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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     玉音放送の想い出
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投稿者 スレッド
しんちゃん
投稿日時: 2004-8-1 10:36
登録日: 2004-2-27
居住地: 河内長野市
投稿: 20
Re: 玉音放送の想い出
マーチャン、かれいさん、SHIGさん今日は。
戦後の国語1年生の教科書が話題に出ておりますね。
私がインターネットで国語教科書1年生の最初のページを調べましたら、次のようになっておりました。
 1903年=イ・エ・ス・シ・
 1910年=ハタ・タコ・コマ
 1918年=ハナ・ハト・マメ・マス
 1933年=サイタサイタサクラガサイタ
 1941年=アカイアカイアサヒアサヒ
 1947年=みんないいこ
でした。この後はどうでしょうか、どなたか教えてください。
戦後の1946年4月は恐らく新しい教科書は物資不足のため間に合わず、当時の1年生は手元にあるものを使用したのだと推察します。
1936年に1年生の私は「サイタサイタサクラガサイタ」です。
又1941年の6年生のとき、い組男子組、ろ組男女組、は組女子組でした。参考までに。 しんちゃん
SHIG
投稿日時: 2004-7-30 21:48
登録日: 2004-6-30
居住地: 兵庫県宝塚市
投稿: 7
Re: 玉音放送の想い出
引用:

これはSHIGさんの創作でしょう。

失礼な。創作では絶対にありません。

引用:

そして、3学期には、新しい本を貰ったような気がするのですが、このあたりの記憶はおぼろです。
SHIGさんの記憶ではどうなってますか?

新聞紙の教科書は1回だけだったと思います。翌年からは曲がりなりにも本の体裁《ていさい=かたち》をなしていました。

学校のことは昭和21年4月入学の私が男子国民学校に入学して翌年小学校になったのは確かです。地域差はあったのでしょうが。
かれい
投稿日時: 2004-7-27 13:02
登録日: 2004-1-4
居住地:
投稿: 137
Re: 玉音放送の想い出
SHIGさん

引用:

ところがですね、当時読む本が無いから兄ちゃんや姉ちゃんの教科書も読んでいましたのでひょっとしたらノボルノボルアサヒガノボルだったかもしれない。いややっぱりサイタサイタだったな、と記憶が混乱しますねえ。


3つ下の弟の教科書は アカイ アカイ アサヒ アサヒ だったと思います。
ノボルノボルアサヒガノボル って、名詞が入れ替わっただけで、サクラガサイタと同じ文体ですね。
これはSHIGさんの創作でしょう。

ところで、新聞紙状の教科書は初めのうちだけではありませんでした?
そのうちボチボチとお下がりを持つ人が出はじめ、私のもどこかから親が調達してきました。
そして、3学期には、新しい本を貰ったような気がするのですが、このあたりの記憶はおぼろです。
SHIGさんの記憶ではどうなってますか?

男女共学のこと、マーチャンのお書き込みと合わせて、状況がわかりました。

                    かれい
マーチャン
投稿日時: 2004-7-27 9:48
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
Re: 玉音放送の想い出
SHIGさん

 なつかしく拝見しております。

引用:

国民学校を廃止して男女共学の小学校になるのは全国一律ではなく遅くなったところもあるみたいです。私の岡山県は確か遅いほうだったと聞いたことがあります。


 私の場合、戦時中でしたが

  東京の小学校は 一年生・二年生のみ共学。三年生以上は別々

  兵庫県では 各学年とも二クラス以上ありましたが、六年まですべて共学でした。

 戦争中でも、地方や、学校の規模によって共学にしていたところもあったようです。また、オトコ先生が徴兵《ちょうへい=強制的に兵隊に取る》で行ってしまわれて先生が足りなくなってやむを得ず男子組と女子組を合併したーーーという話も聞きました。

 なお、共学といっても、三年以上は、教室の左半分は男子、右半分は女子と分かれていました。

 また、出席簿に関しては、昭和29年高校卒業当時でも、男子と女子は分けてありました。いまは、一緒らしいですね。

              
SHIG
投稿日時: 2004-7-26 23:11
登録日: 2004-6-30
居住地: 兵庫県宝塚市
投稿: 7
Re: 玉音放送の想い出
引用:

私もサイタサイタサクラガサイタだったと記憶していましたが、戦後にサイタ
サイタを使ったというのは初めて聞いたといわれ、記憶がどこかで混戦して
しまったのかと不安になっていたのでした。同級生に証明されて嬉しいです。



ところがですね、当時読む本が無いから兄ちゃんや姉ちゃんの教科書も読んでいましたのでひょっとしたらノボルノボルアサヒガノボルだったかもしれない。いややっぱりサイタサイタだったな、と記憶が混乱しますねえ。

引用:

そうでした? 私は別々だった記憶は全くないのですけど。

国民学校を廃止して男女共学の小学校になるのは全国一律ではなく遅くなったところもあるみたいです。私の岡山県は確か遅いほうだったと聞いたことがあります。


かれい
投稿日時: 2004-7-23 9:56
登録日: 2004-1-4
居住地:
投稿: 137
Re: 玉音放送の想い出
SHIG さん

SHIGさんと私は同い年です。
引用:

サイタサイタサクラガサイタから始まりました。


私もサイタサイタサクラガサイタだったと記憶していましたが、戦後にサイタ
サイタを使ったというのは初めて聞いたといわれ、記憶がどこかで混戦して
しまったのかと不安になっていたのでした。同級生に証明されて嬉しいです。

