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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     心のふるさと・村松 第三集
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編集者
投稿日時: 2015-11-15 6:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 14

(三)、ショッピング (互いに知り合う)

 こうして村松駅におけるRTO(鉄道輸送事務所)の第一日目が始まったのである。でも、三人とも何もすることがなくて時間を持てあましている様子だ。そして私たちが家へ帰ると聞くと、遠慮勝ちに、一緒に行ってもいいかときく。ちょっと散歩したいし、買物もあるというのだ。
 「どうぞ」
と私たちは答え、そこで私たちは一緒に町に出た。
 駅は村松の町の一方の端にあって、その前を一本の道路が町の中央を横切って伸びていた、その半分ほどの所で、道は二股に分かれ、その一方が通信学校に通じていた。田舎町にはめずらしくちゃんと舗装された広い道で、二ケ月ほど前にはその通りを通信学校の生徒たちが毎日のように行進していた。汗を流し、ほこりにまみれ、軍歌を歌いながら…‥。

 私たちはゆっくりと歩いた。町の人びとは目を丸くして私たちを見送った。家の奥から駆けだして来て眺める者もあった。予供たちは慎重に、適当な距離を保ちながら後について来た。三人のアメリカ青年たちは、もの珍しそうにあたりを見回しながら歩いた。冬には雪が軒にまで達するために人びとの行き来する歩道には雪除けの屋根が設けられている。そして軽い板でできたその屋根は、板が風で飛んでいかないようにいくつも石が載っている。そういう家々の造りやもんぺをはいた女たち、背中に赤ちゃんをおんぶした母親たち。
 アメリカ人たちは好奇心にあふれていた。

 私たちは通りの店を一軒一軒のぞきこみながら歩いた。それでもそんなに時間がかからないほどの店の数であった。ある一軒の小間物屋の旅先でジョンソンがピタリと足をとめた。棚に小さな鏡がおいてあったのである。それを買いたいという。あとの二人も同様であった。そして彼らがついでに買ったのは、おどろいたことに小さな日の丸の旗だった。
 「それをどうなさるんですか」
と私はきいてみた。
 「ただスーべニアですよ」
と三人は答えた。
 ジョンソンの買った小さな鏡の裏には赤い布が張ってあった。彼は鏡に顔をうつしながら、はにかんだ表情で「モンキー!」と言った。いかにも、もしジョンソンは何に似ているかときかれたら、私はためらうことなく「モンキー」と言ったかもしれない。彼自身もそう思っていたのだから。しかしそれは立派な顔だった。誠意があって信頼感を起こさせる。ゲルマン系の面立ちで、年若のハワードもその系統だった。グレイの方は明らかにフランス系であった。

 私たちはやがて町長の立派な屋敷を過ぎ、郵便局、銀行を通り過ぎた所に理髪店があった。「ああ、早速ここへ来なくちや」と三人は呟いた。
 私たちは広い通りの終った所で別れを告げた。私は彼らに、間違っても迷子になる気遣いはないから大丈夫、と保証した。
 「あんな若い、感じのいい青年たちを真先に寄越すなんて、アメリカ軍もよく考えているわね。きっと町の人たちにいい印象を与えるわ」
 私たちの予想した通り、“村松駅の三人のアメリカ兵” はまもなく町の人気者になった。特に最初から最後まで駅の貨車にとどまったジョンソンは、村松に滞在したアメリカ兵たちの中で最もよく知られ、最も好意を持たれた “名士” になった。

 その中にこの北国の小さな町の人びとは、今までかって味わったことのない異国の味を賞味するようになった。アメリカ煙草とチョコレートである “キャンデイ” と総称されるチョコレートと煙草を米兵たちが取り引きに使うようになったのだ。それは当り前だ、と彼らは言った。スーベニアを買って帰りたいのに、彼らの部隊はあっちこっちとあまり頻繁に移動させられてきたので、給料が追いついて来ないのだ。小遣い銭がなければ床屋にも行けない、と殊にキャンプの外で生活しているRTOの三人は深刻だった。
 そうしている間も三人-ジョンソン、グレイ、ハワードーは自分たちの仕事を大いにエンジョイしていた。
 ひとつには彼らは自由だった。外出にも通行許可証はいらないし、三人の中で一人が持ち場を守っていさえすればいつでもどこへでも好きな時に外出ができた。
 飲み物も豊富だった。久野氏と町田氏がいつもビールと酒を差入れてくれた。
 それに駅にはきれいな若い女子職員が大勢いて、いつでも気楽に日本語の練習の相手をしてくれた。
 「軍隊生活がこんななら、いつまで軍にいてもいいんだがなあ」と彼らは異口同音だった。

 (注)本稿に載せた三人は、皆より一足先に派遣された米兵です。遅れて到着したペイン大佐を連隊長とする本隊二千名は、同年十二月まで村松に駐留していました。
 なお、私共旧少通生としては、自分達が終戦によって故郷に復員して行ったあとの村松がどのような形で進駐軍を迎え入れたかは、大変気懸りになっていたのですが、この後藤女史の本によって、仮令、それが一人の通訳の職務を通じて感じた受け止め方だったとしても、総じて終始極めて友好裡に進められたことが読み取れ、安堵しました。
 そして、これも堀氏三万石の城下町として、また、半世紀に亘る軍都としての歴史を持つ村松であればこそ出来た対応であろうと、改めて感慨を新たにした次第です。
編集者
投稿日時: 2015-11-14 6:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 13

(二)、初めて見るアメリカ人

 蒲原鉄道会社の事務所に私が初出勤したのは、一九四五年の九月二十六日、よく晴れた暑い日の朝だった。
 さて、私たちの雇用主である蒲原鉄道会社は小さな私鉄で、新潟の中蒲原郡の五泉から終点の加茂まで田畑の間を縫って一時間に二本の電車を走らせていた。

