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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第7回)
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編集者
投稿日時: 2012-7-21 7:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その23

 前村弘(陸軍特幹一期生)軍歴


 1925年(大正14年)6月
  生誕。

 1941年(昭和16年)5月1日
  乙種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊。

 1942年(昭和17年)7月29日
  配属変更により三重海軍航空隊へ入隊。

 1943年(昭和18年)5月26日
  第16期乙種飛行予科練習生教程卒業。
  第32期飛行練習生操縦特修者(陸)として出水海軍航空隊へ入隊。

 1943年(昭和18年)11月24日
  第32期飛行練習生陸上練習機教程卒業。大分海軍航空隊に入隊。

 1944年(昭和19年)3月25日
  第32期飛行練習生教程卒業。筑波海軍航空隊附 大分航空基地勤務。

 1944年(昭和19年)4月17日
  操縦教員として筑波航空隊に転属。

 1944年(昭和19年)8月
  三沢基地に転進。

 1944年(昭和19年)11月15日
  七二一海軍航空隊三〇六飛行隊附。神ノ池、海軍神宮部隊に配属。

 1945年(昭和20年)2月1日
  七二一海軍航空隊三〇七飛行隊附。 

 1945年(昭和20年)3月18日
  富高基地で遊撃戦に参加。

 1945年(昭和20年)3月21日
  第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊の直掩機として参加。被弾により不時着。  

 1945年(昭和20年)3月26日
  二〇三海軍航空隊三一二飛行隊附。笠之原基地へ。

 1945年(昭和20年)6月27日
  基地移動により、築城基地に転進。

 1945年(昭和20年)8月15日
  終戦。
編集者
投稿日時: 2012-7-20 6:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その22

 ※注1

 ・予科練(飛行予科練習生) の制度が発足した昭和4年(1929年)の応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満。教育期間は3年(予科練での基礎教育2年6カ月、飛練6カ月。後に短縮)だった。昭和12年(1937年)、更なる搭乗員育成のため、旧制中学校4学年1学期修了以上(後に3学年修了程度) の学力を有し、年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。教育期間は2年(予科練での基礎教育1年6カ月、飛練6カ月。後に短縮)。従来の練習生は乙種飛行予科練習生 (乙飛) と改められた。

 ※注2

 ・予科練の代名詞となった「七つボタン」 の制服が採用されたのは昭和17年(1942年) 12月から。

 ※注3

 ・丙種‥「丙種飛行予科練習生」の略称。昭和15年(1940年) 10月発足。海軍部内の一般下士官兵の中から飛行科を志願し、合格した者を採用。予科練での基礎教育3カ月、飛練6カ月と規定されていた。特乙制度の新設で昭和18年(1943年) 3月が最後の入校となった。海軍最下級の学歴者が多く、約7300人の入隊者のうち、実に75・4%に当たる約5500人が戦死した。

 ※注4

 ・特乙・・「乙種(特) 飛行予科練習生」の略称。昭和17年(1942年) 12月発足。従来の乙種と丙種に相当する者を、乙種2次試験合格者の中から年齢17歳以上の者を採用し、予科練での6カ月の基礎教育と飛練の教育を6カ月受けさせると規定されていた。戦況の悪化の中、乙飛合格者の優秀者を選抜して短期養成するためのもので、卒業生の多くが特攻要員に充足された。

 ※注5

 ・陸軍の「靖国」という爆撃機‥陸軍四式重爆撃機「飛龍」のこと。海軍では、海軍指揮下の陸軍雷撃隊を「靖国部隊」と呼び、それに所属した雷撃機型の「飛龍」のことを、非公式に「靖国」という名称で呼んでいた。
編集者
投稿日時: 2012-7-18 6:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その21

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆若い人に「犠牲的精神」を持ってほしい

  --------今は時代が違うからというので、年配の方は黙ってしまう。若い人は聞く耳を持たない……。それではせっかくの野口さんが経験されたノウハウというか、人生の生き方も含めて貴重な財産が受け継がれないように感じます。そこで、野口さんが孫の世代や子孫にこれだけは遺したいというものがあれば、是非お聞かせください。

