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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     私の従軍記 飯塚 定次
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編集者
投稿日時: 2015-4-15 6:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 14(最終回)

 余談ですがその後彼は神戸の系列の会社の社長になられたが二十年程前に他界された。
 一度麻布の御宅を訪ねた事があり、今その頃をなつかしく思い出している。昔司令部にいた数百人の内、今、賀状を書いている人は十名に満たない。皆お話出来ない処へ行かれてしまった。

 私のBキャンプでの責任を背負って行かれた司令官も田沢中佐(参謀)も私達が帰国前にシンガポールのチャンギー刑務所で処刑せられて果てられました。当時チャンギーで教戒師を勤めていらっしゃった池上本門寺の門跡が関係者の拠金を基に大東亜戦争に依りチヤンギー刑務所で処刑された方々百六十数名の御霊を祀る慰霊碑を昭和二十八年、本門寺の御寺の境内に建立し、毎年四月第二日曜日に慰霊祭を行って来ました。陸海空、及び関係者の霊を祀る主祭者が高齢になり合同慰霊癖は平成二十五年を以て一応止め爾後(じご)は各縁者に依って行う事にした。情況の許す限り参詣する事に私の心の中では決めております。

 最後に申上げたい願いがあります。これ迄申し上げて来ました様に世界中の人間が己の利益だけを考えて行動したら必ず衝突が生じます。今回の世界大戦も日本の国力の急激な進展を恐れた国々が協議をして日本へ油を売らないことを協議し、同盟を結び、これを強行し、軍備も陸海軍の戦力を限定して来た事に端を発している事です。日本も一緒になって協力体制を作る立場に入っていれば、当然戦争はしていません。それでもきっと難題を出して来る事もあるでしょう。それを解決する道は政治力です。この政治力を高め相手に納得せしめる理論話法を磨き上げて行く事を政治の衝に当たる人は身につけなくてはなりません。自分だけ満足な豊かな生活を相手の犠牲の上で押し通そうとしても万人が反対すれば成立しません。共存共栄の道を求め、その道を造り出した人には万人が感謝とその人の幸福を認めましょう。

 東日本大震災で時の総理大臣が原子炉の冷却装置が停電で停止したらあの大事故を引き起すことを知らなかった。アメリカから援助の電話を戴いたのにお断りした。この一人の政治力の無知。あらゆる面で大惨事を引き起したとなります。その他の原発の設備はどこも事故を起していないでしょう。皆さんが冷静なお立場で実情を確認して下さい。今の総理は理論と現状が安全ならばと断りの上で膨大な原油の輸入で国の財政を苦しめている事の如何に無駄かという事がお判りになるでしょう。又大事故を起す事を承知で仕出かす様な心配は必要ないのではないでしょう。二代に亘って外交と事故でこんなに苦しい思いをさせた張本人はのうのうと涼しい顔でテレビに出ています。私達の政治感覚をもっと磨いて行かないと日本の真の安心は育たないのではないでしょうか。

 英智を結集して原爆を排し新しい熱源を開発すること。

後記
 今から八十余年以前の事件を問われるままに朧な記憶を拾い集めて書きましたもので 勘違いもあると思いますが九十五才の老兵の夢と御寛恕下さい。子々孫々に絶対に戦争をさせてはならないという私の情念をお汲取り戴ければ本懐です。
      
平成二十五年七月

 ー完ー
編集者
投稿日時: 2015-4-14 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 13

 さて、私と栗原中尉は各部隊の経理部と本部の担当者を集めて現況把握に入った処、既に近くのなだらかな山野を開き、開墾を始めていたのを基本計画の基軸とし草の生えない酸性土壌を中性土壌に改良する為、切り開いた土地一坪当りを一山として深さ三十~四十センチに掘り起し下部にシダ類を敷き、その上に中心に煙突を仕組み上を雑木を切りさき燃え易い土釜にして、下から火をつけて焼土作戦を開始した。人手があるが食料不足の作業できびしかったが思ったより順調に進み、シンガポールの二十五軍本部より甘藷の苗、タピオカの苗等を引取り開拓の出来た処から植付けを始めたのであります。私はこれらの収穫期迄残りませんでしたので戴くことは出来ませんでしたが一面甘藷畑になった開墾地をみて感無量でした。