 始発駅から終点まで約一時間、乗客のほとんどはお百姓かそのおかみさん、村松の学校に通う中学生たちといった風で、その人たちのしゃべっている言葉は、疎開者の私にはなかなか聞きとれなかった。車窓から眺める景色は、ことにこの秋の頃は、美しかった。冬は雪に閉ざされるこの地方も秋は晴れた日が続いて、黄金色に続く稲田の彼方には青い山々が峰を連ねて、人びとを晴ればれとした気持にさせた。
 この会社の本社事務所は村松駅の二階にあった。駅舎に入るとすぐ右手に二階へ通じる階段がドアにかくされてあり、階段を上ると右手の二部屋が社長と専務理事の個室で、左手の大きな部屋には数人の男女職員が机を並べていた。社長は村松町長でもある町田氏で、見たところ、四十七、八歳、背も高くなかなかハンサムであった。社長の町田氏が町長としての職務にほぼかかりきりなので、鉄道の方のことはほとんど専務の久野氏が一手に引き受けている様子だった。

 歴史始まって以来初めてこの町に来るアメリカ兵たちが乗った列車は、午後一時五泉駅到着のはずだということで、改孔口前のちょっとした広場には人びとがいっぱい集っていた。町の男や女たち、それに少年少女たちも大勢いた。プラットホームには町のお偉方が並んでいた。町長、警察署長、駅長、それに町の有力者ら数人であったが、彼らが緊張の極にあることは一目瞭然であった。久野氏は派手な青い格子縞の背広をきて、絶えず落ち着かない様子でネクタイに手をやっていた。私も平静であったとはいえない。集った群衆の好奇の目が私たちに集中しているのが感じられたし、第一、四年間のブランクの後で英語がすらすら出て来るかどうか心許なかった。

 息づまるような数分の沈黙ののち汽車が姿を現した。真黒い煙を吐きながら次第に近付いてくる。
 一〇〇メートル、五〇メートル、十メートル、五メートル……。
 機関車が目の前を通り過ぎた、と思ったとたん、ガタンと音を立てて私たちの真前に一台の貨車が止り、その開け放した戸口から、カーキ色の略装を着た金髪の、青い眼をした三人の若者がつぎつぎに跳び出して来た。
 私は彼らに話しかけた。「ハウ・ドゥ・ユウ・ドゥ…あなた方のお名前と階級と年と司令官の名を知りたいのですが…」
 鸞きと喜びの混った表情で、三人の若者たちは同時にしゃべり始めた。「ぼくたちは…」
 三人の中で一番年上に見える一人が言葉を続けた。
 「ぼくはチャールズ・ジョンソン。伍長で二十五歳。こちらはリチャード・グレイ、十九歳とアラン・ハワード、十八歳です。二人とも二等兵です」
 「指揮官の名前は?」
 「フロスト中佐」
 「でも、ここには見えていませんね」
 「いません。三条の町で 見失ってしまった」
と言いながら三人はクツクツ笑った。何か謎めいたことがあるらしい。
 グレイ二等兵は私にチューインガムを差し出した。
 「ここはムラマツですか」
 「いいえ、村松は次の駅です。ここは五泉で、ここで私鉄に乗換えるのです」
 ジョンソン、グレイと私たちが話をしている間に、一番若いハワード二等兵は、腕を上に伸ばしたり、横に伸ばしたりしながらプラットホームを行ったり来たりし始めた。それは全く自然で自由な動作であった。三人とも、百人を越える群衆の好奇な目にさらされているというような意識は全くなく、つい一月前まで敵国民であった日本人にとり囲まれているという不安や怖れは露ほどもなかった。憎しみも、軽蔑も、彼らの表情には少しもあらわれていなかった。三人のアメリカ兵たちは、まるで故国にいるように落ち着きはらって、思いのままにふるまっているのだった。

 その時、突然、一人の男、日本人が貨車の奥の方から姿をあらわした。その中年男は、皺だらけのシャツを着て、汚れた下駄をはいていた.口をモグモグさせながら、手には食べかけのクッキーを持って……。それを見た私は急に恥ずかしく不愉快になった。私は彼の姿に敗戦国民を見たのだった。聞けば横浜から同行してきた通訳ということだった。これから、もしかしたら、こういうような男が巾をきかすのかもしれない。英語が少しばかりしゃべれて、日本人であることに全く誇りを持たない男たちが………。私は悲しくなった。私たちは間違った方向に導かれ、いま敗戦という未曾有の事態に直面している。しかし私は、同胞である日本人への信頼感と将来への希望は持ち続けていたのだった。

 それと同時に私は、私たちが物を食べながら街を歩くアメリカ人を見ても別に何とも思わないのに、日本人が、男でも女でも大人が、口を動かしながら街を歩いているのを見ると、とたんに軽蔑の念が生じてくるのは一体どういうわけだろうとふしぎに思った。どうしてなんだろう。それに馴れていないからかもしれない。しかしこの疑問はいまだに解けないでいる。
 そうこうしている間に、この貨物列車は国鉄の線路から私鉄である蒲原鉄道の線路に移動させられていた。そして私たち一同はゾロゾロと、村松行きの二輌連結のディーゼルカーに乗り込んだ。
編集者
投稿日時: 2015-11-13 6:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 12

(付録)

 終戦直後の村松 (米軍の進駐と町民たち)

 女性通訳が綴る当時の村松

 終戦直後の昭和二十年九月、村松少通校の武装解除を目的に米軍の一個連隊が進駐してきました。其処で当時の町民がこれを如何受け止めたか、これは私共としても極めて関心のあったところですが、偶々、福岡在住の元十二期生・柿野哲之助氏から、これらの状況を記した後藤優女史の著書「新潟県中蒲原郡村松町 昭和二十年、秋」を送って頂きましたので、その一部を再録してみました。

