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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2009-3-23 7:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・26
 亡き兄を偲んで

 小 島 鈴 子
   東京十一期 故出口修氏令妹

 私の兄、出口修は、東京十一期生です。私と兄は四才違いで、神戸で生まれました。兄が七才、私が三才の時に、母が亡くなり、祖父母、父、そして私の五人の生活で、私達は祖母に育てられました。
 幼い時から、兄は心優しくて、家族に心配かけない物わかりの良い子供だった様です。地元の高等小学校を卒業し、叔母の経営する写真館を継ぐために、そこに見習いに入りました。その頃、毎日の様に出征兵士の家族が写真を撮りに見える度に、自分も予科練に志願したいと考えていた様ですが、仲々父に言い出せず、せめて父の心配の少ないと思われる、通信兵ならばと、内緒で願書を出し、そして合格通知を見た父が、一言、「お前は幼くして母に死に別れ、私はお前に、今まで何もしてやれなかった。今お前が一番やりたい事が、通信兵志願なら頑張って見よ」と言ったと、後になってその話を叔母から聞きました。

 少年通信兵学校での生活は、兄の遺した日記でしか、私には知ることが出来ませんが、繰り上げ卒業で、帰郷した折り、父が兄のために、大阪高嶋屋で日本刀を買い求めました。母のいない兄のため、父は自分の締めていた角帯をほどいて、一針、一針、日本刀の袋を作るため、夜も寝ないで朝までかかって縫っていたのを私は憶えています。どんな思いを込めて縫っていたのか、今考えると胸がつまります。

 その父の愛を身につけて、出発していった兄、頑張って、お国のためにと送り出した父。そしてあの九州は長崎の五島列島沖で、本懐も遂げず、海の藻屑《もくず》となってしまったのではないかと思いますと、兄の口惜しさを、慰霊祭に出席する度に思い浮かべます。

 戦後五十年が経過した今日、日本が何時までも平和であるよう、二度と戦争のないよう、心から願い、又そうであるよう、声を大にして叫びたいと思います。

 (平八・四―第七号収載)


 サヨナラ電車・私の青春

 村松町  小 島 ヒサイ

 私は農家に生まれ、親は小作人《注1》、金もない貧乏暮らし。
 ある日の事、叔父が鉄道の主任でもあり、私を薦めて蒲原鉄道に入社させてくれました。
 大東亜戦争《=太平洋戦争》の真只中だったので、男の方は出征して居らず、女の運転手でした。とは言っても、なかなかなれず、一年間は毎日のように電車の油ぬり、窓ガラス拭き。顔中油にまみれ、其れは其れは口では言い表せないくらいの辛さでした。一つ一つ機械を覚え、電車の屋根に登りパンタグラフを直し、手には何時もハンマー。危険は身についていました。
 若さと勇気があり、自信は一杯あり、やがて一年間の講習も終え、試験にもパスして、手には白い手袋、私にとってはやり甲斐のある職場でもあり、反面、大勢の命を預かる責任重大なお仕事でした。

 今でも、一生忘れる事の出来ない思い出があります。
 それは昭和十九年秋。電車の窓ガラスには黒いカーテン、頭には必勝と書いたハチマキをして、品物の無い時代でしたからゾウリを履いての運転でした。私は電車二両編成で加茂駅まで村松通信学校を卒業して出征する若い兵隊さんを運びました。
 百名位だったと思います。特攻隊でした。車中スクラムを組んで歌っているではありませんか。歌声は「貴様と俺とは同期の桜」の歌でした。
 私は振り向くと、同じ年頃、十八・九才の美少年達でした。急に熱いものが胸にこみ上げてきて、涙が止めどなく流れ、涙しての運転でした。そんな切ない思い出があります。

 やがて終戦となり、帰らぬ人々の御霊が愛宕山の「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑」にあります。
 生き残りの方が五年に一度位全国からツアーで来られます。
 その方々が、偶然に私の家に立ち止まり「たしかこの辺は練兵場だった」と話され、「ああそうだった、戦地に向かう方々を加茂迄乗せて運転した女運転手は私です」と言ったらビックリされました。
 あれから五十有余年の歳月が過ぎ去っており、白髪の目立つ方もおられ、「次の慰霊祭にぜひお会いしましょう」とお別れしました。

注1 小作人=地主に小作料(米や麦などの農作物の一部を小作料とする)を支払って田畑を借りて営農する農家 

 (平一二・四―第八号収載)


 写真集
 (写真の上をクリックすると拡大写真がごらんいただけます。)
 












































 あ と が き

 村松での訓育の十一期生に与えた大きさを踏まえ、敢えて誌名を「村松の庭訓を胸に――平和の礎となった少年通信兵」としました。お読みくださって、先の大戦下、村松少通校における訓育の実態と慰霊碑の由来など、ご推察いただけましたでしょうか。
 思えば、散華した十一期生と私たち十二期生とは、入校時期の僅か半歳の差がその後の運命に天地の懸隔をもたらしました。総てに優れていた先輩たちのこと、せめて戦争の終結が一年早かったら、と悔やまれてなりません。
 然らば、生き残った私たちは何を為すべきか。去年の春、そんな思いを抱き碑前で瞑想に耽《ふけ》っていた私の前に一組の夫婦が通り掛かりました。流石《さすが》の村松桜もまだ三分咲きとあって人影も疎らな中での会話でしたが、碑の由来については全くご存知なく、私の説明に大変驚いておられました。
 ここにおいて、私は翻然として悟りました。現地のお方にして斯くの通り。戦後六十余年、すっかり忘却の彼方に追いやられてしまった戦争の悲惨さ不合理さを史実に基づいて正しく後世の伝えること、それが語り部としての私たちに課せられた使命であり、平和の礎として散っていった先輩たちに捧げられる唯一の餞《はなむけ》ではないのか、と。――これが本紙誕生の動機になりました。
 しかし、どこまでこうした願いが盛り込めましたかどうか。この点、十一期生の受難は五島列島沖、済州島沖の遭難に止まりません。頁数の制約はあっても、もう少し、言語を絶した比島戦線での記述を増やし、さらにシベリア抑留の過酷な実態に触れるべきではなかったか、と反省しています。
 とまれ、昨今のわが国の世情には道義の退廃を始め目に余るものが多々あり、英霊の、自分たちが身を挺して護ろうとした祖国はこんな筈ではなかった、とそんな悲痛な声が聞こえてきそうな気さえ致します。
 編集を終えるに当たって貴重な機会の与えられたことに感謝するとともに、温故知新、本紙をお読みくださった皆様に改めて思いを当時に馳せて頂けたらこれに過ぎる喜びはありません。

