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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     朝鮮生まれの引揚者の雑記 <一部英訳あり>
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投稿者 スレッド
HI0815
投稿日時: 2006-12-26 8:58
登録日: 2006-12-25
居住地:
投稿: 1
Re: 朝鮮生まれの引揚者の雑記
 ホームページを本日はじめて拝見しました。9月25に書かれてた中に、尹泰東の名前がありましたが、それは私の外祖父《がいそふ》です。外祖父の尹泰東はここにも書かれている通り、東大卒後、京城《ソウル》帝大で一時期教鞭《きょうべん》をとったことがあると聞いています。「その後の行方がわからない」との記述がありますが、その後尹泰東は満州、間島省で民政局長を経て省長となりました。(その経緯はわかりません)。終戦後、間島から平壌《ピョンヤン》、そして実家のある忠州へと逃れてきたのですが、ソ連軍により中央アジアへ強制移住させられ、その後の行方が私たちにもわかりません。
 私は外祖父に関わった方々がこうした形で歴史に残していただいていることをとてもありがたく思っております。『朝鮮生まれの引揚者の雑記』の著者である方のご家族にお会いする機会などございましたら、外祖父がその後どうなったかをお伝えしていただければ幸いです。

HI0815
編集者
投稿日時: 2006-11-25 9:30
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その14
伊豆 下田 安良里《あらり》 その2


 村医住宅は診察室、手術室、薬局、待合室のほか、六、十、七・半、十帖の畳の部屋と六帖の板の間、台所に風呂、便所が二か所、広々としすぎる。家財道具は何もないので、食事は六畳で蜜柑箱の上でとった。どの部屋にも何も置くものはない。
手術場は一番日当りがいいので、床板を張ってもらって診察室にし、薬局は元の診察室に移した。後日ここにレントゲンを置き、元の薬局は女中部屋に使った。父と光、幸、典の四人が下田から移って来て、奥の十帖と七帖半の二間をつかった。ここは病人を収容するための部屋だが、とうとう入院はなしで通した。

 引越しの次の日に早速往診を頼まれ、腹痛が安良里《あらり=西伊豆》の第一号患者だった。
 村には他に医師はいないのでいわゆる全科診療だが、お産と赤んぼとは困る。
 北に一里《4キロメートル》の宇久須《うぐす》、南に一里の田子に古くからの開業医がおられ入院設備もある。もっと南の松崎町には何人もの開業医がいる。村人は随意診て貰いに行っていた。私も内科以外はそうして欲しいと話したが、診療所はよく繁盛した。
 赤んぼは手におえぬが子供はなんとか相手をした。幸い大きな怪我《けが》人はなかったが、ちょっとした怪我などの縫合《ほうごう》、切開はやった。外科の本を見ながら、顎《あご》の脱臼《だっきゅう=骨の関節がはずれる》を整復したこともある。皮膚科も眼科も手におえそうなことはなんとかやってみた。特に眼科は六さん(義兄 信六 眼科医)に、結膜炎にトリパフラビンが効くと教えてもらったのでやってみると、よく治り、評判になったのか遠方からも患者さんがきた。東海岸に東大名誉教授の石原忍先生がおられるので、眼科の名医と間違えられたこともある。世の中は恐ろしいものだと思う。

 患者さんは内科が主で、朝早くから来て玄関を開けるのを待っている。夜中だとて容赦《ようしゃ》しないし、休みの日に寝ている部屋まで入ってこられたこともある。帰国以来の窮乏《きゅうぼう=金や物が著しく不足する》生活から抜け出すにはやり抜かねばならない。父が薬局を手伝ってくださり、三池子は洋裁の看板を出した。初めの一、二年は無我夢中だった。

 収入の目度がついたので、すぐに顕微鏡《けんびきょう》を買った。回虫による腹痛が多いので虫卵確認が必要だし、又虫垂炎《=俗にゆう盲腸炎》は白血球計算をして診断を決め早く外科に送らねばならぬし、一日も早くほしかった。次いでポータブルながらレントゲンを備え、ようやく内科らしい診療が出来るようになった。はっきりした記憶にないが二年後位の早い時期に思い切って購入した。

 追々生活のゆとりが出来てきたので、洋子のためにオルガンを買った。年が開けて二十三年の小学一年生のときではなかったろうか。これは当時の唯一の名残になって八が岳の周光荘においてある。時には誰か弾《ひ》いてくれることもあろう。(コレハ間違イデ三池子ノ話デハ、オルガンヲ買ッタノハ土浦ニ行ッテカラダト言ウ。以下ニモコンナ思イ違イガ沢山アルカモシレナイガ、コノ儘ニ思イ出スママヲ書イテオク。)蓄音機とラジオを買ったのは何時ごろか、沼津に出たときに買ったゲルハルト・フィッシュのレコードはまだ捨ててはいないと思う。

 二十四年夏、皆をおいて、帰国後初めて三池子と二人で旅行にでた。洋、周はオカンチャン(手伝いにきて貰っている土地の人、小田木かんさん)に頼み、ななこは土浦まで連れて行きオバアチャマに預かって頂いた。先祖、母の墓参りをし、二人の姉と弟とに会うためで、金沢、神戸、和歌山と回ってきた。
 金沢の野田山の墓には戦前にも来たことはなく初めてのお参りである。弟の昭の嫁のふみと土田の御両親とに初対面をした。神戸には十七年に上京したときに寄っているので三池子は二度目の事になる。
 和歌山の赤垣内《あかがいと》では、次姉の赤井定一一家に会ったが定一さんとはこの時が最後になった。

 和歌山の帰りに奈良に一泊した。何故奈良にしたのか、朝鮮育ちは日本のことは分からないので、まず古い昔の姿に触れ、戦争で破壊されなかった日本の町に触れてみることから、「日本」を探していこうとした心づもりがあった為と思う。
 帰国当初からなんとも周囲に違和感がある。引揚者と呼ばれ、住み着いてきた日本人=内地人とは違う異邦人《=異国人》だった。ヒキアゲシャは無一物の身ではあったが、戸惑うことはあっても、プライドは捨てないで通おしてきたと思っている。

 二十五年、大阪の内科学会に戦後初めて参加した。洋子、周而を連れて行き、神戸で厄介になった。行きに沼津で特急に乗り、食堂車で昼の定食を食べさせるために、かなりな順番待ちをしたのを覚えている。
 二十六年四月、東京で戦後二回目の医学総会に出席した。この時初めて城大の同窓会があり、続いて城七会(医学部第七回卒業)の第一回総会を銀座で開いた。宿をどうしたか覚えていないが、生活にかなりなゆとりが出来ていたのだろう。

 二十三年四月に洋子、二十六年四月に周而が小学校入学。二十八年三喜誕生。二十八年に私も安良里を去って土浦に移ったが、その前までに妹たちは次々に村を出ていった。
一番初めに典子が東京に出て、郁さん(私の従兄弟)の所に世話になりタイプ学校に入学、幸子は二科の延命寺に手伝いに、光子は静岡盲学校に入学した。

 父はゆとりができて来ると共に、東京、桐生、静岡などに出かけるようになり、謡《うたい》のお弟子さんが増えてきた。戦前からの東京の佐野巌先生のところに、自分も謡の稽古《けいこ》に行くようになって、ようやく張りのある生活に戻られた。

 静岡のお弟子さんたちが奔走《ほんそう=駆け回って》されて、住宅難の時に静岡の県営住宅を借りて下さったので、幸子と引っ越して行った。ここが根拠になって光子は盲学校卒業後、敷地内に家を建ててマッサージを開業し、浜寺に面倒をみて貰っていた子供三人を引き取った。幸子は盲学校に就職して後日静岡の増田と結婚。典子はタイプ学校卒業後岡日興証券KKに就職し、父幸と三人で暮らし、後日、焼津の柴崎と結婚した。
 二人の結婚式はどちらも父が取り仕切ってくださり、私たち二人は安良里から式に出席した。また七十七の祝いを興津《こうず》の水口屋でしたときも、父は一人で一切を運び、神戸の姉夫婦、和歌山の姉と子供らも出てきた。三喜はまだ生まれていなく、周而は土浦に行っていたので、洋、ななの二人を連れて安良里から出ていった。この後、姉二人は興津から安良里まで足を延ばしてくださった。
  
 下田での暮らしは悪夢となって去り、幸せな日が帰ってきた。
私は、ゆっくり休む間の無い明け暮れを初めは夢中で働きつめていた。段々経済的なゆとりは出来てきて内科学、結核病学会に入り、学会には毎年行けるようになり、医学雑誌も毎月とっているが、村でただ一人の医師、語ル人ナキ寂シサと医学の進歩に取り残されそうな苛立《いらだち》ちとが年と共につのって来る。また、子供らが学校に通うようになり、ここの中学校に入れるのは先々が心配になる。

 洋子は小学校五年になったとき父の所に預け、静岡の学校に転校させた。私自身も都市にでることを二十六、七年ごろから考えるようになっていた。静岡の鐘紡工場の医務の話があったので、大阪本社に行ってみたが病院ではないので止めにした。岩井先生から神奈川の農協病院の話があり、院長と農協役員とに会いに行ったが気が進まず断った。水戸の先にある病院の誘いは個人病院なので断った。
 山本のおじいさんが、霞が浦《=茨城県》国立病院の伊藤院長に会ったとき、私が伊豆を出たいと言うことを話したことがあったようだ。二十八年の秋に副院長の伊東さんから誘いがきたので土浦に出ていき院長に会った。もとの城大第二内科教授で私を知っておられた。話は内科医が辞めるのですぐに来て欲しいこと、待遇は内科医員、報酬は今の三、四分の一位になることだった。勉強をしにいきたいので責任者になるのはこちらから断るつもりだし、収入が減るのも承知の上なので赴任する事にすぐ決めた。精神科の伊東さん、外科の妹尾さんは城大の先輩で城大では助教授をしていた。内科に私の後輩がおり、皮膚科も城大の助手だったという。各科が揃っており、旧知の人がいるので色々勉強出来るだろうと思った。

安良里に帰る途中、岩井先生を訪ね了解と推薦とをお願いした。

                          以上
編集者
投稿日時: 2006-11-25 8:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その13
伊豆 下田 安良里 その1

           昭和二十二年《1947年》~二十八年

 二十一年十二月末佐世保に着き船内で足止めを受けて二週間目、年が明けて上陸、桟橋を下り、「日本の土」を踏みしめて収容所に入った。
 初めは引揚船、栄豊丸の狭い船室から甲板に出ては、緑の濃い島々を眺め、ここが日本なのだと思いながらのじれったい毎日だった。一週間たって兵隊たちと分けられて別な船に乗り替え、この船で又一週間を過ごした。今度のアメリカの船は船倉《せんそう》が広く、天井も高く明るく、気持ちも和らいだ。私たちは医務室で診療を始めたので幾らか張りのある日々を送ることが出来た。正月には医務室の者は船長の招待を受け、久しくなかったご馳走にあずかった。
 洋子の手を引いて、ここが日本なのだよと言いながら、日本の土を踏みしめた。上陸して更に一週間、隣の寮に入っている台湾からの引揚者がきれいな服装で、物も沢山持って明るくしていたのが、乞食《こじき》のような朝鮮組には非常な驚きだった。

