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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第4回)
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編集者
投稿日時: 2012-4-8 9:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その22

 ※注1・「遺された声 ~録音盤が語る太平洋戦争~」 N H K制作 2004年放送

 編成された「と三一」「と三二」「と三九」「と四一」の隊員全員が第二航空軍司令部に集まり、新京放送局員たちによって故郷に伝えたい、声を録音した。その録音盤が中国で発見されたが、かなり傷んでいたので聞き取れないところもあり、NHKからの依頼で、「と四一(誠四一)」飛行隊の生き残りである上村、菊田、久貫の三氏が久貫宅に集まって録音を聞き、不明のところを助言した。当時、久貰さんも録音したが、残念ながらその録音盤は発見されなかったという。


久貫 兼資(誠四一飛行隊)軍歴

 1926年(大正15年)2月

  北海道根室市で生まれる。

 1943年(昭和18年)10月

  逓信省航空局古河地方航空機乗員養成所入所(14期操縦生徒)。

 1944年(昭和19年)3月

  仙台地方航空機乗員養成所へ転属。

 1944年(昭和19年)7月21日

  養成所卒業。同日、乙種予備候補生に採用。陸軍上等兵。

 1944年(昭和19年)8月

  第二四教育飛行隊転属。

 1944年(昭和19年)12月

  第二六教育飛行隊転属。

 1945年(昭和20年)1月20日

  任陸軍軍曹。

 1945年(昭和20年)2月6日

  第八飛行師団に転属。同日、「と号第四一飛行隊」附となる。
 
 1945年(昭和20年)3月11日

  新京第二航空司令部で「と号隊」編成。

 1945年(昭和20年)3月

  奉天から京城を経由して太刀洗に到着。その後、新田原へ。

 1945年(昭和20年)3月27日

  知覧に前進。沖縄周辺の敵艦攻撃を命じられる。

 1945年(昭和20年)3月28日

  知覧を離陸するが、エンジントラブルのため口之島に不時着。
  
 1945年(昭和20年)6月

  海軍の監視艇に便乗し鹿児島着。その後、別府陸軍病院に転院。

 1945年(昭和20年)10月31日

  福岡から臨時東京第1陸軍病院に転送。

 1946年(昭和21年)10月1日

  臨時東京第1陸軍病院を退院。


編集者
投稿日時: 2012-4-6 7:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その21

 --------でも、当時の写真を見ても本当に、皆さん、キリッとした顔をされていますね。

 久貫‥そうですか。

 --------出撃前の写真を見ると、顔つきというか目つきが、全然、今の若者と違うなという感じがします。

 久貢‥だから、明治維新が……あの大業が成ったなんていうのも、あの頃の人たちはみんな、命懸けでやったんでしょうね。だから、そういうことが必要なんでしょうね。ま、生命が保障されているようにみえて、毎日のように殺人事件がおきてますよね。だから、なにか異常なんですよね。やっぱり教育なんじゃないでしょうかね。教育っていうと、そういうものを直に教えるっていう教育を考えるだろうけども……私たち、操縦教育を受けてね、国のために死ねとか何とかって言われたことがないような気がしますけどね。大体、飛行機に乗って空を飛ぶのには、自分がちょっとへマすると、自分が死ぬんだということだけは確実なんですよね。だから、自分で自分の責任を取るんだっていうことがありますからね。だから、その点だけは、大丈夫なんだとは思うんですけどね。

 考えてみると、昔のように刀を持って斬りあいやる方が厳しさが出るのかもしれませんけどね。そういう厳しさもいいけどね、そういうことなしに厳しさが出来ないとね。だから、今の憲法論争でも、憲法外すと武装する、と、戦争始まるっていう。すぐそうなっちゃうでしょ。そうじゃないんですけどね。途中下車があるんですけどね。