 村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて (故松谷昭二氏母堂・松谷千代様)


(付記)
 本文に記しましたように、村松碑をめぐる慰霊祭は、一応平成十三年の合同慰霊祭を以て終幕し、以後は十月十一日を「慰霊の日」とする自主慰霊に切り替わりましたが(平戸島碑については継続)その後村松では、平成十五年六月から半歳に亘って村松教育委員会による「村松陸軍少年通信兵学校特別展」が郷土資料館で開催され、多くの参観者に恵まれました。
 また諸般の事情から慰霊碑等の建立が見送られた東京校についても、本年(平成二十年)七月から九月まで東村山のふるさと歴史館において「企画展・陸軍少年通信兵学校」が開催され、賑わいました。
 なお、慰霊碑の所在等は次のとおりです。

村松慰霊碑
 所在地 新潟県五泉市 村松記念公園
 交通  1R磐越西線五泉駅からタクシー二五分
     又は新潟駅から村松行き高速バス一時間

平戸島慰霊碑
 所在地 長崎県平戸市 鯛の鼻自然公園
 交通  平戸市市街地からタクシー三〇分


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 村松の庭訓を胸に
    平和の礎となった少年通信兵

       二〇〇八年一〇月刊行(非売品)
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編集者
投稿日時: 2009-3-22 7:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・25
 第一回慰霊祭の想い出と
      少通会の皆様への感謝

 松 谷 茂

 十一期 故松谷昭治氏令弟

 既に二十五年前となりますが、昭和四十五年十月十一日、村松公園で慰霊碑が建立され、その除幕式を兼ねた第一回慰霊祭を行っていただきました。
 我々遺族は、戦死した子や兄弟との心の再会の機会を与えて頂いたこと、ここに至るまでの役員の方や会員の方々の御尽力が如何ばかりであったかを考え、ただ感謝の念で一杯でした。
 私も、七十才の母と出席させて頂きました。当日は、まず一部残っていた旧校舎を見学しました。私は、三歳の昭和十九年十一月に両親に連れられ、この学校に、兄との最後の面会に来た記憶がかすかにあり、校舎の窓は遠い記憶のそれだと感じました。母は、あたりに落ちている松かさを黙って拾っておりました。
 村松公園の慰霊祭には、当時はまだ、親御さんも大分出席されており、厳かな中にも、深い悲しみも満ちておりました。

 犠牲者の名前を一人一人呼び上げられた、青山事務局長さんの張りのある凛とした声が切々と今も甦《よみがえ》って来ますし、戦友代表の方の言葉も、万感胸に迫るものでした。
 式典終了後は、近くの体育館で懇親会が開かれ、同じ区隊出身の方や、それまで、文通で知り合った方々とも初めてお会いできました。
 懇親会終了後解散となりましたが、母がもう一度石碑にお参りしたいと言うので、再び公園に戻り、碑の前に立ちました。既に人影はなく、除幕式に使った竹や縄が風に揺れて寂しげでした。
 碑前に膝を付き、深々と頭を垂れて一心に祈る老いた母の姿は、子を失った親の悲しみを表して余りあり、思わずシャッターを押していました。
 ひるがえって、今次大戦の数百万の犠牲者の一人一人に両親、子供、兄弟があり、その方々全てが同じ悲しみをお持ちであることを考えると、胸がつまります。
 生き残った者は、このことを、戦争を知らない世代に強く伝えていく責任を負っていると信じます。

 第一回慰霊祭以降も、少通会の皆様の献身的な御尽力により、五年毎に開催される外毎年の参詣会、さらには、長崎県平戸の慰霊祭等も行っていただいていること。そして、これらの御尽力の全てが、再び戦争を起こさせてはならないとの強い信念に貫かれていることを思うとき、遺族として、心から感謝を申し上げる外に術はありません。

 (平八・四―第七号収載)


 想 い

 伊 藤 ミツイ
  十一期 故田所水氏令姉

 深緑の候となりしのぎ良い季節となり、皆様には御健勝にて御活躍の事とお喜び申し上げます。此の度「かんとう少通六号」の発刊により投稿の御依頼をうけ、なにか書かなくてはと思いながらあまりにも長い年月が過ぎてしまい、記憶を取り戻そうと思い出しても弟の子供の頃の姿と、凛々しい軍服姿が交互に入りまじり、複雑な気持ちでございます。
 皆様の御尽力により慰霊碑建立並びに度々の慰霊祭を行っていただき、心から厚く御礼申し上げます。

 今日亡き母に代わりまして「一言」書かせて頂きます。三年前八十九才で他界しました。弟が他国で亡くなった事を聞いても、人前では決して涙を見せぬ母でしたが、心の中ではどんなにか辛かった事でしよう。でも本人が選んだ道ですから仕方ありません。風の便りによれば栄養失調でとか、親心はどんなに辛かったことかと思います。

 「もしかして ひょっこり帰った我が子みて、力一杯抱きしめて、腹一杯食べさせて、ゆっくり休めと母心」
 こんな文章では投稿となりませんが、今の気持ちは精一杯でございます。今後の御活躍を心からお願い致します。

