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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第3回)
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編集者
投稿日時: 2012-3-13 8:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その26

 江名 武彦(第三正気隊・海軍少尉)軍歴

 1943年(昭和18年)10月21日

  早稲田大学在学中、東京神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会に参加。
  
 1943年(昭和18年)12月10日
  
  大竹海兵団入団。  

 1944年(昭和19年)2月1日

  飛行科予備学生第14期として土浦海軍航空隊入隊。

 1944年(昭和19年)6月

  偵察士として大井海軍航空隊に赴任。

 1945年(昭和20年)3月17日

  特攻要員として百里原海軍航空隊に転属。

 1945年(昭和20年)4月10日

  神風特別攻撃隊「正気隊」編成。特攻隊月に指名される。

 1945年(昭和20年)4月20日

  鹿児島県串良基地に移動。

 1945年(昭和20年)4月28日

  「第1正気隊」の一員として串良を離陸するが、エンジントラブルのため知覧基地に緊急着陸。
 
 1945年(昭和20年)5月11日

  「第3正気隊」の一月として串良を出撃。途中、エンジントラブルのため黒島近海に不時着水。
  その後、島民に救助され黒鳥での生活が始まる。

 1945年(昭和20年)7月30日

  陸軍潜航輸送艇(マルユ)に便乗して黒島を離れる。

 1945年(昭和20年)8月1日

  長崎県口之津に入港。佐世保、大分、広島を経て茨城県百里原に向かう。

 1945年(昭和20年)8月10日
  
  百里原に到着。原隊復帰。

 1945年(昭和20年)8月17日

  復員。

編集者
投稿日時: 2012-3-11 8:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その25

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆次世代へ伝えたいこと

 --------私たちは戦争のことを何も知りませんが、特攻で犠牲になられた方々のことを理解したい、知りたいということもあって、こうしてお話を聞かせていただいているんですけど、特攻も含めて、ご自分の戦争体験を振り返られて、江名さんが次の世代に「これだけは伝えておきたい」ということがありましたら、是非お聞かせ下さい。

 江名‥アメリカの学生と話していて非常に印象深く受け取ったんですけど、現代史を勉強してるんです。しかもアメリカは今日も戦争していますよね。太平洋戦争についても勉強しています。
 
 だから今、仰った若い人達には、世界史・日本史・特に現代史ですね。これを、やはり複眼的な目でもって勉強して頂ければと思いますね。結論としては戦争はやってはいけないということですが、現代史を勉強することによって日本がなぜ、あの戦争、太平洋戦争をしたかということを、自分自身で勉強して頂きたいと思います。特に帝国主義について、どういうものだったかと。日本も、かつて後発の帝国主義国家でした。その帝国主義が21世紀になっても、アメリカ・ロシア・中国などに見られます。

 それと、日本の平和憲法です。戦争・武力というものを永久に日本はしない。陸海空軍兵力は持たない。そういう憲法があります。その憲法を日本だけでは守れませんからね。憲法を守るために、我々はどうしたらいいかということです。特に、唯一の被爆国である日本が先頭に立って核廃絶に努めること。そういうことを若い人達に、しっかりと身に付けてもらって、世界平和のために尽くして頂きたいと思いますね。

 ただ、人類が理性を持ったのは、まだ五千年しかないんですよね。チグリス・ユーフラテスの時代からでしょ、初めてロゴス・知恵を人間が持ったのは。しかし、人間の中には250万年の間の動物の血が流れています。この動物の血というのは残虐です。弱肉強食ですからね。この動物の血を、とにかく21世紀に何としても静めなければなりません。私は今、世界史的には大変危険な状態にあると思います。これを如何にして日本人が先頭に立って、この危険な環境を平和に持っていけるかどうか、それが最大の問題だと思いますね。そういうことを、若い人達に真剣に考えて頂きたいということです。

 --------今日は貴重なお話をありがとうございました。

 (……了……)
編集者
投稿日時: 2012-3-10 6:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回)・ その24