 野口‥確かに僕らが育ったときには、正に軍国主義の真っ最中でしたよね。しかし、あの教育が良かったか悪かったかということは度外視して、中には、あんな教育はなってないという方もいるかもしれないですし、良かったという方がいるかもしれないですが、それはやはり、それぞれ個人で判断していただきたいと思いますね。

 僕らなどは、小学生のころから軍人になりたいと言っていた当時、希望はあったし、それに向けて邁進していたわけです。今の人は平和ボケしているからかなあとは思いますが、自分が何をやりたいんだ、自分は何をしたいんだという思いを、なかなか大学生ですら掴めていないんだなと……。 話をただ聞いているのですけども。それでいて、いい会社には入れなければ駄目なんだと。そしたら、就職もしないでアルバイトをして生活していこうというようでは先のことを考えていないのかと……。今は年金の問題などでも、ああいうふうにして忘れちゃった人、あるいは会社がつぶれてしまって年金をもらえない人もたくさんいるのですから、これから、そういう状況に自分が年をとってからなってしまったら困るとか、今の年金制度にも早く入っておかなければという考えはないのかと思いますね。

 だから、僕らのときでもそうでしたが、会社を定年になったときでも誰も色々なことを教えてくれるようなことはなかったですよね。我々がいろいろな経験をした後に、いろいろな問題が出てきて、こうだああだという状態になったわけですよね。わがままに生活をしてはいけないなと、ひとつ節度のある生活がいいなと。それと軍隊などのように、助け合うという一つの精神を「犠牲的精神」と我々は言っていましたが……あれは非常にいいことだと思います。勉強場の掃除に3人!と言うと10人くらいがバァーつと出てくる。ああいうふうにね。例えば学校の給食当番なんていうときにも、10人くらい並んで出て来て皆の面倒を見てやるみたいな、そういう感じにならないものだろうかと考えますね。

 そうすることで、自分が困ったときに誰からでも面倒見てもらえるようになるのではないかと思いますね。だから軍隊だとか我々がそうですね。カッター訓練も2隻3隻揃うと自然に競争になったり、毎年暮れになると1万mの競走があるわけですが、分隊単位でやるわけです。そうすると、自分だけ早くてもダメなんですよ。全員がそろって入ってこなければダメだと。そしたら途中で加わった人が背中を押すなり担いででも完走させるというような精神を持たされるのが、今の世の中にあっても良いのではないかと思います。だからなにも、そんなに難しいことではないから、そういうような世の中になったらいいのになと思います。そうすれば、我々がやってきたことも、今の若い人にも少しでも理解してもらえるんじゃないかと思いますね。

 --------今日は貴重なお話をありがとうございました。

(……了……)
編集者
投稿日時: 2012-7-17 6:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その20

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 
 ◆民間生活で役立った軍隊経験(2)

 --------実戦では思い通りにはいかないということと同じですね。

 野口‥ええ、そうです。もう、何が起きるか分からないからね。

 --------搭乗員だったときの経験が、その後の人生に大きく役立ったということですね。

 野口‥はい、大きいですね。やはり、習ったことは忠実に守らなければならないと思いました。基本はどこまでも基本なんだと。基本があって応用があるのだという感がありますね。神雷攻撃にしてもそうです。操縦中は後ろが見えないですからね。前を向いて操縦していて、後ろから敵機が来たらどうするのかという、そういうことは言われましたね。今の民間航空機のように前だけ見て操縦していればいいのとは訳が違います。後ろから敵機が来るということはないですからね。戦争とはやはり状況が違いますね。

 私は、海軍に行って悪かったことなんて一つもないんですよ。例えば日常生活の上においても、洗濯をして洗濯物を干すにしても船が基準ですから、何時に洗濯物を干して何時に取り込むのか、取り込むときには乾いていなければならないわけですから、それには干し方もいろいろあるわけです。そういうことも習ったんです。ほかには、年がら年中、掃除はしていなければならない。それと、団体生活している上では船の上で一人でも風邪を引けば皆が風邪を引いてしまうではないかということ、ほかの病気でもそうです。これらは民間の生活をしていく上でも重要で、それを学んで来れたのだから海軍に行って良かったなと思っています。なので、皆に話して開かせていますよ。

 --------若い人達を見ると、軍隊生活を経験させた方がいいと思うことはありますか?