 (平三・一〇―第六号収載)


 慰霊祭にて

 秋 元 米 子
   十一期 故深井治郎氏令姉

 碑の前に額ずき祈る会員と
         遺族の背なのみな丸く見ゆ
 生きおらば白髪しるき年ならむ
         遺影の弟は今も少通兵
 戦争を人類の持つ業と聞く
         世界の平和を祈る日々にて
 激動の昭和を想う十二月八日
         語る人らの少なくなりぬ
 被爆者の嘆きは消えぬ長崎に
         みどり色濃く木草茂れり
 半世紀長き暗闇曳きづりし
         慰安婦証言聞くも哀れぞ
 不気味さの背筋走りし原爆絵図
         再びなかれと心に刻む
                 
 (平八・四―第七号収載)


 慰 霊

 峰 岸 たい子
  十一期 故久保田要七氏令妹

 村松の丘に秋風爽々《さわさわ》
         慰霊碑由来碑ならぶ御前に
 軍帽をまぶかにかむり童顔の
         兄は志願し十九で逝けり
 碑の前に五百余人の参列に
         慰霊の祭り戦友の手に成る
 五十年亡き戦友偲ぶ歌声の
         胸にさしくる少通兵の歌
 何時訪ふも香華絶えぬと村松に
         昭和の白虎隊とぞ守り給える
 早う卒え壮途の船に沈みたる
         無念を惜む戦友の辞に泣く
 沈みたる海を遥《はる》かな平戸にも
         岬に慰霊碑建てし給える

 (平八・四―第七号収載)
編集者
投稿日時: 2009-3-20 8:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・24
 七、慰霊祭に思う

 昭和四十五年に始まった慰霊祭は、平成七年までは五年毎に「合同慰霊祭」として、また、それ以後は隔年毎に「年次慰霊祭」として営まれましたが、上記のように村松碑については平成十三年の慰霊祭を以てその幕を閉じました。
 ここには、それらの思い出を綴った岡本勝造氏の「追悼」のほか、慰霊祭に参加されたご遺族から寄せられた声の一部を掲載します。また、地元誌に村松にお住まいの小島ヒサイ様の「サヨナラ電車・私の青春」が載っていましたので、十一期生の最後を看取った生き証人の文章として転載させて頂きました(因みに、当時の蒲原鉄道(村松←→五泉間)については、昭和二十年が大雪だったため、一月二十六日、その除雪作業を全中隊総出で行ったことが記録に残っています。)。


 追 悼

 十一期  岡 本 勝 造

 滑らかな筆致、素晴しいかな文字の書簡を受取ると、私の女房はいつも「私もこの位に書けたらね」と羨望《せんぼう》と感嘆の言葉を発する。この書簡を受け始めて、早や二十年の歳月が流れ、かれこれ七十通近くも受信している、御霊のお導きによって永いこと文通が続いている。
 今年の祭典が恙《つつが》なく終了した或る日、郵便受けから出した三通の中に入っていた書簡。発信は上総一宮の椎名マサヱさん、詳しく申上げれば同じ内務班で苦楽を共にした、今は亡き椎名恵太郎君のご令妹である。開封して見たら慰霊祭のお礼状と共に、古い茶封筒が入っていた。表には椎名磯松殿と毛筆で達筆にしたためられ、其の横に赤い公用のスタンプが押され、裏面を見ると村松陸軍少年通信兵学校長、高木正實の印の押されたものだった。それは学校長差出しの戦死公報であった。まだ任地に着く前の戦死のため、学校長名で通達がなされたものと思われた。
 恵太郎君!明晰《めいせき》な頭脳と、誠実温厚、思いやりのある性格が、いつしか同班の者より厚い信望を得るとともに、入校以来半年を経ずして上官の認めるところとなり、選ばれて十二期生の指導生徒となり、優れた下級幹部となるため、日夜研鑽《けんさん》を重ねて居られたが、昭和十九年十一月南方要員として繰上げ卒業し、風雲急を告げる南方戦線に向かったのである。
 出陣の朝、元気よく笑って「では先に行くよ」といって訣別した時の想い出が、今髣髴《ほうふつ》として脳裡に蘇《よみがえ》って来る。
 門司港から秋津丸に乗船し、勇躍壮途について間もなく、五島列島沖において、好餌とばかり襲いかかって来た、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈され、艦と運命を共にしたのである。房総の浜辺に育ち、泳ぎ達者であった彼が、若し甲板付近に位置していたら、或は他の 今浜辺に近い墓地には、亡きご尊父が遺族年金を手付けずに貯えて建立されたという、陸軍伍長椎名恵太郎之墓という立派な墓石が建ち、先年お詣りしてご冥福お祈り申し上げたが、其の後雑用に追われて機会なくご無沙汰している。

 生前ご尊父が大事に保管されていた、一通の戦死公報と共に肌身離さず持って居られてすり切れた一冊の手帳に、水漬く屍となって何一つ戻らなかった、恵太郎君の体の分身として、守られて来たご尊父の一人しかいない男子を失った落胆のご様子と思慕のご心情が察せられ、戦争の冷酷非情を改めて痛感させられた。戦争によって敵味方双方とも、春秋に富む有為の若人の、尊い命を散華させたのである。悲惨な戦争に比し、平和の有難さ尊さをしみじみと感じさせられる。

 先般五島列島、東支那海の眺望される、平戸島鯛の鼻高原に建立された、海没少年通信兵の霊碑の序幕慰霊祭には、お二人の令妹が揃って出席され、五島の海に向って亡き兄を偲び、追慕の祈りを捧げて居られる姿に、戦争の傷跡はいつまでも消えるものではないと痛感させられた。そしてまた今年の村松公園の、四たびの合祀並び一に慰霊祭に参加され、追悼の祈りを捧げられた。
 また此のように追悼供養のため、毎年の参詣会や五年に一度の慰霊祭ご出席の、兵庫の楠木さん、いわきの吉田さん、越後三条の大久保さん、輪島の升田さん、群馬の唐沢さん、山形の五十嵐さんや、そのほか数多くの方々に、同じようにいつまでも癒えない傷跡を感じるのである。然し今迄毎回の行事に参加されていた老いたる福島の佐藤クラさん、名古屋の玉村夕子さんは既に息子さんの御霊のもとに走り安らいで居られる事と思う。