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆アメリカ人学生との質疑応答

 江名‥私は外国の人とあまり戦争の話をしたことはありませんけども、昨年の3月に、その前の年の映画「特攻」に私も関係したもんですからね。アメリカで「特攻」を封切する時、来てくれないかということで、同期生と2人でアメリカに行きました。スタンフォード大学、カリフォルニアですね。ワシントンのジョージ・タウン大学と2カ所に行きました。映画が終わった後、学生と質疑応答をしました。

 やはり一番ね、彼らはね、2001年9月11日のことを言うんです。そのテロと特攻は同じじゃないかということを質問されました。もちろん、いろいろ説明したわけですけども……テロは無差別の殺戮だが、特攻はあくまでも対象は戦争で相手の軍隊だと。一般市民に対して我々は攻撃をしていないと。テロの宗教的な自己陶酔ですか、そういうテロと、国のために「愛する共同体(ゲマインシャフト)」のために自己犠牲になった特攻とは違いがあるんじゃないか。特攻というのは8月15日限りで、もう「リベンジ」はないが、テロは未だに、お互いリベンジ、リベンジを繰り返して絶える事ないと。そこに大きな違いがあるという話をしましたら、一応は納得してくれました。

 それで国のために殉ずるということにつきましては、我々アメリカ人も星条旗のために戦ったんだと、それは全く同じだと。だから、特攻隊貝の自己犠牲というものは、ある程度理解できるという事を言ってくれました。


編集者
投稿日時: 2012-3-8 7:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その23

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆日本人のマジョリティ

 江名‥まあ、言えることはですね。当時の学徒は、非常に価値観が多様だったということです。私なんかはまだ大学一年ですからね。マルクスなどの禁書は、ほとんど読んでおりませんでした。手に入りませんでしたしね。禁書を手に持ちますと特高に捕まる時代でした。我々の仲間、学徒出陣組でも、そういったマルクスを勉強している男がいました。また、一方ではですね、国粋主義的な男もいました。思想は右から左まで非常に価値観が多様でした。

 価値観は多様でしたが、日本人のマジョリティはですね、昭和16年12月8日、開戦の時に、みんな声を上げて「万歳!」を叫んだんですね。12月8日に詩人の高村光太郎は、こんなこと書いております。「記憶せよ。12月8日。この日、世界の歴史改まる。アングロサクソンの主権、この日、東亜の陸と海とに否定さる。否定するものは彼等の『ジャパン』。渺渺たる国にして、また神の国たる日本なり。これを知らしめたもう秋津御神なり」

 それほどね、当時の日本人のマジョリティは、あの太平洋戦争を、12月8日を万歳でもって迎えました。もう1人、作家の伊藤整。彼がやっぱり、その日こういう事を書いています。「私はこの戦争を戦い抜くことを、日本の知識階級は大和民族として絶対に必要と感じている。私達は彼等のいわゆる黄色民族である。この区別された民族の優秀性を決定する為に戦うのだ。ドイツの戦いとも違う。彼等の戦いは同類の問の利害の争いの趣があるが、我々の戦いは、もっと宿命的な革新の為の戦いと思われる」と。こういう事を伊藤整が言ってるんです。

 当時は、帝国主義の白人社会だったんですよ。その中に黄色(イエロー)の日本が、後発の帝国主義国家として台頭してきました。この「イエロー」を叩き潰すことが白人社会の最大命題だったんですね。「ジャップを叩け!」ということがヒトラーの「Mein Kampf」(我が闘争)」にも書いてあります。黄色人種に対する侮蔑が。唯一、帝国主義の仲間に入った日本を叩き潰せといことを、当時の日本人も感じていたんですね。だから、こういう伊藤整の文章になったんで。当時の日本人はいろいろ戦争に対する個人的な見解がありましたけど、あの戦争に突入したことによって、自分の持っている思想よりも、立ち上がった黄色人種の先頭に立つ日本が、何としてもこの戦争で勝利を遂げたいという思いがあったと思います。
編集者
投稿日時: 2012-3-7 7:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その22

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆特攻とは何であったか

 --------江名さんが戦場に出られた頃は、特攻が当たり前のようになっていて、それが終戦ま続いたわけですけど、特攻作戦が行われた背景というものについて、江名さんは何かお考えがありますか?

