@





       
ENGLISH
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
メイン
   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第2回)
投稿するにはまず登録を

スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | 下へ
投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2012-2-7 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その35

 中村 真(飛行第九五戦隊・陸軍曹長)軍歴

 1923年(大正12年)3月

  福島県郡山市で生まれる。

 1941年(昭和16年)3月

  逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所入所。

 1942年(昭和17年)3月

  同所卒業。

               5月
 
  飛行第二戦隊入隊。岐阜陸軍飛行学校派遣。

               10月

  同校卒業。下士官候補者課程修業。

               11月

  任陸軍伍長。
  飛行第一〇五戦隊配属(浜松)。

 1943年(昭和18年)5月

  教導飛行第九五戦隊配属(満州国鎮東)。

               11月

  任陸軍軍曹。

 1944年(昭和19年)11月

  出戦命令により飛行第九五戦隊と改称。

               12月

  任陸軍曹長(特攻出撃により)。
  陸軍特別攻撃隊菊水隊二番機正操縦員として出撃。

 1946年(昭和21年)12月

  故陸軍少尉任官・功四級勲六等旭日章授与内定通知あるも生還のため取り消し。


編集者
投稿日時: 2012-2-6 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その34

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆若い人たちに伝えたいこと

 --------書かれたご本にも、おじいちゃんが孫に伝えるみたいな形式で書かれているんですけれど、我々若者に対して、これだけは伝えておきたいとか、これだけは忘れないで欲しいとか、そうい
う思いはありますか?

 中村‥うん。だからやっぱり、人間は無理をしないで生きていくつてことに、徹底した方が良いと思うね。さっきも言ったように、時代の流れの渦巻きの中に生まれた人間は、その宿命としてその時代に果たさなくちゃいけない、若者としてやらなくちゃなんないことが必ずある。兵隊が必要なら兵隊をやると。渦巻きから逃れた時代に生まれた人たちは、今もその時代だけど…いかにも平穏だ。ところがここに北朝鮮がボンとミサイルを撃ち込んできたら、たちまち時代の渦巻きが大きくなって、若い者は銃を取って戦う立場にならないとも限らない。あるいは、日本が核兵器で武装するというような状況にならないとも限らない。だから、その時代時代の流れに逆らわないで、その運命のままに生きていくというような生き方がいいよと。無理をして逆らうなと。無理した奴は、あんまり良い結果に終わってないから…。

 --------今仰ったように、北朝鮮問題などがクローズアップされて、改めて戦争が話題になったりしますが、中村さん自身が激しい戦争体験をされて振り返り、改めて戦争とは何でしょうか?

 中村‥戦争についてはいろいろ言われているけれど、結局、国と国との外交の手段の末端、外交が破綻した状況で始まるのが戦争であろうと思うので、政治家を選ぶ場合には、戦争に国の進路を持っていくような政治家を選んではダメだね。その代わり、もしどうしても戦争になるという形になったら、これはもう全国民を挙げて戦争に参加して絶対に勝たなくちゃいけない。戦争になったら食うか食われるかだよ。だから戦争になるような状況を迎えるような政治家を選んではダメだということが根本だね。戦争というのは国益を巡る究極の外交手段ということだから、国益を損なわず戦争にならないような外交をする政治家を選ぶということ。でも、そのときの雰囲気によっては、何とも言えないよなあ…。日本が国際連盟を脱退したときに松岡洋介外務大臣が、イガクリ頭をバッと振り立てて、国際連盟の会場を大手を振って歩いて、堂々と「国際連盟脱退」と言ったときは、もう日本国民は拍手大喝采。

 「よくぞ松岡、偉いな、よくやった!」というような雰囲気が誰からの押し付けでもなく国民全体にあったからね。それが結局、日独伊三国軍事同盟になり、戦争突入したからこそ今現在があるわけだから。その時代時代の風潮もあるからね。一概に「戦争はこうだ」とは言えないけれども、その時代に相応しいことを生きてゆく生き方がいいよと私は言いたいですね。そんなとこだな(笑)。

 --------今日は貴重なお話をありがとうございました。(……了……)

編集者
投稿日時: 2012-2-5 7:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その33

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(4)

 --------特攻とかいろいろ戦争体験があるんですけども、そういうことを周囲に語れるようになったのも、戦後しばらくしてからでしょうか?

