メイン 実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後) 上海の思い出(その一) | 投稿するにはまず登録を |
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toshy | 投稿日時: 2007-9-4 10:18 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
Re: 上海の思い出(その一) >>私たちから小学校は尋常《じんじょう》小学校から国民学校となり、国語の教科書も「サイタサイタ」から「アカイアサヒ」に変わったのでした。
ところで、平成19年8月21日の日経新聞の夕刊の一面の下の方の 「明日への話題」と言うところに、作家の柴田 翔さんが次のように 書いていらっしゃいました。 私たち昭和九年遅生まれ、昭和十年早生まれの連中は 時々変な自慢をする。 入学時も卒業時も国民学校だったのは、唯一自分たちの 学年だけだったと言うのである。 (中略) 変な自慢には続きがあって、それは新制中学の第一期生 だといういうことだが・・・ 私も同様の自慢をして来ましたが、皆同じなのですね。 |
toshy | 投稿日時: 2007-6-21 8:24 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
通知簿(上海の思い出)
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toshy | 投稿日時: 2007-4-27 10:20 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
白龍丸 私が乗った引き揚げ船は白龍丸でした。
東京新宿の新宿住友ビル31階に「平和記念展示資料館」と言うのが有ります。 (google などで「平和記念展示資料館」で検索して下さい) そこに引き揚げ船の展示コーナーが有りました。 ----------------------------------------------------- 昭和21年、旧満州(中国東北部)のコロ島を出発し、博 多港に入港した引揚船白龍丸の船内の様子を関係者の 証言や当時の写真をもとに再現展示しています。 幾多の労苦を乗り越えながらやっとの思いで日本の港 に向かう引揚船に乗り込んだ方々の生活状況を再現し ました。 ----------------------------------------------------- 船倉の底に畳(だった?)が敷かれ、その上で上陸までの一週間、 生活をしました。 広さは体育館くらい、天井は見上げるばかりの甲板、退屈な 一週間の間には、余興大会や夜の甲板で星空教室などが有りました。 |
toshy | 投稿日時: 2007-3-13 23:01 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
Re: 上海の思い出(最終回)・李香蘭 私も二夜連続のテレビ番組を録画して置いたので見ました。
私の場合、李香蘭が上海で活躍して居た時に上海に住んで居て、 殆ど同じ時に上海から引き揚げて来ましたので、特別の感慨を持って 見ました。 もっとも当時私は小学生だったので、時代に翻弄された李香蘭の 苦渋に満ちた心境は知るよしも無かったのですが、70歳を過ぎた今、よく判ります。 |
ザックス | 投稿日時: 2007-2-26 21:08 |
登録日: 2004-2-22 居住地: 東京 投稿: 65 |
Re: 上海の思い出(最終回)・李香蘭 最近、「李香蘭」と言うドラマが放映され、かなりその時代の背景が分かり、興味深いものでした。なかにし礼の「赤い月」はフィクションですが、やはりその時代が浮かび上がってきますね。
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toshy | 投稿日時: 2007-2-12 11:12 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
Re: 上海の思い出(最終回) (るみ) > 早速読ませていただきました。
お読み頂き、有り難うございました。 > 上海は米軍が進駐したのですね。運が良かったと思います。 進駐と言う言葉を広辞苑では「軍隊が他国の領土に進軍し、 とどまっていること」と書いて居ます。 米軍のマッカーサー元帥は日本に進駐する直前に上海に飛び、 日本側の上海終戦事務局と中国の警備部隊の出迎えを受けて上海 方面の日本陸・海軍の武装解除の状況を視察していたのですね。 でも中国は敗戦国ではないので、日本でのGHQによる事実上の 統治とは違い、当時の中国国民政府軍が戻ってきたのでした。 もっとも最終回に書いたように引き揚げ船に乗るところまでは 米軍のトラックに乗せられたのですから、駐留はして居たのですね。 > 短波放送が禁止になったとのことですが、無線はぼうじゅできたのですか。 短波放送が禁止ではなく、日本人は他国の短波放送の受信が禁止 されたのでした。 その禁を破って、密かに短波放送を聞いて居た人も有ったとか 終戦後に知りましたが、当時そのようなことが見つかったら憲兵に 拘引されたでしょう。 >上海は当時は東洋一の都会でジャズなどもさかんだったようですね。 当時は子供だったのでジャズなど聴きに行くこともなく、李香蘭の 新聞記事を見るくらいでしたが、10年あまり前に ニフティの FMELLOW メンバーの海外旅行で上海を訪れ、和平飯店の 「上海バンスキング」の演奏を聴いて来ました。 |