 此の度の慰霊祭でご挨拶された楠木さんが 「私は戦争で弟を失いましたが、それによって沢山の兄弟友人を得ました」と申されましたが、私達も少通会の組織を通じて、戦没者調査を行い、慰霊祭、参詣会の行事を実施するため文通し、又出席し数多くのご遺族、会員の方々に知己を得て、ご厚誼をいただいている。これからも、声亡き戦友の声を基軸にして、三所一系の交信を続け、ご親交を深めていただき、亡き戦友の追悼供養を続けていきたいと思っている。

 (昭六一・二―第四号収載)
編集者
投稿日時: 2009-3-19 8:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・23
 六.最後の慰霊祭を終えて

 先年、靖国神社で「英霊に捧げる花嫁人形展」が開催され、様々に美しく着飾った人形が数多く展示されていましたが、それを見たときの私の気持ちは複雑でした。「青春」とは何かも知らず「花嫁」とは無縁で逝った少年兵たち――それだけに、彼等に対する愛惜の情は一入深く、毎回熱誠を込めた慰霊祭が続きましたが、その慰霊祭も始めのうちこそ参列されるご遺族には、ご両親やご兄弟姉妹のお姿が数多く見受けられましたが、年を重ねるに従って段々ご両親の数が減り、遂にその大半がご兄弟姉妹のほかは甥御さんや姪御さんが占めるようになりました。また、これを主催する私ども関係者自身、全員が喜寿を超え、果たして何時まで続けられるか危ぶまれる状態になり、協議を重ねた結果、残念ながら平成十三年の慰霊祭をもって最後とし、以後は毎年十月十一日を「慰霊の日」と定め、自主慰霊に切り替えることを申し合わせるに至りました。

 ここに掲載したのは、その最後の慰霊祭を主催された連合会の渡邊哲夫会長代行から寄せられたものです。


 慰霊祭を終えて

 全国少通連合会会長代行  渡 邊 哲 夫

新潟県中蒲原郡村松町、村松公園の丘に 戦没陸軍少年通信兵の御霊《ごりょう=みたま》が鎮《しず》まります。この地この碑が 少通魂の凝縮であり、少通魂に生きる我々の故郷でもあります。去る十月十一日、平成十三年度慰霊祭典が二百六十一名のご参加のもとに、荘厳かつ盛大に挙行されました。皆様の御支援ご協力、まことに有難うご座居ました。主管事務局を代表し、心から御禮と感謝を申し上げます。

 連合会主催による最終の慰霊式典と覚悟は決めていたが、感慨が乱れます。天は諒《まこと》とされたのか秋晴れが救ってくれました。過去三十一年の間、数次の慰霊式典は雨天による中断は皆無であります。まさに天佑神助《てんゆうしんじょ=注1》、御霊のお助けと信じます。今回も前日の荒天は嘘の如く好天に恵まれました。慰霊碑も、町ご当局のご配慮と、事務局員諸兄の前日の夜間、当日の早朝に至るご努力により素晴しい化粧が施こされました。朝日に燦然《さんぜん》と映える碑を拝し、暫し佇み、これからの慰霊のこと、碑の存続にかかわること等々に思いを致し、ふと我に帰り四時間後に迫った慰霊式典に全力で臨むべく宿舎に戻った次第。

今回の式典後の直会《なおらえ》、懇親会も、始めて会場を新潟市に設営し実施しました。皆様方の旅行計画等に配慮した次第ですが 従来の懇親会と雰囲気が一変し、非常に和やかなうちに懇談が進められた様に思われました。私も会員とそしてご遺族様との数多い会話が出来、その中で今までになかった沢山の情報も頂けましたことを深く感謝しております。今後の慰霊行事は十月十一日を期して自主行動による申合せでありますが、懇談の雰囲気から多数の方々の参集が期待出来るのではないかという予感を覚えました。今后は限りを尽くし慰霊に邁進《まいしん》する勇気も頂きました。

 連合会は十三年中に、最後の慰霊祭の記念品の送達、さきにご賛同頂きました慰霊基金の処理、等を進め、更に傘下少通会の状況を踏えて、残務の処理等、連合会本部の一部残置を配慮しつつ当分の間の活動が必要と心得ております。以上最後の慰霊祭の終了所見等を述べてご報告と致します。      ――以下・略――
 
 (平一四・二―第九号収載)


(注)
 全国少通連合会は、解散に当って村松町当局に対し、これまでの多年にわたるご厚誼に感謝する趣旨で若干の寄付を行いましたが、これに関連し、渡邊会長代行は、同年十二月二十日付文書で、次のように会員に周知しました。
 「今後の最大の問題でありました慰霊碑敷地の供用存続問題でありますが、去る十二月十日村松町役場に於いて、町長以下三役御立会いの席上で、村松公園の施設として、 将来にわたる安堵を力強く表明して頂きました。
 風光明媚《めいび》な村松公園台地に、将来にわたり鎮座、輝きわたる事が再確認されたのであります。連合会として、長い間の懸案が払拭され、欣快《きんかい=注2》の至りであります。」