 中村‥なるべくね、忘れたいとは思ってましたよ。私の戦争体験のことで、秦さんが警視庁に取材に来るまでは、誰にも特攻のことは話したことなかった。両親にも亡くなるまで黙っていたね。警部補になってからですよ、「中村警部補、こういう人が戦争のことで聞きたいって、インタビューに来てるぞ」っていうことで、私の部屋に来てもらって、それでいろいろ秦さんと話が始まったわけだ。そうなると話をするのにいろいろ思い出さなくちゃなんないわけだ。ところが、当時のことを確かめようと思っても、みんな死んじゃってるから、確かめる相手がどこにもいない。

 他に生き残ったのでは、出納軍曹っていうのが大分県にいたけれども、帰ってから山本という家に養子に行って、ポコツと死んじゃったんだね。出納軍曹は編隊長機の通信士で少年飛行兵。だから戦後よく顔を合わせて話をしたんだけれど、最後に中隊長 (丸山大尉) はどうして亡くなったの?って話を聞いても、どうも要領を得なくてはっきりしないんで、現地で捕虜になって「お助けください」って降参したのかなあ。そんで死んだのかなあなんて思うんだけど。でもそう思うのはちょっと失礼だもんね。本当のところは分かんないんだから。出納軍曹本人も言わないんだもんな。

 隊長機が不時着して乗員が海に投げ出されたっていうことが書いてある本もあるし、海岸に不時着してゲリラと丸山大尉とみんなとの間でピストルで撃ち合いになって、それで戦死して自分は捕虜になったと書いてある本もあるし。その辺りがはっきりしない。何か思い出しながら書いていても、あれはどうだったかねって、確かめる人がいないんだもん、誰も…。

 今、第五飛行団会の世話人は、私と大原申造というのと松田功っていうのと3人でやっているけど、特別操縦見習士官だったり陸軍士官学校57期生だったり戦場には行ってないんです。だから留守隊で基地に残っていた人たちが、第五飛行団会っていうのを作ったんですね。第五飛行団会も松田さんっていう人が、戦後は全日空に勤めていたのかな、それで田中角栄の贈収賄事件でロッキード社からお金を貰ったじゃない。それの証人として国会喚問を受けた松田さんっていう人だ。ロッキード事件が終わってから松田さんが呑龍で死んだ人を慰めるのに何か作ろうじゃないかと発案をして、島根県の山奥からお地蔵さんを探して来て、北条時宗の建てた北鎌倉で有名な円覚寺、あそこの閻魔堂の前に《呑龍地蔵大菩薩》として置いてあるんですよ。毎年9月にお祭りをやっています。

 --------中村さんも、そのお祭りに参加されているのでしょうか?

 中村‥私は世話人だから毎回参加しています。みんなよりちょっと年下になっちゃってるんで、連絡から通知から名簿作りから何から、全部こっちがやらないといけないんで…でも去年で終わりだね、年に1回やってたんだけど、もうくたびれたよ(笑)。

編集者
投稿日時: 2012-2-4 8:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その32

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(3)

 --------今思えば、援護の戦闘機もなく重爆だけで特攻だと命令され、敵艦の位置確認さえろくにしていないのに真昼間から突っ込まされて、…そんな命令をする軍上層部に対して怒りが込み上げると言いますか、何か思われることはありましたでしょうか?

