにして醤油つけあぶって食べるなどは道楽の一つかも知れない。松露ずしは更によいご馳走だ。


   == 乾瓢《かんぴょう》のはらわた汁 == 

 生産は兎角《とかく=とにかく》農家は総て自給自足は当然としたもので、浜でも蔬菜《そさい=野菜》類を始め西瓜《すいか》・乾瓢(夏子注:かんぴょう)の瓜類栽培は必ず農家では自家用として栽培した。

夏の夕方、明日は上天気だということになれば、大きい白い乾瓢を収穫して明朝早く日の昇らぬ中に乾瓢むき作業、先ず輪切りにしてかんぴょうむき器にかけて細長くむき出し、それを竿にかけて一日中干して普通料理にする乾瓢が出来上がるのであるが、最後にむき器にかからぬ残ったのを材料にして短冊切りにし、醤油吸物にする。

この時辛いとうがらしを忘れてはならない。たいてい昼食の際のご馳走で、汗を流して頂いたもので独特な農家の料理であった。

夏子
投稿日時: 2005-8-15 13:26
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その8 ★ 限秒談義 ★
 台風去って秋が訪れて来るころ、どこでも村、町あげての楽しい運動会が始まる。先だって東京都内の真ん中の小学校で狭い狭い運動場に見物人がぎっしり立って賑《にぎ》わしく声援しているのを見た。やっぱり都会でも片田舎《かたいなか=都会から遠く離れた村里》でも秋と共にある状景である。

 町ぐるみになって行われるこの運動会が何時《いつ》頃から始まったものかよくわからぬが、なかなか威勢のよい気持ちの出た行事だ。

なんでも明治の初め鎮台《ちんだい=陸軍の軍団》で歩武《ほぶ=足どり》堂々の威容を世に紹介し、当時国民をアットいわせたそうだが、それにヒントを得て学校内容を面白く取り込んで就学奨励の一助《いちじょ=少しの助け》にしたものだと誰かがいったのを記憶するが、これがほんとうか責任はもてない。しかし明治百年過ぎた昨今からして見ると余程《よほど》歴史の古いことは想像される。

 年々回を重ねると色々工夫をこらし、走ったり、飛んだり、踊ったり、演技は多種多様満艦飾《まんかんしょく=軍艦が旗などで飾る事から変じていっぱい飾り立てること》の下でにぎやかに時代の流れを宿し、特に高学年のダンスや何々対抗リレー等は、人気の中心となってプログラムに綴《つづ》られているのは昔も今もあまり変わらないかに思われる。

終戦後になれば練磨《れんま》の運動会に楽しい行楽気分が加味せられ仮装行列《かそうぎょうれつ=いろいろの変装でねり歩く》場面が台頭《たいとう=頭を出す》するとか、開催日が大体十月であったものが、最近ではどこの学校でも九月中に挙行されるようになった。

 戦前は十月十五日勝田神社のお祭当日は中学校(現米子東高)、十月十七日神嘗祭《かんなめさい=伊勢神宮のお祭り》当日は女学校(現米子西高)、その他の地方の学校はその前後となって、米中米女の運動会が米子界隈《かいわい=あたり一帯》の秋の最高潮であったものである。

各小学校では米中米女の各運動会の小学校対抗リレーに出場し、優勝を競うに懸命の練習。一方中学生(男子)は見学してはならぬと禁止してある女学校の運動会に出かけ、それがわかり停学処分をうけたものが毎年幾人かあったが、今どきの子供たちの自由な姿にくらべ、想《おも》えば痛ましい時代であった。

 当時(大正時代)米中では日露戦争の影響あってか奉天戦《ほうてんせん=日中戦争の一部》を型どり、兵式教練《きょうれん=学校で行う軍隊式訓練》を披露《ひろう》して最後に攻防戦となり空砲を交えて空激する実戦さながらの場面を展開する。勝田さん(夏子注:勝田=かんだ神社)参拝客もこれを見学せんと遠くから出かけたものである。

また水兵競争といって高い(十米位)マストの上にある旗を、綱をつたって登りその旗を早くとって決勝に入る競争など、時には観覧者を驚かせ冷や汗を握らせたりして演技の妙を発揮したものだ。

 こんな多彩な演技の中“限秒”というのがあった。それが後世の短距離(百米)競走となる元祖ではなかろうか。

先ず出発合図には今のピストルにあたる村田銃《村田氏が1880年完成の小銃》を肩にのせて、引き金を引いてズドンと一発、選手は決勝線を知らぬ。時間で十幾秒位経つとズドンと一発、走っていた選手は直ちにその場に止まる。