(一)、悪い知らせ

 村松の町は新潟県のほぼ中央に位置した静かな町で、昔は城下町であったため、人びとの気風もおだやかで住みよい所であったが、戦争の激化とともに都市からの疎開者で人口も増加し、以前は数千であったのが当時は一万を超えるかなり大きな町となっていた。しかし町の大通りといえば、駅前を横に走る一本きり、端から端まで歩いても二十分とはかからなかった。

 この静かな町の人びとにとっては東京は遠い所であった。まして外国などは想像もつかず、アメリカ人がどんな顔をして、どんな様子であるか考えてみたこともなかった。ある日、近所の親しくなったお婆さんが、二歳の健の絵本に西洋人が描かれているのを見て「へえー、西洋人って、本当にこんな青い眼をして高い鼻をしているんですかねえ!」と感嘆ひとしきり、子供がその絵本をとり返すまで、しげしげと見入っていたことがあった。こういう素朴な人びとであったから、九月に入ってしばらくして、この町に進駐軍が入って来るという発表があった時に、町中が右往左往、パニック状態におち入ったこともうなづけよう。この町のはずれに陸軍の通信学校があって、その施設を米軍が利用するということであった。

 町の隣組ではそれぞれ緊急集会が開かれ、不安な面持ちで集った人びとは、何年ぶりかで黒布の蔽いをはずされて眩しいほど明るい電灯の下で、隣組長の読み上げる次のような通達に真剣な表情で耳を傾けたのである。

(一) 進駐軍が入って来る日は、通りの店はすべて表戸を閉ざさなければならない。外出は控えて、米兵を挑発しないように、窓や戸の隙間から覗き見することは厳禁である。
(二) 夜の間は戸外の電灯を明るく灯し、厳重に戸締りをして、明かりを暗くした室内で静かにしていること。
(三) 貴重な物品は、町から遠く離れた安全な場所に預けること。
(四)一人で家にいる時にもし米兵が入って来たりしたら、バケツでも金だらいでも、何でも大きな音のする物を叩いて隣近所に知らせ、できるだけ大勢の人に集まってもらうこと。
(五) もしも襲われたら、ボタンでも何でも、あとから証拠になるような物をもぎ取るようにすること。
(六) 米兵を怒らせないように。子供たちにはおとなしく行儀よくするように言いきかせておくこと。
(七) 女は全員もんぺを常用すること。裸足を見せないよう足袋もちゃんと履いて、米兵らが近くにいる時は、赤ん坊に乳を飲ませないよう気をつけること。

 それは九月ももう半ばに近い頃であった.何となく不安な、落ちつかない空気のところへ、最近東京へ行ってきたという町の者たちが、さまざまな噂を持って帰ってきた。東京では若い娘たちはみんな、米兵に強姦されるのを恐れて、山の方に避難させられているというのだ。まさか、と私は一言のもとにそれを打ち消したのだったが、あとで聞いたところでは、男性がいないで三人の娘を抱えた主人の叔母の一家は、娘の一人が海軍省に勤めていたおかげて、海軍のトラックで山村に難をさけたということだった(そして一週間ほど経て大丈夫らしいということで帰ってみると、大きな家財道具がごっそり空巣にやられていた、ということだった)。

 村松へ来る米軍部隊はニューヨーク師団に属する連隊で軍紀の厳しいことで有名だ、などと人びとを安心させることに努めた結果、一座もようやく愁眉を開き、終りには 「もし接吻なんかされそうになったら、身を守るのに一番よい方法は、あの突き出た鼻に噛みついてやることだね」「何を抜かす、誰がお前のような婆さんに目をつけるかよ」などという冗談の応酬で散会となった。

 町や村の人びとの心配をよそに町の当局者たちは、米軍の駐留を迎える準備に忙殺されていた。村松に来るのは連隊本部と第一、第二大隊で、総数は約一万五千名という話であった。(実際は二千名であった)。少年通信学校の校舎は宿舎用に改修され、警察署の建物も増築され、町の通りにはそこここに新しい街燈が設置されて町の人びとを安心させた。これなら米兵も夜、暗い中で悪いことはできないだろう。
編集者
投稿日時: 2015-11-12 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 11

少通と、忘れ得ぬ思い出

           十三期  鈴 木 嶺 志

 私は静岡県浜松市にて生を受けましたが、父の転勤に伴い小学校は泰天で中学校は旅順で過ごし中学二年終丁と共に十三期生として入校致しました。
 終戦後は家族と全く音信不通となり復員する事も出来ず止むを得ず村松陸軍病院に収容され翌二十一年春まで、唯一人だけ村松の地に留まりました。
 それにしても、朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまで私の人生の中で、あの頃程、真剣に且つ体力の続く限りの毎日を送った経験はありません。それが又、戦後の苦しさを堪える事が出来たバックボーンであったのは間違いありません。

 特に印象に残る事は亀田小学校への野外訓練の時です。S班長殿の計いで私は先発隊として機材と共にトラックにて出発……。一区隊の面々は行軍となり、その上亀田到着直前に例の“駆け足に前へ″の号令が、かかったとか全員可成りこたえた様子でしたが、最後の気力を振りしぼって、お互いに助け合い乍ら一団となって現れ、その姿を見た私は何故か目頭が熱くなったものです。このままでは特に申し訳ないと思い私は当日の深夜の不寝番を買って出て立哨中、突如運動場の方で異様な掛声……何事かと駆けつけた所、月光に輝くグランドに十数名の女子生徒が裏白な鉢巻きも凛々しく女の先生の指導に従い裂帛の気合の下、薙刀の訓練を受けておりました。その気迫の余りの凄さに暫し茫然としていましたら先生を始め女子生徒全員が私に向かって最敬礼……。“軍務ご苦労様です。私達も頑張りますから、どうぞ祖国を守って下さい”と真剣な眼差しで挨拶され私は、万感胸に迫り只“ハイ”と云って直立不動の姿勢を取り立ちつくすしかありませんでした。忘れられない想い出です。