 中村‥これはもう怒りを通り越して、なんて拙劣で下手な戦争指導者たちだったんだろうと…。戦後いろいろ本を読んでみると、まあ一番の元凶は軍司令官の富永恭次陸軍中将のようですね。最初我々には60機の援護戦闘機が付くという情報で飛んでったでしょ。行ったら1機も見えないんだもん。ある本によれば3機来たとか、そんなことを書いてあります。私が見たのは軍偵1機。こうして見たら軍偵が飛んでるんですよ。「あれが、戦果確認機かなあ?」なんて思ったけど、それがいつの間にかいなくなっちゃったし…。そのときには怒りを感じることはありませんでしたよ。後になって考えるとね、なんて下手くそな戦争のやり方なんだろうと思います。

 敵の船が1隻もいないということについても、歴史学者の秦郁彦さんの調査では、12月13日にミンダナオ海を埋め尽くすほどの軍艦・輸送船・その他が集まったと。ネグロス島を越えて、海軍の特攻機が2機か3機、ナッシュビルという旗艦に突入して大損害を与えて司令官が替わった、っていうんでしょ。その新しい司令官がコースを変更したことが原因で、日本軍が大船団を見失ったということなんですけどね。ある本では日本軍は183機の特攻機を出したけど、輸送船団を発見できないまま、ほとんどが撃墜されたと書いてある。ネグロス島なのかパナイ島なのか上陸地点がはっきりしない輸送船団を、アメリカ軍がこっちの別な島に上陸するように見せかけたっていうんだけど……そういった細かい点は当時の私には分かりません。それで結局、敵の輸送船団はその翌日ミンドロ島に上陸します。だから、あの付近にいたことは間違いない。ネグロス島だとかスール海だとかね。だけれども1隻も見つけられなかった…。

 捕虜収容所で一緒だった海軍の士官候補生が、日本に帰って来てから調べてくれたんですが、海軍もあのとき我々と同じ目標に対して、特攻機そのほか約40機を出撃させたんだけれども、結局、敵の輸送船団は発見できなかったそうです。そしたらマニラの上空で、敵の戦闘機群と特攻機群が遭遇したという記録が海軍に残っているそうです。あれについては日本軍の特攻機183機と書いてありましたがね。飛び出したけど大半が撃墜されたと。その中に我々菊水隊の9機も入っているんだろうと思いますね。まあ我々の方でも、特別攻撃隊というものの存在について、ほとんど事前に知識はなかったから。ただ《体当たり》だと。普通、そんな特別に爆弾を抱えて直接体当たりするようなことをしなくても、大暴れして弾尽き矢折れ…(笑)、もうどうしようもなくなれば自爆ると、敵の陣地に突っ込むというのは、これは昔から特別攻撃隊なんて言わなくても、空軍の兵士の最期の死に方としては、それが当たり前だったんですよ。それを特別攻撃隊というような形でもう…。私らは3000時間くらい乗っているわけだから中堅パイロットでしょ。後の沖縄戦の頃の特攻隊員のように、飛行時間も少ないのにブーツと離陸すればあとは体当たり、では戦争になりませんよ。やり方としては一番ダメな末期的症状でしょうね…。
編集者
投稿日時: 2012-2-3 7:28
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その31

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(2)

 --------軍用機に乗って戦死された方は、何万人もいらっしゃると思うのですが、特に特攻で亡くなった方に対して、中村さんご自身の体験から特別な想いはあるのでしょうか?

 中村‥それが特攻であろうと普通の死に方であろうと、戦争であるとか災害だとか、歴史の大きな流れの中の渦巻きのようなもんで、ある時代に生まれ合わせた人間の宿命だと思っています。これは個人ではどうしようもない。いくら人間が騒いでも防ぎようもない。ま、特攻ということについて言うなれば、もうちょっと生き残って帰った奴らを丁重に扱うべきだと思いますよ。私なんか帰ってきたら「感状、上聞に達しているから、お前のはお詫び言上だ!」ってなことを復員官が言うわけですよ。「感状、上聞に達しているからどうだって…てめえが勝手にやったことじゃないか!」ってね。こっちがお願いして頼んだわけでも何でもないのに、お詫び言上だとは何事だ!つて、ねぇ! (笑) そういう扱いでしたよ。これ、私の葬式のときの弔辞ですけど (資料を出して)、この師団とか連隊だとかで慰霊祭をやったときの紙ですよ。このお粗末さ、見てください!(笑)それがね、ま、何百人も特攻で死んだから「当時としては良い紙使っているんじゃないですか?」なんて…ガリ版刷りですからね。