 肥沃な島が沢山ある中でわざわざ草も生えない無人島を選んで我々を追い込む聯合軍に人間としての尊厳を無視した聯合軍の意図に許せんとする強い反感を禁じ得ませんでした。

 地図に載らない二百余の島々は今どうなっているのだろと気になります。この島々を結ぶ水路にワニが沢山います。この時分に二名の方がワニの攻撃を受けて亡くなられました。

 何回目かの帰還船が次々出航してゆきました。その間四月二十九日の天長節の祝日を記念して演芸会を舞台を作って行いました。その頃は日常生活も兵舎が出来て人並の環境になっていまして、食糧も聯合軍の野戦食オーストラリヤレーションが時折配給されたりし、以前の様に長期のための特別備蓄なども考えずに平常になっていました。

 五月に入りまして帰国の番に組入れられまして下旬だったと記憶しておりますが、乗船、南紀の田辺港に六月八日に入港いたしました。東京都麻布の村松達二郎君と司令部在籍者の中で仲の良い友達として生活していました。彼は私より三年年長で東京商大卒業、繊維の大手メーカー「郡是(グンゼ)」のニーヨーク支店に勤務中召集され近歩三へ入隊。御自宅は東京麻布区林町でしたので無論大空襲で焼失しているだろうという事で二人で久しぶりで京都へ行って和食で日本を味わおうという事になり、受取った三百円、二人で計六百円あれば良かろうと昔和菓子一個一銭か二銭だった頃の頭で考えて話していた。ところが当ってびっくりした事は饅頭が一個十五円、ザツと三千倍となっている。とても六百円で豪遊等とんでもないという事で東京の御宅へ電話したら通じて御住居は大丈夫で残っていらっしゃる。分散した家財の内、横浜倉庫分は全焼、群馬分散の方は安全、御自宅の庭を掘って格納された分は防湿不充分で傷んだものが多いという事が判明。私の田舎の家へひとまず落ち付こうという計画も必要なくなりまず一安心となり、彼は東京実家へ私は静岡へ直行となった。
編集者
投稿日時: 2015-4-12 21:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 12

 間もなく輸送船で目の前をシンガポール沖の収容所へ集合する為に一万八千名が通り過ぎて行くのがみられる様になった。良かったナ、思ったより早くみんな帰れそうだナ、と一つの安堵が出来た。我が三十五旅団は北レンバン島へ、スマトラ第二師団は南レンバン島へ集合するという事が判った。変った事もなく一ケ月半が経って、十二月中旬田村部隊の下士官兵と我が司令部自動車隊の私を除く十名が原隊へ呼び戻された。私はこの時、空が一変して明るい太陽が満ち満ちているのを実感しました。これで心残りなく死んで行ける良かったと一度に神仏に感謝いたしました。こんな清々しさは久しぶりだと思った。

 数日して輸送船を見送った。クリスマスに下さったプレゼントだった。Bキャンプは話相手は少なくなって来た。一月十二日朝呼び出されてこれから装備して中央へ出よといわれ、私と林中尉が呼び出された。林中尉は情報関係だ。二人が出たら英軍少尉が付添って日本の衛兵司令所へ行き私達二人は自軍司令部の出迎えた車で司令部へ戻った。この時日本軍へ引き渡されて、見た乾季の山野が一度にパツーと明るく輝いて曇っている空迄明るくなった事を今も眼に焼きついている。司令部へ戻り、田辺参謀の処で復帰報告をした処大変よろこんで下さり、近日北レンバンへ行く船が出るので明日積込みをするからと説明があり、食糧がなくて困っている状態と聞き今度も我々を食糧にするつもりかと思った。取りあえず船に乗せられるだけの食糧と車がないというのでサイドカー一日とトラック(米を満載して)一台を積込んだ処で英軍の司令官が臨検し、トラックは下ろせという事で船に積替えようとしたら時間がない直ぐせよといわれ悔しかったが米を積んだトラックをそのまま下ろして出航した。

 北レンバンに到着したら港らしいものもなし、道路も歩行路という処、トラックを持って来ても走る道がなかった。サイドカーはどうやら行けそうという事。この島は粘土質で水もない、草も生えない、ビンロージュだけが海岸から岡へかけてあるだけ。司令部に到着したら仮小屋。私達の居室なんて気の利いたものはない。海岸に生えていたカヤを刈って来て頭の方半身が入る岡の斜面に造ったとにかく雨露を凌ぐだけの野営に入った。到着して甲副官に復帰の報告をした処「早速だが、みる通り草も生えない荒地で陸海軍併せて二万人の自活生活が始まった処だ。飯塚軍曹は早速ご苦労だが栗原中尉(記憶が不確実)と二人で全軍自活の開拓計画をたて、既に各部隊に命令が出ているから具体的な指示を出してほしい。」 と新任務が下された。当時司令部百八十名ほどで一食の米が一升(一、八リットル)透明なお湯の様で米粒一つなかった。これは英印軍の作戦で我々を餓死させるつもりだろうと思って居たが経理部の某責任者の言質で判った事は、何としても生命の維持策として半分を山に秘密の壕を掘り日々造り出した米を厳重な管理で確保していることが判ったが、もしこの事実が聯合軍に知られたら、担当者は即刻処刑されるだろうという事だった。
編集者
投稿日時: 2015-4-9 6:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 11