 江名‥非常に難しいご質問ですけど。先程ちょっと申しましたように、ミッドウェイから、昭和17年6月から連戦連敗ですよね。それで当時のベテランの搭乗員が昭和18年になると、ほとんどゼロになりました。

 そこで、海軍は慌てて予科練の大量募集。予科練の甲13期は2万人採ってるんですよ。予備学生は13期で5千名、14期で3千名でした。それだけの機材や燃料をどうしようと思って集めたのか分かりませんけどね。必要だったでしょうけど、残念ながら機材もないし燃料もないから、戦場に出るだけの技量も備えぬまま特攻戦死しました。

 先程申しましたように、昭和19年6月ですか、マリアナ沖海戦では373機のうち350機以上が落とされて、しかも戦果ゼロなんですね。一応なけなしのパイロット、300時間以上の訓練を受けたパイロット達を集めて新鋭機で攻撃に行って壊滅なんですよ。

 その前に「回天」とか「桜花」は計画されていましたから、別の次元で、特攻作戦を海軍は研究した訳ですけども。その頃、現地部隊では攻撃に行きましても、特に艦攻、艦爆なんていうのは全機落とされましたので、現地でも特攻作戦の考え方が起きましたし、大本営も"外道の作戦″をやらざるを得ないところまで追い込まれたと私は思います。通常攻撃で撃ち落されてしまうなら、爆弾を抱えての特攻の方が、まだ戦果があるんじゃないかという発想だったと思います。特攻は人員、機材がいずれトータル・ロスとなり、作戦とは言えませんが。

 --------江名さんは、特攻作戦の第一線に立たされた、まさにそういう世代にめぐり合ったわけですが、江名さんにとって特攻とは何か。例えば今振り返って、ご自分の特攻体験がその後の人生に影響を与えたことはありますか。

 江名‥そうですね、それは人さまざまだと思います。戦後、特攻に対する考え方はいろいろで、相当、幅がありますね。私の場合は、やはり日本という共同体(ゲマインシャフト)の中に住んでて、学徒として徴兵猶予の恩典まで与えられて戦争の最中、学業を続けられた。それで、私達の小学生の幼なじみはもう戦場に行き、戦死してるんです。そこにね「ノーブレス・オブリージエ」 ですか。与えられた特権に対しては義務と責任があると。この国がまさに滅びようとする時に、やはりその特権を与えられた我々は、まあ悔しいけれども、自己犠牲……自己犠牲する事を苦しいけど自分自身に納得させて、柩となる自分の飛行機に乗るという考え方を私ども14期予備学生は共有しました。

 外道の作戦とはいえ、危急存亡の時に若者がそういう気持ちになっておりました。特攻戦死した戦友のことを思うと辛くて、彼らの鎮魂・慰霊に一生尽さなきやいけないという気持ちが強いんですよね。非道な、やってはいけない作戦でしたが、予科練の若い人達も含めまして、特攻の命令に対して自己犠牲で応じたことに、ただただ、もう頭が下がるばかりです。だから、特攻隊負っていうのは、基地を飛び立って、それで還ってこない人が真の特攻隊員だと思います。私のように還ってきた者が"特攻隊員″と名乗るのは、ちょっと借越だと思いますね。私は特攻隊員じゃないんです。特攻隊員って言うのは、やはり基地を飛び立って還ってこない戦友のことを、私は言うべきだと思うんですね。
編集者
投稿日時: 2012-3-6 8:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その21
 
 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆鎮魂と慰霊

  --------戦争が終わった後、江名さんは大学に復学されたのですか?