 所で日々の生活にも漸く馴れて来た頃、三種混合の予防注射を全員医務室で受けましたが、私は完全発熱。練兵休を三日ばかり許されましたが、熱がどうして下がらず、それ以来体調をスッカリくずしてしまい楽しみにしていた遊泳演習の直前、入院を余儀なくされ従って終戦の詔書は病院で聞きました。

 これから我々はどうなるんだろうと、一時病室が騒然となった時もありましたか、各自復員と云う報せが入り続々と病院を去って行き、結局私一人がポッンと取り残されてしまったわけです。そんな時、韓国出身の生徒十数名が帰国を待つ為、一時集結した事があり私も是非このグループに参加させて欲しいとW病院長に申し出たのですが〝お前は日本人でもあるし混乱している大陸へ戻るのは無謀だ、家族は必ず日本に還っで来るから”と諭され止むを得ず諦めましたが、あの時の孤独感と悲しさ無念さは生涯忘れる事が出来ません。
 その中、幸運な事に名古屋の師団司令部にいた従兄弟が復員業務に従事しており、たまたま私の名前を見つけ出し、戦災で家は焼けてしまいバラック住いだが、とにかく大阪に戻り、中学に復学する様にと勧められ意を決して村松を後にしたのは終戦翌年の三月でした。そして大阪での一年を経て、翌二十二年三月、旅順を追われ大連から浜松へ全財産を失い乞食同然の姿で引揚げて来た家族と漸く再会を果す事が出来ましたが、結局、父はシベリヤ抑留の上、戦病死、祖父、祖母、姉、妹の五人を失ってしまった我が家でしたが、母を中心に姉、弟、妹と共に苦難の道を辿る出発点となったわけです。
 それにしても多くの人々に助けられて、なんとか人並みの生活が出来る様になった私は幸せ者だったと痛感しておるこの頃です。
編集者
投稿日時: 2015-11-11 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 10

 ところで、後述しますように、現在村松碑には八百十二柱の御霊が合祀されていますが、でも、これは戦没された方々でも、平成十三年の段階で、氏名、所属、戦没した年月日、地点等が確認出来た方に限られており、甚だ不本意ですが、今となってはこれを確かめる途は総て閉ざされているというのが実情です。
 この点、東京校の尾崎健一氏は、その「少年兵の戦争体験」の中で、「奇跡的に日本の土を踏むことが出来た生還者は自分を含めて十八名程で、他に台湾で下船して勤務した数名がいる」と記していますが、それでは村松校の場合は如何であったのか、繰上げ卒業し出陣した三百十五名のうち、秋津丸と摩耶山丸で遭難した者が百十六名であることは先刻明らかになっていますが、残りの百九十九名の消息はその後如何なっているのか等々。これについて、佐藤嘉道氏は、先般来、長期に亘って東京校の分も含め精力的.に関係者への照会を繰り返してきましたが、今回漸くその全容が明らかになったので次に記載します。


三百十五名の敢闘と生還者数

            十二期  佐藤 裏道

 私は本誌の前号に「村松少通校十一期繰上げ卒業生について」と題して、「繰上げ卒業生は三百四十七名だったが、特殊情報要員として陸軍中野学校に派遣された者を除き、実際に南方戦線に向かった者は三百十五名であった」と前置きして、門司港から出航した直後、輸送船(秋津丸及び摩耶山丸)上で遭難した者と、神州丸に乗船していて辛うじてルソン島に辿り着いた者の戦闘の経緯を明らかにすると共に、この結果、生きて再び祖国の土を踏めた者が四十一名であったと報告しました。

 しかし、生還者の数については、その時点で十名の不明者が含まれていて、私としてはこの事が気懸りで更に調査の網を広げでおりましたところ、昨年十一月に至ってふとした関係で「ルソン島生還者名簿」なるものを入手することが出来、六名の方の生還を確認することに成功しました。
 これでも、なお、四名の方の消息が不明ですが、現時点では、これ以上の調査は殆ど不可能のように思われますので、繰上げ卒業生三百十五名を、中隊ごとに、地域別に分け戦没者と生還者を表にしたものが下表で、これによりますと、三百十五名中、戦没者二百六十四名、生還者四十七名、未確認四名となります。

 ただ、比処でご留意頂きたいのは、この表では生還者を、「生還者」と「復員者」に区別している事で、これはルソン島や沖縄本島では熾烈な戦闘が行われましたが、沖縄の宮古島と台湾では敵機による空襲等はありましたものの、格別な戦闘行為に晒されることはなかった事を示しています。
 従って、言い換えれば、繰上げ卒業していった三百十五名中、戦って戦死し、再び祖国の土を踏めた者は(「復員者」十三名を除いた)三十四名に過ぎなかった(生還率十一%)とも言える訳で、輸送船上での遭難はもとよりルソン島や沖縄本島での戦闘が如何に苛酷なものであったかが窺える結果になっています。


村松校繰上げ卒業生中隊別一覧表

編集者
投稿日時: 2015-11-10 8:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 9

 次に、最も悲惨だったのは、辛うじて遭難を免れてルソン島に辿り着いた彼らの、終戦までの戦闘の状況です。此処では、同地の戦闘集団・尚武の一員として、バギオ、パレテ峠方面に於いて正に「生き地獄」そのものの戦闘を体験し生還された杉原正雄氏の文章を掲載します。なお、因みに先頃私達は、冊子「ルソン島戦記 生還した六名が綴る「生き地獄」の実態」を刊行し、其処に杉原氏のほか、同じく十一期生だった尾崎健一、橋場 清、金子 博、神頭敬之助、本庄二郎の各氏の手記を収めました。