 --------たしかにそうですね。やっとの思いで命賭けて戦って、こんな紙ベラベラで帰ってくるかと思うと…。

 中村‥これもう現物の文字が劣化して消えちゃうから、コピーとってあるんだけど(笑)、現物も残しておかないとね。

 --------でも、特攻で亡くなったと思っていたのに、戦後生きて帰って来て、ご家族もビックリされたでしょうね。

 中村‥そうだねえ。あの、いつ帰るとも何とも音信がねぇ。で、帰って来てから戦死公報を持って、第二復員局に出頭しろなんて…そんな通知が来て、もう死んだことになっているから、戸籍はなくなっているしね。死亡通知取り消しなんてね、筒単なハガキ1枚がちょこんと来るだけでしょ。その扱いをもう少し丁寧にね…。生命を捨てて戦う精神こそが立派であって、死んだ生きたというのは、あくまでも結果だからね。




編集者
投稿日時: 2012-1-31 7:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その30

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(1)

  --------中村さんはオーストラリアの捕虜収容所で終戦を迎えられたことになるのですが、そのときの心境は今思い起こすといかがでしたでしょうか?

 中村‥終戦のときは収容所で「日本が負けた」っていう情報だけですからね。"ジャパン・サレンダー〟 の見出しが出てる新聞を持ってきたオーストラリアの兵隊が喜んでいてね、「サレンダーつて何だ?」 って聞いたら「無条件降伏だ」なんて感じでしたよ。日本が負ける気はしていたんですよ、本当はね。フィリピンで捕虜になって「俺が墜落するようじゃ、これは日本は負けるな」と、そう思っていましたね。それから今度はアメリカ軍に連れられて、ホーランジャやオーストラリアの捕虜収容所や飛行場なんかに着陸してみると、もう凄い物量だもんね。日本じゃちょっと考えられないような、たくさんの物資が敵さんにはワイワイある。それでも、アメリカの雑誌で『ライフ』っていう雑誌があってね、オーストラリアの兵隊がそれ見ながら「うん、こうだこうだ」って話してるんだけど、最初の頃は紙が厚かったんですよ。それがだんだん捕虜生活の終わりの頃になってきたら、その兵隊が持ってくる『ライフ』が紙がうんと薄くなってきた。だから「あ!これは敵も物資がちょっと不足してきてるんじゃないのか」って。「よし!俺もうんと飯を食らって、敵の糧秣を減らしてやろう!」ってなことを言ったことがありましたよ(笑)。

 --------昭和16年に戦陣訓という訓令が示達されて、捕虜のことについてもいろいろ書かれていたりするんですけれども、やっぱり捕虜になったことについて中村さんにとっての特別な思いは、今でもあるのでしょうか?

 中村‥たしかに今も心のどこかに引っ掛かっているね。だから無理に天皇陛下が終戦の詔勅(玉音放送)なんていうのをラジオで放送して、敵に降参してるんだと全軍に公布したんです。日本国民全員が捕虜なんだと思っています。私は終戦後、32年間警察官をやっていましたが、昭和27年の条約ができるまでは、全部GHQの指令で警察も動くわけですよ。丸の内の交差点で進駐軍の憲兵(MP)と一緒になって、笛でピッピーツなんて手振りで踊るような交通整理もやりました。

 --------他の戦争体験された方の話を伺うと、例えば特攻隊にいた方とか、シベリアで抑留された方が日本に帰ってきてから、特攻隊に前にいたっていうのが判ると「あいつ、特攻崩れだから」って嫌がられたり、シベリア帰りだと分かると「あいつ、アカだから」っていう風で、すごく虐めらたとか、それが判ると仕事をクビなったりして、そういうことは絶対に人に言えなかったっていう話は、よく聞きますけど…それは、やっぱり分かるって気がしますでしょうか?