注1 天佑神助=天の助けと神のたすけ

注2 欣快=非常にうれしい

編集者
投稿日時: 2009-3-18 8:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・22

  陸軍少年通信兵軍歌

 一.東亜に誇る日本(ひのもと)の 皇国の楯と選ばれて
   厚き皇恩(めぐみ)に浴しつつ 聖諭(おしえ)の道を堂々と
   只一誠に進まなん
 二、学の庭の起き伏しも 父母の情と師の恩を
   若き心に憶(おも)ひつつ 精励刻苦ひとすじに
   励め少年通信兵
 三、平戦両時絶間なく 坦(担)(にな)ふ任務は皇軍(みいくさ)の
   心を結ぶ統帥に 軍の安危はかかるなり
   磨けよ磨け我技術
 四.国に仇なす敵あれば膚(はだえ)をつんざく冱寒(ごかん)にも
   鍛へし腕(かひな)に乱れなく打つ電鍵の音冴えて
   星影高し空中戦(線)
 五.懸軍万里野を征けば 鉄をも溶かす酷暑にも
   研きし技の甲斐ありて 飛電一閃遠近に
   交はす電波に狂ひなし
 六.契(ちぎり)を籠(こ)めし稚木に 萬朶(ばんだ)を誇れ桜花
   仰ぐ操は靖国の 英魂(みたま)慕ひて戦路(いくさじ)に
   散るべき秋(とき)を忘るるな
 七.任務は重く道遠く 月日の脚に明日(あした)なし
   只一心に必通の 信念(おもい)は我等が身の運命(さだめ)
   鍛へよ少年通信兵 伸びよ少年通信兵
編集者
投稿日時: 2009-3-18 8:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・21
 宿願を達成して

 教官  本 川 栄 吉

 宿願達成の朝、記念すべき昭和四十五年十月十一日、夜来の暴風雨は一過し洗い浄められた村松の大地に、木々に、草々に朝の光がさん然と輝いた。前日までの悪天候が拭ったような快晴に一変したのである。誰しもが奇跡を思い厳粛に英霊のご加護を思わずにはおられなかった(ちなみに翌十二日は再び雨天に戻った)。
 全国少通連合会員その他の多くの人々、ならびにご遺族方の長年の念願協力が実を結び、今ここ村松少通校々舎を見下ろす丘の上に戦没陸軍少年通信兵の慰霊碑が姿を現した。
 真新しい碑前に高々と奉読されゆく懐かしい一九九柱のご氏名が萬感を伴って耳朶《じだ》を打つ。天地の間この声のほかに声なく粛々として神気あたりを払う。ご遺族の、そして会員の体が打震え感動の涙が頬を伝う。この一瞬のために歩んできた長い道坂のこと、この日を待たずに逝かれた方々のことがふと頭をかすめる。
 献花の列が長々と続く。わが子、わが兄、わが弟のおもかげを偲び菊花を捧げて深々と拝まれるご遺族、校友の名を呼び微哀を花に託す会員。碑前を埋め尽した菊花が英霊の勲《いさお》を讃えて秋空に馨る。
 自衛隊音楽隊によって力強く少年通信兵の歌が奏せられ、四〇〇余名の大合唱が練兵場の澄み切った空気をゆり動かし愛宕の山にこだまする。
 東亜に誇る日の本の
 皇国の楯と選ばれて‥‥‥…

 ああこの歌が絶えて二〇有余年、思えば長い忍従の年月であった。今こそ再び思い出の山河に少年通信兵の歌がとどろく。
 在天の英霊よ聞こしめせ、兄等と共に歌ったこの歌を 白山よ、菅名岳よ、早出川よ、歓喜して我等の歌に和せ。
 草深き校舎に生色甦《よみが》えり、校門の老松懐旧の念いに哭《な》く。秋晴れの村松平野に繰りひろげられた一幅の絵巻物のような除幕式、それは私の戦後における最も幸福な、また充実した一ときであった。

 (むらまつ第六号収載)


編集者
投稿日時: 2009-3-17 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・20
 五.戦後二十周年記念の集いから慰霊碑建立まで

 戦後、社会が落ち着きを取り戻すとともに、全国各地で、かっての少通生活を懐かしみ、戦友愛の復活を望む声が澎湃《ほうはい》として沸きあがってきました。
 そして、昭和四十年八月十五日、村松で「戦後二十周年記念の集い」が開催されました。集った者は、元職員及び生徒の約六十名。――直ちに全国を十のブロックに分けた地区少通会と、それを総括する全国少通連合会の結成を決めるとともに、その連合会の力によって五年後を期し、東京、村松両少通校跡に「戦没者慰霊碑」と「記念碑」を建設することを申し合わせました。

 しかし、事態はそう容易に進捗しませんでした。東京少通校は既に校舎の総てが取り壊され、その跡に近代的な小、中、高校や公務員宿舎等が建設されるなど、文教住宅地区として面目を一新しており、今更其処にこの種の施設を建設することは当面望めないことが判ったからです。
 そこで連合会は対象を村松一本に絞り、綿密な事前調査と当局との折衝を繰り返した結果、四十四年二月に会長名を以て新潟県知事及び村松町町長宛に「この地に純真愛国の少年通信兵が誕生したことを記念し、その偉績を後世に継承するとともに殉国散華した数百烈士の英魂を鎮めるための慰霊碑を建立させてください」との陳情書を提出、これに対して村松町長から同年三月一日付を以て村松記念公園内の忠魂碑右隣りの土地十坪の使用許可が下りました。

 かくして、昭和四十五年十月、慰霊碑の除幕式と第一回慰霊祭が全国各地から参集したご遺族、生き残った職員、生徒等多数が見守るなか盛大かつ厳粛に挙行されました。「宿願を達成して」は、当日の喜びを前記の本川栄吉氏が綴ったものです。

 因みに、慰霊碑正面の「慰霊碑」の文字は高木正實校長、裏面の「建立趣旨」は渡邊利興少通連合会長の筆になるものです。その後、石灯籠《いしどうろう》の増設と建立文碑の設置を行い現容に至りました。また、碑内に納められている戦没者名簿は当初和紙に記載されていましたが、現在は永久保存に耐える金属板に替わっています。