 野口‥ある、ある (笑)。

 --------どういう姿を見るとそう思いますか?

 野口‥そうですね。電車の中で座り込んでいるのとか見ると、「立てないのかなあ。それだけ腰抜けになつちゃったのかなあ」と思いますよね。だけど、もう時代は変わったのだから、そんなこと考えてはいけないなとも思いますね。

 僕らの学生時代は代々木の練兵場に銃を持って行く教練がありましたけど、そういうのがなくてもいいから、毎日、起きる時間、寝る時間、勉強する時間というのを規則正しくやるような生活をどこかで経験してくるというのも一つの方法じゃないかなと思いますね。だから、予科練なんかでも兵学校と同じように、日中は普通学の勉強をさせるわけですね。で、午後からスポーツをするとか、午前中は普通学を学んで午後は軍事学を教わるとか。夜は夕食をとったら6時から3時間は温習といって、教室へ行って今日習ったことを復習する、明日のことを予習するっていう習慣付けがあったわけです。ああいう教育は非常にいいなと思うわけです。他には、階段を一段ずつ上がると殴られたりしましたね。一段抜かしや二段抜かして、すっ飛んで歩かなければならなかった。隊内で二人で歩くときも並んで走らなければならなかった。そういうことが日常生活に役立ち、一つ一つ節度のある生活ができるようになるのではないかと思いますね。だから、軍隊は否定しないです(笑)。
編集者
投稿日時: 2012-7-16 7:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その19

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆民間生活で役立った軍隊経験(1)

 --------特攻について、日本だけでなく外国でも色々論議されていますが、野口さんが、これだけは言っておきたいということはありますか?

 野口‥特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会に入会して、初めて世田谷観音にお参りに行った時に、若い方々が、会員の紹介だとかで協会に入会されていたり、一生懸命、慰霊活動などをしてくださってるということに感激しましたね。それと、零戦会という会があるのですが、搭乗員だった方はご高齢になられてしまいましたから、事務処理から会議の処理まで全部若い方々にしていただいているのですが、本当にそういう若い方々は偉いなと感心しているんです。そういう会議に行くとね、よくしてくれるのです。本来は私達がやらなければならないようなことなのでしょうが、80歳を超えた人たちばかりですから、そういう若い方々がやってくれて我々のしてきたことを少しでも受け継いで、後に伝えてくれたらなぁと思いますね。私一人が語り継いでもたいしたことはないと思うんです。

 戦争をして良いなどとは決して思っていません……。やはり、厳しいですよ……戦争は。人殺しをやるわけですからね。

 余談になりますが、私は社団法人日本航空機操縦士協会の理事をしていました。専務理事、副会長で最後は辞めたのですが。昭和60年にジャンボ機が御巣鷹山に墜落しましたよね?あの時、事故調査委員会が出した事故の嫌疑というので、ああいう状況になったときに、どういう訓練をしておいたらよいものかとアメリカに行って調査してくるという話になったときに調査委員になりました。では、アメリカのどこへ行くかということで、メーカーに行こうということになり、ダグラス、ボーイング、最後にNASAですね。サンフランシスコのエイムズ、NASAへ行くと決まって行ってきました。

 メーカーは飛行機の安全性の説明のみで終わったのですが、NASAでは「日本には航空大学があるではないか、そこではどのような教育をしているのか」ということと、飛行機にも自動車と同じように耐空証明というものがあるのですが、「航空法上で耐空証明がなくなっている飛行機を、どういうふうに操縦するのかということを日本の航空局は調べて来いというのか?」と言われました。続けて、「耐空証明の無くなった飛行機を操縦するということは考えられない。耐空証明のある飛行機の操縦が当たり前であって、それよりも色々な事故のスタディをするということへ頭がいかないのか」と。NASAにはアメリカ中で起きている事故のデータがあるから、幾らでも送るので必要であれば言いなさい、とのことで言われて帰国しました。