 江名‥大学1年の者は大部分、大学に戻りました。私も大学に復員届けに行きましたら、「もし卒業の免状が欲しければやるよ」と言われましたけどね。1年で学徒出陣ですからね、勉強らしい勉強はしておりませんでした。だから基礎的な勉強もしてみたいという事で、親の許しを得て大学に戻りました。

 だけど、その時は食糧難でしょ。私は東京に自宅がありましたから、弁当にサツマイモあたり持って行きましたけれど。ビール瓶に重湯を詰めて飲んでる学生もいましたよ。そういう時代でしたけれども、私は復学して良かったと思います。そのまま社会に出たら、学術書を読む時間もなかったと思います。

 --------ペアの方とは戦後、お会いになりましたか?

 江名‥会いました。2人とも80歳を過ぎて、今は体調が悪く、黒島とか串良の慰霊祭には残念ながら出ることは難しいですね。大方の戦友は亡くなっております。黒鳥の柴田さん、中村憲太郎さんも大分前に亡くなりました。だから、マッカーサーの言葉じゃないですけど、私どもは「fade away」する世代なんですけど(笑)。まあ、かろうじて残り時間を大事にしておりますけど(笑)。

 --------戦友とお会いした時には、戦争の時の話とかされるんですか?

 江名‥そうですね、やはり戦友っていうのは学生時代の友人とは違い、どうしても青春に嘗めた戦場体験の話が中心になります。今でも同期生の会合があちこちでありますが、そういう当時の話が中心です。懐かしく、いつも同じ話をしています。またか!と思いますけど、また聞いちゃうんですね。しゃべることがまたね、その人にとってのガス抜きなのかもしれませんけどね。みんな、よく同じ話をしますよ。それは変わりばえはないです。だって、引き出しが一つしかないんですから。そんな話を、やはり会うとするんですねえ。

 --------特攻の話も出るんですか?

 江名‥特攻隊については仲間ではします。ただ、部外者とはいたしません。特攻の話は、あまり私はしたくないし、しない人の方が多いかもしれませんね。

 --------ご自分の正直な気持ちとしては、あの時死ななくて良かったと思われます?やはり、複雑な気持ちですか?

 江名‥亡くなった戦友は20歳前後でした。それから私は65年生きてるわけですよ。この違い、不公平な配剤はちょっと言葉に表せませんね。こんなに不公平なことはないと思うんですよ。個人的には生き残って良かったと思いますが、亡くなった戦友に対して申し訳なく思います。ですから私どもは、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の春の慰霊祭、それから9月23日の世田谷特攻観音の秋季慰霊祭に、ひたすら亡き友の鎮魂、慰霊をしにお参りしています。
編集者
投稿日時: 2012-3-5 6:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その20

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆終戦から復員

 --------百里原に戻られた後、すぐ終戦ということになりますね。

 江名‥8月10日に戻りました。それで、海軍航空隊のいい所なんでしょうかね、茨城県の袋田温泉に百里原の保養所がありました。戦地から帰ってきた者は、そこで5日ばかり休暇をくれました。広島を通りましたので、司令から原爆の被害について説明を求められました。原爆対応をどうしたらいいかとか。私はただ見てきただけですが、まあ、白いものを着てる者は放射線を反射して比較的、被害が少ないようだから、白い物を何か着るようにと聞きました、ということを報告しました。一応参考になったと、それでとにかく、袋田温泉に5日ばかり休養して来い。それから本土決戦だから働いてもらう、という事で3人で袋田温泉に行きました。そこで終戦のラジオを聞きましたよ。慌てて隊へ戻ったら、もうテンヤワンヤなんです。それで、17日に搭乗員は復員しました。とにかくアメリカが上陸する前に身を隠せとも言われ、取るものもとりあえず、私もそこで退隊しました。

 --------そこで、ペアの皆さんともお別れを?

 江名‥ええ、別れました。

 --------その後、江名さんは東京に戻られたのですか?

 江名‥父親だけが東京に残って頑張っていました。母親と兄弟姉妹は飛騨の高山に疎開していましたので、まず飛騨の高山に参りました。

 --------特攻出撃から数カ月経っていますから、ご実家には戦死公報が入ってたのですか?