 (注)「戦後二十周年記念の集い」の際に建設を申し合わせた「戦没者慰霊碑」と「学校跡記念碑」のうち、前者については、このようにして達成しましたが、後者についても、平成十六年に至り、村松町当局のご好意により学校正門および歩哨舎の復元ができました(上掲・吉田富忠氏の「軍都・村松の悼尾を飾る村松少通校」を参照)。

 また、少年通信兵の慰霊碑は、この村松碑のほか、九州・平戸島の鯛の鼻自然公園に「安らかに眠り給へ 陸軍少年通信兵の霊」と記した石碑(平戸島碑)が建立されています。これは、昭和五十年の第二回合同慰霊祭の席上、関係者から「ぜひ十一期生の遭難地点である五島列島方面にも慰霊碑を建立して欲しい」旨の声が挙がったことに拠るもので、その後、九州地区少通会有志が平戸市当局等と折衝を重ねた結果、まず五十一年に同地に木碑を建立、続いて五十九年に石碑に建て替えたものです。同碑は、現在も九州地区少通会ならびに地元ボランテア団体によって保守管理が行われ、毎年十月には定例の慰霊祭が営まれています。

 なお、地元ボランテア団体として当初から格別のご協力をお寄せくださった平戸市津吉老壮会の吉井孝美会長は碑の建立に際して少年兵を悼んで次の二首を遺《のこ》しておられます。

散華せし み霊らこたふ みしるしか 山雨しきりに われを濡らすも
若き血を 国に捧ぐと 海渡る 雄心なかば 水漬きませしか

(注)このように、平戸島碑は現在も地元の温かいご好意によって支えられていますが、長い歳月の中には、その方々の世代交替もあり、碑の由来等についての記憶も薄れてきましたので、これらを踏まえ、かつ、当方の感謝の気持ちをお伝えすべく刊行したのが、先の「西海の浪、穏やかに」です。
編集者
投稿日時: 2009-3-14 9:05
登録日: 2004-2-3
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「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・19
 或る区隊長の手紙

 教官  青 山 正 樹

 謹啓、残暑猶酷しき時候、御尊家御一統様益々御健勝の段奉賀候。
 聖戦茲に八歳の今日を迎へ、世界の情勢と戦局の推移とは必ずしも我に有利ならず、御聖断を以て休戦の已むなきに至りたる事一億同胞として洵に痛恨の極に御座候。之偏に我等臣民特に武器とる武人の努力の足らざる所、上は陛下に対し奉り下は一億の臣民、就中護国の華と散られし或は戦に傷つきたる数多くの勇士に対し、真に申訳けなく無念の情耐え難きもの有之候。軍は未だ決して戦に敗れたるに非ず、烈々たる必勝の信念に燃え本土決戦の必勝を期しありたる所、かくなれるは実に私情に於てやむにやまれぬ激情の覚ゆるを禁じ能はず候。然れども大命の下戦たるもの、いかでか大命により鉾《ほこ》を収めざるを得ん哉、之皇軍の本義にして又大詔の諭ゆる所、聖処に副い奉る道に御座候。中には休戦を潔よしとせず、或は無念の情抑へ難く軽挙妄動に趨《はし》るもの有之候も、之明確に皇軍の根本義に反するものに御座候。勿論身命を惜しまざるは武人の面目、いかで父祖にまみえんと思ふも無理なき事に候も、苟《いやし》くも聖旨を以て新な大道を示されたる今日、もはやこれ卑怯未練の振舞に外ならず、死は潔く平易なるもの、将来の生は耐え難きもの有之べくも、今や鴻毛《こうもう=注1》の軽きに比したる命を惜しみ、死に勝る努力を以て苔の如く生きるを要し永く永く生き永らへ最大の力を国家の再興への道に致すこそ真の臣道と被存候。今や皇軍の姿は地上より消え去らんとすれど、皇軍の魂は末々長く国民の胸に刻まれゆくべく、戦は敗れり、然れども唯皇国を護持し得たる事実を喜び、無念の情を報仇への努力に換え、此の魂を子々孫々に伝へて国家の再建を期すべきを強く愚信任候。

 御子息殿も国家危急の時、殉忠報国の赤誠《注2》に燃え、年若く軍人と相成られ候も、今かくなりて尊き志もならず、その痛憤の想ひ如何ばかりか拝察するに余りあるもの有之候。しかしてその修業中ばにして志破れ、家郷に帰る事になり申候も、此の僅か五ケ月間の軍隊教育は決して無為には御座なく、その心中には烈々たる軍人精神確乎として既に宿り居候。父祖より受け継ぎし我々日本人の血は優秀にして御両親様より承けし御子息様の血は優秀にて候。少しも御落胆遊ばす事なく此の子一人未だあらばと万腔《=満身》の信頼を御子息に懸けられ、末楽しく御家内睦まじく国家再建の新道を驀進《ばくしん》被下度存候。吾我が非才を尽して教へし事も全く空しく何の用にも立たざるに至れども、再び御両親様の許に抱かれて円満且健やかに生育を賜りたる時、其の魂は更に大きく躍動し必ずや国家の再興あるべきを期して確信仕候。
 お別れに臨み益々忠良なる日本臣民たるべき事と親への孝道を訓へ申候。之忠孝一本国家の将来を念じせめて生徒達に託する吾微中に御座候。
 今御両親様の御前に御返し申上候御子息殿の姿は、日夜皆々様の想像致せるあの凛々しい軍服姿には無之、襟の星章も腰の剣もなき洵《まこと》に哀れ淋しき姿には御座候へ共、その輝かしき眼は不屈の闘魂を訴へ、その心中には烈々たる日本精神が充溢《じゅういつ》せられ居候。校門を志空しく去りゆく生徒の後姿を拝み、吾思ひは悲しみと共に涙はつきず、今謹しみて御子息殿をお返し申上候。然れども何れ又晴れて捧ぐべき生命宜敷御生育の程偏にお願い申上候。
 かくなれば我等斎しく承詔必謹《注3》、忠良なる日本臣民としての面目を発揮し、上御聖旨に副ひ奉るのみに御座候。茲に教育間に諸種の御無礼をお詫び申上ぐると共に、神洲不滅を喜び、皇軍の再興を念じ、併せて御尊家の御繁栄と御一統様の御健勝をお祈り仕り、謹しみて御挨拶に代へ如斯御座候。
  