 中村‥まあ、そうだね。私は司法保護団体の伯父のところに行って、1年か2年くらい勤めたのかな。すると少年審判所の所長が視察に来て、私の伯父に「あなたのところの職員には、非常に目つきの悪い男が一人いる」と言うことを、伯父に言ったそうです。そしたら伯父がね、「ああ、あれは私の甥で、空軍の飛行機乗りで、特攻隊上がりだから目つきも悪いんだろうから、それは心配ないから」というようなことを言ったって、伯父が言ってました。特攻崩れじゃなくても、そういう態度があったのかも分からないね。「野郎、どうにでも来やがれー」っていうようなね。オーストラリアから内地へ帰る途中の引き揚げ船の連中が、ろくに食料を出さず横流ししているのを知って、これはおかしいとみんなで一斉に蜂起し、引き揚げ船を分捕ってオーストラリアから積んだ米を全部食ってしまった。あれは一番気持ち良かったね!そしたら大阪商船に勤めていた奴が文句言ってきたよ。それで、第二台海丸っていう引き揚げ船で支給するものをネコババしていい思いした事実があるかどうか調べさせてくれなんて言って来たよ。「おう、調べてくれ」って言ったの。とんでもない野郎がいやがるから(笑)。
編集者
投稿日時: 2012-1-30 7:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その29

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆土民に救助されそのまま捕虜に(2)

 --------銃殺にならなくて良かったですね。奥の屯所に連行されたのは中村さん一人だったのでしょうか?

 中村‥そこにはその日のうちに海軍の偵察機の2人、翌日になって私らの隊長機の通信士だった出納軍曹、陸軍の偵察機の2人、歩兵の上等兵が1人と、次々と連行されて来た。あと以前からこの屯所にいた陸軍の液冷戦闘機(編者注・三式戦闘機「飛燕」と思われる)乗りだったという男、合計8人くらい、捕虜になったのがあちこちからその晩集められた。みんな不時着や偵察に出て捕まったそうだ。

 陸軍の偵察機の2人のうち、偵察員が尋問で話が合わないという理由で銃殺されてしまった。彼は背丈の大きいキリッとしたハンサムな顔立ちだったが、不時着のショックで顔面を打ったらしく、両眼が真っ赤に充血していたな。奥の屯所に連行されなかった河井や足立もそうだけど、どうやら負傷している捕虜は殺してしまうようだった。それっきり河井と足立の姿を見ていないんだ。後で奥の屯所に来た海軍の操縦士の話では、河井と足立らしき二人がゲリラに連れられて、ゲリラの一人は銃、ゲリラの一人はスコップを担いで、一緒にどこかへ行ったのを見たというんだね。オーストラリアの捕虜収容所で、レイテ島付近のアメリカ軍の野戦病院に収容されてた奴とかから情報を集めてみたけど、そういう者は居なかったということだった。2人はケガをしていたので、やはり処刑されたのかなと思うね。

 奥の屯所には2週間くらいはいたと思うね。出撃が14日で、クリスマスのお祝いをゲリラたちがやっていたから、10日以上は経っていたはずだ。日中はなんということもなかったけど、夜になって眠るときには、逃亡しないようにニッパハウスの竹床の上に、バンザイをした形で手足を丸太ん棒に足首と手首を縛り付けられ、仰向けに寝かされたね。ここでも不寝番が自動小銃を持って見張っていたよ。夜中に小便がしたくなったら、不寝番に向かって大声で「ションベン!」と叫ぶと、私のチンポコを引っ張り出し、大の字になっている体を裏返してくれるので、竹床の隙間から床下に用を足すんだ。下は砂地なのできれいに吸い取ってしまう。そのときは「今度ここへ来たら、絶対爆撃してやるぞ!」と(笑)、そういうふうに思ったね。風呂はすぐそばを流れる川で水浴びをしてた。川の水は茶色できれいな水ではなかったし、ワニがいるとゲリラが言ってたよ。川岸の木の枝には大きなトカゲがとまっていた。

