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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     自分誌 鵜川道子
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編集者
投稿日時: 2009-4-22 8:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・26

 腰痛が治ると八街の畑にも行って見たくなりまず黙々と草取りに精を出し徐々に畑に種をまいた。夢中になってやって又腰を痛めてはと自分に言い聞かせ乍ら鍬や鎌を手にしていると頭に思い浮かぶのは信州の地に引揚げて来た頃のことが次から次えと思い出されて今まであまり考えもしなかった父の苦労していた気持ちになった。あの頃の父の気持ちの何百分の一か分からないが、実際鍬を持って知る父の苦労であった。
 習志野から引越して来る時、庭から持って来て植えたさくらんぼの木も一時は駄目かと思った枝も知らぬ間に太くなってきていた。いつになったら花が咲き実が成るのだろうか?と思い乍ら楽しみもある。
 町の公民館ではいろいろな生活学習をやっていることもわかりいつか習ってみたいと思っていた詩吟教室に自分から申し込んでみた。何しろこれからは一日一日を無駄に過したくないと云う思いが先行した。
 職場があった頃は大勢の仲間が居たことで淋しい思いはせずにすんだことに気がつきこれから先のことを考えて新しい仲間との交流があれば楽しく老後の生活が出来そうだなどと考えてのことだ。
 京城の国民学校で確か一年生の時の授業中に清原先生から教わった詩吟はあれから五十年も経っているのに忘れられず機会があったらと考えていたような気がしたからだった。
 だいたい私は何をやるにしても人から云われず自分から求めていくタイプなのかなと思っている。民謡の先生の門をくヾったのもそうだった。そして二十年以上も先生や仲間との交流を楽しみいい思い出が沢山ある。
 仕事をし乍ら崇教真光に御縁をつないで頂いた福祉事務所時代そして民謡、私の人生になくてはならないものばかりである。それに加えてこれからの老後の人生を益々充実して行きたい為の習い事をさせて貰うと心のどこかで叫んでいるようである。詩吟教室に早速二ヶ月前に始めたと云う先輩と親しくなりその先輩は今年職場を退職した人だった。すぐに四月から習い出したばかりの人でこれからよろしくとお互いに挨拶を交わしたのだった。
 人の一生は何と早く過ぎて行くものかとこの頃ではそのスピードの速さに驚いている。その詩吟も十二年の間友人と共に楽しんでいる 娘は七年前に幼かった子供達を残し乳ガンを手おくれにして私の目の届かない世界へと旅立ってしまった。その夫は三人の子供と共に一生懸命まじめに働く人である。二人の孫はそれぞれ成人し二十三才と二十一才になった。一番末の孫娘も今年は高校を卒業するので側で見ている私もようやくホッとする年代となった。
 人生とは苦労の彼方には必ず幸福が待っていてくれるものなのかと感じ乍らのこの頃である。
 長男の方にも二人の高校生と中学生が一人にぎやかに暮らしているようで知らないうちに私も七十三才の年令になっていた。人生とは自分の力だけでは本当に心細いものなのだと考える今日この頃である。

 (完)
編集者
投稿日時: 2009-4-21 9:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・25

 新小岩の崇教真光修験道場の葛和道場長より御神体の御奉戴を勧められ平成六年二月に高山の御本山にて上級研修を許されその年の五月に御神体、九月には伊津能売様の御尊像を拝受させて頂きました。
 昭和五十四年夏八月初級研修を受講、翌年三月中級研修を許され、行きついた酒々井の地に新しい住みかと共に神様が共に住んで下さるこの光栄は言葉では云い尽くすことの出来ない感動であり、御縁のすばらしさを頂いていると日々云い尽くせぬ感謝の念で一杯である。
 たヾ残念に思ったのは娘の思いにはついぞ添うことが出来ずに最後まで自分の意志を通して平成八年三月江戸川区役所を退職したのである。昭和四十八年から二十三年間、公務員としてのヘルパーを務め上げられたことが何よりも嬉しく仕事によって得られたさまざまの思いをこれからの生活に自分流に生かして、みのり豊かな人生を送って行かれたら最高だと思っている。