 江名‥ええ、弔慰金も来てました。それを見て、ちょっと考えたんですけど、父親からも「生きて還ったんだから、その金すぐに返して来い!」って言われましてね(笑)。海軍省に返しに行きました。

 --------江名さんが戻られて、ご家族は喜びました?

 江名‥ビックリしてましたですね。戦友から特攻出撃したって事を知らされていますから。それで弔慰金まで来ましたからね。だからピッタリしてましたよ。
編集者
投稿日時: 2012-3-3 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その19

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆陸軍小型潜航輸送艇現る(2)

  --------陸軍の 「マルユ」という潜水艦に乗られたという事なんですけど、「マルユ」自体が珍しいもので、それに乗った経験のある方は多くないと思います。乗員は全員、陸軍の軍人さんばかりなんですか?

 江名‥そうですよ。

 --------海軍軍人だった江名さんとしては、不思議な感じではなかったですか

 江名‥マルユ10号艇の方が歌う軍歌は海軍の歌でした。船乗りですから、そうでしょうね。

 --------どんな歌を?

 江名‥何だったかなあ (笑)。ちょっと今、思い出せませんけどね。海軍の軍歌を歌っていたのは確かです。

 --------操艦も全く問題ありませんでした?

 江名‥小さい艇でしたからね。私も潜水艦なんて初めて乗りました。飛行機がガブるのは、ある程度慣れていましたが……「ガブる」とは風でもって揺れるやつですね。マルユ艇は夜間、水上を走ります。昼間は敵の空襲に遭いますから潜るんですね。時化た海上を小さい船が走るもんですからね、艇のローリング、ピッチングで七転八倒しました。

 潜水艦に乗り込みましたらね、黒島よりはるかに美味しいものを出してくれたんです。缶詰ですけどね、ムシャムシャって食べたんですけど。まあ、汚い話ですけど、全部戻しちゃいました。もう苦しいんです。海軍に入って、潜水艦だけは乗らなくて良かったと思いましたけどね(笑)。狭い艇の蚕棚部屋みたいなところに寝かされました。本当に辛い思いをしました。

 --------何日くらい、マルユに乗っていたんですか?

 江名‥7月30日に艇に乗り、8月1日に口之津に入ったので2日間ですかね。甑島に寄りましたけど、それまでは船内を出られませんでした。

 --------部下の方も含めて、みんな船酔い状態だったんですね。

 江名‥みんなそうでした。あれですね、海軍もだらしなかったです(笑)。陸軍の中村さんも七転八倒してました。もうね「こんなんなら帰ってこなくてもいい」なんて言ってましたけど(笑)。時化のすごさを思い知らされました。

 --------そして、島原半島の口之津へ。

 江名‥長崎県の口之津に暁部隊の基地がありまして、そこへ入港しました。着きましたら暁部隊が歓迎してくれまして、寮が雲仙にあるから船酔いを治しなさいと1泊させてもらいました。柴田さんは、そのまま大分の陸軍病院へ直行しました。中村少尉は福間に行くので、雲仙で翌朝別れました。久しぶりにご馳走を頂きました。

 --------その後は3人一緒で行動されたのですか?

 江名‥3人でずっと百里原まで一緒の行動です。もうとにかくね、どこに行って良いか判りませんでしょ。だから翌日は佐世保鎮守府に行きまして報告したんです。そしたら、五航艦の司令部が今、大分に移っているので大分に行けと言われました。空襲の最中、列車に乗りましてね、大分まで行ったんです。そしたら、大分市は1週間くらい前に大空襲に遭いましてね、ほとんど壊滅状態でしたね。それで基地に行って五航艦の司令部に行きまして、特攻の顛末を報告しました。

 --------その後は百里原に戻れということに?