 ゲリラの兵隊は、いつも裸足なんだよ。背が小さくて訓練っていうと竹の筒ですよ。このくらいの(手振りで)小銃の長さくらいの竹の筒を持ってね、こっちにゲリラの下士官がいて英語で号令をかけると、バッハッ!と竹の筒を担いで下ろしたりね。行進するのも、みんな裸足だから。そういうゲリラ兵だったから、私らと仲良くなるのも早かったですよ。下士官が小屋の中からその土民を集めて、「マン!エクササイズ!ワン・ツウ・スリー・フォー!ワン・ツー・スリー・フォーー」なんてやって、こっちも一緒になって体操やったり(笑)、そんなことをやって過ごしていました。

 私らはもう今日は何日なのか、今は何時なのかなどはどうでもよくなったていたね、いつ死ぬか分からない身であれば、死ぬまで生きてやろうというところだ。ゲリラや土民たちとも仲良しになり、彼らも私らの頭髪を刈ってくれたり、ガラスの破片でヒゲを剃ってくれたりしました。海岸に出て、この島(ネグロス島)の多分バコラドの友軍基地を爆撃に行くらしいアメリカ軍のコンソリ爆撃機(B-24) の大編隊を一緒に眺めたりしていました。

 --------〝フィリピン人は敵″という意識がなかったってことですね。

 中村‥そうです。だいたい我々がフィリピン人と戦っているという意識は最初からないんだから。本当の敵はアメリカだしね。だからそんなことで、ただ助かったっていう意識は、ホントないよね。オーストラリアの捕虜収容所に行ってもそうでしたね。助かったという意識はなかった。その前にホーランジャ(現在、西部ニューギニアのジャヤプラ)の捕虜収容所にいたんだけど、そこは大規模なもんで、ジャングルを切り開いて有刺鉄線の柵を張り巡らせた中に、大きなニッパハウスが幾棟も建てられていて、真っ黒に日焼けした日本軍捕虜が、元気な者もそうでない者もウジャウジャといたよ。こんなに大勢の捕虜がいたこと自体が驚きだったけど、その連中が元気に飯を炊いたりしているのを見て二度びっくりだったね。だいたい、日本軍には戦陣訓(せんじんくん)っていうのがあって、"生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ″っていうことが書いてあったでしょ。有り難きご託宣だけど、そんなものクソ喰らえ!のバイタリティだよ。戦陣訓だけなんだよね、何かこう派手にクローズアップされて、いろんなことが語られているのは…。
編集者
投稿日時: 2012-1-29 8:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その28

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆土民に救助されそのまま捕虜に(1)

 --------救助だと思って安心していたら敵に捕まってしまったんですね。

 中村‥そうです。私を乗せたカヌーは少し大きい親船のところへ着きましたが、親船の帆柱には、私を見捨てて泳ぎ去った河合と足立が、首に縄をつけられて帆柱に縛り付けられていましたよ。「何だこれは、大変なことになっちゃったね」なんて…。でも相手はフィリピン人だから、まだ捕虜になったって感じは全然しない。フィリピンと戦争しているつもりはなかったからね、我々は。アメリカ軍と戦ってるんだよ。場所がフィリピンだっていうことだけで、フィリピン人と戦ったという意識はないですよ。

 --------ケガはしなかったのですか?

 中村‥島に着いてから3人は別々に海岸の太いヤシの木に縛り付けられました。そこで河井が左肘を骨が飛び出すほどの負傷をし、足立は右膝を打って脚が曲がらないようなケガをしていることが分かったけど、2人ともそんな身体でよくまあ泳いで来たものだと感心したね。私は顔の右側にガラスの破片でかすり傷をしていたのと、右脇腹に十円玉くらいの大きさの火傷を負っていたが、他にケガはどこにもなかったね。