 しかし娘と共に同居した二年間は正直云って、私の気持ちが娘に伝わらず強引に私が自分の意志を押し通したように思われ批判をされたことである。
 この時ほど親の気持ちが通じない親子であったと残念に感じたことはなかった。道路を隔てて別々の向き合った玄関を、異った時間に出入りすることにより話も交わすことも少なくなって来るといよいよ淋しい親子になってしまった様な錯覚になる事もしばしばあった。
 退職の<第>一日目から日誌をつけることを心に誓い実行してみようと考えた。学生時代も結婚後も何度か試みて長くは続かなかったことであるが今度こそ我が人生を振り返る最もよい手段を、と考えてのことである。殆どの時間を仕事に追われていたがこの二十年間で楽しい思い出に残る時間も十分に自分のものとしたことである。心の安定を得る為の手段として知人の所に行き生花を教えて頂いたり勤務先の近くに民謡を習いに行き多くの友人達と共に先生を中心に楽しい時間を持つことが出来充分なストレス解消にもなったようである。
 それによって私の心の中はいつも明るく少々の辛さや淋しさにも耐え得る力が充分発揮出来ていたのかも知れない。
 十五年四ヶ月飼っていた愛犬チーコは退職する一年前の六月に老衰により私の手許から去って行った。元気がなくなった前日の夜の姿のまヽ朝には亡くなっていたのは何んとも悲しかった。ダンボール箱の中に入れ買って来た花で体中を埋め孫の裕紀恵に見せた後畑に運んで桜んぼの木の下に墓を造った。桜んぼの実がつく頃、必ず思い出させて貰おうと云う思いもあってのことである。どんなに私の為になってくれたことであろうか?。今でもあの愛くるしい黒い瞳を忘れることが出来ない。
 孫の智章(ちあき:ルビ)にはきっと私の心の中が見えたのだろうか!その年の十月頃「おばあちゃんが淋しがっているから子犬を貰って来たから見てよ」と云って来た。私を思う、やさしい男の子である。智章の父親は私に「お母さんが嫌なら返して来るように云ってあるから無理をすることはない 今のうちに返すように」と云われたが子犬の顔を見た途端、あまり考えることもなく茶色と白の毛の色に合わせて「チロ」と呼んでしまった。孫も一緒になって喜んでくれた。 
 まだ退職するには半年の間があったので留守の我が家は庭の片隅に子犬が一匹では可愛想なので孫が面倒を見てくれることになった。半年の間に見違える位成長が早く力も付いてきて引張られることもあり少々不安だったので小さい女の子の二人の孫は全然役に立たなくなってしまっていた。
 以前我が家で飼っていたチーコの様子とは違いしっかり躾けなければと思うようになった。と云うのは退職し<第>一日目に飛びつかれ後に転び尻餅をついてしまったのである。
 それによってギックリ腰の状態になってしまった。ギックリ腰は今迄に何度も経験したとは云え叔母の勧めで通院することになった。一寸した気のゆるみで大変不自由な生活を強いられることになってしまうが今までの体の疲れも一度に出てしまったのかとも思われたので心も体も休める時なのかと半ばあきらめの心境で日々を過していた。
 退職後は今までのヘルパーの仕事を町のために生かして行こうと思い社会福祉協議会に申し込みをしていたのだが、何とお呼びがかからなかったのが幸いと気持ちを一八〇度転換し今まで出来なかった様々なことに挑戦してきるつもりになったのは翌年の六月からであった。
編集者
投稿日時: 2009-4-20 8:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・24
 
 以来仕事の上でも何不自由なく、心から感謝し目が見える喜びを味わっているその頃も主人は相変らず病院生活を続けていたが、若い頃からの糖尿病が年令と共に体を虫ばんでいた様である。医師より病院での食事制限も出来る様になっていた。
 娘の家族と同居するようになったことを告げると孫を見たい気持ちが強くなったのか外泊したいと云う。本人の気持ちと娘夫婦の勧めが重なって時々医師の許可をお願いする外泊の回数は増えていた。
 しかし私の退職までの時期が残っていて主人の一切の面倒を見ることは出来ないと云うことで退院をさせる迄には至らなかった。
 とに角、最後まで自分の仕事を全うさせたいと強く考えていたので中途で退職する様なことは考えていなかったのだ。