 帰国して、レポートにはNASAにこのように言われてきましたと報告したところ、操縦については何も意見はなく、事故のデータをスタディしていれば自ずと得るところがある人は自分自身で考えるでしょうという内容で終始したと報告しました。次に、自分の会社で、私は査察操縦士をしていたのですが、訓練規定の中に、次はどういうことをやりますよとエマージェンシーにかけて書いてあるわけですよ。だから次から次に、次、何がある。次に何がくるというのは分かっているわけですよね。ですから、操縦させても上手なわけですよ。「あぁ、そういうことか。それじゃあ、それを一つずらしてみようか」とずらしてみると、滅茶苦茶になってしまうんですよ。言われたとおりのことは覚えているけれども、順序を変えたら駄目なんだと。事故はその順序どおりには来ないのだと。その訓練マニュアルを変えさせるということをやりましたね。それが、非常に効果があって、調査に行って良かったと感じましたね。
編集者
投稿日時: 2012-7-15 7:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その18

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆零戦について(2)

 --------ショルダーをゆるくして、激しく動く空戦で困らないのですか?

 野口‥大丈夫です。腹のベルトをしっかりしてるから。たとえ背面になっても、重力がかかってますからなんともないんですよ。背面飛行をやって操縦桿をぽんと前に押せば遠心力がなくなってぶらさがってしまいます。宙返りをやるんだったらベルトがなくてもいいくらいです。速度が速いので遠心力でぐーっと抑えられているから。

 --------特殊飛行や曲芸飛行をするとブラックアウトというような視界が真っ黒になると言いますが、そのような経験はありますか?

 野口‥引き起こしの時にはなりますね。目の周りに星が飛びますね。だからフットバーに足を掛けておくよりも計器盤に足引っ掛けて。飛行機はすべってくれるから何とか上がってくれるけれども。

 --------映画でのように行儀いいものではない?

 野口‥そうですね。もう一つ、映画などでは空戦が始まると風防を開けるときがありますが、あんなのはあり得ないのです。Gかかってしまって風が入ってきてしまって、とても出来ないんですよ。だから風防かけて眼鏡外しておかないと良く見えないんですよ。

 神雷部隊の本の中に、神雷攻撃のとき、アメリカ軍が言っていることは、日本の飛行機が火を噴いて落下傘降下したというのがあるんですが、あり得ないんですよ。なぜかというと、帝国海軍は攻撃に行くとき落下傘の装帯を付けていかないんです。陸軍は分かりませんが、海軍がよそへ攻撃に行って落下傘で降りることはあり得ない。神宮攻撃に行くときも我々は落下傘を付けていかなかったですから。アメリカ軍が、日本軍が落下傘で降りたと言っているのはあり得ないと思います。

 --------遊撃戦では落下傘を付けるのですか?

 野口‥はい、付けていきます。自分の国の中であれば。

 --------例えば沖縄とかに出撃する時は付けない?

 野口‥はい。だから身軽でした。バンドが無いですから。乗っかったら落下傘の装帯を、ここにカチャっと飛行機につけておけば飛び出せば開くようになっているわけ。尻の下に落下傘を敷いてますからね。

 --------では、野口さんが戦争映画で空戦シーンをご覧になると苦笑する場面が多いと。

 野口‥そう、そう。なんで風防開けるんだよと(笑)。

 --------零戦以外の新しい飛行機に乗りたいと思ったことはありますか?

 野口‥あります。筑波にいる時、雷電は操縦訓練まではさせてもらいました。

 --------雷電は搭乗員からの苦情が絶えなかったといいますね。

 野口‥前が見えないです(苦笑)。雷電は離着陸しかやったことがないですが、まっすぐ進むと前が見えないので、左右に動きながら先に進まないとね。紫電も水上機から改造したものでしたし、紫電改は脚を短くしたものでだいぶ良かったらしいですね。

 --------戦った相手は、グラマンF6Fが一番多かったですか?

 野口‥最初はF4Fでした。F6Fは零戦の上をいってましたからね。
編集者
投稿日時: 2012-7-14 8:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その17

 海軍航空特攻  野口 剛氏
 
 ◆零戦について

 --------野口さんは零戦の52型に乗っていらっしゃったのでしょうか?

 野口‥神雷部隊のときは52塑ですね。訓練は21型22型に乗っていましたけれ
ど。

 --------零戦の操縦について野口さんの印象は?