   敬具

        区 隊 長

 ご父兄各位殿
                 
(昭五五・一二―第二号収載)


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終戦に当り陸軍大臣より全将兵にあてた訓告

 茲に停戦講和の御聖断を拝す。全軍の将兵は烈々たる闘魂の下、或は万里の異域に勇戦敢闘し、或は皇土の防衛に満を持して準備を進めつつありし所、今や泣いて戈を収むるに至れり、皇国苦難の前途を思えば萬感極まりなし。
 至尊《しそん=天皇》亦深く此の間を精察せられ然も、尚大局のため非常の御決意を以て、大命を宣し給えり。
 全軍将兵は真に涙を呑み激情にただよることなく、又、冷厳なる事実に目を覆うことなく、冷静真摯《しんし=まじめに》一糸乱れざる統制の下、軍秩を維持し粛然たる軍容を正し、承勅必謹の一途に徹すべし。
 至尊は「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精体たるを信ず」との優諚《=天子のありがたい言葉》を垂れ給う、光栄何ものか之に加えん。
 全軍将兵宜しく此の光栄を体し、高き矜持《きんじ=プライド》をもて、千辛萬苦に克ち、忍び難きを忍び森厳たる皇軍の真姿を顕揚《=世間に評判をたかめる》すべし。

 昭和二十年八月十七日
                               陸軍大臣

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注1 鴻毛=非常に軽いもののたとえ。「命を―より軽いとみる風潮」
注2 殉忠報国の赤誠=国のために命を捧げることに、少しも嘘や偽りのない心
注3 承詔必謹=天皇の言葉(命令)をいただく際には、常に例外なく、かしこまった態度をとりなさい  
編集者
投稿日時: 2009-3-13 8:43
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・18
 四、戦況は最終局面へ――終戦・復員

 一方戦局は、二十年三月十一期生の残留組が卒業、出陣していった頃を境に、刻々急変化して行きました。即ち、三月十日の東京大空襲を皮切りに日本の主要都市は軒並みB二九の洗礼に晒され、村松も何時標的にされるか判らない状況に置かれていました。

 四月一日、村松少通校では十一期生と入れ替わりに第十三期生八百名を迎えましたが、こうした状況を反映して、五月に入ると営庭のあちこちにタコツボ(一人用の塹壕)が掘られ、続いて愛宕山の中腹に通信機を格納する横穴式地下壕の構築作業が急ピッチで始まりました。全兵舎の天井撤去が行われたのもこの頃で、モウモウと舞い落ちる塵埃《じんあい》の山に、改めて軍都・村松の歴史の長さを感じさせられました。また、練兵場の一角、射撃場から菅名村にかけて軍用機発着用の滑走路の建設が始まり八月上旬完成しました。中隊によっては、全員疎開することになり、近村の国民学校の教室を借りて分宿生活を始めるものもあり、戦局の急迫はこうした形でも町民まで巻き込んで徐々にその姿を現しつつありました。

 八月に入って、近くの村に露営を兼ねた演習に出かけていた私たちのもとに、突然帰校の命令が伝えられました。十五日正午、玉音による重大放送があるとのことで緊張して校庭に整列した私たちの耳に飛び込んできたのは――ラジオの雑音で確かとは聞き取れませんでしたが、戦いが終わったとのこと――戦局烈しき中で、なお一層奮起を求める放送と信じていたところ、正に晴天の霹靂《へきれき》、皆、茫《ほう》然自失、それからの数日間はどう過ごしたか記憶が定かではありません。
 しかし、ややあって、中隊長がその心境を「退くも進むも一つ 大君の詔勅(みこと)の侭《まま》にわれは揺るがじ」と披瀝《ひれき》されるに及んで徐々に平静を取り戻して行きました。

 それからというもの、連日、校庭内のあちこちで重要書類を焼く煙が立ち昇るなか、行事は二十八日の通信兵監の来校訓示、二十九日の復員式と続き、その後、生徒は高木校長の声涙下る訣別《けつべつ》の言葉を胸に、分配された毛布や衣類を背にして、夫々に帰郷して行きました。
――別れしなに交換し合ったお互いのノートには、どこにも「七生報国」「神州不滅」「臥薪嘗胆《がしんしょうたん=注1》」等の文字が躍っていました。

 「或る区隊長の手紙」は、十三期生の区隊長だった青山正樹氏が、復員して行く生徒の父兄に宛てた書簡です。入校してまだ五カ月、訓育も緒に着いたばかりの教え子を、みすみす手放さなければならない氏の無念さと、その行く末を案じる父親のような心情が込められているように思われます。

 ところで、こうした生徒達が立ち去った後の村松に一つの事件が持ち上がりました。それは、当時政府は終戦処理の一環として残った村松少通校の施設と通信機材の活用による逓信講習所の開設を目論み、現地では早速その準備に掛かっていたのですが、そこに突然、米軍の一個聯隊が進駐してきて武装解除を迫りその過程において通信機材が対象から外されていたことが発見され、これを悪質な隠匿行為と判定した米側は、生徒隊長以下の懸命の釈明にも耳を貸さず逆に学校幹部全員の村松町外への禁足を命じてきました。