 江名‥ええ。そこで「お前の九七艦攻特攻は5月11日をもって解隊した。それぞれ皆、原隊に帰っている。だから、お前もすぐ原隊へ帰れ」と。それで「あ!お前達は二階級特進になってるぞ」って言われましてね(笑)。すぐこの世に戻りまして、江名「大尉」から江名「少尉」に落ちまして(笑)。

 それから原隊の百里原に向かったわけですけれども、8月7日に広島の街を歩きました。一発の爆弾で10万人の都市が消えたのをこの目で見て、戦争は人類に対する最大の罪悪と思い知らされました。
編集者
投稿日時: 2012-3-2 13:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その18

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆陸軍小型潜航輸送艇現る(2)

 --------そうしている内に陸軍の小型輸送艇というか、いわゆる陸軍の潜水艦が浮き上がってきたのですか?

 江名‥6月12日に陸軍の特攻機が一機、特操二期の、柴田さんの一つ後輩の中村憲太郎さんという方ですけどね。その方が九七戦で黒鳥の片泊に不時着しました。これで黒鳥には私と陸軍の柴田、安倍、中村の4機落ちたんですね。また、黒島付近の海に海没した特攻隊員も落ちていたと思います。

 7月17日の早朝、いつも朝ね、私は海岸が見える断崖のような切り立ったとこから海を眺めましてね。船が通らないか見るわけですけど、通らないんですよ。というのは、海中にはアメリカの潜水艦がいるわけです。通れば沈められちゃうでしょ。だから、日本の船は全然通らないんですよ。そうしましたらね、17日の朝5時ごろですかね、北の方からウエーキ(航跡)を立てて、私の住んでる黒島の大里めがけて船が近づいてきました。それでもう、いよいよ敵船が上陸かと村中大騒ぎとなりました。島民はみんな山へ逃げました。

 柴田さんに避難を勧めたところ「俺は動かない」と。彼はそこで自決するつもりだったんですね。柴田さんがそう言いますから、私も柴田さんの家の側でずっと見張ってたんですけどね。船は小型艦で砲身を島に向けていました。しばらく睨みあっていましたらね、小型艦から日章旗をパッと出したんです。艦から手旗で艀を出せっていう信号がありました。

 私は区長と一緒に艀で艦に行きましたらね、マルユの10号艇という陸軍の暁部隊の輸送潜航艇なんです。松岡中尉という艇長がいましてね、お聞きしましたら、これから沖縄作戦に行くので夜まで半舷上陸したいという要望でした。区長は「是非、上がって下さい。食料は乏しいので持参をお願いします」と言われ、それで松岡艇長と10数人が上がってきました。そこで洗濯したり、風呂へ入ったりしてました。

 その時に、沖縄が陥ちたことを知らされました。いよいよ本土決戦になると。この島も戦場になる日が近いと覚悟しました。その時、艇長に、帰りに寄れたら柴田さんだけでも内地の病院に入れて上げてくださいと頼みました。艇長は、これから沖縄へ行くので約束はできないという返事でしたが、帰れたら寄りましょうと、船にあった医薬品とか食料を柴田さんに少し置いていきましてね。その夜、出航して行きました。8月の半ば過ぎにならないと帰れないとも言われました。
 
 そうしましたら7月30日早朝、同じ船が黒鳥に向かって来ました。ああ、これはこの前の艇だという事で安心して、すぐ伝馬船を出して行きましたら、作戦が終わって無事に帰って来れた、ついては船のスペースがあるから、ここにいる搭乗員全員を救出すると。片泊にいた中村憲太郎さんにすぐ連絡しました。柴田さんは担架に乗せて5人艇に乗って、暁部隊の基地である長崎県の口之津へ上陸しました。その時は複雑な思いだったですね、島民に対して。これから戦場になるというその島に、島民を残して逃げて行くようで、それまで受けた恩がありますでしょ。非常に辛かったですけどね。

 帰ったら本土決戦があることは分かっていても、内地に帰れるという嬉しさが出ちゃうんですよね。7月30日に島を離れましたけど、後で聞きましたら、島民はその日から、みんな山ごもりしたといいますね。黒鳥が終戦を知ったのは昭和20年11月なんです。というのは終戦になっても内地から船は来ないでしょ。11月に初めて復員兵を乗せた船が黒島に帰ってきて知ったんですね。膵でみんな迎えに行ったんですけど、復員兵がたくさん乗って帰ってきたので日本が勝ったと思って、みんな万歳したそうですよ。そしたら、敗戦を告げられたということでね。だから、黒島の住民が敗戦を告げられたのは11月なんです。

編集者
投稿日時: 2012-2-28 8:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その17

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆黒鳥での生活

 --------黒鳥に不時着して、原隊に連絡しなければならないと思うのですが、そういう手段はあったのですか?