 あまりの環境の変化にボヤッとしていたら、アメリカ軍の服を着たフィリピン人の男が、裸馬に女と2人乗りで、海岸の砂を蹴り立てて駆け付けて来た。その男は抗日ゲリラの将校らしく、私らを捕まえた連中と何やら話をしていたんだけど、そのうち話がついたのか、私たちは縛られて裸足のまま別の場所へ移動することになって、飛び上がるほど熱い砂浜を歩いたり、ジャングルの中に入ったりしながら長い間歩かされたんだ。途中で2カ所くらいに大きな鉄鍋が潅木の茂みに隠してあったり、中には塩味の付いた外来米が入っていて、それを手づかみで食わされたが、ゲリラの食糧なんだろうな、美味しいものではなかったね。

 海岸から少し入った岩陰にゲリラの見張り所のようなところがあって、そこへ連行された。3人はそこで初めて話をしたんだ。「どうやら捕虜になったらしいが、故郷の人に迷惑をかけないように変名しょう」と、たしか河井が言いだしたと思うんだけど、私は斎藤十郎、足立が横山道雄になったんだ。肝心の河井の変名は何だか忘れてしまったよ。

 --------いよいよ捕虜への尋問が始まるわけですね。

 中村‥しばらくしてから、見張り小屋で尋問が始まった。尋問するのは日本語の上手なフランス人形のように奇麗な白人女性だったですね。ふんどし一本の私は、ゲリラの兵隊が着用しているカーキ色の半ズボンを穿かされてから、彼女の前に連れ出された。もちろん両手は縛られたまんま、後ろには自動小銃を持ったゲリラが見張っている。彼女の前にある机には、呑龍の図面が置いてあって、それを指差しながら、「アナタノ、ヒコーキノシゴトハ、ナンデスカ?」といった調子だよ。連中は呑龍を「ヘレン」と呼んでいた。

 後で分かったことなんだけど、敵の飛行機をニックネームで呼ぶんだねぇ、それも女の名前だ。海軍の一式陸攻は「ベティ」って呼んでたね。

 私は操縦士だったと言うと、後でうるさく聞かれそうな気がしたので、「私はマシンガン、マシンガン」なんて言って機銃を撃つ仕草をして見せたんだ。でもバレてたみたいね、私が操縦士だってことは(笑)。3人の尋問が終わると、どういうわけか、河井と足立は残されて、私一人だけが奥地の屯所へ行くことになった。いい加減なことを言ったので、これは銃殺されるかもしれんぞと思っていたんだけど、逆の結果になったことを知ったのは後のことだった。もう夜になって暗くなっていたんだけど、私は自動小銃を持ったゲリラ2人に連行されて、珊瑚礁の岩をよじ登り、谷を下ってジャングルをかきわけながら奥の屯所へ向かった。ジャングルの中には、あちこちにスピーカーが取り付けられていてジャズ音楽が流れていたよ。ここが戦場なのかって思ったほどだ。余裕だよねぇ…。

 奥の屯所といっても、ちょっとした空き地とニッパハウス(熱帯地方のニッパ椰子の葉で屋根を葺いた家)が数棟建っているだけで、電灯が点っているわけじゃない。ガソリンを入れたマニラビールの小瓶に布を差し込んで、火をつけたのを灯りにしてるだけなんだ。そこの食堂に連れて行かれ、ゲリラの奴らに囲まれながら、ブリキの皿に盛ったジャブジャブの外来米と魚の唐揚げを食わされた。奴らも食事中だったらしいが、手の指でこう器用にまとめて口に運んでいたね。私がスプーンを要求すると、こっちを見ている連中がオーとか言って声を上げていた。後で聞いたらスプーンやフォークを使うのは将校だけだったらしいんだけど、そのときは貸してくれたよ。
編集者
投稿日時: 2012-1-28 7:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その27

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆空中戦で撃墜され海上に不時着(4)

 --------どんなふうに救助されたのでしょうか?