 父は疎開の用意が出来たところを東京の大空襲にあい、伊豆に行って暮らしていることは分かっていたので、沼津までの汽車の切符をもらい、南風崎《はえのさき=佐世保市》駅から引揚列車に乗った。初めの間はよかったが、途中からどんどん乗り込んでくる人で身動きもできないようになった。引揚者だけのゆっくりした道中などの甘い考えはふっとばされた思いをしたほかに、途中の記憶はない。三池子は下関で雲丹《うに》を買った覚えがあると言っている。
  
 沼津に太郎彦君(三池子の弟)が迎えに来てくれていた。山本一家は皆無事に帰国し、土浦《=茨城県》の引揚者寮にいると言う。太郎彦君は城大在学中、学徒出陣《がくとしゅつじん=太平洋戦争下学生の徴兵猶予を停止し軍に入隊・出生させた》で海軍航空隊に入り台湾から復員し、丁度仁科《にしな=静岡県》にきていた。
 長谷川一家は父と妹幸子とが仁科に居り、末妹典子は金沢の昭のところへ行っていた。
 弟昭は和歌山の学校を辞めて金沢に移り結婚したという。長姉総子は、神戸で度々空襲に焼け出されながらも三人とも無事で、甲南病院の中に住んでいる。次姉保子一家は、北鮮平安北道《ピョンアンプット》安州から闇船で京城《ソウル》に出て、四人の子供も皆無事に連れて帰り、赤井の本籍地和歌山に住んでいる。妹の光子一家は、広島で泉蔵君が亡くなり、その後に原爆をうけた。子供三人無事で泉蔵君の家、浜寺に移ったあと、光子は浜辺で拾ってきた焚《た》き物の爆発で両眼を失明したと言う。子供らを浜寺に預け、自分は神戸で六さん(姉総子の亭主、眼科医)に面倒を見て貰っている。仁科は、伊山伯父様は亡くなられ、レイ伯母様がおられ、父は寺の離れをお借りしている。東京の家財のほとんどは送ることの出来ぬまま空襲で焼いてしまったので、売り喰いの材料もなく暮らしていた。

 私たち四人は一月の末仁科に着いたが、この「家」にゆっくり骨を休める余裕はない。朝鮮を出るとき日本円を一人千円ずつ持って帰られたのだが、慌ただしい出発で現金をつくる暇はなかった。荷物はリュックに詰めたものだけ、帰国後の伊豆では朝鮮以上になけなしの売り喰いになる。
 一日も早く収入の道を掴《つか》まねばならない。高周波の工場が東京北品川にあるので上京して千歳烏山《ちとせからすやま=東京世田谷区》の会社の寮に泊まり、元院長の高田さんや一緒に帰国した者たちと会社に交渉したが何も得るものはなかった。城津《ソンジン》では二万円余りの退職金の証書を渡されたが(その頃の月給は四百円位だった)、会社の資産は凍結された由で退職金は出ない。会社に就職のあてもない。
 大学の内科教授の所に行った時には、田舎の食べ物の有るところにいるようにと言われた。戦後元の陸海軍病院が国立病院になり城大の教授は帰国後諸所で院長になっておられ、多数の城大関係者が就職していた。私の帰国したときはもう入り込む余地はなく、訪ねて行った久里浜《=神奈川県横須賀市》国立病院にも五人いた。

 クラスの丹羽が横須賀に、宮田が逗子《ずし》に引揚げているので会いに行ったが仕事の宛は無い。丹羽はフィリッピンから復員し東京の病院勤務、宮田は平壌《ピョンヤン》から脱出し引揚者寮の一室で開業をしていた。

 土浦にも行った。山本一家は大房の引揚者寮の中の桃源寮の一部屋に住んで、
 おじいさんはここから東京に通って警視庁で外人相手の通訳の仕事をしておられた。このお仕事は都知事安井さんの世話ときいた。非番の日にはお茶の水にある大学予備校でも働いておられた。ここの引揚者寮にも開業医がいた。
 無一文で開業の宛はなく、自力で就職する宛もない。山本のおじいさんが骨折ってくださり、松崎町《=静岡県伊豆》の佐藤弾さんの紹介で下田町の河井病院に就職することが出来た。ここは外科と耳鼻科とをご夫婦でやっておられ、私のために内科の診察室を新たに設けてくださった。弾さんはおじいさんの従兄で、院長ご夫婦のお父様と親しくしておられた。色々と無理な事があったろう、どなたにも大変な御思を受けている。

 下田には私一人が先に行き母屋の一部屋を当てて下さった。何時ごろだったかはっきりしないが二月の末だったと思う、火鉢に火がいれてあった。間もなく病院に近い了仙寺横の貸家を借りてくださったので妻子四人の暮しになった、六、三、二畳の家だった。

 父と幸子とはそのまま仁科にいて貰うつもりだったが、腎臓を悪くした典子が金沢から戻ってきて三人が下田に引越してきた。このあたりのいきさつは分からない。そのうち神戸からオオクン(長姉)が衰弱した光子の手を引いて連れてきた。このあたりのいきさつも分からない。
 どこも困りきっていたときなので、しわ寄せは全部長男の身に掛かってきたのだろう。

 一番苦労したのは三池子だ。狭い家に八人。舅《しゅうと》、小姑《こじゅうとめ》のそれも盲《めしい》と病人の二人がいる。収入は病院からの俸給だが、開いて間もない内科には患者さんは何人もない。切り売りする物はなく、配給の米などは麦に代え、金に替えた。五歳と三歳の子供を抱えて死に物狂いの毎日だったろう。七月には ななこが生まれた。

 典子の手術は河井先生のおかげで、幸いに医師会の講演で下田に見えられた千葉大学の中山教授(河井先生の同期)に執刀《しっとう》して戴くことが出来た。河井先生は手術、入院の費用も請求してくださらず、「地獄で仏に会う」とは正にこの事である。父が弾さんからお借りしてきたお礼のお金を教授にだしたが、受け取ろうとはなさらず、私にこれの分は河井病院のために働いてくれと言われた。中山恒明教授は当時日本の外科の第一人者と言われている方だった。

 典子は順調に快復して、後に河井先生のお父様のお世話で下田税務署に勤める事が出来た。三池子が頑張ってくれて光子も元気になり、ななこも栄養失調にもならず肥立《ひだつ=日がたつ》ってくれた。この間の苦労について三池子は何も言わない、どんなに辛かったことかと思う。

 内科の患者さんが段々増えてきていた頃、九月に突然河井先生から西伊豆に村医の空いた所がでたので行かないかと言われた。有難いお話だが、私のために内科を開いてくださり、ようやく患者さんが増えてきているときに出て行くのは申し訳けないことと思った。それは構わないし行く方が良いと言われるのでご厚意に甘えることにした。当時郡医師会の副会長をしておられ、後任の推薦に有力だったのだろう。
         
 加茂郡安艮里(アラリ)村は伊豆西海岸にある千人余りの漁村、土地の有力者の婿《むこ》さんが復員して開業していたのが急逝《きゅうせい=急に死去する》されたのだと言う。村有の村医住宅があって無料で貸してくれ、経営は自営で収入は全部自分のものになる。電話も村もちだったが後になって自分もちにしてくれといわれた。
 診療所には前からの薬品が置いてあるので、これを買い取ることにして薬屋に値段を付けて貰った。支払いはすぐにではないので全くの無出費、借金無しに診療所を持つことが出来た。落ち着いた後に、父に「安艮里診療所」の表札を書いて頂き玄関に出した。
 行くと決まると、すぐに赴任した。典子は仕事があるので父たちと下田に残り、家族五人が船で安艮里に行った。港に着いたとき、村のおかみさんたちが大勢ショィコを着けて迎えにきてくれていた。私たちの引越し荷物は布団の他は両手に持ったものだけ、村の人たちは何と思ったことだろうか。


編集者
投稿日時: 2006-11-24 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その12
 同僚医師の選んだ道

 高周波病院医局は内科三、小児科、歯科各二、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科、耳鼻科各一、薬剤師二の構成で、産婦人科医長が院長、小児科医長が副院長、内科の一人と歯科とは朝鮮人だった。内科の一人は敗戦直前に応召したので、八月十五日以後の内地人医師は十人で小児科の一人は女医さんだった。

 内科医長の私は昭和十三年、外科医長は十四年、まだ工場内医務室の時からの古参者で、他の八人は十六年病院開設前後にきた人たちである。工場は十二年の創業なので、私が赴任した頃からの従業員には草創期《そうそうき=くさわけ》に一つ釜の飯を喰った同志感の繫《つな》がりがあった。

 日本が負け工場の仕事の様子は変わったようだが、病院は電気、水道等の係と同じように仕事を続けた。内科には赤痢の入院患者もいた。しかし二十三日にロスケがきてからは医療のことなどは論外の混乱状態になり、八月の末に病院は解散、高周波病院は消滅した。
 解散後の私のことは、すでに記した。

 抑留邦人が十数人の残留者を除き二十一年十一月に城津《ソンジン》を引き揚げるときは、婦、歯、外、内科の四人の医師が残っていた。婦、歯の二人は脱出を失敗して残されていたので、最後まで自発的に残留をしたのは外、内の二人である。
 ドイツ語で内科、外科の二つをグロース(大)ファッファ(科)という。日本では古くから内科は本道と呼ばれていた。私たち二人は別に申し合わせた事はないが、混乱のときにもずっと仕事を続けていた。
 私としては医の本道の矜持《きょうじ=自負》であり、全く想像もしていなかった未曾有《みぞう=いまだかってない》の状況に当たって対処すべき「医師のあり方」は、一つしかないと迷うことはなかった。
 他の六人が取ったいき方に、私には容認出来ない事があったが、ここではこれ以上記すのを止める。

 以上の文だけでも ここに入れ印刷しようと思ったがそれも止めにした。

追記

 記念誌を印刷するときに、(イズレ書クコトニナロウ)を消さずにしまい、「同僚医師の選んだ道」は表題だけになった。高周波病院の所で高田さんのことを載せただけで、断りを書いた。
 以下の記載は自家の記念誌の末尾につけて置くものとして残す。事情を知っている安藤、本庄君の二人には送っても良いだろう。