 野口‥舵の利きが良いですね。僕は乗りやすい飛行機だと思いますね。零戦以外の戦闘機には乗っていないので、他は分かりませんが乗りやすい機だと思いますね。それから、戦後、日本にマスタングP-51が零戦と一緒にきましたよね。あれを見に行ったんですけども、零戦は全重量で2・7tですけど、マスタングの方は5tからあるんですよ。ですから突っ込むと加速度がついてね、スピードがどんどん出る。零戦は軽いから、パワー一杯入れても浮こう浮こうとするから抑えていなければならない。それで、スピードがなかなかつかない。

 だから戦闘機としては、昔は巴戦とかのために、ひねり込みとかの技を習得させられたのですけれど、どちらがいいのかなと言いますと、今は巴戦なんてやらないですからね。その後に出来た紫電なんかの方が良いね。空戦が始まるときに紫電なんかだと、空戦フラップといってGかけるとひとりでにフラップが出るようになっていたわけですから。51のと、その半分の2・71くらいの飛行機じゃ、なかなか一撃必殺とはできないですよね。

 --------坂井三郎さんの著書に、特攻で突っ込むときに最後に機体が浮いてしまって失敗した例も数多くあるのではないかとありますね。

 野口‥そうですね。300ノットくらい出たら、頭が上がろう上がろうとするからスパッと抜けるんです。それで、それだけスピードが出ていると引き上げようとするときにもすごく重たいんですよ。だから、翼の付け根のところにシワが寄って塗料が剥げるくらい飛んでもぶっ壊れない飛行機ですからね。そのかわり、2Gから3Gかかっちゃうんだよね。だから、よだれは垂れるわ、鼻は垂れるわね(笑)。今のジェット戦闘機に乗る人はGスーツを着るからそういうことはないと思うけれども、我々のときは腹にこんな厚いベルトをして、腹をぎゅうっと空戦バンドって言ってね、腹を一杯締めてやっていないと臓物が下がっちゃうぞと言われてましたけどね。飛行作業をやっていて、ゼロ戦のリブを2人で肩に担がされたこともありましたね。そのくらい上がってしまうんですよ。だけど、いい飛行機でした。ま、自分が乗った飛行機は大抵いいって言うんだけどね(笑)。

 ショルダーハーネスがあるのですけどね、これはかけてられないですね。ゆるゆるにしておかないと。後ろを七分、前を三分見なければいけないから。バックミラーは無いですからね、とにかく後ろを見ておかなけらばならない。最初に教わったのは、まず高度をとって、いきなり戦闘ばかりせずに、隊列から外れていくような敵機を撃ち落とすとかね。自機の弾が吸い込まれていくように行って、敵機がバッと火を噴くと気持ちいいですからね。あるいは機が反対になって落っこちていくところが見られます。そこでやめておかないと、上にいつ敵機がついているか分からないので。
編集者
投稿日時: 2012-7-12 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その16

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆特攻で死んだ人を忘れないで

 --------当時と今では価値観や考え方が違いますが、なぜ特攻というものが行われたか、野口さんのお考えはありますか?

 野口‥特別な考えはないです。戦争だから仕方がない、としか思っていなかった。
 16歳程度の、余り世間に出ていなかった若者でしたから、言われるままに、教育されるままに従ってきていたというのが事実だと思います。だんだん後になって、色々考えることは出てくるのですが、心に秘めています。世の中は変わってきたと感じるが、一人でわめいたって仕方がないと思い、生きてきたという感じですね。

 --------特攻について、特別な思いというものがありますか?

 野口‥特別攻撃隊というのがなくてもね……例えば自分の飛行機が火を噴いてしまっていて、敵がそこにいたらぶち当たっていくということをやった人がいるわけですよね、結果的には。だから、それだけじゃ足りないというので特攻ができたのではないかと思うのですがね、それが一人の人間の命を奪うわけですからね。今は一人殺しても大変なことになるのに、戦争ともなればそういうことがなくなってしまうわけですから、二度とそんなことはあっちゃいけない。アメリカ人が特攻をクレイジーと言うのもね、納得ができると思いますよ。私がボーイング社に行ったとき、ちょうど12月8日でした。さっきのジャンボ機の話で行ったときですけど。そのとき、昔、零戦に乗っていたのだと言ったら、戦争を、特攻を、日本人は好んで行ったのかと聞かれたりもしましたね。だけど、我々としては命令もさることながら、国のために命を捨てることは、当時の我々としては承知したことだと伝えましたら、左右に首を振っていましたね(笑)。