 久貫‥戦後、死んだ戦友の分まで祖国復興に頑張ろうと考えました。20年近く市役所に勤めて出した結論は、宇宙のビックバンから現代に至るまでの自然の成り行きの中にチャンとした結論があるということでした。行政改革をやって働き方を改めた時のモデルは人体でした。それがヒントで結論だけ見出しました。退職後、学校に行き研究をと思いましたが、あまりに大きな問題でとても無理と判断してやめました。最近は子供を殺す親が多くなりましたね。動物は教育を受けなくても子供を大切に育てていますのにね。

 --------今日は貴重なお話をありがとうございました。

 (……了……)









編集者
投稿日時: 2012-4-5 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その20

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆厳しさを失った日本

 --------久貫さんをはじめ、当時、18、19歳の若者たちが、国を守ることをすごく大切に思っていたとおっしゃってましたけど、今の、現代の若者にとって、そのことを理解するのは難しいと思います。当時の時代背景とかを知らないこともあるので。それで、久貴さんの世代の若者たちが、それほど国を守るということを大切だと考えていた背景として、教育や時代の流れがあったと思うのですが、久貫さん自身は、どのようにお考えですか?

 久貫‥あのね、これは今、私が痛切に感じますのはね、日本の今の若者とね、韓国の若者と比較するとね、厳しさが違うんです。顔のね。それはつくづく感じるんですよ。と言いますのはね、私が朝鮮に渡ったのが昭和19年です。その時にね、ああ、韓国人っていうのは、やっぱり間が抜けてんなあ。顔を見ても何か足りないところがあるなあ、という感じを受けたんですよ。

 ところが、現在の若者たちをテレビなんかで見てるとね、韓国人の方がよっぽどキリッとしてますもんね。日本人の方がボヤッとしてますよね。国会議員を見たって、何を見ても日本人の方が何か抜けてる感じがするんですよ。だから、そういうことがね、今の若い人には、そういうアレがないから、経験がないから、分かんないですよ。だけど、これをね、どう説明していいか私自身もね、分からないんだけど、顔に出てるんですよ。見るだけでね。だけど、よく家内とも話すんだけど、自分の顔も、それだけ随分、下がってるんだろうなと思う、って言うんですけどね。

 で、私はそれをね、日本全体が地盤沈下してるから、自分も一緒に地盤沈下してるから、自分のことは分かんない。若者はさらに、そういうことが、さらに分かんないわけですよね。そういうことじゃないかなと思うんですよ。だから、私たちが満州に行った時に、あれですよ、満人たちにしてもね、やっぱり、烏合の衆のような感じがしますもんね。キリッとしてないから。その時の日本人はどうかっていうと、まあ、自分たちの同期生だけを、飛行機乗りばっかり見てるから、キリッとしてたのかもしれませんけどね。だから、結論づけて言えるかどうかわかんないけども、テレビから見る限りでは、それが言える気がします。だから、厳しさのある顔ってのはどうなんだっていう判定をするとなると、これはちょっと難しいんですけどね。一概には言えませんけれども、確かに日本人はどっか抜けてる感じがします。だから、それ、皆さんで検討していただきたいと思うんですけどね。これは私自身の偏見かもしれないけれどもね。自分では偏見ではないように思うんですけど。
編集者
投稿日時: 2012-4-3 7:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その19

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆戦争と欲.

 --------久貫さんの青春時代は、まさしく戦争の時代で、その後は戦後の混乱の時期を乗り越えてこられたと思うんですけども。久貰さんにとって、戦争って何だという……

 久貫‥戦争って欲ですよ。人の欲。だから、個人、個人が欲を離れればいいっていうことですよ。だって、馬鹿げていると思いません?動物の方が人間よりも、よっぽどあれですよ、子育てはちゃんとするしね。笑い事じゃなくて、本当、そうですもんね。動物よりも人間が出来ないんだから。なぜ、出来ないというと欲があるんですよ。やっぱりね、考えてみると。だから、戦争が始まるのも欲。今度の金融危機も欲でしょ?だから、人間がそれを感じない限り、いつになっても戦争っていうのは終わらないんじゃないですか。なくす方が無理かもしれませんよね。欲をなくさない限り。