 1

 敗戦直後まだ鉄道が動いていて、北からの朝鮮人が多数南におりているとき、いち早く同僚の外科医員がいなくなった。予備役軍医大尉で大学は私の後輩になる。戦地の経験から敗戦がどんなものか知っているのだろう。ロスケの来る前にまだ小さな子供と細君を連れての決断だった。京城《ソウル》に行けたものと思っていたが、ずっと後になって知った話しでは三十八度線を抜けられずに北朝鮮で冬を越し、自分も発疹チフスにかかり、大変な苦労をしたと言う。

 2

 病院社宅から立ち退きを言はれ、引越しをして間もない十月の朝、二軒さきの家にいる看護婦養成所の生徒が「目をさましたら家の人たちが居なくなっている」と言ってきた。
 耳鼻科と皮膚科の二家族が引越し先で同居していて、これと歯科医員の家族とが親戚の会社の技術系課長一家と計画した闇船で脱出に成功した。身寄りの無い子供らを職員が預かって面倒を見る事にしていたのだが、生徒らは置き去りにされた。この一行は無事南鮮に着き、京城《ソウル》出て年内に内地に還えった。帰国後一人は細君を亡くした。また一人は早く亡くなり会わずに仕舞った。

 3

 ロスケの乱暴、狼藉《ろうぜき》が始まると、百人余りの者は、人民委員会から朝鮮復興に協力を求められた。病院の医師では小児科医二人は外されていた。
 一人は女医さん。ロスケにとっては、医師も看護婦も若い女として狙《ねら》う対象に変わりはない。独身で両親と同居していたが、ひたすら身を潜《ひそ》めていて、年が明けて無事帰国した。東京で私の一年上の先輩で立正会の友人と結婚し、その後も何回か会っている。

 も一人の小児科医は副院長、工場の幹部の家族と朝鮮人の工員の家族との診察態度の違いが気に入らぬので私は嫌いだった。私たちには慇懃《いんぎん=丁寧》であり、細君も社宅では内助の功に励んでいる感じだった。私は副院長就任はその人に非ずと反対したが、敗戦の非常の時に院長を助けることはなく、北から逃避中の患者さんからは不満の声を聞いた。ロスケが来てからは、病人を診ることはしなくなり、年が明けて一般の者と一緒に闇船で帰国した。
 帰国後は東北の港街に精神病院を経営していたようだ。三十四年頃に全国の医師名簿を調べたとき、経歴に城津《そんじん》高周波工場付属病院長とあった。この人らしい「故意の誤植だな」とおかしくなった。城津の仲間でこだわりのない細君たちが訪ねていき、一番羽振りが良くて大いに歓待されたと話してくれたが、私は近くに観光に行ったときも声をかけなかった。歯科医長の葬儀のときに初めて会ったが話はしなかった。

 5

 歯科医長と高田さんについては先に記した。
編集者
投稿日時: 2006-11-24 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その11
 私の引き上げ

 皆を送り出した後はわが家は親子四人だけになった。帰国を認められなかったのは工場の技術者と医師の八十六人と其の家族、併せて三百人位で、高周波病院の職員は外科の安藤医長の一家四人と、ほかに元院長の産婦人科医と歯科医の二人がいた。この二人はやはり抑留を指名されて元の城津道立病院に勤めていた。家族をさきに帰しておいて、そのごに元道立病院院長らと闇船での脱出を企てたが失敗して単身で残されている。

 最後の闇船が出る前に、これで抑留日本人は殆《ほとん》どいなくなるのだから我々の役目は済んだ。出来れば一緒に帰ろうと思い、安藤君と二人で工場長に交渉に行った。もとの工場長室にはモスクワ帰りだと聞く背の高い男がいて、通訳を介しての談判だった。日本語を知らぬ筈はあるまいが、これは体面なのだろうと思った。

 二人の帰国希望申し出には頭から「ニエット」(NO!)。こちらは日本人がいるから自分で残ったつもりなのだが、そんな事話したら大変な事になるだろう。日本にいる親妹達が消息不明なのが心配なこと、七十歳を越している父は家を空襲で焼かれて、田舎に移ったあとどうなっているか安否が不明でいる。京城《ソウル》にいた妻の両親弟妹達の消息も全く分からず毎日心配している。何とか帰らして欲しいと、こちらは唯懇願するしかないが、何を言っても向こうも答えはニエットしかない。最後には、自分達は残ることにするが妻子は帰らせて欲しいと言ったがこれも「ニエット」。家族を帰らせ身軽になると脱出をするかも知れぬとあからさまに言う。
 
 帰らせてくれぬとはっきり分った後は腹をくくって暮すしかない。最後の闇船を送ったときには大きな感慨はなかった。何時帰られるのかは全く分らない。一番初めに協力を求められたとき、国交が開かれるようになれば一年に一と月間位の休暇を出すと言われたのを思い出す。

 結果からみれば家族を先に帰らせなくて良かった。父母たちの心配を二三か月なが引かせはしたが、どちらの親にしても三人が身を寄せる事はとても出来るような状態ではなかった。

 我々北朝鮮にいた日本人を、労働力の無い婦女子を含めて抑留したまま、何故すぐに帰国させなかったのか、記録を調べたが分らない。ソ連の日本、アメリカとの交渉の人質だったのではなかろうか。抑留邦人の帰国の交渉は政府間の話合いではなくて、日本人の共産主義者(党員?)松村義士男氏等が奔走してくれた成果だと聞いている。アメリカがソ連に申し入れをしたが取りあわれなかったという。

 共産党と言えば、平壌(今のピョンヤン)に工業技術者総連盟ができて、日本人部会の部長になった常塚秀次君は、私の小学校、中学校からの友人で、京都帝大をでているが高校在学中に思想問題で停学処分を受けたことがあった。元山《ウォンサン》にきて、私が収容所で迎えの船を待っている時に会いにきた。北に残ってくれぬかという要請だった。勿論断ったが、ここまで来ながら残留の要請で船に乗せて貰えずに工場に連れ戻された技術者がかなりいたと聞いた。
 常塚自身は二十三年日本人が全員帰国するときに、反ソ行為の罪で逮捕され他の幹部十五名と共に帰国出来なかったし、城津《ソンジン》で日本人世話会の中心であり、工場復興に最も協力した岡野正典技師長も同じ罪でシベリアに連れて行かれた。帰国後常塚とは行き違って逢はずしまいになったが、岡野さんとは三十五年に会うことが出来た。ソ連とはツクヅク恐ろしい国である。

 帰国の予想は全く分らぬので冬を過ごす食糧の用意は済ましていた。二十一年《1946年》十一月十五日(私の誕生日)休みの日だったので安藤家と一緒に昼の散歩がてら朝鮮ソバを食べに出ていた、暖かい日だった。店を出て間もなく向こうから、帰られますよ!と言いながら駆けてきた人に会った。大喜びで家に帰り帰国の仕度に掛かろうとした時、数人の技術者と私たち医師二人は別だと言われた。あがいても、どうしようもない事なので帰国を諦《あきら》めていた。

 みなの出発当日の十七日の朝、貴方がた二人は帰ってもよい、との知らせがきた。慌ただしい出発である。リュックはかねて用意していたが、持って行かれない品物を現金に替える時間はない。(一人一千円までは日本に持ち帰られたのだがこの時には四千円に満たない額しか手持ちはなかった)。

 正式の引揚げだから双浦の駅まで運んでくれたが、あとは自分の力で運ばねばならない。子供二人(三歳八ヶ月と一歳十一ヶ月)にも自分の物はずっしりと背負わせた。背中と両手とに持てる物を大急ぎで運んだ。昼過ぎにはもう駅に行かねばならない。
貨物車に乗り込むのに一人一人厳重に名簿と照合していた。乗ったのは夕方で出発は真夜中になった。(この間に名簿外の軍人三名はなんとかして乗せることが出来たが、途中の駅で捜索を受け、隠すのに大変だった)。
 
 私たちの出たあとに十人余りの技術者が残されたが、この人たちも間もなく帰国を認められて元山《ウォンサン》の収容所にいる間に一緒になれた。

 セメントが残っているほこりっぽい貨物車にどうにか横になり、夜になって出発したが汽車は石炭の火力が弱いとかで双浦と城津《ソンジン》間のトンネルのある坂をなかなか登れない。四キロあまりなのに城津駅には朝になって着いた。この調子で途中も止まっている時の方が長いような走り方。その度に鼻薬《はなぐすり=小額のワイロ》が必要だったと言う。

 三日がかりで元山《ウォンサン》の収容所のある文坪駅に着いた。ここからは荷物は自分で運ばねばならない。布団《ふとん》包はどうにも持てないので、布団は二枚だけにし、他は皮を剥《はが》し布だけにして、綿は希望する人にあげた。寒い収容所で重宝された。

 収容所は工場の社宅だが城津《ソンジン》のとは大違いで、窓も畳も荒らされたあとの、風が吹き通しのあばら家だった。何とかつくろって毎日、何時来るか分らぬ船を待った。後ろの丘に登ると海が見える。船が見エルカーアと声をかけながら皆がよく登っていた。城津の者と同じように、闇船で帰ることの出来なかった人たちが各地から三千人くらい集まっている。

 水道はなく、掘り抜き井戸《=地下深く掘って湧きださせる井戸》の周りはかちかちに氷が張りつめている。食糧は小豆と葡萄糖《ぶどうとう》、塩鮭が配給されるだけなので、持ってきた食糧の他は収容所の柵の外に食糧を売りに来るオモニ(お母さん=朝鮮人の小母さん)から買うか、物々交換で購めねばならない。
 燃料も配給がないので各自が集めねばならない。一と月余りの間に空き家になっている大きな建物が二つ壊された。私たちはそのおこぼれを分けて貰って暖をとり炊事をした。

 私たちはここでも医療室を開いたが、ロスケの責任者は女医の軍医中佐だった。発熱者を発疹チフスではないかとしつこく聞く。そうだと大変なことだが伝染病の発生がなかったのは、本当に幸いだった。明日にでも船が来るかも知れぬのに、間違って伝染病だと頑張られると帰国は一層遅れることになる。

 一と月過ぎて、ようたく待望の船が来た。乗る前に広場に並ばされ、代表がソ連軍人に向かって感謝の挨拶を読み始めた。ロスケはすぐ止めさせて、代表を反対の日本人の方に向かせて日本人に聞かせるようにして読み上げさせた。これがソ連式なのだ。

 引き上げ船、栄豊丸には十二月十九日に乗り込んだ。この貨物船は一般邦人《ほうじん=特に外国にいる日本人を指す》に当てられていたのだが、ソ連から帰国の兵隊も乗って予定の倍の人数になったようだ。船底から甲板のすぐ下まで十段にも床が作られ、坐ると頭がつく位の高さだった。六ノットの船は、三日三晩かかって佐世保についた。私たちは甲板のすぐ下の場所だったので、一夜が明けて暖かくなると、天井に張りつめた氷が解けて雨に降られる目にあった。