 八月十五日午前、司令部前の広場に二百名近い全員整列して戦争終結の勅令を伝達されました。司令部に在籍する者は情報をキャッチしていますので来たるべき日が遂に来た、そんな思いでくやしさをかみしめました。九月十五日英印軍司令部から駆逐艦ナルバタ号(と記憶していますが違っていたかもわかりません)が来て終戦手続が決定されたのです。
 身辺整理が八月十五日以降ずっと続いておりましたが兵器の処理とかが真先に取上げられた事は当然ですが港のすぐ前にロス島という小さな島がありまして英印軍の司令所として常駐いたしました英海軍の中尉が責任者として指揮をとり、副官に若い少尉がついていましてこの少尉が人なつっこい人でよくお話もいたしました。

 十一月二日朝、高級副官から呼出されて「本日午前中完全装備、食料七日分携行、単独行動となると心得て司令部前へ集合せよ」と命令を受け、これが戦犯Bキャンプへ収容された第一日でした。行先不詳。私が選んで供にスパイ狩作戦に行った十名が行動を供にしました。みんなに対して終戦したというのに行先も目的も理由も不詳の旅とは最悪の条件だナと自覚。「最後の最後かも判らん、各人最後迄自分を大切にしてくれ、元気でナ。」と決別のわかれを告げたが二、三時間後に判った事は、ロス島のBキャンプへ皆収容された事。とりあえず話合える生活が続いた事は一つの安心をもたらした事だったが、英軍の監視兵が着剣した小銃で宿舎を囲んでいて言葉が通じない事と素手の我々がこわかった事か、とても緊張して距離をとって警備していた事。呼び出されるとキャンプの中央の処にあるテーブルの前で剣のついた銃を胸に当てられ両手を頭の上にのせて尋問させられた屈辱はくやしかった。戦争に勝った彼等の倣慢さも頭に来た。彼等からみて気に喰わん時は銃を空に向かって撃っていた。みんな覚悟して生活をしていたから正々堂々として武人らしい立派なふるまいだった。
編集者
投稿日時: 2015-4-8 6:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 10

 我が軍約二万は私が到着した当時全員で防衛の為の陣地構築で早朝兵員を自動車で海岸線の陣地へ輸送、夕方宿舎へ送還のくり返しでした。
 任務で調べましたが岩盤を手掘りで敵の上陸を阻止する為の陣地造りは人間の思考力、判断力、希望を抹殺してしまいます、と現状を見まして深夜脱出して死を選んだ人が数名あったと聞きましたが余程の信念を持たないと耐え難い苦境だったと今でも絶対に戦争を起したり考えたりしてはならんと私が徹しているのはこの現状を思い出すから、その悲惨さ非人道さを繰返す事の許し難い行為を作り出すからです。

 何故アンダマン、ニコパルを死守するかといいますと、アンダマンは全島が小高い山で出来ていますが港湾があります。ニコパル諸島はサンゴ礁で平地で滑走路が遠隔地へ飛べる条件に叶っているので敵に渡す事の出来ない基地であった訳です。アンダマンはニコパルの防衛の基地であった訳です。アンダマンへは毎夜爆撃機が来ていました。攻撃と偵察とスパイとの連絡が任務です。対岸ビルマ、印度とは潮流の関係で季節に依ってボートでも小舟でもエンジンなしでアンダマンへは交通が可能でした。その潮流を利用してスパイは入り込み信号弾を使って情報伝達が出来ていました。昭和十九年二十年に入って敵前上陸を含め九月十五日を実行日と決めて空中からチラシを播く様になりました。そしてスパイの活動が積極的になりました。それで陸、海軍司令部は戦略会議を臨む様になりました。