 --------難しいですよね、欲をなくすというのは。

 久貫‥一番難しいですね。優しいより、一番難しいですよね。

 --------最近、国防というか、愛国心というのも含めて、いろんなことが議論されています。日本が再び戦争をするとか、しないとかという話もありますが。

 久貫‥みんな、その裏に欲があるからですよ、それぞれ。だから、それに気がつかない限り、終わらないんでしょうね。だから、いっそのこと、戦争やっちゃった方がいいっていう感じがしますね。殺されちゃった方が、逆に。だって、それが今までのアレでしょ……地球上の掟……成り行きですよね。だから、生半可に平和だ、平和だ、なんてやってるから中途半端なのがいっぱい出来ちゃって、どうにもこうにもならなくなっちゃうんじゃないですかね。だから、一番悪いのは坊さんですかね。欲をなくすように協力しないから悪いんです。坊さんも神様もね。
編集者
投稿日時: 2012-4-2 7:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その18

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆遺された声(2)

 --------久貫さんがおっしゃった「いいところ」、「これだけは忘れてほしくない」というのは具体的には?

 久貫‥うーん、そうね。あの、「遺された声」(NHK 2004年放送※注1・巻末ご参照)の時にも話したことがあるんですけどね。私も軽く考えて声を聞いたんですけど。聞いてましたらね、烈々としてるんですよ。みんなね、言うことは、親のことを想い、両親のことを想いね。それから、兄弟を想いね。それから、国を想いね。ああ、これがあるから日本は強いんだなと思いましたけどね。今、そんなアレがないですもんね。

 だから、その時ね、ああ、私のしゃべろうと思ってる心と、あんまり足りなさ過ぎるから、何とか、これ、考えなくちゃと思いましたけどね。だけど、その場になって考えるわけにもいかないですよね。

 --------ご自分の戦争体験とか、いろんな方に話されてるんですか、今まで。

 久貫‥いや、そんなにしません。聞かれたらするかもしれませんけどね。進んではしてません。だけど、あれですよね。亡くなった戦友のことを考えたら、そういう人の話はしてやりたいと思いますよね。だけど、だんだん、だんだん、忘れていっちゃうんですよね。肝心なことをね。

 --------テレビでも特攻隊や戦争関係の番組がたくさんありますが、例えば、特攻について、こういうところが勘違いされているんじゃないかとか、こういう描き方は直していきたい、直さねばならないというようなことを感じられたことはありませんか?

 久貫‥一番はね、特攻はイヤイヤ、イヤイヤされたなんていうことを言われるのが、一番気に入らないですね。イヤイヤで死ににいけるはずがないんですよね。自分に納得しなければ。だから、結局ね、今の日本人の一番悪いところは、命懸けでモノをやるってことがないってことですよね。特攻は少なくとも、命懸けで取り組めたことなんですよね。それが出来ただけで有り難かったかなあと思いますね。命懸けってことはね。だから、今の人たちが逆に可哀相だなって思いますよね。命懸けがないんですもの。

 だから、あれでしょ。スポーツなんか見てても、がめつく突っ込んでいこうっていうような人はいないですもんね。適当なとこで妥協しちゃってますもんね、みんなね。そんなことだったら、日本民族っていうのは繁栄しないんじゃないんですかね。伸びていかないんじゃないですか。だけど、考えてみると、そういう紆余曲折っていうのは何にでもあるのかもしれないけども、今の日本の風潮になるのには60年かけてこうなったんですから、これ直すのは大変でしょうねえ。

 --------同じくらいの時間か、もっと、かかるかもしれませんね。

 久貫‥倍も3倍もかかる気がしますね。だって、戦後の教育を受けた親の子供の子供くらいでしょ、今の若い人たちっていうのは。それの累積が、こういう変な社会になってきたんですものね。だから、直すのは、その親を直し、その親を直し、していかなくちゃなんないから、随分かかるんじゃないですかね。

 --------それは、もしかすると我々の世代の役目になるのかもしれません。

 久貫‥そうかもしれませんね。だから、お前は生きてて、今まで生きてたのに何をやってきたんだと怒られそうな気がするんです。お前、絶対、死んでもオレの傍に寄せ付けないぞって言われそうですよね。