 同船した兵隊は、ソ連から最初に帰還してきた者たちで病人が多く、甲板には下痢便がたれ流されていた。何人かは航海中に亡くなって水葬にされた。また天然痘《てんねんとう=法定伝染病》もでて、佐世保入港後一般人は別の船に移されて二週間、正月は船の中だった。
 陸に上がって更に一週間とめられた。一緒の頃上陸した台湾からの引揚者が、隣の宿舎にいた。ぱりっとした服装に装身具をつけ、整理された荷物を持っていて、みすぼらしい朝鮮組とは対照的であった。

 城津《ソンジン》を出て二か月かかって、一月末、ようやく家族四人は父が疎開している伊豆に着いた。
                         
 以上 引揚げ終り

 昭和63《1988年》.3.30
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投稿日時: 2006-10-23 7:56
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その10
#3  邦人の生活と脱出 闇船

 敗戦の後の双浦地区には工場の従業員と家族のほか、北から下りてきた人を併せて日本人は五千人あまりいた。この中心は工場長だがロスケが来るとすぐ、工場長と幹部とはソ連軍に連れていかれた。技師長が拉致《らち》されなかったので、この人を中心に工場の有志の若手社員が尽力に立ち上がってくれた。
 危険な道を京城《ソウル》本社との連絡に三十八度線を往復もした。ソ連軍、朝鮮人との折衝《せっしょう》には、大変な苦労を重ね、やがて日本人世話会として活動するようになった。初めは北からの避難者の受け入れ、死亡者の埋葬、住居、食糧の配分等から無職者の帰国促進、後には他地区との連絡、闇船の計画交渉、編成、運行等大変な仕事をやり遂げた。そのおかげで混乱期を過ぎた後には殆ど犠牲者を出すことなしに、五千余りの者は帰国することができた。大きな功績は知る人のみぞ知る。感謝の極みである。

 八月九日ソ連軍が満州と朝鮮に攻め込んで来たので、家族の疎開が始まって一部が移動している時敗戦になり、この人達は双浦にすぐ引き返してきた。十五日以後も鉄道は動いていたので、北から朝鮮人が大勢乗り込んで南下していた。双浦から日本人は極く一部の者がこれに乗って行き、京城《ソウル》に着いたのもあるが、途中北鮮で抑留され収容所で冬を過ごしたのもいる。(第一次脱出)
《ほとん》ど全員は双浦を離れることをせずにいたが、一時は全員南下する話があり、その時には入院患者の動かれない者をどうしようかと思案したこともあった。もしここを出ていく事になっていたらもっともっと悲惨な事になったろう。北鮮の地区によっては、「敗戦後すぐロスケが来る前に三十八度線から南に逃げておくべくだった」と、責任者を非難する記事を読んだが、双浦では動かなかったのが最善だったと信じている。

 ソ連軍の乱暴狼藉が少なくなり、かなり治安が落ち着いてきた十月、工場の技術系某課長家族とその親戚の一団が船を仕立てて脱出に成功した。一行は無事南鮮に着き、京城《 ソウル》に出て二十年秋には日本へ帰っている。夜間極秘の出発で、病院の同僚もいるが(コレニツイテハ別ニ記スコトニナロウ)私は全く知らなかった。朝鮮側でも不意打ちだったのだろう、以後は警戒が厳しくなりこれに習って企てられたのは全て発見され、失敗に終わった(第二次脱出)。
 年を越して暖かくなってからまだ移動禁止令は解けてなかったが、清津《チョンジン》、咸興《ハムフン》、元山《ウォンサン》等各地の日本人世帯会との連絡が取れるようになった。交渉はなかなか進まなかったが二十一年六月にようやく南への移動が黙認された。
鉄道貨車で三十八度線近くまで乗って行きあとは徒歩で山間を通り、川を渡って三十八度線を抜け、京城《ソウル》にたどり着いた。この一行は働き手のいない家族、病弱者、老人達が主な四百人の第一陣だったが、そのごすぐ鉄道貨車による南下はこの一回だけで中止された。元山《ウォンサン》にコレラが出たためと聞いた(第三次脱出)。

 六月下旬からは海路で直接南鮮に行くことになった。所謂《いわゆる》、闇船で機会船や帆船で希望者の順に九百人が双浦の港を出発して行ったが、三十八度線を越える前に捕まえられて、双浦にもどされた船が多かった。家財道具を処分して出て行ったのでもどされたときは僅かな身の回りの物しかなく、次の出発まではそれまで以上の苦労だった。この闇船もまた中止になった(第四次脱出)。
 世話会は計画を立て直して、南下は九月初めから再開された。今度は順調な軌道に乗って次々に双浦の港から出て行った。船は沿岸に近いと捕まえられるので陸の見えない遠くを航海し進路を誤ったり、嵐の中を漂流したり、どの船もいろいろの危険にあい苦労したが、幸運にみな南鮮の注文津に着くことが出来た。ここからは日本の迎えの船で内地に送られた。吉州の人々も城津《ソンジン》出てきてこのルートで帰国した (第五次脱出)。
 私と一緒にいる六人がいつ船に乗るか、むづかしい問題だった。みな早く親元に帰りたいだろうが、始めのころは闇船の安全性は全く分らない、出発しても戻されるのが多い時もあった。九月半ばに、船頭も団長も最も信頼出来ると思われる船で送り出した。不運なことに船は台風に遭遇し舵《かじ》がこはれ、帆柱は倒れ、日本海を七日間漂流して命からがら注文津に着いたという。早い船は三日位で着いている。

 二十年九月、治安が落ち着くとすぐ、人民委員会から指名された工場の技術者は集められた席で、朝鮮独立と工場の再開に協力して欲しい旨の要請を受けた。私も指名にはいっていた。生活と安全を保証する、と云う。形の上では日本人の自発的協力参加だが、言葉のはしには断れば其の逆になるということだった。
この百人余りの者は闇船での帰国を許されず、二十一年十月に出た最終の船を見送らねばならなかった。

 ソ連軍が来てからは社宅やその他の建物がロスケに取り上げられるので、一軒の家にも合宿の部屋にも何所帯もが入らねばならなくなった。私たち十人が初めて病院社宅から引越したのは、六畳二、四畳半一間の家で四人家族の方と一緒だった。
 ここには初め風呂がなかった。何日もたたぬのに私はカイセンにかかった。往診先で感染したのだと云うと伝染病予防の必要を皆に説明するのにいささか説得力があったかも知れない。回帰熱《=急性伝染病》、発疹チフスでなくてよかったが、この媒介color=CC9900]《ばいかい》[/color]をする蚤《のみ》、しらみ退治には入浴と洗濯が一番の予防法だといって、この二つを皆に励行してもらった。
 移動禁止令が解けぬまま二十年は冬に入った。零下二十度以下になる土地なので、どうなることかと色々に心配していたが、社宅も、合宿も建物はしっかり出来ており、上水道は安全だったし、電気は豊富で十分な余裕があり無料で使うことが出来て暖房、炊事、洗濯、入浴に不自由することはなかった。
 城津《ソンジン》は、夏はアメーバー赤痢と細菌性赤痢、腸チフス、マラリア、冬は発疹チフス、回帰熱、天然痘等の伝染病が多い土地なので、その流行が非常に心配だったが、皆の衛生知識とこの施設のおかげで、よその収容所のような蔓延《まんえん》はなかった。天然痘と発疹チフスとが一、二あり、犠牲者もでたがすぐに隔離できて後は続かずに済んだ。厳寒の冬は電気暖房のおかげで火災はなく、ガス中毒も凍死者もなく、肺炎も極めて少なくて無事に春を迎えられたのは奇跡的ともいえる幸いだった。

五千人余りの抑留者の生活はまちまちだったが詳しくは知らない。初めの混乱期がすぎると、世話会中心の共同生活になり、着のみ着の儘だった人たちも何とか衣食に困らないだけの物は揃ってきた。応召家族の所も頑張り抜いた。働ける者は港の荷役に出たり、工場、商店、農場等で働いていたが、なかにはバクチで日を過ごす者がいたし、ロスケの家に食べ物を乞いに来ている姿も見受けた。市場では何でも買うことが出来るので不自由なく暮らしていた者もいる。また、ソ連軍司令官のマダムも、工場長の細君も、たれそれの二号も日本人だとのことを耳にした。真偽は分からぬが正規の夫婦はあったようだ。
                         
  抑留生活と脱出終り
               
  
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投稿日時: 2006-10-23 7:42
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その9
#2 十人家族の一年間

     敗戦の時のわが家は妻と八ヶ月、三歳の子の四人家族だったが、
     ロスケ《ロシア人をあざけっていう語が社宅を荒すようになってからは、内科医の ご主人が召     集された片山夫人と一歳の子と一緒に住むことにした。
     病院解散のあとに看護婦養成所の生徒と、工員養成所の     生徒との四人を預かり十人になった。

 ロスケが来てからは、乱暴狼藉が続き、女たちは坊主《ぼうず》頭になったものもいる。家の天井や床下に身を隠した。妻たちは昼は子供を抱いて家の回りをロスケの眼を避けて逃げ回り、夜は二人で裏山の大豆畑のなかに身を潜めていた。下の方でピストルの音がするのが良く聞こえたという。
 私は家で電燈を暗くして音もたてぬように息をつめて三人の子を寝かせていると、ガヤガヤと大声がし、ロスケが玄関の戸を叩く。壊されては困るので開けると、何人もが土足でどかどかと入って来る。一晩に何回か殆《ほとん》ど毎日のことで、こちらが抵抗しないのが分かっているので傍若無人《ぼうじゃくぶじん》だ。女がいないとわかると、押入れのものを放り出し、箪笥《たんす》の引き出しを抜き出し、持ちたいだけ持って出て行く。ある時、日中ジープで乗り付けてトランクに詰め込んで根こそぎ取っていった。この連中はロスケのほか東洋人もいた。八路軍《はちろぐん=1947年人民解放軍と改称》と聞いたが蒙古人《もうこじん=モンゴル人》の顔貌《がんぼう=顔かたち》と見た。

 片山さんの家は工員養成所の生徒が三人留守番でいた。ここは殆ど荒されることがなかったが、一人がソ連兵に捕まえられた。幸い捕まえられた仲間では一番小さかったので釈放されてきたが、他の人たちは連れ去られたようだ。
 九月になりロスケの襲撃がようやく少なくなってきた時、突然病院住宅に立ち退きの命令が来た、しかも当日の夕方までと期限付きである。この頃は今後どうなるのか見通しは全く五里霧中《ごりむちゅう=見通しがまったくたたない》で、すぐ近く帰国出来るとする者から、捕虜みたいに使役《特に雑役をさせる》に使われるとする者まで意見はまちまちで、実際に民間人もソ連軍に連れ去られている。