るみ | 投稿日時: 2007-2-11 17:52 |
登録日: 2007-2-1 居住地: 投稿: 1 |
Re: 上海の思い出(最終回) (るみ) toshyさん
早速読ませていただきました。 上海は米軍が進駐したのですね。運が良かったと思います。 短波放送が禁止になったとのことですが、無線はぼうじゅできたのですか。 以前「上海バンスキング」という映画見ました。たしか主演は松坂慶子さんだと思いましが、また見てみたい映画です。 上海は当時は東洋一の都会でジャズなどもさかんだったようですね。 るみ |
toshy | 投稿日時: 2004-8-11 0:15 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
上海の思い出(最終回) 慶林街の住人は終戦時には、疎開《そかい=戦火を避けるため住居を移す》や既に日本に引き揚げた人が居なくなって半分くらいになって居たと思います。
慶林街は高級住宅街で有ったため、中国軍将校の住宅として接収《せっしゅう=強制的に借り上げる》される事となり、私たちは明和街・平昌街とは違った、それまで行ったたことの無かった本圀街(ホンコクガイ)に引っ越すことになり、そこで日本への引き揚げ船を待つことに成りました。 終戦後は子供に至るまで常時身分証明書を携帯させられ、行動範囲も制限されて居ました。 ただ近くに国民学校の分校が作られ、寺子屋《=昔の手習い所》のような授業が日本に引き揚げるまで続けられました。 終戦の年は4年生、引き揚げたのは翌21年の4月でしたから、一応4年生は修了しました。 そのときの先生は小林先生で、今もお名前の方も覚えて居ます。 学校のことは休み時間に腕をバットにして野球をしたことなど思い出されるのですが、終戦から半年もの間の生活用品などは何処《どこ》で買って居たのか、覚えが有りません。 パンや卵なども食べて居ましたから、どこかに店が有ったような・・・。 お米だけは引っ越しの際に米俵を10俵あまり持って来たのは覚えて居ます。(引き揚げる日まで白米のご飯を食べて居られました) 母が「お父さんは東大出との事で世話役をやることになったので、日本に帰るのは全員の引き揚げが済む時、つまり最後だそうよ」と言ったのを覚えて居ます。 そのうちに引き揚げが始まり、月に一度だったか、それとももっと多かったのか忘れましたが、だんだん近所に空き家が増えて行きました。 いつだったか、先に引き揚げる人たちを見送った翌日、その人たちが着の身着のままで帰って来ました。 なんでも乗船した引き揚げ船が黄浦江に残って居た機雷《きらい=水中に敷設する爆弾》で沈没したとの事でした。 引き揚げ者に許された僅か《わずか》ばかりの荷物も無くした人たちに、私たち残った者は衣類などを差し上げたのでした。 そうこうして居る間に翌年の春となり、上海日本人の最後として、白龍丸と言う(砕氷貨物船と聞きました)船で引き揚げる事に成りました。 携行荷物は大人も子供も一人一つ。 弁当は傷むと言うのでパンを持参することにしました。 子供の頭ほども有る大きなフランスパンを、一旦《いったん》蒸してから重しを載せて圧縮し、容積を小さくしました。 そうそう、昭和20年の3月に一番下の弟が生まれて居ました。 上海の記録がほとんど何も残って居ない状態ですが、戸籍謄本には弟が上海で生まれた事が記載されて居ます。 その赤ん坊を連れて私たちは米軍のトラックの荷台に載せられ、ウースンの乗船場に向かいました。 白龍丸は貨物船だったので船室は無く、ハッチから船倉の底まで木の階段を下りて行くのでした。 上海からは2~3日で博多に着きました。 検疫のため、乗船後7日経たないと上陸出来ないとのことで、日本を目前にしながら数日間、船の中で過ごしました。 そして上陸してからは例のDDT(粉末殺虫剤)を下着の中まで吹き込まれました。 そしてバラック小屋で数日間、過ごしました。 その間に配給されたパンはフスマ《=小麦を挽いた後の皮。家畜の飼料》入りの真っ黒なパンで、先日まで白いパンを食べて居た者にとっては大変な驚きでした。 ようやく汽車に乗り、八幡製鉄所の焼けただれた鉄骨や広島の焼け跡風景を見つつ、祖父の居る大阪にたどり着いたのでした。 おわり。 |
toshy | 投稿日時: 2004-8-8 1:40 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
上海の思い出(その五) 父は私たちのために英国製の Hornby と言うゼンマイ式の鉄道のおもちゃを買って呉れて居ました。