 --------あの時代、なぜ、特攻が行われたのか。久貫さんのお考えがあったら、お聞かせ願いたと思います。

 久貫‥あのね、経済的に見たら一番安いんじゃないんですか、特攻隊が。変な話だけども。それと、もう一つね、あの当時、国を守るっていうことが、いかに大切かっていうことを身にしみてましたもんね。で、今の若い人たち見てね、あの、大丈夫なんかな、こんなんで。全然、何て言いますかね、昔の……連中がどうやって、どういう思いで死んでいったかというのが、今の若い人に全然、理解できないんじゃないんですかね。だから、それだけにね、亡くなった人が可哀相な気がするんです。

 だから、こう思いますよ。今はね、あの、靖国神社なんかお参りしたり、思い出したりするとね、生きてるお前、一体、何やってたんだって。で、同期生の中で私が一番先に特攻で、最初に出ましたからね。みんな、大いに気勢あげてくれましたよね。「お前が行ったさきに、靖国神社でいい席とっといてくれよ」とかね、「頼むよ」って言う。「どうせ、お前たちが行っただけで、この戦争終わんないから、俺たちも後から行くけどな、もう、心配せずに行ってこい」なんて。死ぬ気ですよね、最初からね。そういうのが当たり前のようでしたよね。だから考えるとね、そういう連中に行き会ったらね、「お前、今まで生きて何してたんだ、この日本の国の様は何だ」って怒られそうな気がしますよね。「お前、何のために生きてきたんだか分からないじゃないか」って、「ちゃんとしてから死ね」って言われそうな気がします。

編集者
投稿日時: 2012-4-1 6:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その17

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆遺された声(1)

 --------我々、戦争を知らない世代、また我々の子供や孫の世代に、これだけは語り残しておきたいというのがあれば、ぜひ、お聞かせ願いたいと思うのですが。

 久貫‥あのですね、死んだ人の思いを汲み取ってやってほしいってことですね。何のために死んだかね。私は、戦後、アメリカ軍のPXにも勤めたことがありますよ。そこでね、なんでアメリカ兵に負けたんだろうなってことをね、考えたことがありましたね。

 ある日ね、私、倉庫係やってたんですよ。英語はたいしたことなかったんですけど、倉庫ぐらいだったら大丈夫だろうって。ボークセール(大量販売)やれっていうわけで、倉庫係とボークセール。そしたら、ある時、当番兵としてよくやって来るアメリカ兵がしばらく来なかったんでね、「お前、どうしてたんだ。しばらく顔見せないけど」って言ったらね、「罰を喰って、草取りやらされてたんだよ」 ってわけなんです。「お前、まともに草取りやってたのか」って聞いたらね、「それは当たり前だろ」って言いましたもんね。そういうことを、「当たり前だよ」って言えるようなね、アメリカ兵がいるってことは、アメリカ兵もやっぱり、いいところがあるんだなって思いましたね。

 それからね、こういうことも聞いてみました。将校に聞いてみたんですけどね。「アメリカでは、階級は飛行時間に関係ないのか」 って。日本では関係ないでしょ。だから、聞いたことがあるんですよ。そしたら、「いや、飛行時間によって階級は変わってくるんだよ」 って言われましたけどね。なるほどな、そうすれば、指揮をするのにも何をするのにもね、飛行時間がやっぱりモノを言うわけですよね。だから、そういうところにも日本の軍隊の、なんて言いますかね、至らなさがあったのかもしれませんね。やっぱり、アメリカにもアメリカのいいところがあるんですよね。