 零下十度以下になる土地で皆が冬を過ごすとなると大変なことになるが、五千人もの集団がそうすぐに帰国は出来まい。又日本人が居る間は面倒をみに残るつもりなので、私は長期戦を覚悟していた。
 若者三人が大八車《だいはちぐるま=8人分の仕事をする意》をさがしてきてくれて、片山家とわが家にある食料は全部、二個有った大豆カス(註)も積んだ。寝具、衣料も残らず選んだ。本は内科学三冊と治療学、細菌学、統計学の計六冊を選んだ。(翌日他の本を取りに行った時には、全部庭にほうり出されて焼かれていた)。引越先は六畳と四畳半の二た間で、この家にはも一つ六畳間があり四人家族の方がおられた。
  註 大豆カスは乗馬クラブ厩舎長の計らいでロスケが来る前に、病院職員は一個ずつわけて貰った。ドーナツ形の五、六十キロはあろう重たいもので、捨てた家が多かったようだが、わが家では引越のたびに運んでいた。もともとは馬の飼料だが、
ペンチやのみ、金槌などでほぐして一年間の食糧に大事に使った。
 
工場には工員養成所と看護婦養成所があって、地元の子女以外に内地で募集して連れて来た子らがいる。会社がこの子たちの寄宿舎生の面倒を見ることが出来なくなった為に路頭に迷う身になるので、身寄りのない子たちは職員の有志が引き取ることにした。わが家では養成工三人と看護婦生徒一人と、併せて四人を預かったので、家族は皆で十人になっていた。私たちは抑留者中屈指《くっし》の大家族で、この後も引越を何回もして段々広い所に移り、最後は技師長舎宅の応接間と座敷との二た部屋に住んでいた。
この子たちを預かった家庭で一番の問題は食べ物だったようだ。若者らの不満は自活をえらび、看護婦生徒も外に出て飲食店などに住み込んで働くようになった。なかには養いきれずに外に出した家もあるようだが、わが家十人の結束は終始崩れなかった。

わが家の主食は豆かすと海藻入りの雑炊、大豆粉ととうもろこし粉のパンに馬鈴薯で
干明太魚が主な蛋白源だった。朝鮮人の市場バザールは早々と開かれ戦時中乏しかった食料は米を始め色々と並んでいたが、その中では塩でかき混ぜた生ウニが安くて栄養価が高く、大豆パンに好くあったペーストとして大変重宝した。
お金があれば何でも手に入るので、各々の家の暮らしぶりは様々のようだった。わが家での現金や物々交換は、略奪が少なかった片山さんの衣類を売って作っていたが、十人家族の台所は大変だった。(私の家の衣類は殆どロスケに取られてしまった)。やがて若者三人は港の荷役《にやく=船荷のあげおろし》に出るようになり、工場が再開されると工場で働いて現金、大豆等の食料の支給を受け、これを日本人世話会に供出した。
私は初め市民病院に、後に診療所に出て現金を受けていた。その一部は世話会に渡していたが、残りは往診先で使ってしまったようだ。妻はこの間、私から現金を受け取った覚えは無いと言っている。

ロスケが駐屯部隊だけになると、治安は落ち着いてきた。私たちが追い出された病院舎宅にはソ連軍将校が家族と住むようになった。この細君達が服を作りたがっているとの話を聞いたので、片山さんと妻とは元のわが家にでかけていった。わが家のマダムは、早速今から始めて欲しいと言う。二人はそれからは毎日ロスケ宅に「通勤」を始めることになった。ミシンは使い馴れた自分のものだ。
彼女の示すスタイルブックと生地とで仕立て上げる仕事だが、マダムはつきっきりで裁断、裁縫の手伝いをし、昼と夕食と、間の休み時間とには自分達と同じ食べ物を手作りで出してくれる。昼前に行くと夕方まで仕事をさせて、食器の後始末などには一切手を出させない。帰るときには、何かの報酬を出すが現金ではなく黒パンが一切れのこともあり一山のときもある。メリケン粉、油、砂糖、煙草などのこともあり、何れも大変な貴重品だった。
休み時間に出されたケーキを食べずに、持ち帰って子供に食べさせようと思っていると、それは別にあげるからこれは食べてくれと言われる。十数軒ある隣近所のマダムたちから一仕事終わるのを待ち切れぬばかりに引っ張りだこにされた。

 治安が落ち着いてきたとはいえ、全然様子の分らぬ、言葉も分らぬ所に出かけたのだから大変な冒険だった。ロスケの兵隊はいるがマダムが守ってくれるので心配はない。仕事の割に報酬は少ないが二人分の食糧が無くてすむのだから大いに助かる。お土産は一家の潤い、団欒《だんらん》の貴重なかてであった。
マダムたちの生活は家によって違うが何処も切り詰めたもので、流してくれる品物は彼女らにとっては精いっぱいだったようだ。しかし男共が港湾の荷役に出て、一とにぎりの食料、大豆を支給されるのに比べると好い仕事と言える。

私は病院に、若者三人は工場に、片山さんと妻とはロスケの家に働きに出た後は看護婦生徒の前田さん(屋久島《やくしま》から応募)と子供ら三人が家に残っている。前田さんは家事一切と子供の面倒を全部取り仕切って、やりとげてくれた。皆が働きに出られて、十人もの家族が一年有余の抑留生活を無事切り抜けることが出来たのは、全く前田さんのお蔭だった。
  六人の脱出は後記する。

                           
  以上 十人家族 終り
編集者
投稿日時: 2006-10-22 20:47
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その8
敗戦と抑留、 引揚げ

 昭和二十年《1945年》八月~二十二年一月

♯ 一  二十年八月十五日の前後
♯ 二  わが家十人家族の一年間
# 三  抑留者の暮し 脱出 闇船
♯ 四  私の 引き揚げ
♯ 五  同僚医師の選んだ道
♯ 一  二十年八月十五日の前後


♯ 一  二十年八月十五日の前後

  朝鮮(ちょうせん) 威(かん)鏡(きょう) 北道(ほくどう) 城津府(じょうしんふ) 双浦(そうほ)
         
 日本高周波重工業株式会社 城津《ソンジン》工場付属高周波病院

 昭和二十年八月~二十二年一月

 昭和二十年七月の末に病院では内科医師と検査技師とに召集令がきて、早々に出征した。(二人は済州《チェジュ》島に配属、敗戦になり家族よりも早く内地に復員した)。

 八月になると広島に、次いで長崎に爆弾が落とされ、これは新型でマッチ箱の大きさでも物凄く強烈な力を持つものだと噂されたが、原子爆弾とは聞いていない。八日に工場従業員、病院では皮膚科医長が現地召集をうけ、一個大隊が編成されて病院の裏山に続く高地に陣地を構えた。九日、ソ連軍が満州に攻め込んできた。従業員の家族は西海岸に疎開することになり、病院の家族は十五日頃に予定された。

 以前から毎晩のように十二時ころにサイレンが鳴り、上空をB29《アメリカの爆撃機》の編隊が飛んでいっていた。サイレンが鳴ると病院に駆けつけていたが、工場には一回も爆弾は落とされなかった。北の清津(せいしん)、羅津(らしん)の港が目標だった。一度は日中に黒い小型の飛行機が低空を飛んできた、日の丸は付いていない。何もなしに飛び去ったが、その後に海上で銃撃を受けて負傷した船員が、病院に手当を受けにきた。ソ連の飛行機だった。ソ連軍は朝鮮にも攻め込んできた(羅津《ラジン》空襲は九日、滑津上陸は十三日)。家族の疎開は始まっていたが病院はまだだったまま十五日になった。

 十五日は正午に重大放送があるとのことで、病院の職員一同は事務室に集っていた、玉音放送である。天皇陛下のお声だというが、内容は聞き取り難い。日本は負けたらしい。だが、ある者は「これからロシヤと戦うのだから頑張れ」ということだと聞いている。

 院長は工場長室に行き、日本が負けたことを確認し、病院はこのまま診療を続ける事をきめてきた。内科と眼科の医師、看護婦、歯科と検査室の助手、事務員等の朝鮮人職員は、この時以後病院から姿を消した。

 家族の疎開は中止になり、京城《ソウル》まで行っていた列車はすぐ引き返して四、五日後に双浦にもどってきた。(後日この処置は種々批判されたが、私は当然の決断だったと思う)。

 城津《ソンジン》には双浦《そうほ》の一個大隊のほかに、一個旅団の軍隊がいてソ連軍上陸に備えていたが、軍の司令官と、府尹(市長)との連名の治安維持の布告がだされた。朝鮮人の内地人社宅襲撃の噂があって、夜警隊をくむ話もあったが病院社宅では何事もなかった。

 朝鮮がわではすぐに人民委員会が組織されたようだが、具体的な事は全く分からない。双浦では警察官も憲兵もいなくなり、朝鮮人の公安隊(保安隊?)が組織されて元の警察署を本部とした。私が初めて接触したのは彼らに軍刀を渡した時だったと思う。

 軍隊がいた為だろう、治安は保たれていたが、後にこの部隊はソ連軍に武装解除を受けた。帰国後に知ったのだが、この中に城大医学部同期生の松岡、高丸の二人がおり、また十六年に私が召集されていた会寧の陸軍病院も、城津《ソンジン》まで下りて来ていて、みなシベリアに連れて行かれた。  
 十五日以後も病院は日本人職員だけで診療を続け.入院患者も残っていたが、続々と北からの避難民が到着し始めた。ソ連軍の突然の攻撃で慌しく戦場から逃れてきた人たちで、満州の間島地区や、ソ連国境に近い羅津《ラジン》、滑津、会寧《フェリョン》等からここまで、ロスケを避けて二、三百キロの山間を十日間以上も歩き続けてきた。初めは家族皆揃って出てきたのが老人、乳幼児は殆どいなくなっている。病院で一、二泊休養をとり、さらに南下して行った。家を出てから初めての憩いの入浴、炊事、洗濯であったろう。

 南下を続けるという病人には薬を渡したが、無事内地までたどり着くことが出来たのはどの位いたろうか。南朝鮮に着く前に北朝鮮に抑留され、咸(かん)興(こう)や元山(げんざん)の収容所では発疹チフス《ほっしんチフス=法定伝染病》が流行して多数の死亡者が出たと聞く。病人を抱えて動かれない家族は別の合宿に収容した、その後移動禁止の命令が出てこの人たちはそのままここで冬を越さねばならなくなった。移動禁止令が出た時、双浦《そうほ》には五千人ほどの日本人がいた。