これは O(オー)ゲージで、4畳半の部屋に足の踏み場も無いほどレールを敷き詰め、父と私と弟の三人が各所のポイント操作をし、2台も3台もの汽車を同時に走らせては遊んだものでした。 一度線路を敷き詰めると片づけるのが大変なので、何日もレールを敷きっぱなしでした。 またゼンマイは力強く4畳半の部屋を何周もしました。 2番目の弟が生まれてしばらくして、戦争が長引くのが判り、父は家族の安全のためにと母と子供を日本に帰す決心をしました。 昭和18年の事でした。 帰国の船は「帝亜丸」と言う外国で建造された豪華船でした。 (インターネットで「帝亜丸」で調べて下さい) 父は日本まで同行して呉れましたが、今回は一等船客でした。 新田丸で上海に来た時は2等船客だったのでした。 と言うのは船は等級に依ってサービスに大きな差があるのです。 上の方の甲板には一等船客しか行けません。 また、夜の食事時は一等船客の場合は、船長や一等航海士などが、船客と一緒に食事をします。 船長と同じテーブルだったことが有ったのを覚えて居ます。 父はまた上海に一人で戻り、私は地元の国民学校に通うことに成りました。 日本に居る間に下の弟が病気で亡くなって仕舞いました。 そのこともあったのでしょう、父は戦争がひどくなって死ぬ時は家族一緒に考えたようでした。 結局一年間日本に居ただけで、また上海に戻ることに成りました。 今度は米国潜水艦に攻撃される恐れがあったので、航海時間の短い関釜《かんぷ=下関ー釜山》連絡船で釜山に渡り、満州から北京そして南京経由の鉄道で上海に行くことに成りました。 当時満州には有名なアジア号が走って居ましたが、私たちはその姉妹列車の興亜号で、奉天まで行きました。 そこには父が迎えに来て呉れて居ました。 今考えると、母は子供3人を抱えて異国の地を奉天までよく行ったものだと感心します。 奉天で一泊した後は北京で一泊し、紫禁城や天壇、それに萬壽山や石舫の有る昆明湖などを観光しました。 それから鉄道の長旅が南京まで始まりました。 途中、山海関では万里の長城が見られたのですが、私は眠って居て起きた時は既に過ぎ去ったあとで、とても残念でした。 再び慶林街での生活が始まり、再び第七国民学校に戻りました。 上海に戻ったのが昭和19年で終戦の前の年ですから、戦況は厳しくなり、翌20年になると日本が空襲を受け、日本に爆弾を落とした米軍機は中国に帰投したと聞いて居ました。 子供の時の記憶ですから定かでは有りませんが、夜になると空襲警報が発令され、防空壕に待避したものでした。 住宅街から少し離れた所に日本軍の飛行場が有り、赤とんぼとか抹香鯨《まっこうくじら》と呼んでいた練習機がよく飛んで居ました。 空襲警報時に飛行場方面から高射砲の音が聞こえた事も有ったようでした。 ただ上海が空襲を受ける事は無く(日本に爆弾を落とした後なので爆弾を持って居なかったと言われて居ました)、一度だけ北四川路の電話局前の道路に一発落ちたとか新聞に報道された事が有りました。 (これも、子供時代の記憶で裏は取って居ません) 飛行場以外にも登部隊本部を始め、輜重《しちょう=糧食・被服・武器などを扱う》兵隊そのたの日本軍は近くに居ました。 そして時々近所で演習をやって居ました。 ある日、学校から帰ると母が「今日は兵隊さんが庭を貸して呉れと言って、無線機を使って演習をして居たけれど、もう少し早く帰って来たら見られたのに」と話して呉れました。 自宅で間近に見られなかったのは残念でしたが、そのような光景は何度か見たことが有りました。 手回し式の発電機を回して通信して居るのを見て居たことが、終戦後日本帰ってからアマチュア無線をする動機になったようです。 当時は国民学校4年生でしたが、上級生の工作の教科書にはスパイダーコイルを使った鉱石《こうせき》式ラジオの作り方が有りました。 しかし、上海では部品が何処《どこ》に売って居るか判らず、その時の思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。 思いも終戦後に理科少年となった原因でしょう。 4年生の時の通信簿が残って居たので、 ご覧に供しましょう。 変色して居るので、白くしたもの、 しかも大きく表示させましょう。 そうこうして居るうちに、やはり上海も危ないから日本人の多 い大連に疎開することになり、ほとんど引っ越し荷物を作った時、 終戦と成りました。 8月15日は自宅で玉音放送を聞いたような気がします。 もし終戦がもうすこし後だったら、大連に疎開して居たでしょう。 上海から引き上げたのは上海からの日本人引き揚げ者の最後で、 昭和21年4月なのですが、大連に行っていたらどうなっていた ことやら、運命とは判らないものです。 toshy |
toshy | 投稿日時: 2004-8-7 18:14 |
登録日: 2004-2-17 居住地: 投稿: 42 |
Re: 上海の思い出(その一) マーチャン コメントありがとうございました。
引用:
不運なのは全ての船に言えますね。 軍艦に改装されたものも改装されなかったものも、ほとんど沈め られて仕舞いました。 ところでもう一隻、豪華客船に乗ったのですよ。 それは次回のお楽しみに。 toshy |
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