 それからね、会話学校にも行ったんですよ、アメリカ軍のね。基地の中に学校があって女の先生が教えてくれる授業があったんです。その時、日本ではね、罰として殴ることを禁止するような風潮があった時代ですよね。で、その女の先生に聞いてみたんですよ。「アメリカでは決して子供を殴らないんですか」 って聞いたら、「いいえ、そんなことはありませんよ。お尻はたきますよ」 って軽く言われましたもんね。だから、ああ、日本とえらい違うんだなあって思いました。だから、日本は何でも行き過ぎちゃってるんじゃないんですかね。だから、日本のいいところはみんな捨てて、アメリカの言うなりになってるんっていうのが、何とも気に入らないですよね。いいところを掘り起こして欲しいと思いますよ、今の若い人たちがね。
編集者
投稿日時: 2012-3-30 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その16

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆運命

 久貫‥満洲から太刀洗に着いた時、耐寒装備を施したんです。満洲は寒いでしょう。で、内地に来たら暑いから冷却機をつけないと滑油を冷やすことが出来なくなるわけです。それで冷却機をつけてくれたんですよね。それで、その翌日、全機、試験飛行の予定していたら、「B29の空襲がある。太刀洗には今、戦闘隊がいない。戦闘隊と名のつくものは誠四一飛行隊だけだから上がって遊撃せよ、制空しろ」っていう命令が出たんですよ。突っ込む前に空中戦が出来るって、みんな喜び勇んで乗ったわけですよ。そして、私の飛行機に乗ったらですね、整備してる最中なんすよ。それで、「もう少し待ってください」って、整備を一生懸命やってるわけなんです。「もう少しで出来ますから、もう少しで上がれますから」 って……。

 そうしたらね、全機、真っ黒になって降りてきたんですよ。それはね、冷却機をつけてね、エンジンの間から出ている銃身との関係を点検しなかったのです。特攻隊だから空中戦はやらないと思っていたからですね。戦闘機部隊っていうのは上がりますと試射するわけです。で、試射してエンジンの前に冷却機がついていますから……写真を見ていただくとわかりますけども、それを射抜いちゃったんですよ、みんな。だから、真っ黒になって降りてきたわけですよ。で、私の飛行機だけ上がれないでそのままだったんです。じゃ、この際だから、よく整備しておいてくれなって頼んで帰りました。

 私の場合は3月28日の本番にそれをやっちゃったんです。だから、それがいいか悪いかわからないんですけどね、今になって考えてみると。ちゃんと整備をやってくれなかったら生きてるわけですよね、考えてみれば。だから、あの時、一緒に上がってたら、私の飛行機も沖縄までスーツと素直に飛んでいけたわけですよ。だから、どんなところで運命の岐路となるか分かんないですよね。

 その前にハルビンを離陸する時も、自分の好きな飛行機に乗れってわけですよ。それで、私は毎日乗ってるからわかるわけです。どの飛行機が性能がいいか。で、性能のいい飛行機の前に立ったらね、エンジンをまだくっつけてないんですよ。で、整備の者に「間に合うか」 って聞いたら、「いや、絶対に間に合います、間に合わせます」っていうわけですよ。で、しょうがないから、「待ってるから早くやれよ」 って言って頼んだんですけどね。そしたら、いつになっても出来てこない、上がらないわけですよ。そしたら、金別という幹部候補生出身の少尉が来てね、「久貫軍曹、これ、間に合わないから、他の飛行機に乗った方がいいよ。遅くなっちゃうよ」 ってわけで、自分でね、私の道具を持って他の飛行機に取り付けちゃったんですよ。で、それに乗って行ったわけです。結局、そのいい飛行機には間に合わない……乗れなかったんですね。だから、それも良かったんかなあとも思うしね、分かんないんです。今になってみれば。

 --------よく「軍隊は運隊」という人がいて、運次第だっていうふうに回想される方もいますけど、やっぱり、久貫さんもいろんな運が……。

 久貫‥運が良いんだか悪いんだか、分かんないですけどね。そういうこと後になって考えてみるとね、どうだったんだろうかなって思うわけなんですよね。

編集者
投稿日時: 2012-3-29 7:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その15

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆終戦、復員

 --------陸軍病院に入院されている間に終戦を迎えたわけですか?