 中村‥パナイ湾だから落下傘につかまってプカブカ浮かんでれば、何処かの島へ流れ着くだろうぐらいに考えていたんで、どうにかなるんじゃねえかと思っていたら、ふと気が付くとフィリピン人らしき人たちが4~5隻のカヌーに乗って、海面に浮かんでいる落下傘やらいろいろなものを近くまで拾いに来ていた。落下傘は絹製品だからね。それまで全然気が付かなかったんだ、フィリピン人がそばに来てるってことは。その中の1隻が落下傘の一つにつかまっている私を見つけて寄って来た。「お~う!」っと、落下傘につかまりながら手を振ったら、乗ってる男の一人が「オウ、トモダチ!トモダチ!」なんて叫びながら手を差し延べてきた。

 フィリピン人に助けられて、友軍の基地に送り返されたというような飛行機乗りがいることは何回も聞いていたんで期待して、「オ~、サンキュウ、サンキュウ!」 とか言ってカヌーに引っ張り上げて貰ったね。彼らはいかにも好意を持っているという態度を示しながら、私の着ている飛行服がびしょ濡れだから「ノーグッドだ」と連発して脱ぐように手真似で話しかけてきた。そんでついその気になって全部脱いで、ふんどし一本になったところへ、今まで親切顔をしていた野郎が手にギラギラ光る山刀を振りかざして、ガツと襲いかかってきた。こっちは助けられてホッとしていたもんだから、虚を突かれて奴らに縛り上げられてしまった。だらしがないようだけど、長時間泳いだせいで疲れていたから抵抗する元気もなかったね。両手首を海水の染みた麻縄でギリギリ縛るんですよ。で、彼らは「カポイ、カポイー」なんて叫んで、何がカポイだと思ったら両手首をギユウギユウ縛られましたね。
編集者
投稿日時: 2012-1-27 6:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その26

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆空中戦で撃墜され海上に不時着(3)

 --------機体が吸い込まれるように海中へと沈んで、藍原少尉と中村さんはどうなったのでしょうか?

 中村‥私は機体が沈んでいったあおりで、海中へと巻き込まれてしまい、再び水面に浮かび上がったときには、すでに藍原少尉の姿は見当たらず、大声で叫んでみたけれども応答はありませんでした。海軍の飛行機乗りが着るような救命胴衣もないし…さあ飛行機が沈んじゃった、どうしようかなと思ってしばらく立ち泳ぎをしていると、沈んだ機に積んであった落下傘の塊がズポッー・ズポツー・と音を立てて勢いよく浮かび上がって来たんです。「これは、ありがたいわい」と思って、天の助けとばかりに私はその一つにつかまって、運を天にまかせてプカリブカリと漂っていました。見上げれば空は晴れて風もなく、波も静かで今まで激しい空中戦があったことなど嘘のようでしたね。敵は撃墜した後も、生存者に対して執拗に銃撃をしてくると聞いていましたが、雲一つない青空には敵機の機影すらありませんでした。「助かったな」っていうよりは「生きてるな」という感じでしたね。手袋やら何から、みんな海の中に捨てて「バイバイ」なんてセンチメンタルになって…(笑)。

 --------他には誰も生き残っていなかったのでしょうか?

 中村‥泳ぎ出してからどれくらい経ったんだか、私の浮かんでいるすぐ近くの海中から、足立伍長がイルカみたいに海面に飛び出してきたんです。てっきり河井と私以外はみんなやられてしまったと思っていたんで、びっくりして「足立-・大丈夫か?」と声をかけたんですが、何も言わずに泳いで行ってしまいました。自分だけでも助かろうという極限の人間性剥き出しの行動だったんだか、日露戦争当時の軍歌『戦友』にあるような傷付いた戦友をいたわるような物語は絵空事にすぎないのかと、何とも空しい気がしたものです。しかしながら運命とは皮肉なもので、結局私は生き残り彼らはみんな死んでしまった。パラシュートにつかまったまま、私は海水を吸って窮屈になってきた皮の手袋やお世話になった飛行帽、航空長靴などを次々に「さようなら」なんて言いながら海に沈めてセンチになってたねぇ。まあ、そのうちにどっかの島に流れ着くだろうなんて思いながら浮かんでいましたよ。
(1) 2 3 4 »
スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | トップ

投稿するにはまず登録を