先にいって止まっている者が一等、その次が二等となる。時間内に走れるだけ走るということで何時ズドンと一発なるものやら、15秒か17秒か時間は出発係の考えだ。走るコースは円周だから見物人はよく見えるので声援がよくとんだもので、短距離界のホープを目指す連中は勇んで出場したものだ。

私も出場して一等になって賞を受けたものであるがこれが百ヤード競走となり、百米となって、現今の百米競走となり時代は百米を十二秒で走り、十一秒台となり十秒台となって九秒台が世界記録となっている。

 しかし限秒は時間はあっても走った距離はいわず、只《ただ》他人よりも先におることだ。私達人生は百年生きることでなく、ズドンと胎内を出発いつ止まれの号令がでるものやらいざ知らず、一日一日を懸命に走り続ける人生だ。その日の充実は先に生きるエネルギーである。若い時代の一つの競技“限秒”を想い出して若さをとりもどしたい。

武者小路氏は『生れけり、死ぬるまでは生きる也《なり》』といっているが限秒談義ともいいたい。
夏子
投稿日時: 2005-8-11 14:27
登録日: 2005-7-7
居住地:
投稿: 22
その7 ★ 通学六里 ★
 小学校六年の担任は堀江勝胤先生といって鳥師(鳥取師範《=教員養成学校》)新卒の先生で単身赴任せられた。学生時代は柔道の猛者《もさ》で境(夏子注:現在の境港市)の金畑誠一先生はよきライバルで、師範学校の重鎮《じゅうちん=一方のかしら》ときく。酒豪家でそれに音楽家で当時立派なオルガン所持というハイカラな先生であった。

 この先生、体操時間終了後には必ず浜の波打ち際まで(片道約一キロ)往復を走らせ、採点表を作って記録して走ることを奨励《しょうれい=すすめ励ます》せられた。同級生の安田忠久君(この人は体格抜群、ジャイアントという異名の持ち主)と競うけど、どうしても彼に勝つことは出来ず、残念ながら二位にとどまるを得なかったこの行事の印象は深い。

 中学(夏子注:旧制米子中学/現米子東高)に入学すると私達の先輩に安田友明、安田義憲、本池栄、榊原精三、安田啓治等の諸兄が通学していたが、総て徒歩で片道二時間位要していたようだ。その慣例《かんれい=ならわし》に従って新入生も徒歩通学、雨の日も風の日もやらねばならぬ毎日の行事だった。

もしや時間に間に合わぬと見たときは走らねばならぬ。遅刻すれば成績総合点より一回につき二点減点という厳重なる規則があり、生徒達は容易に遅刻も出来ず休めず、成績のよくない私達には一大痛手で、よく頑張って横着をいやしめ健康を願ったものだ。

 中学一年の校内マラソン(約十二キロ)大会が行われこれに参加した。出発四キロ地点までは第一集団で走って居ったが、ちょっとスピードを出して見たところ、他生徒と差が大きくなり先頭にたった。これは作戦のつもりであったが、ついにそのままゴール入りし一着のテープを切った。

それから自信もつき学校のマラソン選手として、幾度か大会に出場した。結局毎日の徒歩通学のたまものと感謝するのである。

それから歩く運動に興味を持つようになった。二・三人の友達と中海(夏子注:鳥取県と島根県の県境にあり、弓ヶ浜半島と島根半島に囲まれた湖)を一周して脚を鍛え、又は日野路を通って、四十曲峠を越えて岡山に出たり、四国・九州まで脚をのばして歩く等全く歩く想い出は水戸黄門さんに続くであろう。

 子等は走る!

 私だけが走ったのではなく、浜出身は大体よく走ったものだ。浜の小学校は砂でボクボクザラザラ、土を入れないそのままの運動場が多く、脚力が強くなければ走られぬのであった。素足で砂浜を走り通すことは浜っ子は誰もがやらねばならなかったことだ。それが土が入れられアスファルトとなるにつれ段々脚は弱くなるらしい。

 大正中頃から昭和初期は陸上競技の盛んになった頃で、松江の山陰オリンピック大会を始め、各地で陸上競技大会が開催された。

特に当時渡小学校、富益小学校の選手はどこの大会でも立派な成績を残している。(中略)浜の子はよく走ったものだ。


(1) 2 »
スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | トップ

投稿するにはまず登録を