 一方娘は三人の小さい子供をかヽえて家事に専念しているかに見えたのだったがそのストレスを私にぶつける様になっていた。
 娘婿は家族を思い、なりふりかまわず一生懸命働くタイプの男で私の夫とは正反対の人であり全く安心して見ていることの出来る生活を営んでいたので何も云うことはなかった。
 娘家族と一緒に生活することを念頭に置いて何とかお互いに気持ちよく生活をするには家も娘婿と二人の名義にし建築費も1/2づヽ負担することにしたのだった、が同居生活は丁度二年間しか続かなかった。
 その頃、すぐ目の前に住んで居た人が一家五人の家としては狭いと云うのを理由に手頃な家が見つかったのですぐにでも家を売りたいと云っていると娘が近所のうわさを聞いて来たのだ。
 仕事から帰って来ると娘はしきりに、そんな話を持ちかけて来るようになった 「なんでわたしがもう一軒家を買わなきゃならないの?」と初めのうちは娘の云うことなど真剣に聞いてもいなかったのだが、ある日その家の広告が新聞の折込に入って来たのを娘より見せられ「買い手がまかなか見つからず安くなったらしいからお母さん買ったら?」と云う。「住んでる所があるのにどうして私が?いよいよ追い出すつもりなの?」と自分の口から予期しない言葉が飛び出したのだった。
 その言葉によって自分でも以外にもこれから先の人生を真剣に考えれば同居よりは夫婦単位の生活の方が我がままな親子家族の為にはトラブルも少なくいいに決まっていると云う声がしきりと頭のどこかから聞こえて来るのだった。習志野の家を売った意味がそれとなく合点がゆき残金の全額を頭金として入れ残りはローン契約をした。
 築六年の中古住宅だが家を大事に扱っていた前の住人のお蔭で壁紙を張り替えると気分も新しい家に入ったような喜びに浸ることが出来た。若い頃、家で泣いた人生は全くの神様から与えられた段階的な試練でありこれから住まわせて頂けるこの家も間違いなく神様のおぼし召しとしか云い表わすことの出来ない家なのだと心に感じること一しおであった。
編集者
投稿日時: 2009-4-19 7:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・23

 娘夫婦が幸せな結婚生活が出来て孫達の可愛い顔を毎日眺め乍らの生活が出来ればいいのではないかと自分に言い聞かせ乍らまだまだ残っている仕事の為に朝早く酒々井から江戸川えと通勤する日々が続いていた。
 習志野から通勤している頃とは大分違って時間的な問題を意識せざるを得なかったがどんなに忙がしくても愛犬チーコの朝の散歩、食事や化粧の時間、入浴や通勤の身支度などと毎朝限られた時間の中で全てをこなし京成酒々井の駅までバイクを走らせるのである。駐車場にバイクを置いて七時〇八分の電車に乗り 佐倉で特急に乗り替える。船橋で下車する迄三十五分位は快よく睡眠をとるのである。
 朝の入浴は私の唯一の健康法で夏は大変さわやかで冬は一日体が温まって一日中気持ちよく送れることが嬉しかった。家からバイクで走るのだが朝の入浴のお蔭で一日のやる気を充分に起させてくれ仕事が楽しく仲間とのコミュニケーションを大切に出来る元になっていた様な気がしていた。
 京成舟橋駅でJRに乗り替えて新小岩で下車天気さえよければ体のことを考えて四つ目のバス停留所を尻目に江戸川区役所まで早足で歩いていた。これも私の健康には大いに役立っていたと思う。
 しかし元々眼の弱い私は五十七才で白内障の障状が表われ初めて来た。
 右目は幼い頃に視力を失っていた為、左片方だけの視力が頼みの綱であったので医師に相談、なるべく早いうちに手術をした方がよいとのこと五十八才で手術をしたのである。経過はすばらしく良好で思いがけない程快復がよく感謝な生活が戻って来た。
 幼ない頃よりコンプレックスを持って生活していた私の気持ちが一変して少しづヽ友人もふえて楽しい日々を過すことが出来るようになって行ったようだ眼帯を外した時の感動は今でも忘れることが出来ない。
編集者
投稿日時: 2009-4-18 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・22

 娘の結婚式には母も出席し喜んでくれたが孫の顔を見たのはそれから二年後であったのでひ孫を見せることは出来ず一寸残念だと思った。