 久貫‥はい、はい。

 --------病院で玉音放送をお聞きになったんですか?ラジオ放送を。

 久貫‥あれはね、別府の山ん中の病院で……玉音放送は聞かなかった……聞いたかな、聞いたけど、わかんなかったですね。そしたら、あの、海軍の宣伝の飛行機が飛んできてね。操縦者集まれ、今から特攻……攻撃に出ようっていう宣伝がありました。私も傷だらけだったけど行くかなってことでね、院長に交渉しに行ったんですよ。そしたら、お前みたいなケガで何が出来る。院長として退院させるわけにいかないって一蹴されましたけどね。考えてみたらそうですよ。両手を使えないんですものね。飛行機に乗せてもらって、上がって操縦するんだったら出来るけれども、それまでのことが、考えてみれば出来ないんですよ。

 --------玉音放送は分からなくても日本が負けたらしいという話が、その後、流れたと思うのですが、戦争が終わったということが分かった時、どんな気持ちでしたか?

 久貫‥悔しかったのは悔しかったですね、すごく。

 --------病院の中で騒ぎとかは。

 久貫‥騒ぎも何にもありませんでしたね。

 --------久貫さんは、そのまま病院にいらっしゃったんですか?

 久貫‥はい、はい。そのまま、おりまして。その後、秋になってから福岡の第2陸軍病院の方に転属になりましたけどね。そこでも手術は出来ないんですよ。で、結局、手術するために東京の第1陸軍病院に回されましたけどね。そこで、復員したわけですよ。
編集者
投稿日時: 2012-3-28 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その14

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆陸軍病院

 --------その頃の鹿児島は、空襲とか機銃掃射とかはなかったんですか?

 久貫‥鹿児島の陸軍病院が野戦病院になり危ないから、別府に転送される時、天文通りですか。あそこ、かなりやられていましたよね。空襲でやられた死体も何体も見てますけどね。

 --------当時の陸軍病院では、ちゃんとした治療を受けられたのですか?

 久貰‥ちゃんとしてました。

 --------鹿児島と別府の病院で、お体の方も回復されたんですか?

 久貫‥そうですね。傷を直すだけですからね。だから、こっちとしてはまだるっこいわけですよ。飛行機を操縦出来ないですから。手がね、ここへくっついてたんですよ、みんな。握ったような手で。だんだん、引きつってこうなりましたからね。だから、飛行機の操縦なんてとんでもないっていうような両手の状態でした。早く手術して隊に戻りたい。また飛びたいの一心でした。

 --------陸軍病院には負傷や怪我、病気の兵隊さん達が相当いたんですか?

 久貫‥おりました。相当、いっぱいでしたよね。

 --------同じパイロットで負傷した人もいたんですか?

 久貫‥パイロットで負傷した人とは行き会わなかったですね。鹿児島と別府ではね。

 --------陸軍病院での生活というのは、どんな感じなのでしょうか?ちょっと想像つかないんですけど。

 久貫‥早く治りたい一心ですものね。食事……空中勤務者には特別食がでました。ちゃんと治療はしてくれますしね。口之島にいる時は薬もないんですから。海軍さんのヤケドの薬があるんだけども、ちょっと前にヤケドの患者がいて、ほとんど便っちゃったんで無い。で、マシン油っていうのがありますね。あれを塗って治療したんですけどね。そのうち、それも無くなって、船の赤い塗料がありますね。あれを塗られて赤鬼みたいだねって言われてましたもんね。だけど、よく化膿しないで副作用なんかもなくて有り難かったですよね。この程度のヤケドなら、手術すれば元にもどると元気づけられていました。

 --------別府で療養されてる時に、一緒に飛び立った仲間たちから手紙が来たとおっしゃってましたけれど、戦友が面会に来たとかというのはあったんですか?