 敗戦の日のすぐ後に私の家に三人が訪ねてきた。
 初めに来たのは軍装の下士官で、応召時に会寧《フェリョン》陸軍病院での部下だった。「羅津《ラジン》の任地から元山《がんざん》の要塞司令部に連絡に行き、帰任の途中、城津《ソンジン》まで来て敗戦を知った。これから隊に戻るつもりだ」と言う。羅津は戦場になった所で、もう戻られる所ではない、もっと南の師団司令部羅南《ナラム》でさえ戦闘があったのだから、羅津の部隊はもう無くなっているだろう。日本は負けたのだから原隊復帰は考えないで、軍装は捨て、剣は土に埋めて南におりなさいとすすめ、ズボンなど着替えを渡した。

 もう一人は大学同期の吉野。「威鏡《ハムギョン》両道の山中で捕虜になり、部隊と徒歩で北上中、吉州辺りでソ連兵の隙を見て脱走してきた。家族のいる興南《フンナム》まで南下する途中だ」と言う。朝鮮語が上手なので一緒に脱走した朝鮮人と同行し、服装も朝鮮人になりすましてロスケの自動車に乗せてもらいここまで来た。これからもロスケの自動車で南下出来そうなことを言っていた。「何十日ぶりかの暖かい布団に寝て」次の日に出て行った。(後日の話では、ロシア語を勉強していたのでソ連軍の歩兵部隊の貨車に便乗して興南まで歩くことなしに行ったと言う)。

 あと一人は、大学医局の先輩で、滑津の工場病院勤務。上陸してくるソ連軍を逃がれてきた家族連れの工場職員の一群で、山の中を徒歩でここまでたどり着いた疲労困憊《ひろうこんぱい=つかれはてた》の仲間だった。この一群には子供連れがいたが 一、二日の休養では南下を続けるのは無理な人が多く、かなりな人数を残して本隊は次の日に南下して行った。
 三人とはもっと後になってのことになるが、内科の医師金君が来てくれた。十五日以後は病院に来なくなり病院社宅を引き払い、公安隊に出ていたが近く威境《ハムギョン》南道の両親の元に帰るので、お別れの挨拶に来たと言う。「一緒に行かないか、親元に行けば先生一家の面倒はみてあげられる、日本に帰る便も多いだろう」と言ってくれた。

 金君が十八年春に赴任してきた時には、御両親が揃って挨拶にみえられた。京城《ソウル》医等卒業の日本に馴染みきっていた真面目な男だった。ソ連軍侵攻で内地人職員の家族疎開が計画されるとき、「朝鮮人職員の家族が入っていないのは何故か」と憤慨して聞いてきた男だった。厚意は感謝したが日本人を残して自分だけがここを離れることは出来ないので、無事な帰宅を祈って別れた。

 双浦には八月二十三日にロスケの軍隊がきた。入院患者は出来るだけ減らしてはいたが、私が初めてロスケと出会ったのは病室を看護婦と回診している時だった。
 将校だけに乱暴はしなかったが、顕微鏡をだせというのがいた。責任者と思われる将校は、穏やかな態度で院長にベットの提供と病棟の一部開け渡しを要求してきたが、受け取りの証書をよこしさえした。このころはまだ通訳はいない、ロシア語を話せると称する朝鮮人が中にはいると飛んでもない誤解になることが多かった。
               
 最初に来たロスケは、戦闘を続けてきた兵隊でピリピリしていた…日本兵が隠れていないか各所の捜索は厳しかった。(会寧、滑津、羅司 書州では戦闘があり日本軍は山中に退いて反撃にでるとの情報だった)。合宿所の廊下で出会いがしらに機関銃を撃ち込まれた者、少しの不審な挙動で撃たれた者もいた。

 私の家に来たときは、入るとすぐ一人が私に機関銃をつきつけて、他の八、九人が一と部屋ずつ天井、押し入れの隅まで丹念に調べた後やっと銃を離してくれた。軍装品は早く処分したが背嚢《はいのう》だけは、帰国のさいに子供にしょわせて帰るつもりで箪笥《たんす》の上に置いていた。これを見つけるや、きっと振り向いて銃を構えなおした、肝《きも》の冷える思いだった。ロスケは私の腕時計を見つけて コレモラッチイクヨ といった素振りをして持って行ったが、初めにきた兵隊は他の物には手を付ける事はしなかった。

 このころの部隊は軍紀がまだ艮かったので、病院は外来だけにして診療を続けていたが、日を追って後から続いて来る兵隊ほど乱暴狼藉略奪がひどくなり、八月の末に院長は病院の解散を宣言した。

 ロスケが来てからも病院解散の前迄しばらくは、看護婦なしで外来と往診とをしていた、日本兵の捕虜《ほりょ》の長い行列を見送ったのは往診の途中だった。
 病院外来で診療をしている所に、公安隊の制服に軍刀を吊《つ》った男が訪ねてきた。「自分は〝解放〝で刑務所から出てきて、この地区の隊長をしている。前に肋膜炎《ろくまくえん》になった時にお世話になったので、何か出来ることが有ればしてあげたい」との申し出だった。「私は今、ここで患者さんを診ているが、家はロスケの略奪をうけているだろう。妻は子供を連れて逃げ隠れしている。昨夜私は家で八か月、一歳、三歳の三人の子を見守りながらロスケの略奪を眺めていた。妻は貴君も知っているK夫人と義山に身を潜めて夜を明かした。亦動かれない病人の所には往診に行くのだが.途中身の危険を感じることが暫しばある。病院に出て来ている職員は皆おなじだ。診療が続けられるように職員と舎宅、看護婦宿舎を守る手段をして欲しい」旨を頼んでみた。

 私の希望は早速実行され病院舎宅への道路 各社宅などに、赤い文字でロシア語の立て札や、貼紙をして良く見えるようしてくれた。職員に身分証明書のようなものも作ってくれた。文字は読めないのでどちらも何が書いてあるのか分からぬながら、早速の好意を非常に感謝したのだが、これは全く役に立たなかった。
 略奪に来るロスケは文字が読めないのか、舎宅の襲撃、略奪は続き、また道路で捕まった時この紙を見せてもひねくり回すだけだった。間もなく病院は解散した。

 彼は生命保険会社に勤めていたが思想犯で入獄していたという。その後失脚したようで別人に代わった。つぎの隊長もやはり“解放”された人だった。

 私は何度か公安隊の留置所(牢屋)に往診に行った。敗戦直後に憲兵隊、警察、検事、裁判所の人たちはいち早く姿をくらましたというが、捕まった人もあったようだ。工場の職員では朝鮮人工員に辛く当たったと思われた人たちが入れられていた。この人たちへの仕打ちが酷いので一言云ったら、自分たちの受けたのはこんなものではなかったという返事だった。人民裁判があつたと聞くが、この人たちのその後は分からない。後日私も此所に入れられそうな事があった、是は別に記す。

 ロスケは次々に別な部隊が来て連日連夜狼藉を繰り返している 何時まで続くのか。近く憲兵隊が来ると噂されて待ち焦がれている矢先に、当の憲兵隊将校が路上で兵隊に射殺された事件を聞き、不安が一層たかまった事もあった。

 二十三日ソ連軍の先頭部隊が行進してきた時、沿道には赤旗を振り万歳(マンセイ)を叫ぶ人が溢《あふ》れていたというが、ロスケの狼藉は内鮮の別はなく、暴行を受けた朝鮮夫人が自殺した話を聞いた。この話をした人は、「この行動をとった日本人は一人もいないが、朝鮮婦人は違うのだ」 と、民族の高い誇りを私に言いたかったのだと受けとった。

 病院は解散したが病人は居る。診察、治療を受ける場所が無くなったのだから、こちらから出向いて行くしかない、私は往診行脚《おうしんあんぎゃ》をはじめた。
 病院は解散したので以後の行動は職員各自の判断であり、同僚医師が選んだ道は色々で、中には私は憤りを感じていることも有るが、ここでは触れない (イズレ書クコトニナロウ)。

 病人といっても多くは栄養失調である。北から下りてきた人たちは着の身着のままであり、独身の若い子は食べるすべを知らない。子供を抱えた出征家族には略奪の後、売り喰いの財源は僅《わず》かしかないのもいる。もすこし後になると、日本人世話会(これは十二月に正式なソ連、朝鮮に対する交渉代表になった。会長は元の高周波病院事務長)ができ、働ける者は作業に出て食料を受け、これを供出して共同生活になったが、当初は弱い者は助かりようはなかった。私の往診鞄《かばん》のなかは明太魚の干物、大豆と唐もろこしのパンとが主だった。お金が何よりだが、先行き分からぬ売り喰いのわが身に、そう置いてくる余裕もなく、せめてもの思いしか出来ない。

 通過部隊がなくなり、駐屯部隊だけになってようやく治安が落ち着くと、すぐに病院は朝鮮人民委員会によって市民病院として再開され、院長には城津の長老の開業医の一人がなった。元の病院の職員では、外科の安藤医長と内科医長の私とが協力を求められた。経営は事務長が全て取り仕切っていたようだが、この男の素性は知らない。

 私は其の後も往診を続けていたが、間もない時に事務長から詰問をうけた。勝手に往診をしていて薬は何処から出しているのか、薬代や往診料をどうしているのかが主な問題だった。
 これは患者の求めで行っているのではない。寝込んでいる人の生活指導と慰め、励ましが主眼だ。病院に来られない人の看護も必要だ。特に伝染病の早期発見はこちらから出ていかなけれ不可能だ。薬代や往診料等を受けるすじはない。そんな話をしたら其の後は何も言はなくなった。

 何日か後に往診の途中、公安隊の隊員に隊に来てくれといわれた。鞄を取り上げられて誰もいない部屋に案内され、用は何かと聞くと、隊長が帰る迄待てという。暗くなる前に隊長が来て、失礼しましたといって帰らせてくれた。もっと前のことだが歯科医長が歯科用の金隠匿《いんとく》の疑いでほうり込まれた例がある。何があったのか説明はない、他に心当たりはないから事務長の仕業だろうと思った。

 市民病院は後日、ソ連に取り上げられたので、元の工員クラブに診療所が開設されてここで私たち二人は働くことになった。所長は私たちよりももっと若い開業医で、小児科を診ていた。正式の引き揚げまでここが仕事場になった。

 感心したのは、市民病院開設と同時に此所を基幹に医学専門学校が早々と発足した事だ。北朝鮮には医学校は二校しかなかったので、緊急を要したのだろう、南には大学一つと医専が五つあった。外科医長は解剖学を、私は細菌学を予定された。

以上 二十年《1945年》八月十五日の前後 終わり。
編集者
投稿日時: 2006-10-19 19:55
登録日: 2004-2-3
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朝鮮生まれの引揚者の雑記・その7
16-補