引用:

男女共学になったのは翌年のことです。


そうでした? 私は別々だった記憶は全くないのですけど。

                        かれい

タイトルから外れたところにコメントつけてすみません。

                    

SHIG
投稿日時: 2004-7-22 22:31
登録日: 2004-6-30
居住地: 兵庫県宝塚市
投稿: 7
Re: 玉音放送の想い出
私の場合、当時幼稚園坊主でよく覚えてはいませんが、もともと松原よりもずっと田舎の岡山県にいました。
おばあちゃんの家に行っていたときに小学生の兄貴が弁当箱に詰めた芋羊羹《いもようかん》を持ってきてくれて「日本は負けたらしい。でもアメリカも大分疲れているらしい」と教えてくれたのがその日でした。
祖母は村のどこかへ行ってその玉音放送を聴いてきたのでしょうが兄貴の情報のほうが先でした。
いなごはその後も良く食べました。ホウロク(私のところではホウラクではなくホウロクといっていました)で煎ったイナゴに甘辛い味付けがされるとなんともいえないおいしさでした。
翌年小学校に上がったのですが、教科書はもう新しく印刷されたのをもらいました。といっても新聞1枚くらいので絵は無く色もなく、自分で裁断して適当な紙で表紙をつけて使ったものです。
サイタサイタサクラガサイタから始まりました。
男女共学になったのは翌年のことです。
しんちゃん
投稿日時: 2004-7-22 20:19
登録日: 2004-2-27
居住地: 河内長野市
投稿: 20
Re: 玉音放送の想い出
Amiさん、今日は。
Amiさんの貴重な初投稿をこちらに頂き有難うございます。

イナゴ100匹糸に刺して来るのが宿題とは今では信じられないですね。クラス全員分を集めれば相当の量になったでしょうね。
私も昭和16年の6年生のとき、クラス全員が糸を通した針を持って近くの田んぼに出掛けイナゴを取って来ました。それを釜茹《かまゆ》でにしたまでは記憶にあるのですが、その後そのイナゴがどうなったのか不明です。

個人的には、母親から体に良いといっては、ホウラク《=素焼きの平たい土鍋
で煎《い》ったあと醤油・砂糖で塗《まぶ》して食べさせられました。(ホウラクはご存知ですね?)

それにしても、河内松原が疎開先とはこれまた今では信じられませんね。小学生も戦争中は苦労しましたね。

Amiさんの体験はこのReとは別に投稿の価値がありますよ。そうされたら!
      しんちゃん
Amiさん
投稿日時: 2004-7-22 10:26
登録日: 2004-7-21
居住地:
投稿: 1
Re: 玉音放送の想い出
しんちゃん こんにちは。
またあの日が近づいてきました。

玉音放送。何のことか分からず疎開先の河内松原の小学校の校庭で聞きました。分からないまま帰宅し泣いていた親から説明されました。その夜から灯火管制《とうかかんせい=空襲の目的となるため、電灯を消したり黒い覆いを掛けた》の必要が無くなり明るい部屋で過ごしたのを覚えています。度々停電がありましたが・・。

当時小学校では勉強は殆ど《ほとんど》なく農家の手伝い、手旗信号《てばたしんごう=赤白の小旗を動かして信号を送る》、モールス信号《=長短の符号を組み合わせて文字にする電信》の暗記、いなご100匹糸に刺してくる《いなごは貴重な蛋白源だった》などが宿題でした。

その後大阪市内の小学校に戻りました。教科書を墨で塗りつぶし軍国主義を抹殺《まっさつ》しそれを進駐軍《しんちゅうぐん=占領軍》が視察に来ました。DDT《殺虫剤》を盛大に振り掛けられたり、ララ物資《LARA=大戦後にアジアに物資を援助したアメリカの民間組織》とかのミルク給食があったりしました。とにかく変化の激しい年でした。

あの時代は酷暑、厳冬にも何も感じず元気に遊んでいたようにおもいます。   (Ami)


あんみつ姫
投稿日時: 2004-6-11 23:22
登録日: 2004-2-15
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 485
Re: 玉音放送の想い出
しんちゃん  こんばんは!

玉音放送のあった日は、酷い暑さで、絶え間ない蝉の鳴き声だけが記憶に残っているという話を良く聞きます。

私は昭和18年生ですから、戦争の事は殆ど知りませんが、当時は町の人間は食糧難で、多くは田舎に「買出し」に行ったそうですね。

赤ん坊の私を背負った母が、祖母と一緒に買出しに行った日に、艦砲射撃《かんぽうしゃげき=戦艦から大砲を撃つこと》に遭い、田圃《たんぼ》の中を逃げ惑って九死に一生を得たと聞きました。

祖母はその時に焼夷弾《しょういだん=さく薬と油や黄燐などを入れた小型爆弾》の破片が膝《ひざ》に当たり、医薬品は勿論《もちろん》医師なども不足だった当時ですから、満足な治療も受けられなくて、歳を取ってからも良く膝が痛むと言っていました。
引用:
 私は、これはきっと本土決戦に備え、国民は最後の一人に至るまで米軍と戦えとの放送に違いないと固く信じておりました。


きっと勝つと思うからこそ、国民は耐え難きを耐え、忍び難き
を忍んでいたのですから、玉音放送があると言われて、やはり
しんちゃんと同じように思った人は多かったでしょうね。

昭和20年当時 既に大人だった人たちからも、この時の印象
を伺いたいですね。



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あんみつ姫

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