 久貫‥面会はありません。手紙が来たのも一回だけです。菊田という同じ「と四一号」隊にいるんですけど、それが、その話を聞いて私に手紙をくれたわけです。こうこうこうやって帰ってきたよってことで。

 で、その前にね、別府の病院から、旅館を借り入れて病棟にした浜町病棟というのに入れられたんですけどね。別府の港のすぐ隣にある旅館を病棟にした奴です。それで、扶揺隊のマークを、飛行長靴に菊水のマークをつけることに決めていたんです。そしたら、菊水のマークの飛行長靴が置いてあるじゃないですか。「これ誰?」 って間いたら、加瀬曹長という私と一緒に飛び立った時に万世に不時着した人です。その人が療養してたわけですね。で、その人が、翌日、東京第三陸軍病院に、箱根に転送されると。せっかく会えたのになあっていうことで、私に、いろんな、今まで自分に融通されたものを譲ってくれたんですよ。こういうことはこれに頼め、あれはこう頼め、つてことでね。

 でも、結局、そういうこと利用しない間に私は山の中の病院……目の治療の必要があったので眼科の病棟に入ってましたからね。あんまり、ご利益はありませんでした。
編集者
投稿日時: 2012-3-27 7:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第4回)・その13

 陸軍航空特攻 久貫兼資氏 

 ◆鹿児島へ

 --------ロ之島から、どのようにして内地に帰ったのですか?

 久貫‥6月になってからですね、6月10日前後かな……。これも調べないと分かりませんけどね。私が入院中に細かく書いたのが残ってますけど、それを見ないと分かんないですけど。諏訪之瀬島という島があるんですよ。そこへ不時着した連中がね、漁船を改修して自動車のエンジンくっつけて、諏訪之瀬島、宝島かな?中之島、口之島と渡って来たんですよね。で、口之島に来てね。で、私のことも、じゃあ一緒に乗せて行ってくれってことで、そこで、収容されて行ったわけですよ。

 ところが、ロ之島と口永良部島……口之島から口永良部が一番近い島なんですけど、そこの問が、かなり離れているんですよ。で、そこの途中でね、アメリカ軍のグラマン……じゃないな。夜間だからマーチン飛行艇に、上空を旋回されてね、あぶない目に会いました。で、海軍さんもいたんでね。海軍さんの経験でね舟を流したの。エンジン全部止めて。夜光虫が光るんだそうですね。で、流したんです。で、その時の気象状況というのは曇りで雨が降るか降らないかっていうところ。で、方向……星も見えないから、磁石も利かないから、分かんないってわけですよ。

 ところが船を流すとね、ここの海流は西から東に流れるから、船がどういう形で行くか、そこで、北がどっちだかということが判断できるからって、みんな1時間か2時間、そういう中で寝てね、流してたの。ようやく薄明るくなったところで島が見えてきて、島が見えると思ったら雲だったりね。で、もう一回よく見まして、島が見えると言えば、ああ、今度は本当だっていうことでね。それで、口永良部に着くか着かない時に敵の飛行機に見つかりましてね。寸前ですよ、上陸寸前に。射撃されましてね。命からがら助かりました。

 --------その時は海に飛び込んで逃れたのですか?

 久貫‥いや、もうほとんど同時に島に着いてたんですよ。着いてたけど敵の来るのが速いんですよね。

 --------それで、口永良部にしばらくいて内地へ?

 久貫‥そうそう。ロ永良部にいてね、海軍の監視艇が迎えに来るっていう情報が入ってね。それが入る港が島の北側なんです。そこまで歩くのが大変でした。3月の末から4月、5月……2カ月半ぐらい動かないで寝てましたからね。これがもう、介護してくれた軍曹、先輩の軍曹だったんですけどね、都城の助教やった人で、この人も大変だったと思います。名前忘れちゃったんですけどね。

 それで、監視艇に拾われて山川港(鹿児島県指宿市) に入って、そこで医者に見てもらって。で、鹿児島に着いた途端に、病院……担架が待ってました。で、そのまま入れられちゃいましたね、病院に。そしたら、また、これが傑作なんですね。部屋を割り当てられたんです。個室を割り当てられたんですよ。船の事務長が入ってましたね、1人。で、もう1人、私が入って2人になった。で、部屋付きの看護婦さんがね、第二四教育飛行隊にいた時の少年飛行兵の妹だったんですよ。稲森さんといいました。よう世話してもらいました。
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