応召追加 会寧《フェリョン》のこと

   威鏡北道《ハムギョンプット》 会寧邑《フエリョンむら》
   東径129度、北緯42度に在。(ソレゾレ日本デハ、九州五島列島ト北海道襟裳岬《えりもみさき》ニアタル)、冬は零下二・三十度まで下がり夏は三十度を越す。私が行った十月にはもう木の葉は落ちていた。雪は少なく凍土は五月頃迄解けない。
   豆満《トゥマン》江を挟んで対岸は満州で、ソ連国境にも近い。人口 二万二千、内内地人三千七人(昭和十七年)。木材、石炭、牛、緬羊《めんよう=羊毛をとる羊》、穀物が主な産業。満州間島省との貿易が盛んである。駅前から7本の商店街が陸軍病院前を通り歩兵75聯隊迄続いている。これと直角に「銀座通」がある。
   邑《むら》長の丹下政之助さんは警察署長を辞めて高周波城津《ソンジン》工場におられたので、お訪ねしていた。敗戦後丹下さんは霹助《ろすけ=ロシア人をあざけって言う語》に捕まえられて行方不明、奥様は山の中を歩いて城津迄たどり着かれ、収容所で寝込まれたまま栄養失調が快復できずお亡くなりになった。私は僅《わず》かなお金と米とをお分けすることしか出来なかった。

 この地方には旧石器時代からの韓民族の歴史があるようだが、以後 粛慎、靺鞨、悒婁、沃沮、高句麗《コウクリ=古代朝鮮の国名のひとつ》(BC1-686)とツングース族の支配下にあり、金(1115-1234女真族ツングース) 元(1270-1358 蒙古族)と続く。朝鮮民族の朝鮮統一は新羅《シラギ》(BC7-935)のあと、高麗《こうらい=朝鮮王朝のひとつ》(915-1382)になるが北のこの地方までは届かなかったようだ。

 1392年に李氏朝鮮《りしちょうせん=朝鮮の最後の王朝》が興り会寧には1434年会寧都護府《とごふ=唐で周辺支配のために置かれた官庁》が置かれている。この李氏朝鮮も1637年以来女真族=満州族の清国《しんこく》の属領にされ、1910年には日本に併合される。          

 日本との関係は文録の役、慶長の役(壬辰の乱、丁酉の乱(1582-8)に加藤清正は、1582年に会寧まで遠征しており、更に豆満《トウマン》江を越えて間島にも進軍したといわれている。

 日露戦争(1904-5)の時には元山に上陸した第2師団が戦闘をしながら北上し、明治38年8月に会寧に入城している。9月6日講和の時の休戦協定は会寧《フェリョン》の東北12キロの鉄洞という部落で交渉されたが、ここだけは纏《まと》まらぬままに両国の講和が締結《ていけつ=条約をとりきめる》している。

 昭和16年10月に私は会寧陸軍病院に配属され17年11月までいた。
 朝鮮は北に羅南《ナラム》の第19、南に京城龍山の第20師団の二個師団があった。
 会寧には第19師団の歩兵第75聯隊、工兵第19聯隊、第2飛行団飛行第9聯隊、野戦垂砲兵第15聯隊、高射砲兵第5聯隊、補充馬廠《しょう=うまや》、陸軍倉庫、憲兵隊、陸軍病院があり朝鮮では京城、羅南に次ぐ軍都であった。

 当時は関東軍特別大演習(閑特演) と言われた臨時召集で、25万の関東軍兵力は75万に増強し野戦部隊が編成され、そのまま16年12月の大東亜戦争の宜戦布告につながった。羅南の各部隊も野戦と留守部隊とに分けられ、野戦病院も編成された、私は陸軍病院付きなので留守部隊に属し、野戦の演習訓練は全然経験せず普通の病院勤務の事しか知らない。

 なお、開戦後これらの部隊はビルマ、フィリッピンに派遣された。一部はフィリッビンには行かれずに台湾にあがったのもある。
 18年頃までは精鋭を誇った関東軍《かんとんぐん》はその後主力部隊の殆どが南方戦線、支那、大戦末期には南朝鮮 (済州島=米軍上陸) に転出していて、20年には対ソ連作戦は満州の大半を放棄して朝鮮に近い満州の山中にはいって抵抗することしかできぬ弱体になっていたようだ。それでも陣地と兵力を保持していた部隊は北満の各地で停戦命令のでるまでソ連兵と戦い続けている。北朝鮮でも羅津、清津に上陸したソ連軍に、羅南部隊は陣地を構え敵を撃退し19日に停戦命令を受けるまでソ連軍の進撃を許していない。これに就いては別に記す。

編集者
投稿日時: 2006-10-19 19:27
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
朝鮮生まれの引揚者の雑記・その6
応召
             昭和十六年九月~十七年十一月

 十六年九月何日だったかは忘れてしまったが赤紙がきた。小児科の豊田君が一諸だったと思うが出かけた時は一人だけだった。召集らしい様子が分からぬよう隠密に出発することと言われた。病院で壮行会を催してくださった、鱈《たら》の料理だった。
 門出に「海征かば」を歌ったが自分自身が「草ムスカバネ」の身になるなどの実感はなにもなかった。

    海征《ゆ》かば  みずく屍《かばね=しかばね》  山征かば草むす屍
       大君の辺《へ》にこそ死なめ  返り見は  せじ
 
 私は昭和十三年一月に初めて実施された第一期軍医予備員教育を受けていたので、身分は予備役陸軍軍曹、召集された時は軍医として従軍することになる。
 大学を卒業した年に京城《ソウル 》龍山で徴兵検査を受け、第一乙種合格と言われた。甲種合格だと殆《ほとん》どは現役でその年に兵隊にいく。乙種合格には第一と第二とがあり、その次は丙種合格、ここまでは国民皆兵と言われていて一旦緩急《いったんかんきゅう=ひとたび緊急な大事が》ある時はこの順番で軍に召集される。時勢は何時召集令状(赤紙)が来るかわからぬので、一乙の者は殆どこの教育を受けた。
 十六年十二月八日大東亜戦争《太平洋戦争》が始まってからは召集は丙種にまで広がり、まさか召集はあるまいとこの教育を受けなかった者は二等兵で召集され一年間は普通の兵隊、すぐには軍医にはなれなかった。

軍歴確認書

 昭和十三年 -月  九日 衛生伍長の階級を与う
              軍医予備員候補者として歩兵第七十八連隊に入隊
         二十三日 衛生軍曹
              軍医予備員を命ず                          
         二十四日 在営期間満了除隊

 昭和十六年 九月 十六日 臨時召集により歩兵第七十三連隊に応召《おうしょう=在郷軍人が召集に応じて参集》
                衛生曹長の階級を与う 見習士官を命ず
                羅南《=ナラム》陸軍病院付
         十月 十五日 会寧《=フェリョン》陸軍病院付
 昭和十七年 十月 十五日 軍医少尉補 会寧陸軍病院付
        十一月 三十日 召集解除
 
 この軍歴書は六十一年に横浜刑務所を退職するつもりでいたので年金の足しになるかと、羅南のは高丸(大学同期生、一緒に召集され羅南陸軍病院に配属された)に、会寧のは藤本君(大学の後輩で会寧陸軍病院の庶務主任)に証明を書いてもらい作っておいた。

 召集令状は葉書よりは少し大きな赤い紙に、何月何日何時ドコソコエ入隊すべき文句が記入されている。これが来れば否応なし、荷物は何も要らない、赤紙を小さな奉公袋に入れて体一つで指定の時に指定の場所に行かねば「徴兵忌避《ちょうへいきひ=徴兵適齢者が徴兵を嫌って避けた》」の罪で捜し出されたすえ軍法会議(軍の特別裁判所)で厳罰を受ける。

 私は軍刀を風呂敷に包んで持って行ったが他に何を持っていたか覚えていない。この軍刀は、双浦で今泉さんにみて頂いて購入した備前物の脇差を革の鞘《さや》に包んで軍装にしておいた。(今泉さんは工員養成所の所長で、閣下で通る予備役陸軍少将、敗戦の時はこの地区の軍司令官だった。城津《=ソンジン》で部隊は武装解除を受けソ連に連れて行かれたが幸い帰国されたと聞いた。ついにお会いせぬままでいる)。
 いずれは私にも召集令が来るものと覚悟はしており、軍刀も用意はしていたが本当に戦争になって戦地に行くとか、生きては帰られぬかも知れぬとかは思ってもいなかった。「出征」の前に婦人科の高田さんが三池子が妊娠していることを知らせてくださったが、当然帰って来れば会えるものとしか考えていなかった。
 幸い私は一年余りで召集解除になったが、その儘《まま》敗戦の時まで従軍を続けた者も、再召集を受けた者も多く、シベリアに連れて行かれた者、南方に行った者、この時の召集仲間の運命は色々だった。ニューギニア、フィリッピンに行った者のうち、五人が戦死した。
 この時の召集は関東軍特別大演習「関特演」と言われたもので南鮮でも第二十師団に多数が召集された。独蘇《どくそ=ドイツとソビエト》戦の牽制《けんせい》のように聞いたが既に対英米戦の準備だったのだろう。召集指定の七十三連隊にはクラスの、林、丹羽、高丸、溝淵、松岡、吉野がいたようだ。私は幸い高丸と一緒に羅南陸軍病院付になった。高丸は二度目の召集(初めは昭和十四年、日本軍がソ連の戦車隊に完敗したノモンハンに行っている)なので彼の言うとおりに行動して、皆目勝手分からぬ軍隊生活に大変助かった。


 召集されたものは野戦部隊《=実戦の部隊》と留守部隊とに配属され、野戦部隊は毎日の猛訓練で鍛えられたが陸軍病院では特別な肉体訓練はなく、いくらかの軍陣医学の講義があだけ、野戦のとき何処に野戦病院を置くかなどの話だった。

 病院配属の召集者は多勢いて診察の仕事はない。見習士官だけでも五、六人はおり、広いひと部屋をあてがわれ一と月余りすることなしに将棋《しょうぎ》や碁《ご》をやっていた。十月にようやく各々の配置が決まり、私はも一人の見習士官と会寧陸病に転属になった。
 会寧は豆満江をはさんで対岸は満州、山の中の国境の町で京城から羅南を通り満州のハルビン、新京(長春)に行く鉄道が通っている。既に秋は過ぎ冬の北風が吹いていた。ここには歩兵、工兵砲兵、飛行聯隊のほか野戦部隊がいくつもいたよぅだ。       

 病院長はもう年輩の中佐だったが、その後待命になり後任に大陸で野戦病院長をしていた大佐が来た。庶務《しょむ》主任は城大の三年後輩の中尉で、大学では面識はなかったが何よりも頼みになった。専属の軍医は私たちの他には何人もいなかったようで、眼科、外科等の専門医は隊付きの召集軍医が来ていたし、宿直も隊付き軍医が交代で泊まっていた。
 後になって新卒の現役少尉が配属されて来た、新進気鋭=新進で意気込みのはげしい》の自信家、恐いもの知らずか。それと現役の薬剤少尉、これも見習士官より階級は上である。薬剤長は年輩の穏やかな中佐。歯科は町の開業医が来ていた。