 江名‥軍隊もいませんし、警察もいません。ラジオもありません。何にもないんですよ。そういう島でしたからね。島民は500名で食料も窮乏していました。

 --------とりあえずそこに、じっとしているしかないと。

 江名‥毎朝10時頃になりますと、米軍機の大編隊が何百機と黒鳥の上空を掠めましてね、九州地区を爆撃に行くんです。それで、4、5時間たちますと、その大編隊がまた返ってきて、黒島上空で編隊を組み直していくんです。

 日本の特攻のルートも三つほどあり、トカラ列島の列島線を通っていく、これは一番デンジャラスなんですね。敵の遊撃機が待ち構えておりました。そこで東か西へコースを振るんですよね。陸軍の知覧・万世は、みんな黒島の上を通っているんです。海軍でも、串良と指宿海軍航空隊が黒鳥経由で沖縄に向かいました。

 やっぱりナヴイゲータtがいないと、海上を通って行きますでしょ。陸軍の場合、だから誘導機がいましてね。それで連れて行くわけですけど。そうしますと比較的、敵の遊撃機にぶつかることが少ないであろうということで、そのコースを選んでるんですけど。まあ、向こうは電探が優れていますからね、どっちに飛んでも見つけられたと思うんですけどね。

 --------そうすると、B-29が飛んできたり、特攻隊が通過したりと。

 江名‥B-29は飛んできませんけど、グラマンとかシコルスキーの戦闘機ですね。それに艦爆、艦攻、それから重爆の大編隊が毎日のように来るわけです。その時、イタズラして黒島に機銃掃射していく戦聞機がありました。黒鳥の住民は、昼間は何もできませんでした。黒鳥も戦場だったんですよ。

 --------黒島ではどんな生活だったんですか?

 江名‥私達の前に、陸軍の柴田少尉という方が不時着していました。柴田さんは4月13日に不時着して火傷で瀕死の重傷を負っていたんです。柴田さんは先任ですからね。打ち合わせをして、とにかく島の防衛をしろと。俺は動けないから島の防衛は頼むと言われました。敵の飛行機が見えたら、必ず身を隠すとかですね。敵が上陸してきたらどうするかという問題を部落の長老を交えて打ち合わせしました。山にとにかく住民は隠れるということで。その場合に、先任の柴田少尉は、軍人と一般人と一緒にいた方が良いか、それを君、考えろと。一緒にいると、迷惑かけるんじゃないかということもあるわけなんです。だから、軍人と一般人は一緒にいない方が良いのではないかということになりました。

 --------江名さんのペア、部下にはどんな指示を出していたのですか?

 江名‥敵機が来た場合はね、とにかく避難するとか、身を隠せとか。部落が2つあるんです。そっちの部落に桜井兵曹と前田兵曹を行かせて防衛に当たらせました。空襲のない時は、2人は農作業を手伝いました。食料がないでしょ。だから芋を植えたり、それから山へ行ってカズラの根をとって、それを天ぷらにして食べてましたけどね。そういう食料増産のために手伝ったり、海に行って夜釣りして魚を釣ってきたり。昼間は釣れないんです。危ないから。そういった事を、部下達はやっていました。私はやらなかったです。柴田さんの看護もありましたしね。側にいると、彼も非常に気強いんでしょうね。それでまた彼は、いろいろ私に指示をしましてね、だから非常にそういう点では上手くいきましたし、島民の方にも喜ばれたと思います。
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