 ここにおいて、高木元校長(既にこの時点で、教育總監附となり秋田聯隊司令官の内命を受けていました)は、自分としては「赤穂開城《注2》」を念頭に進めて来たが、事ここに至っては直接出向き説明するほか策はないと判断、米側の聯隊長に面会を求めました。
 元々、高木校長は荘子の「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり)」を座右の銘にしておられ、偶々これを行動に移されたわけで、「通信機材を逓信講習所に委譲したのは教育総監の命によるもので、その実施を命じたのは校長であった私である。従って、それが不法というのであれば責任は総て私にあり、この場合私は如何なる処分も甘受する。その代わり幹部の禁足は解除して欲しい」と。
 そして、黙ってこれを聞き終えた聯隊長は、直ぐ態度を改め(自分が大佐だったため、少将である高木氏に対し)、将官に対する礼をもって遇するとともに、「事情はよく判りました。禁足は即刻解除します。閣下もご自由に赴任なさってください」と応じ、以後はお互いに歴戦の勇者とあって意気投合し、高木氏は後に記念にと自分の軍刀(備前長船勝光)を、ご令室がご母堂から譲られた藤色綸子《りんず=絹織物》の帯を裁断して作られた刀袋に収め、同聯隊長に贈ったと伝えられています。――まことに、ラグビーのノーサイドの場面にも似て爽やかな話ではありませんか。

注1 臥薪嘗胆=復讐(ふくしゅう)を心に誓って辛苦すること
注2 赤穂開城=忠臣蔵においての開城(降伏して城や要塞を敵に明け渡す)のように
編集者
投稿日時: 2009-3-12 8:22
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・17
 戦死の公報と校長からの手紙

ところで、これら遭難(海難)の模様は、軍事機密として堅く秘匿され、長く公表されることはありませんでした。十九年十二月末、帰着した鈴木宇三郎氏から委細を聞かれた高木校長は、以来苦悶の日々を送られ、後年、「いかに軍の命令とはいえ、年端の行かない子供たちを繰上げ卒業させてまで出陣させたくなかった」と述懐されたと伝えられています。そして これらの事実は次のような形で遺族に届きました。(後掲の「追悼」に出てくる椎名恵太郎氏宛てのものを掲載します)。


 戦死の公報

  市町村役場経由
  村少通校弔第一四号ノ一〇三
     戦時死亡者生死不明者ノ件通報
  本籍 千葉県長生郡一宮町三三〇四番地ノ九ノ二号
                 陸軍伍長  椎 名 恵太郎
  右昭和十九年十一月十五日五島列島白瀬灯台二六〇度距離三四粁海面ニ於テ輸送船敵潜水艦ノ魚雷攻撃ニ依リ沈没シ生死不明トナリ昭和二十年七月二十日死体ヲ発見セザルモ戦死卜確認セラレ條候此段通告候也
  追テ市町村長ニ対スル死亡報告ハ戸籍法第百十九條ニ依リ處理可致候
    昭和廿年八月拾参日
           村松陸軍少年通信兵学校長  高 木 正 實
 椎 名 磯 松 殿


 校長からの手紙

 謹啓 戦局ノ様相日々苛烈ヲ加フルノ秋益々御敢闘ノ事卜拝察申上候
 今般突如御令息殿戦死ノ報ニ接セラレ皆々様ノ御驚卜御悲嘆如何バカリカト御心中ヲ察スル時申上クヘキ言葉モ無之候、顧レハ客年《かくねん=一昨年》十一月五日本校ヲ目出度卒業夫々外地部隊ニ配属ヲ命セラレ赴任ノ途ニ就カレ輸送船ニ依リ航行中十一月十五日東支那海方面ニ於テ突如敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ直チニ対潜水艦攻撃ヲ敢行セルモ遂ニ海没シ惜クモ船卜運命ヲ共ニセラレタル次第ニ候然レ共生存幹部等ノ報告ニ依レハ御令息等ハ勇猛沈着克ク指挿官ノ命ニ従ヒ最後迄一糸紊《みだれ》サル行動ヲ取リ遺憾ナク本校ニ於ケル修養ノ実ヲ発揮シ天晴少年兵ノ亀鑑《きかん=模範》タル最後ヲ遂ケラレタルモノノ如ク候
 遭難後直チニ内報申上ケ度ク存シ候へ共遭難後救助セラレタルモノモ之有上司ニ於テ内地ハ勿論朝鮮支那南方各島嶼《とうしょ》等各方面ニ亘リ百方手段ヲ盡シ調査致シ居リ此ノ間一切ノ発表ヲ禁セラレアリ候処今般七月二十日戦死ト確認セラレタル次第ニ御座候何卒御諒承賜度候
 滅敵ノ意気ニ燃ユル精鋭無比ノ若武者ヲ輸送途上ニ於テ失ヒ候事本人及御遺族ノ御無念ハ勿論ノコト武人トシテノ育成ニ終始セシ本職以下全校職員ノ悲憤亦無限ニ候モ今ハ只万斛《ばんこく=はかりしれないほど》ノ怨ヲ呑ンテ後ニ続ク幾千ノ後輩卜共ニ復仇ノ念ヲ新タニシ以テ忠魂ニ答へン事ヲ期シ居リ候
                                                 
 茲ニ御令息ノ御戦死ノ概況ヲ御通報シ謹ミテ御冥福ヲ御祈リ申上候
 追而遺品交付等ニ関シテハ改メテ御連絡仕度又戦死確認ニ伴フ恩典受給手続等ニテ御不明ノ点ハ市町村役場聯隊区司令部等ニテ御世話仕ル筈ニ候へド必要アラバ何ナリト当校宛御照会相成度候
      昭和二十年八月六日
          村松陸軍少年通信兵学校長  
              陸 軍 少 将  高 木 正 實
椎 名 磯 松 殿



(付)少年通信兵の各期 地域別 戦没者数

 現在村松の慰霊碑に合祀されているのは八百十二柱ですが、ここに戦没者名簿に基づく「各期地域別戦没者数」を掲載します。上述の五島列島沖・済州島沖の遭難とその後の比島で十一期生がいかに多く戦没したかお分かりいただけると思います。



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