 私の仕事は内科の患者を診ていればよかった。一緒の見習士官は阪大出の産婦人科医で内科患者の主導権は私に任せてくれた。病室主任は庶務主任になっているがこれも任せてくれた。患者は兵隊が殆どで、将校患者は稀《まれ》にあり病室主任が主治医になる建前《たてまえ》だった。

 軍隊には色々な制約があったのだろうが、治療に就いて束縛《そくばく》を受けた記憶はない。診療簿にチンキでなく丁幾、ピカでなく重曹と書くように言われた位の記憶しかない。初めの院長には何かと「指導」を受けたが次の院長は初め二、三回診療室に様子を見に来たが、その後は報告を聞くだけになった。
 診察の他に衛生兵の教育があるが毒ガスなど知らぬ事は衛生曹長に頼んで私は側で聞いていた。
 亦週番士官という勤務もあった。週番士官のタスキを掛け下士官を従えて消灯前に各内務班を巡視するのだが、これは班長の「異常有りません」との報告を受けるだけであれば問題はない。何か事が起きたときにはまったくお手上げの週番士官だが、幸い何事もなしにすんでいた。

 時には兵隊を引率して外を歩かねばならぬ事がある。この時に面倒なのが敬礼で、階級が下の者は向こうが先にしてくれるが、そうでないのには「歩調トレ、カシラ右」--の号令を掛けねばならない(コノコロハ右側通行)。見習士官だから将校と見れば号令を掛ければよいのだが、準尉《じゅんい=将校に準ずる》という厄介なのがいる。
 階級は見習士官が上だか、準尉の服装は将校の格好で襟章《=えりにつけた飾章》を見なければ分からない。
(註)これにさきに号令を掛けるのはまずい、いちいち気を使うのは面倒だからこれも指揮は下士官に頼んで別に歩くようにした。
 註 準尉
    下士官、兵は同じ官給の服でいわゆるゴボウ剣を上着の上に着けている。
    準尉と将校とは自前の良い生地の服装で、長い剣を上着の下の刀帯に吊っいて、帽子も下士官、兵とは違う。
    襟章は各兵科別に決まった色分けになっていて(例えば歩兵はエンジの赤、騎兵は萌黄《もえぎ》)、階級を示す筋と星とが付いている、少尉は筋一本に星一つ、中佐は筋二本に星二つ。準尉にはこの星がない。
    見習士官は下士官の服装に長い剣を上着の上に締めた刀帯に吊り、襟章は曹長と同じ三っだが横に座金がつている。
    準尉はもとは特務曹長と言っていた。「兵」の初めは二等兵で一等兵、上等兵、兵長と上がって来る。この上が下士官で伍長、軍曹、曹長となりこの上が準士官といわれる準尉。ここまて昇ってくるのは大変なことで大ベテラン、この後も優れた者は将校になり、少尉更に上にもなれるがよくよくの身に限られる。
       
 見習士官は階級は曹長だが身分は将校なので部隊の営門《=兵営所の門》での敬礼も違うようだ。同行した下士官が衛兵に私えの敬礼をやり直させたことがある。
 師団長主催の新年宴会にも出席した。こうした正式の会の席は宮中席次で決まるので、召集を受けた文官《ぶんかん=武官でない官吏》の将校の方が隊の上官よりも上の席につくと聞いた。
 師団の将校は殆ど集まっているのだろうが、見習士官は末席に座っているので上の方は分からぬ。なおこの席での余興に当時一流とわたしも名前を知っていたバイオリニストが兵で召集きれていて、カツポレか何かを注文されて気の毒に思った。
 営内《=兵舎内》居住の決まりになっているが、外出は自由である。会寧の陸病では兵舎の二階の個室で暮らした。暖房はペーチカで食事、洗濯、掃徐の世話など全て当番の従兵がやってくれる.朝は運んでくれた朝飯を摂《と》って病院に行くが刀はつけないでいい。患者の診察をして、昼は病院長以下の将校らと会食する。午後は重症者病室の回診や、講義や、時には慰問演芸の立会いや結構忙しかったが、定時になれば部屋に帰り、一番風呂に入って夕食を摂る。勤務時間後の患者は宿直の者がやってくれるので全くの自分の時間になり、城津に比べるとはるかに楽な毎日である。外出は自由だが行く所とてはない。映画館が一軒あって時に見に行ったこともある。一人ではつまらないので下士官、兵の誰かを連れて行くが、臨時の外出ができるので喜んでいた。この他には城津工場の警備?課長だった丹下さんが会寧の邑長でおられたのをお訪ねしたのと、お菓子屋にお万頭《まんじゅう》を買いに行くくらいだったろう。

 天長節(天皇誕生日)だったと思うが暖かい小春日和に兵隊達を連れて支那料理屋に行ったことがある.二、三十人だったろうか。支那料理屋と言っても支那蕎麦《しなそば》、ワンタン、ポーズのようなものだったろう。小さな店なので入りきれない、てんでに外で腰掛けて食べていた。下士官に財布を渡して面倒を見て貰ったが幾らかかったかは記憶にない。


 勤務のなかで楽みなのは患者移送がある。入院患者で長期療養を要するものは内地や鮮内の療養所に移すのだがこれを連れて行く仕事で、患者は一人の事も、十数人のこともある。内地送還は汽車に乗って清津《チョンジン=朝鮮北東部の港市》まで連れて行き、ここから船に乗せた。朱乙《チュウル》や馬山《マサン=韓国の港湾都市》の療養所にも行った。慢性の病人だが重症患者はいないし患者の引率は下士官、兵がいるから私の出番はない。清津《チョンジン》は日帰りだったが、用が済んだ後に、ホテルの港が見える食堂で何か洋食らしいものを食べるのが楽しみだった。患者一人を送りに兵と二人で朱乙《チュウル》分院に行ったときは、患者を引き渡した後、兵を連れて二人で温泉旅館に行った。温泉に入り浴衣を着て夕食をたべた。外出は自由だが外泊は出来ないのでご馳走を食べてからまた分院に戻り宿舎に泊って翌日会寧に帰った。この温泉は城津から息抜きに何回か来た所だ。
 馬山は朝鮮の南端だから北の端の会寧《フェリヨン》からは大変な長道中《ながどうちゅう》で、朝立って乗り換えを二回し次の日の午後に着いた。患者と下士官とは三等車で私は二等車だから途中では、朝目を覚ましたときと、列車乗り換《か》えのときに会うだけ。無事患者を引き渡してから下士官と別れて、すぐ夜汽車で引き返して朝早く京城《ソウル》に着いた。洋子が生まれて間もない頃だった。
 
 会寧《フェリヨン》に居るとき軍医少尉になった。軍歴書で見ると十月十五日である。今までは何もかも官の支給品で暮らしてきたがこれからは、自分の費用で暮らすことになる。も一人の見習士官も一緒に任官したので二人で偕行社に行き、軍服、外套、靴、長靴《ちょうか》、背嚢《はいのう=軍人が背負う方形のカバン》、将校行李《こうり》など一揃いを整えた。幾ら掛かったのか、其の費用はどうしたのか記憶にないが、見習士官の俸給で間に合ったのだろう。長靴など必需品ではないのに何故これも貰ったのか分からぬ。「地方」=(チホウ、軍隊でないー般民間)では手に人らぬ物なので、長靴は敗戦直後に物々交換で米一斗になった。
 十一月三十日 召集解除。任官してーと月余り経っているがこの間の記憶は無い。官舎に入ったのだろうか、食事はどうしていたのかも覚えていない。
 解除になるとすぐ発って城津により其の足で京城に行き、清瀬《きよせ=東京都北部の市》お母さんの容態がよくないので洋子を連れて三人ですぐ東京に向かった。軍人優先の世の中なのに便乗して道中は軍服を着たままで通したが、関釜連絡船に乗るのに行列とは別にすぐに乗せ貰えたりしたように何かと便利だったようだ。しかし軍服を着ていても、一年余りの病院勤務しか経験の無いこの将校さんは、大失敗をした。東京から父と四人で仁科に行ったときに、沼津で軍刀を置き忘れて汽車を降り、駅を出て自動車に乗るときに気が付いた。幸い停車時間が長かったので汽車はまだ出ていなかったから助かった。


 伊豆仁科《静岡県西伊豆》の、伊山伯父は三池子の父智道の兄で、幼時三池子が育ったところ。この伊豆行きは三池子との結婚の挨拶もだが、お母さんの葬式のあとの息抜きもあって仁科にご厄介になった。蓮台温泉《れんだいおんせん》に案内してくださり、手作りのドプロクのご馳走にもなった。伊山伯父とはこれが最後だった。

 私の応召中三池子は、家財を城津の社宅に残したまま京城の山本家で世話になっていた。洋子はここで無事に生まれ、皆に可愛がられて育った。この間に山本のおぢいさんが京城高等商業学校校長を退官されている。何か有ったようだが、それについて、一切話された事はない。
 応召中にも会社からは俸給《=公務員に対して支払われる給料》の何割かがでていたので、三池子は東京への仕送りは続けてくれていた。少尉になると俸給は増えたのだろうが、どうしたのか憶えていない。解除になり東京に行く費用は手元に有ったのだろう。


 私の軍隊生活はこの時の一回だけだったが、一緒に解除になった者の多くは二度目の召集でビルマ、フィリッピン、ニューギニアに行っている。召集解除が無いまま敗戦のときまでいてシベリアに連れて行かれた者もいる。これは先に記した。
 私が再召集を受けなかったのは、軍需工場の病院でその内科の責任者だったからだろうか。敗戦間際に内科と皮膚科の二人が召集をうけた。私に当たっていれば戦後の生活は全く変わったものだったろう。
 又、城津赴任の際の外国留学の約束は獨蘇戦に続く大東亜戦争《=太平洋戦争》で駄目になり、国内留学に代わった。召集解除を期に城大に戻る話があったが、これは別に記す。実現していたらこれもどんな 運命になっていただろうか。
 大東亜戦争は日本の呼び名、今は太平洋戦争とか、第二次大戦とか言われている。学生時代からの、支那事変、満州事変が行き着いた対英米宜戦布告《=開戦宣言》は、召集をうけていた会寧陸軍病院で聞いた。
 近くに野戦部隊はいたが、病院に戦傷者がいるわけもなく、戦争は遠い他人ことだった。一年余りの私の軍隊生活は、戦地に行った者には極楽にいるものと思われるだろう。背嚢しょって行軍したこともなく、いわんや弾《たま》の下をくぐったことはなく、「上官の命令」も知らない。
               
 誰もが召集の為に一生が左右された時代だった。私は運が良かった方だと思っている。 

                            
 以上


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