軍馬と兵隊

十一期  杉 原 正 雄

 あの時、門司港で輸送船、麻耶山丸の奈落のような薄暗い船底で軍馬の世話をしていた応召轄重兵の迫ってくるような強い言葉が心に残って忘れることが出来ないのだ。  
 語り継ぐことが供養だと思っている。

 戦況緊迫する昭和十九年十一月五日繰り上げ卒業。
 村松陸軍少年通信兵学校十一期生は村松町から、南方々面軍派遣要員として勇躍征途に就いた。
 門司港の船舶輸送司令部の参謀の訓示だった「貴様らは全員目的地に着けると思うな、半数も着ければ概ね(おおむね)作戦は成功せるものと思う。以上」‥横にいた、応召兵が「くそッ…兵隊は赤紙一枚で幾らでも集まると思っていやがる」と言って唾を吐いた。思わず見ると憤怒の顔だが哀しそうな眼(まなざし)であった。同期に「凄いこと言っているなぁ」と言いながら顔を見合わせた。
 「おい、半分だって」「うん…どうせ死ぬんだなぁ…」俺達少年兵は無垢(うぶ)なものである。検疫所の広場でのことだった。
 麻耶山丸に乗船して珍しそうに船内を見て回りながら船底で関東軍の輜重兵に「すごい底のほうだな」って慰めで言ったら「輜重、通信が兵隊ならば蝶々トンボも鳥の内って、所詮は員数合わせだ。ドカンと一発喰らつたら、海の藻屑だ、どうも、しようもねえ、あの世へ直行だあ」遣り場のない怒りの気持ちがそうさせるのか、そこらの馬糧や藁束を蹴っ飛ばしていた。辺りには、大勢の兵隊が軍馬の世話をしていた。そこを離れるとき、さっきの兵隊に「俺達も蝶々トンボの通信兵」と言ったら「そうかあ、下士候さんよ、死ぬなよ」って寂しそうに笑って挙手をしてくれた。

 その摩耶山丸が十一月十七日夕暮れて七時半頃、済州島沖で魚雷攻撃をうけ轟沈。衝撃音を二度聞いた。阿鼻叫喚と怒号のなか無我夢中であったが海に浮いていた。摩耶山丸は燃えながら海流に乗って沈んでいった。海上には幾艘もの船が赤々と火柱を上げて燃えていた。海の中からズズーンと腹に応える爆雷攻撃の響き、燃えている軍艦が阿修羅の様に動き、断続的な爆発音と火柱を噴き上げながら沈んでいった……地獄を見た。

 手足を動かすと海の夜光虫が青白く光って、手足が奇妙に短く見え得体の知れない生き物に思えた。あの馬を世話していた大勢の兵隊も軍馬と一緒に沈んだのだろうなぁと思った…海の水はしょっぱかった。
 翌日、昼頃、海防艦に救助され、揚子江入り口で海防艦から輸送船に移乗、台湾高雄港にて吉備津丸に乗船、十二月初め、比島・北サンフエルナンドに上陸、マニラからバギオに移動する。

 軍通 威 二五二七部隊に配属、翌年一月バギオから北バンバン尚武集団派遣班として転進する。
 通信部隊は暮れなずむ薄暮のなかを出発、バギオの街を過ぎ郊外、第十二陸軍病院前には緩やかなカーブの坂道に沿って毛布に包まれた遺体が幾十となく並べてあった。軍靴と蹄鉄の音だけが聞こえるなか、誰かの呟くように唱える…称名の声が聞こえていた。

 トリニダットは空爆で瓦礫(がれき)の街と化し、教会だけが残っていた。街を過ぎ山道を行く右に深そうな谷を挟んで薄く稜線が見える。我々と同じように動くゲリラの灯りを見つつ行軍、夜明け近く大休止、仮眠、出発、朝食なし…通信部隊は駄馬編成で、左ボントツクの道標を見ながら歩く…快晴の朝、一望に開けた二千メートル級の山塊の眺めは素晴らしく、行く先の山肌を柚道(そまみち)が羊腸の如く巡って、急峻な谷底は深く下の方に見えていた。落ちた軍馬の嘶きが哀しく聞こえ、崖沿いの柚道は路肩が崩れやすく、難所だと思っていると…罵声がとんできた。「早く手綱を離せ、あきらめろ」「バッカヤロウ」「放さんかア」見ると、兵隊が手綱を持って、必死で馬を引っ張り上げようとしていたが…馬は崩れる路肩を足掻きながら、通信機材と共に落ちていった。緑深い谷底で、腰の砕けた馬が起き上がろうと、時おり嘶き、足掻き、首をふる姿が見え、やり切れない思いであった。

 為す、すべもなく兵達は、せつない思いをのこしながら、北バンバンへと離れていった。
 輜重兵が言っていた「馬はものを言わんが、俺は、わかる…可愛いんだ」我々が通った細道は後にラウレル大統領も通った山下新道が開通された。
                (「村松萬葉」 二〇一〇版)
編集者
投稿日時: 2015-11-9 7:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 8

 即ち、此処に記載された門司港を出航直後に敵潜水艦の魚雷攻撃によって海上に投げ出された少年達が、最後の瞬間に、「お母アーさん」と叫びつつ波間に消えて行ったという話は、輸送指揮官からその報告を受けられた高本校長が後年亡くなられるまで「如何に軍の命令だったとはいえ、年端の行かない子供達を繰上げ卒業までさせて出陣させたくはなかった」と悔やんで居られたということと相俟って、これが「少年兵悲話」として今なお広く伝えられていますが、本当にそれが正しく少年兵の声であったか如何か、この点について北川武男氏は次の文章を遺して居られます。