 今、特攻の話を盛んにしてほしいとは思わないけれど、そういう人たちも日本人としていたんだなあと思ってほしいですよね。私はね、この一生は、慰霊には常に行きたいなと思っています。強要できるわけではないし、これからあってほしいことではないですからね。この大東亜戦争で特攻があって、そして終わったと。だから、亡くなった方にはね、生きている間は一生、慰霊をしていきたいなという気持ちです。

--------慰霊ということでは靖国神社に行くのが一番多いですか?

 野口‥はい、多いですね。同期や色々な地方での集まりというのがほとんどなくなってしまいましたから。

 --------乙飛16期で戦闘機乗りの同期生は60名ぐらいとのことですが、戦死された方は相当多いですか?

 野口‥はい、多いですよ。戦闘機専修で60名くらいですが、水上機から上がってきたのは数知れないですから、どれくらいかは分からないですね。戦闘機乗りになってから死んだというのは、ずいぶんいると思います。戦争で水上機の使い道が少なくなっていましたからね。なので、水上機から陸上機へどんどん上げていった。結果的には戦闘機乗りで死んでいるわけです。

 --------予科練の頃の集合写真を拝見しましたが、戦後も生き延びられた方というのもあの中に何名かいらっしゃるのでしょうか?

 野口‥いたにはいたのですが、今は皆、亡くなっていますね。民間航空会社でも亡くなっています。まだ旅客機までいかない小さい飛行機の時に亡くなっている方が4人も5人もいます。

 --------戦友が亡くなられるというのは、ただの知り合いが亡くなるということとは気持ち的に違いますか?

 野口‥そうですね、違いますね。なので、年賀状の前に喪中はがきがくれば、私は必ず電話しています。奥さんとかにね。
編集者
投稿日時: 2012-7-11 6:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その15

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆民間航空会社に就職

 --------その後、民間のパイロットにられたということですが。

 野口‥ええ。講和条約が締結された昭和27年に航空再開ということで、直ぐに飛び込みました。ですから、一番早い口だと思いますね。で、航空局というのができていまして、「おおとり会」というのがあったのですが、これは民間人たちの会でね。軍の出身者でも良いかと聞くと大丈夫だったので、そこへ入会して、手伝いをしながら勉強して、民間のライセンスを取らせてもらった。昭和28年12月に、民間の操縦士、通信士、航空士の試験を受けて、昭和29年1月にライセンスをもらいました。その後、海軍の予備学生出身者などが作っていた民間の航空会社に就職しました。

 そうしたら直ぐに、「また鉄砲の付いた飛行機に乗らないか」と誘いがきました。しかし、もう民間の航空会社に就職したので、と自衛隊には行きませんでした。民間のライセンスがあるなら三尉で入隊させてやると言われましたけどね(笑)。それから、ずっと民間航空会社でした。

 --------戦後の人生の中で、戦時中のことを思い出すことはありませんでしたか?

 野口‥戦後、昭和20年8月から桐生の家にいたときは毎日寝てましたね。昭和21年のときに父の会社に入れてもらったのですが、戦後の何も無い状態でしたし、仕事は何ができるのかと問われても何もできなかったですから、すさんだ生活を送っていましたね。

 --------戦争のことを冷静に話せるようになったのは、もっと後になってのことですか?

 野口‥そうですね、戦後に民間の飛行機にカムバックするまでは、余り戦争に関する話はしませんでしたね。
編集者
投稿日時: 2012-7-10 6:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その14

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆終戦と復員で心が崩れかける

 --------昭和20年8月15日の玉音放送はお聞きになりましたか?

 野口‥聞きましたが、訳が分からなかったですね。ジャリジヤリと雑音がひどく聞き取れなかったので、「一生懸命やれ」というふうに理解して猛訓練に入りました。そしたら、そうではないということで訓練から攻撃に切り替えようということになりました。太刀洗の陸軍が、「海軍はまだ訓練をしているのですか?爆弾をください」と言いに来ましたね。

 --------では、放送を聞いた時に敗けたという意識はなかったわけですか?