 二人目は年子(としご:ルビ)で女の子の誕生であった。娘は待望の男の子と女の子の親となりその喜びようは私の目から見ても本当に頼もしい。夫婦と親子で安心して見守るだけの日々であり、私は相変わらず仕事に精を出す毎日であった、ヘルパーと云う仕事も私にとっては神様から与えられた最高の仕事のように思われ高令者とのふれ合いは一日一日が充実して出来るようになっていた。
 平成三年四月娘に二人目の女の子が出来て住んでいたマンションが狭くなり時々、相談を持ちかけられる様になっていた。娘は空気の悪い東京から離れた所に家を建てたいと希望して山と田んぼのある酒々井に土地を購入したが家はいつになったら建てられるか分からないと云うのである。丁度世の中にはバブルの時代の到来であった。江戸川区役所に入所した時に思い切って建てた習志野の家も丁度十八年のローンの支払いも完了の間際であった。
 ずっと住み続けるつもりで建てた家だったが長男も幸い家を出てアパート暮らしで自立していたこともあり行く末のことを考えてか一緒に住む方向に話が流れて行き娘の云う言葉に重きを置いて考えざるを得なくなってしまった。
 相手は五人、私は一人なので親としては、娘や孫の幸せを考えざるを得ないことに追い込まれてしまったわけである。話はどんどん進み娘は大きなお腹をかかえ建築会社に契約を依頼する。私は自分の家の整理と知り合いの建設会社に依頼して買い手を見つけて、買って貰うことにしたのだった。
 時節柄自分の希望した買売契約が成立したことは全く運が良かったと云うか神様の恩寵と云う以外にはなく平成三年の十二月の始め酒々井の地に娘の家族と共に引越し同居することになってしまった。長女には三人目の女の子が生れていた。
 初めての孫は男の子であったが生れて三ヶ月頃から顔にあせものようなブツブツが出来はじめ半年もすると真赤に腫れてかゆみが我慢出来ず小さな手で顔中をかきむしってその後は火のついたような痛みが襲ってくるのをどうすることも出来ずこれがアトピー性皮膚炎だと云うことがわかったのであった。
 普通一才位になる子供は人生の中でも最高に可愛い時期である筈なのに、このアトピーは一向に峠にたどりつかないまヽ小学四、五年生の時から学校に行けない状態になってしまったのである。本人は勿論不登校児となり、小学校高学年となってからは娘もいろいろと悩みが深くなっていた。
 私は平成八年三月末をもって二十三年間勤務した江戸川区役所を退職することになっていたので最後まで無事に勤め上げようと頑張る生活が続いていた。
編集者
投稿日時: 2009-4-17 9:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・21

 昭和五十八年長女が結婚することになり母は非常に喜んでくれた。長女の夫となった英治は娘よりも九才年上のとても人のよさそうな印象であり母も私も少しも反対することもなく理想的な結婚生活を始めていた。
 長男は、高校を卒業すると自分の道を求めて埼玉県上福岡のホンダテクニカルスクールに入学した。子供は二人とも自分の意思で自分の道を着実に探し追い求めている力強い存在であった。孫のこの様な生活の流れを見届け乍ら母は六十年の春、下の弟の家に行っている間に倒れ入院することになってしまったのだった。 何んと云うことだろうかと思い悩んだのであったが弟の嫁の徳子さんと妹の京子、そして私の三人が交替で病院の母を見舞うことが出来たのである。次男の弟の、徳子さんが母を引き取った型になり世話をかけることになったが入院の後遺症が出たのか、少し呆けが出て来たなと感じられることもあった。
 早く道子の所に帰りたいと云われることもあった。母の願いを一日も早く叶えてやりたいと希望し乍らも義妹のやさしい介護にゆだねていたことに何となく甘えてした自分が恥ずかしかった。
 兄弟が近くに居て心強く感じられ、母も喜んでくれたのは嬉しかった。長野の実家に居たらきっと淋しかったにちがいないとそんなことばっかり考える毎日であった。
 去年の六月七十七才の喜寿の祝いをした時は本当に元気で父の妹二人を交えて私達兄弟姉妹と孫達にかこまれて人生最大の幸せを感じたともれしていた母だったのに。そして八十八才の米寿の祝いを約束したあの日のことを思い返すと人の計画は何とはかない夢であろうかと母の姿を見つめざるを得ない状態であった。
 丁度その頃妹が稲毛のマンション生活から検見川に新築の家を建てていた。