  波間の悲叫 (一%の疑念)
              十一期  北 川 武 男

 村松陸軍少年通信兵学校第十一期生が、特演隊として繰り上げ卒業してから、早や五十一年の年月が過ぎた。
 「光陰矢の如し」とは……正にその通りである。この繰り上げ卒業で、東京校も村松校も、学窓を後に出征していった同期生が、壮途半ばにして無念にも、水づく屍と散華された事は周知の通りであり、その御霊の慰霊に少通関係者は寝食を忘れて慰霊碑の建立と慰霊行事に一丸となって心を砕き、その誠を尽くして汗を流して来た。

 此の慰霊行事が実施される度に、あの秋津丸や摩耶山丸で海没された少年兵の 「お母さん、お母さん」と呼ぶ声が暗い波則から聞こえて来たと、当時の少年兵輸送指揮官であった故鈴木宇三郎氏の寄稿文を思い出す。
 その一部に次の様に書いてあった。「摩耶山丸に乗船し、撃沈後救助された将校の話しによると十七日、暗い波の間に間に「お母さん「お母さん」と呼ぶ声が聞こえたが、あの声は確かに少年兵の声であったと聞かされた時は涙が出て泣けて仕方がありませんでした。村松少通校の生徒も約五十名余り海没したものと思われます。」

 又昭和六十年に行われた第四回慰霊祭の時、稲田健吾氏の戦友の言葉の中にもこの様に言われている。
「特に戦局愈々苛烈の度を加え、ついに昭和十九年十一月、私共十一期生に出陣の命下り、我等昭和の白虎隊となり、愛する肉親と御国の楯とならんと、決意も堅く紅顔を輝かせ校門を後に壮途につきました。そして僅か旬日にして敵潜水艦の攻撃を受け、五島列島沖及び済州島沖で多くの方々が船と運命を共にされました。波にただよい力つき、最後の気力をふりしぼって「お母さん」と叫ぶ少年の声が、波間に消えていったとの話を、雄途の夢も半ばにして破れたあなた方のご無念ひとしおの事と拝察しつつ、歯を喰いしぼって聞きました。」

 私達はこの言葉を聞くに及び、さぞや無念の涙の中で叫んだのであろうと、その心中を察して涙を流したものでした。若しも自分であったならどうであったであろうかと身を置き替えて見た時、やはり同じであったろうと思い、痛む気持に一層誠意を込めて慰霊に献身していった、

 私もこの遭難戦没をされた実情には九十九%残念無念の断腸のおもい一杯で受け止めてはおりましたが、何故か一%だけは本当に少年兵だけが暗い波間で、「お母さーん、お母さーん」と声を張り上げていたのだろうかと疑念を抱いておりました。然しその様に思っていても私は実際に見た訳でもなく、又共に遭難をして生き残った訳でもありませんから、ただ人から聞くのみなのでその様に信じる外はありません。でも一%だけは何としてもひっかかる気持がどうしても拭いきれないのです。それと言うのもあの少通校で幾ら年少とは言え、そんなに甘くは育てられていなかった筈です。教育面でも又精神面でもそれぞれに、部隊配属後に於ける中心幹部としでの実力を備える様に鍛えられていた筈です。特に精神面に於いては鋼鉄よりも固く鍛えられた様に、現在でも信じております。
 先日或る手記を読んでおりましたら、当時のヒ八十一船団で護衛空母.「神鷹」の乗組員が記した神鷹の撃沈とその遭難状況が出ていて、その中に摩耶山丸と同じ様に、波間に「お母さーん」と呼ぶ声を聞いたと語っておりますので、その一部をここに転記させて頂きます。

 「空母「神鷹」は旧日本海軍が輸送船団の護衛能力強化のため、昭和十八年にドイツの豪華客船シャルンホルスト号を、航空母艦に改造したいわゆる護衛空母であった。敵潜水艦攻撃が主目的であるから、潜航中でもこれを發見できる磁気探知器を装備した磁探機と、爆撃機の二種類をあわせて三十機ちかく搭載していた。
 神鷹は二回南方に出撃した。特に二回目の時には敵潜を四隻撃沈確実の戦果を挙げている。第三回目の出撃のため日本本土をはなれたのは昭和十九年十一月十二日、今回の船団は九、〇〇〇総トン級が四隻、これは上陸艇母艦で陸軍のもの、その他一万トン級タンカー五隻とこれまでにない大掛りなものだった。一方護衛陣も強化され、空母神鷹とこれを直衛する駆逐艦の樫、海防艦七隻、神鷹は船団護衛の任務について南下していたが、十一月十七日の夜中の十一時五分、米軍潜水艦が発射した魚雷六発の内二発を受けた。空母の弱点は空母機用の揮発性の高い燃料を大量に搭載していることだ。神鷹には前後部二ヶ所に各々二十万リッターのタンクがあったが、出港後日が浅いのでほとんど満タンに近い状況であった。魚雷はあいにく後部タンク附近に命中したらしく、天地も裂けるかと思う大爆発音とともに「アツ」という間もなく、艦の周囲は火柱と炎に包まれ海が火の地獄と化した。体が何とか動かせる者は飛行甲板に集まった。火柱は飛行甲板より数メトトルも高く上がり「ゴーゴー」と大きな音をたてて風を起こし、燃える火で真昼の様に明るかったが煙のために視界がきかない。艦は次第に右に傾きを強めてきた。履いている飛行靴の底が熱のため粘つく感じである。ついに神鷹はまだ燃え盛る海面にその姿を没した。約三十分程持ちこたえたその間に、果してどれ程の乗組員が退艦出来たであろうか。