 野口‥全然なかったですね。その後、軽挙妄動は止めろということを言われ、解散するから自宅へ帰るよう指示が出て帰ったのですが、後ろ髪引かれるような思いでしたね。

 --------帰れ、というのは自宅へという意味ですか?

 野口‥はい、そうです。

 --------帰るにしても、空襲などで交通手段も破壊され、大変だったのではないですか?

 野口‥私なんかは、そのまま飛行機で帰れと言われました。ちょうどその時、親は群馬県の桐生にいたのですが、東京なら帰ったことがあるんですが、桐生には帰ったことがなかったので、佐藤少尉(今年の3月に亡くなられた方なのですが) が桐生に住んでいたことがあるというので一緒に帰りました。飛行機に乗って帰っていいと言われたのですが、故障したら困るし、燃料とかもどうしたらよいか分からないので乗っては帰りませんでした。

 --------飛行機はどうなったのでしょうか?

 野口‥銃弾は海に向かって撃ち込んできました。それで、飛行機はひっくり返して海に放り投げて帰ってきました。

 --------九州からの復員の途中、広島や大阪などを通ったと思いますが、廃墟となった街を見てどう思いましたか?

 野口‥やっぱりひどいものでしたね。

 --------原子爆弾のことは、既にご存じでしたか?

 野口‥はい、聞いていました。最初は「新型爆弾」ということで聞いていました。

 --------そういう話を開いてアメリカに対して敵愾心を強くしましたか?

 野口‥はい、強くなりましたね。大有りでしたね。

 --------やり返してやるぞ、というような?

 野口‥はい、はい。広島も戦後行ってみてびっくりしました。

 --------途中で進駐軍に会いましたか?

 野口‥進駐軍には会いませんでした。まだ昭和20年8月19日頃でしたから。拳銃を持ったまま帰りました。その後、9月17日くらいに呼び出しが来て、また築城に行ったんです。行ったら、もう既に兵舎も何も無くなっていました。そこには残務整理の人がいて、お金をもらったんですが、幾らだったか忘れました。その時、4人いたのですが米一俵をもらいました。その帰りに熱海の「志はみや」 (しおみや) という旅館に寄って……今でもありますけど、もらった米がある間……5日間ぐらい 「志はみや」に居て (笑)。お金を使い果たして帰りましたね (笑)。

 --------基地にいた頃、一般の人々との接触はありましたか?

 野口‥民家にいましたのでありました。

 --------戦中と戦後で、国民の態度が変わったと感じたことはありましたか?

 野口‥終戦直後の頃にはまだ、何もなかったように思います。ただ、大阪で「敗残兵」と言われて大喧嘩したことはありました。列車で帰る途中、陸軍も一緒に乗っていましたが、乗っていた電車が混んでいて、「敗残兵ばかり乗るから、俺たちが乗れないんだ」と。当時は開けっ放しだった電車の窓から聞こえてきたので喧嘩になりましたね(笑)。

 --------軍隊への反感は時間が経つにつれ大きくなっていったのでしょうか?

 野口‥そうですね、ありましたね。戦後、民主主義などというそれまでは聞いたこともないような言葉で、これからは一生懸命生きろと言われても、それまで一生懸命、人殺しをやってきたのに、いきなり生きろと言われてもどうしたらよいかというジレンマはありましたね。

 --------戦後、いわゆる「特攻崩れ」などという言葉も出てきましたが。

 野口‥そうですね。カチンとくるようなこともありましたし、半分崩れちゃったような感じにはなりましたよね。価いっていう感情がなかったので、親も心配しただろうと思いますね。この先どうなってしまうのだろう、と。

 --------野口さんも、崩れたような部分がありましたか?

 野口‥ええ、ありましたね。怖いものがないから喧嘩でも何でもやっちゃうっていう感じでしたね。

 --------野口さんにとって戦争が終わったという実感は、いつ頃、感じたのでしょうか?

 野口‥そうですね。家に帰ってノンビリしてからですね。あぁ、これでもう死ななくてすむなと。しかし、すべてのものに手が付けられなかったですね。そこで父の会社に入れてもらったのですが、落ち着いて仕事はできなかったですね。

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