 妹も母にその家を一目見せたいと思っていたのであろう、八月十二日に浦安の弟の家から検見川の新しい家を見に妹の所に来ると云うので勿論私も楽しみに行って見ると母は嬉しそうにソファーに座ってテレビを見ていた。丁度その時航空機事故で坂本九ちゃんの死亡を報じている最中であった。五百十二名の尊い命が一瞬に失われたことを知って母もどんな気持ちであっただろうか?と思う。そして一週間後の十九日母は再び倒れて入院、それから以前のように妹と義妹の徳子さんと私の三人は交替で病院の母の側で寝泊りして様子を伺って一週間、丁度長野から弟の元幸が来た日に再び弟を追いかける様にしてこの世を去っていった。
 弟は甲府の駅のマイクで呼ばれているのに気がついて再び病院に引き返しその日のうちに私と娘夫婦と息子も長野の実家に出向いて行ったのだ。母は千葉に住む我が子や孫の幸せを見届けて大安心で旅立って行ったのだと確信せざるを得なかったのである。何んとは母五十四年八月廿五日に千葉の地を踏み六十年八月二十六日に長野の父の眠る地へと帰って行ったのであった。
 その間、六年毎日幸せだったと思う。
 そう思うことで、私も母との人生最後の親と暮らせた幸せをひとり噛みしめることが出来て嬉しかった。
編集者
投稿日時: 2009-4-16 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・20

 母の体は自他共に病気の問屋と云われる様な体であったが毎日、毎朝、毎夜お互いに神様の御力を信じ真光業(わざ:ルビ)を施受光するうちに心臓病の発作も、ひどかった咳息の発作もなく便秘の苦しみからは開放され毎日血圧計で計っていた高血圧も正常値となり、うその様に体調が好転して行く姿はお互い感謝と感激に満たされ毎日の会話は喜びに満ち溢れていたのであった。
 母も自分の体調のあまりの変化に自分から進んで研修を受講することを希望して上野道場で熱心に勉強することを試みた。母七十二才の夏であった。夫昭は私にとって頼りにならない存在になってしまった。二人の子供達にとっても父親の居ない家庭に祖母と同居することが何となくプラスになると考えられる様になって、母は夜の僅かな時間ではあったが、私達の生活にも心のゆとりを感じさせてくれる存在になっていたのである。
 昭和五十五年娘も崇教真光に入信、高校を卒業して希望した東洋英和短期大学にも入学したのだった。翌年二月には父の一周忌があり弟からその旨の通知を受けたので、母と共に長野に行くことになっていた。母は寒い信州に行きたくないと駄々をこねていたのだが父の一周忌に母が居ないと云うことは許されることではないと話し合った。
 親戚一同が集まる法要を無事終えて又千葉の地に母を連れて帰宅することが出来たのである 父が亡くなって丁度一年経って母の姿を見た親戚は口々に母が元気になったと云ってくれたので私は本当に嬉しくなって千葉での母との生活が間違っていなかったと確信を持ったのだった。
 信州からの帰りに弟から小犬を貰って来た、母の為にも家に可愛い小犬を飼うことが心の慰めにもなるだろうと考えたのである四匹生まれた小犬が一匹残っているからと弟も気持ちを察してくれたのだと感謝して貰って来たのだった。
 仕事の為に留守にしがちな我が家の雰囲気も犬一匹でがらりと変わったようににぎやかになりなくてはならない家族の一員となった。犬の成長は早くてひつじの子供のような顔をしていた小犬も半年も経つとスピッツのように真白な毛のフサーとした成犬となった。
 母も一日がとても楽しく心のいやしとなっていたようであった。母が我が家の一員となりその上可愛い子犬と一緒の生活が二人の子供達も気持ちはいつもおだやかで、主人の居ない我が家であっても幸せ一杯の生活に変化して行くのがわかった。母とは毎日が感謝と喜びに溢れた生活であった。このように親子が同じ信仰に生きていることで、時々母と一緒に月始祭や月並祭そして元霊魂座に行き同じ神向仲間と交流を持つことも出来て母にとっても唯一の魂の寄り所となっているようだった。そして弟や妹も割合近い所に住んでいたことで大きい安心感があったようである。
編集者
投稿日時: 2009-4-15 7:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・19
 
 母が元気がなく膝が痛くて歩行困難であることを知った。弟も義妹も勤めの為日中家に居ない上二人の孫達も学校に行って留守。