 燃えるものがなくなって火も消えると風もなくなり、月影もない海はウソの様な静けさになった。漂流者は分散している様だが、或る程度群れをなしているようだった。軍歌を歌っている群れもあった。時間とともに体温が海水に吸い取られていく。体力の消耗を防ぐために軍歌は歌わないこと、眠らぬように努力すること、集団から離れないこと、この三つを訴えた。寒いから小便が出るのか、小便が出るから寒く感じるのか、冷えてあちこちの筋肉が痛む中、小便が少しつ出る。これは体温とほぼ同じで海水よりも十度以上も温かいので、ひざを合わせてこの貴重な熱源を逃さないようにもした。

 軍歌が聞こえなくなってから三時間程も過ぎたであろうか、寒い冷たいという感覚が次第に鋭くなってきた。そして睡魔がおそってきた。五段階建てビルの屋上よりも高い飛行甲板から飛び込み、幸いにも火膜のわずかの切れ目に浮かび出たものの、その際重油をしこたま飲みこんだ為に、腹のものは全部吐いてしまっている。寒さと空腹の重なる最悪の条件下で睡魔と斗うのは、経験も訓練もなかっただけに極めて切ないものだった。

 突然近くにいた一人が「味方の海防艦が援助の発見信号をしているから行こう」と叫んだ。私は目を凝らして見たがそれらしいものは見えない。水平線に近い星がたなびく雲の切れ目の移動でチラッチラツと見え隠れするのであった。説得の甲斐もなく彼は泳いでいった。続いて二人が彼と同じ星に向かって集団から離れていった。

 時間が漂流している我々を置き去りにして行くような焦りを抱きながら、ゆっくりとリズムで上下する波に体をまかせる。「大丈夫かー」「必ず助けにくるぞ!」自分か眠くなると目覚ましも兼ねて時々声をかける。今まで大なり小なりの反応があったが、疲れがひどくなったのか、変り映えのしない繰り返しの言葉に、煩しくなったのか、すでに睡魔に襲われているか、それともすでに息がたえてしまったのか、しばらく静寂が続いた。

 突然、「お母さーん」とアクセントのない声が聞こえて来た。はじめは自分の錯覚ではないかと思った。
 しかしその声に共鳴するように私の前後左右からも「お母さーん」「お母さーん!」という声が湧き上った。そしてそれは一つの合唱となり、次第に裏声となり、泣き声と変って海面を覆った。そしてその声は花火の様に闇の中に消えて行った。」
 以上であるが、あの暗い波間に漂い精も根も尽き果て、生死の境を彷徨う極限の時、母の幻影に無意識のうちに年令には関係なく「お母さーん」と呼んだのてあろう。
 これが少年兵なるが故に、ものの哀れを誘い一層の同情を禁じ得なかったが、波間の悲叫は少年兵だけではなかった事が立証されて、私の一%の疑問が晴れて安堵した。

 幼ない気持ちが残っていた少年兵なるが放に、肉体的にも精神的にも弱かったからとたとえ一%といえども疑念を抱いた事は今は心から反省している。少年兵といえども強かったのである。
 「お母さーん」と呼ぶ声は極限の生死の淵をさまよう時に、本能からにじみ出る母への思慕が声となって幻影に向かって出たものと私は思う。
 ちなみに少年兵は神州丸、秋津丸、摩耶山丸の三隻にしか分乗していなかったのである。

  (平八・四 かんとう少通・第七号)
編集者
投稿日時: 2015-11-8 8:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 7

村松の庭訓を胸に散華した少年たち
             
       十二期  大 口 光 威

 これは、先の大戦も終盤に近づいた昭和十九年秋の出来事です。当時、私は十五歳、村松陸軍少年通信兵学校に十二期生として在籍していました。
 十月一日、折しも開校一周年を記念して仲秋の名月を愛でる「月見の宴」が催され、学校に隣接した練兵場の芝生の上に沢山の机が持ち込まれると共に、学校長以下全幹部出席のもと、課業を終え体換衣袴をまとった全校生徒千六百名が整然と居並びました。
 やがて宴が進み、軍歌も「山紫に水清き」から「月下の陣」に移るに至って、これを境に皆の頬が一様に濡れて行きました。
 「われ、父母や兄弟を思わざるにはあらねども、君に捧げし身にあれば………」
 自ら志願した途ではありましたが、故郷の家族を思い、来年のこの月を何処の戦場で仰ぐかを想像したとき、誰もが、こみ上げる感情の高ぶりを抑えることが出来なかったのです。

 事実、翌月の五日、十一期生中の三百余名に対して繰上げ卒業が命じられました、しかし、当時、卒業は即出陣を意味していました。十日後、他の兵員と共に三隻の輸送船に分乗して南方に向け門司港を出港した彼等は、待ち構えていた敵潜水艦によって、うち二隻が五島列島沖或いは済州島沖で相次いで撃沈され、その多くが海の藻屑と消え去りました。生き残った者の証言によれば、夜の海中に投げ出された彼等は始めのうちこそ漂流する木片に槌り力一杯軍歌を唄うなど、必死に気力を奮い立たせていましたが、初冬の海は冷たく、一人、また、ひとり、暗い波間に消えていき、或いは一瞬、母の幻影でも過ぎったものか、其処此処に「お母アーさん」の声も聞こえたと言われています。
 でも、これらの事実は軍事機密として固く秘匿され、私達がこれを知ったのは戦後のことでした。彼等の年齢は十七、八歳、練磨を重ねた技を何一つ試すことなく、その無念さは如何許りだったでしょうか。
 また一方、辛うじて難を免れフィリピンに辿り着いた者もまた、其処に待っていたのは間断ない爆撃と深刻な飢餓やマラリア等の悪疫であり、悪戦苦闘、その多くが彼の地で玉砕し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。