 今まで弱い体で父に頼って生きて来た母は仏段の前で涙ばかり拭っていると聞き、これは大変なことになっていると感じた。母は若い頃から心臓病(心筋梗塞)の発作を起したり喘息持ちで夜中に激しく咳込む姿を見て中学の頃母が居なくなったらと想像し不安な気持ちで毎日を送った頃があった。
 その母が六十才を過ぎる頃から高血圧になり二八〇と言う数値に近所の医師もびっくりしたと云っていた。一時は信州大学の病院に入院した事もあって父が母の介護をしていた頃もあった。 その父に先立たれ母にとっては真に夜道の杖をもぎ取られた様なものであったと想像する。
 そして半年間、父の新盆を迎えた母のその姿を見た瞬間、私は母を千葉の地に連れて帰りたいと云う衝動にかられた。夫の昭は入院中であり相談することもないと思う気持ちと共に自分の現在のヘルパーと云う職業柄他人のお年寄りのお世話をしているのに自分のたった一人になって悲しんでいる母をこのまゝにしておくわけにいかないと云う気持ちが止めようもなく湧き上がって来るのを感じた。
 母の気持ちを確かめ弟を説得しなければならないので十日間の猶予期間を母に伝え自分の荷物をまとめて待っていて欲しいと話し合った、昭和五十五年八月二十五日は私の四十四才の誕生日でもあった。早朝出かけてその日のうちに母を連れて習志野に帰る予定であった。
 母の気持ちは充分確かめてあってので何も云うことはなかったのだが弟の猛烈な反対にあうとは考えてもみなかった。私はこの際は母の気持ちを<第>一に考欲しいと云って譲らなかった。十日間と云う余裕があったのに母は弟に相談もせず自分の考えで一途に千葉行きを決めていたのかも知れなかった。弟の言い分もわからないわけではなかったのだが、母が帰りたい時いつでも信州に帰ればいいからと半ば強引に母を連れ出すことを実行したのだった。
 かゝりつけの医師より薬も多めに貰い用意していた母は以前から父と一緒に我が家に時々来ていたのであまり心配する様子もなくお互いに話し相手となり又、浦安に住む次男の弟や稲毛のマンション住いをしていた妹の家に行ったりして孫の成長を楽しむようになった。
 出来るだけ母が行き度いと云う気持ちがあれば弟や妹達の家に連れて行くのが私の役目かな?などと思うこともあった。信州の弟からは早く帰って来るようにと私の留守中にも何度か電話があったと聞いたが「お母さんが帰りたい気持ちがあればいつでも帰ればいいけど、ここがいいと思えばお母さんの気持ち次第だよ」といつも同じ考えでいられたことは実は二人が、崇教真光と云う神様を信じつゝ生活をしていたお蔭であった。
編集者
投稿日時: 2009-4-14 9:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・18

 近所の人にも親戚の人達にも絶体に打ち明けられないと思う反面、誰かにこの気持ち分かって欲しいと何度も思った。そしてこれから先のことを考えた。 
 習志野に思い切って家を建て三年目にして<第>一回目の自殺未遂そして六年目二回目の自殺未遂をする夫、どんなにつらい事があっても子供を一人前に育てること、マイホームを自分のものにしてゆかなければならないと、主人は何もかも放棄し楽になることだけ考えて全部この私に押しつけたのかとも思えた。
 主人は三日三晩目を覚さず眠り続けた。本当に今度は駄目になってしまうのか?と思って半ば医師の言った言葉が現実になってしまうのだろうかと考えていた頃昭は目をあけた。
 何と云ったらいいのか言葉もなく涙も出てはこなかったように記憶している それから二、三日して別の病院(精神科)に転医し医師には今迄のことを話す時間もなく書面で詳細を書き記してお願いをしたのであった。
 私の覚悟はしっかり出来ていたので長々とした手紙を書き連ね、今後のこと一切おまかせしたのだった。
 昭の母は 九十才になっていた。今迄どのくらい息子のことで悩み続けて来たことだろう。
 姑は年取って十人目の末っ子として生み育てた昭のことを、自分の育て方が間違っていた為にあなたに随分苦労をさせてしまったと逢う度に詫びていた義母の気持ちを考えると結婚して二十年に見切りをつける勇気もなく来てしまったようにも思われた。
 病院には毎月入院費の支払いをする為に仕事の帰りに立ち寄っていたが主人に逢うことはしなかった。支払いを終って病院の帰り道自然と涙がこぼれこんな夫婦は他にはいないのではないだろうか?と自問自答を繰り返していた。 
 でも誰に何と云われてもいい。「自分の道は自分で歩いて行く」と決意を新たにし帰路についたのである、義母は九十一の誕生日に倒れて入院してしまった。
 昭和五十五年一月三日のことであった、私の父もこの年の二月二十五日長野の実家で入浴中帰らぬ人となった。体の弱い母を残して本当に心残りであったと思う。義母は二度ほど入院先の病院を変えたが同じ江戸川区の中であったので昼の休み時間帶に天気さえよければ義母を見舞うのが楽しみのようになった。
 ヘルパーの仕事をしていたこともあってか老人が好きだと云う気持ちが強く働いていたようだ。
 義母は逢えば「昭は?」と言い乍ら私に詫びる、そして私は嫁の立場で安心して最後を見届けて上げたいとそればかりを思うようになり「お母さん昭のことは何んにも心配しないで!私が最後までみますから」と約束をしてしまった。 
 こんな言葉を交わした次の日義母はすっかり安心したのか昭和五十五年五月十二日幽界に旅立たれたのだ。
 義姉達は義母が口に出して云わなかったが誰かに逢いたい様だった、きっと昭のことだったんじゃないか知ら」と云われた時、私も「あゝやっぱり」と思った。末っ子の我が子の行く末を案じていたのだが、私の「最後まで看るから安心してね」の言葉に今迄心配していた心が救われたのだと確心した。
編集者
投稿日時: 2009-4-13 8:06
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自分誌 鵜川道子・17

 少しづヽ体も気持ちも元に戻ってゆくにしたがいどこか働きに行きたいと思う気持ちが出て来た。 
 新聞の折込に入って来た募集を見て、食品会社に応募し運よく採用された。食品会社と云うこともあって調理師の免許を取るようにとすヽめたところその気持ちになって調理師学校に通い始めた。会社の帰りに学校で授業を受けて帰宅するのである。そして一年半思えばあの頃が主人昭にとっては今迄にない新鮮な気持ちであったにちがいない。
 そして途中で止めるようなこともなく調理師の免許を自分のものにすることが出来たので本人も何となく希望を見出すことが可能になったのではないかと妻としてはホッとしたところであった。 
 しかしそんな気持ちで過したのも束の間、仕事場ではようやく慣れた自分の居場所を配置転換されたと大変な落ち込み様であった。どうしてこんな気持ちになってしまうのだろうか?職場の中のトラブルを非常に気にしてその為に配置転換をさせられたのだと思い込む様な言葉を洩らすこともあった。
 丁度三年勤務したのだからどこの会社でもその位のことはある筈だと言っても昭は納得出来ず再び会社に行こうと云う気力が無くなっていた。
 体は人一倍大きくても気持ちの小さい主人昭にはとても悩まされ続けて来た私は無理矢理出勤を促す事も出来ず、子供はそれぞれ学校に出かけた後私はいつも通り仕事に出かけるしかなかった。
 私の仕事は区役所のヘルパーで幸い外仕事で一日一日が変化のある仕事なので家に帰る迄は主人のことも忘れて一生懸命他人の生活を援助させて頂いていたのである。
 そして長女はその頃短大に受験して幸い希望校に入学出来て非常に喜んでいたし、長男は高校二年となっていた。幼い頃からあまり私には心配をかけることもなく自分で進路を決めてアルバイトをし乍らでも着実に夢に向かって頑張っていたので、私を支えてくれるに充分な子供達であったのだ。
 昭和五十三年の十二月の初め勤務を終って帰宅し鍵を開けた途端、何と云うことであろうか・・三年前の昭和五十年の魔の一瞬が又、やって来たのだ。
 ガスの臭いが鼻をついた。三年前のこと、まだ忘れていなかったので夢中で救急車を呼び近くまで救急車を迎えに行きそっと自宅に来て欲しいとお願いした。一度ならず二度迄もこんなことをしてくれる主人の気持ちがわからず、それでも見殺しにするわけにもいかないので近くの救急病院に入院させた。
 医師も看護婦も三年前のことをよく覚えていたようで「奥さん苦労しますね!この人はよほどあの世に行きたいのでしょう」と口々に云って「今度はきっと御本人の希望通りになるかも知れませんから奥さんも覚悟していた方がいいかも知れませんよ」とつけ加えて云った。
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