 やがて終戦。これを機に、わが国は戦争の放棄を宣言し、平和国家への道を歩み出し、私達生き残った者による慰霊の行事も始まりました。
 学校跡が望める村松公園の小高い丘と遭難地点近くの平戸岬における慰霊碑の建立、春秋の参詣会と三年毎の慰霊祭の開催等々。しかし、これも、その後の関係者の高齢化には逆らえず、平成十三年の合同慰霊祭を最後に公式の行事は幕を閉じ、今では個人単位の慰霊に代わっています。
 ここにおいて、私は昨秋、同期の佐藤嘉道君と共にこれら戦没先輩に捧げる鎮魂の書として「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」を上梓しましたが、この中で私が真に訴えたかったのは、祖国存亡の危機に臨んでの彼等の一途さと純粋さです。彼等は此処・村松に於いて練武砕魂、教授一体の猛訓練を展開し、その庭訓を胸に敢然と巣立って行きました。また同書に海没した漂流物の中から拾い上げた手帖の一節を復元しましたが、そこには、戦友を乗せた僚船が炎に包まれるのを目の辺りにしながら綴った「礼儀正しく」「向上心を持て」の自省の言葉が残っていました。しかし、こうした心情は現代の人々にどれだけ理解され共感頂けるでしょうか。青春とは無縁に、ひたすら祖国の勝利と繁栄を希って散華した紅顔の少年達-------.。

 因みに、高木元校長は、戦後慰霊の発端になった村松の「戦後二十年の集い」に際し、彼等の死を悼み次の献詠を遺しておられます。

 異境に骨を晒す十有余牛 鬼哭啾々誰か憐れまざらんや 勇躍かつて上る遠征の旅 無言いま還る故郷の天 靖国の宮に御霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に
 戦争の末路何ぞ悲壮なる 涙は迸り胸は迫る英霊の前

 (「村松萬菓」 二〇〇九年度版)

注 別記のように、その後、冊子 「村松の庭訓を胸に」の刊行が機縁となって、平成二十二年、地元有志による「慰霊碑を守る会」が結成され、毎秋、厳粛な慰霊祭が営まれて現在に至っています。
編集者
投稿日時: 2015-11-7 8:21
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 6

二、繰上げ卒業生の出陣と遭難

 而して、昭和十九年十一月、このようにして訓練に励んでいた十一期生八百名の中の三百四十七名に対し、突如繰上げ卒業と、うち三百十五名の南方戦線行きが命令されます。
 即ち、その頃、既に米軍はサイパン島を攻略し日本本土空襲の地固めを終えると共に、次の攻撃目標を日本の兵站基地であるフィリピンに絞っていましたが、このため彼らは、これより二年七か月前、「アイ シャル リターン」(私は必ず戻ってくる)の言葉を残してコレヒドール島から脱出していったダグラス・マッカーサーに、二十万余の大軍を与え、「名誉を挽回せよ」とばかりにレイテ島に向かわせたのです。其処で、こうした情報を察知した我が大本営は「レイテの戦いこそ今次大戦の雌雄を決する天王山になるに違いない」と判断し、同島で苦戦中だった我が軍を助けるため、当時、満州に温存していた百万と云われた関東軍からの大量抽出と、そのレイテ投入を決め、その作戦の一環として少年兵に対しても、成績が優秀で当面の戦力になり得ると思われる十一期生の約半数の者に繰上げ卒業と南方戦線行きを命じた訳です。で、此処で注目すべきは、前章で小林龍馬氏が、その冒頭で「少年通信兵の在籍期間は通常二か年で、第一年は基礎課程で通信技術や機器の取扱いを学び、第二年に入って初めて実戦に即した諸々の野外訓練等を学ぶことになっている」と述べている点で、これからすると、本来の修学期間を半分の一年、正確に言うと十一か月に削減されて出陣して行った十一期生は、殆ど実戦の訓練を受ける間もなく戦場に向かったことになります。
 其処で本章では、先ず(大口)が先に「村松萬葉」誌に寄稿した「村松の庭訓を胸に散華した少年たち」を取り上げると共に、其処に出て来る輸送途上に於ける遭難と「生き地獄」と云われたルソン島の状況について、夫々十一期生の北川武男氏と杉原正雄氏の文章を載せ、更に、こうして出陣していった三百十五名が最終的にどうなったかを、十二期の佐藤嘉道氏の調査結果で見てみる事にしました。
編集者
投稿日時: 2015-11-6 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 5

(二)、村松少通校に於ける主要行事

 東京少通校の状況は不詳であるが、村松の場合は専ら電信聯隊・軍通信要員三コ中隊(十一期は一中隊から三中隊、十二期は五中隊から七中隊)約六百余名と師団通信隊要員(四中隊と八中隊)約二百名(期毎に)が訓育養成された。したがって器材取扱いも初期は三号甲で教育を受けたが、後には軍通と師通に分かれたから、軍通要員は主として二号乙の取扱いが中心となった。ただ時には無線交信技術習熟の為に九四式五号無線機を用いた場合もある。これは三号甲のより小型のもので、切換えによって無線電話の交信もできた。有線としては九二式電話機や九五式電信機をごく僅か利用したこともあるし、七号無線機は遊泳演習行軍の際に垣間見たことがあっただけである。だから東京少通校で用いられていた大型の対空一号その他は若干器数は通信講堂に置かれていたが、取扱いそのものは末教習であった。

 以下、村松少通校の略年表を掲載するので、参考にして頂きたい。ただ、特定中隊、特定区隊の日誌を基に作成したから、若干の差異があり、一般的でないかも知れないが、学校全体の行事は共通していると考えられる。

(注) 因みに、小林氏は四頁で「生徒の外出制限区域などを記述した本のことに触れていますが、これは本誌・第二集の末尾に添付した「生徒心得」にあたるものかと思われます。

村松少通校・略年表

    昭和一八・一〇・一~二〇・八・二九年

 (表の上をクリックすると拡大します)
















































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