 海軍十二特根司令部は八月に命の綱としていました四発水上爆撃機二機をサイパン攻撃作戦に出撃させました。弱体の海軍としては決死の覚悟で送り出したと思いますがそこ迄追いつめられたかと私は痛感いたしました。それから間もなく司令部ではリストに載っているスパイ全員を逮捕する作戦に入る事になりまして陸軍の作業隊(建築)より隊長以下十二名、我が自動車班より十一名計二十三名で特務機関の名簿により検挙に入りました。八月八日から三日間だったと思いますが少し不確実な思いもいたしますが、敵の上陸間近かと考えて実施に入りました。近日来夜間の信号灯等が激しくなった事もあります。百五十~六十名位捕えた様に記憶していますが私が十名を選んで作戦隊長田村大尉の下に参り完了いたしました。
編集者
投稿日時: 2015-4-7 8:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 9

 もう一つ悲しい想い出がある。スマトラ島上陸作戦が成功し全島制覇して守備体制を整えた時、部隊本部の近くの部落で不平分子の五百名程が教会へ立て籠もって不穏な動きがあるという情報が入って調査に入った処、元来アチエ州はオランダ政府に反発して反オランダ作戦を犯した前科がある地方。その点は承知の上で対応して来たのに今回の独立運動もこの際一気にやろうという過激の煽動が明らかだという事になり、軍の圧力で解散させようと部隊長と旗衛兵、通信隊、情報関係で第五中隊の主力を以って昭和十七年一月十日バイユ村を包囲して即時解散する様宣撫班を交渉に立て説得したが次第に激昂して蕃刀をふり廻し乍ら前進して来た。丁度稲田は田植え後の水を一杯張った状態で細い畦道に最前線に一人の影、裸足の彼等は田の中を横に並んで前進して来て、一番右翼の兵隊がやられそうになったので私の前の軽機関銃から援護射撃をした。それがきっかけとなって対峙していた部分で蕃刀をふり廻してかかって来た彼等と衝突止むを得ず軽機関銃の一斉掃射となり双方に死傷者を出した。街道は一本、自動車は五台程だった様に記憶しているが彼等と殆ど対時しているので小銃を発する術は当初なかった。元々イスラム教徒の反抗だったので宣撫して解散させる作戦だったので捨身の彼等ど白兵戦になってしまった事は予期せざる最悪事態になって機関銃も指揮官の五中隊長も苦慮した事をよく推察出来た処だ。

 路上の両者は入り乱れて彼等の中に取り込まれた兵は無残だと、唯そのすさまじい激闘の最後をどうする事も出来ない現場をうらみ悲しんだ。一瞬の出来事だった死に物狂いのイスラム教徒の神に対する身を捨てて果てて行った人達の精神力は戦闘兵力よりすさまじいものを実感した。
 道路側の溝へ死者や負傷者を引き下し自動車で負傷者を応急手当てした者から部隊医務室へ送り、暮色に包まれた一帯は血なまぐさい風で覆われ、その凄惨さは私の経験の中で最悪のものとして今も消え去る事のない悪の権化としてこびりついている。この時の戦死者四名、負傷者三十二名、その中で船越軍曹、剣道二段軍旗護衛隊長で全身三十数ヶ所の切傷を受けられ重傷であったが、その後病院の手当よく完治され今でも年賀状を戴く大切な戦友。愛媛県善通寺にお住居。私の部下森田一等兵は全身切傷で即死なされました。二名の.負傷者は全快帰省された。

 バイユ事件は首謀者を追って作戦が続行され首謀者をジャングルに追い詰めて乱戦の末、逮捕しバイユ事件は作戦終了いたしました。
 今日現在も同族が血で血を洗う悲劇がアフリカや西アジアでも発生しております。国連で取上げるべき重要な課題です。有力国が特権で取上げず放置してありますが、これを議題として地球防衛の最大最重要議題としてその他の国が力を合わせて地球を楽園にするための機関になる様な運動を起し解決していく道を大至急作っていただきたい。議決権を持っている国はその責任を負うべきです。
編集者
投稿日時: 2015-4-6 8:18
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 8

 日本軍は南西アジア攻略のための基地にニコパル諸島(サンゴ礁)を死守。我が第三十五旅団を新規に興して我々が先進してここ迄来たのである。東京から一番遠距離の占領地だと思う。

 話がそれましたが私は調理師三名と行を供にし、メダンから四昼夜の行程を出発した。大波にゆられて文字通り木の葉の如く、これでは潜水艦も相手にせぬだろうと思った。さて、それで考えたのが彼等持参の麻雀牌だ。時間つぶしに持ってこいのアイデアだった。久しぶりの麻雀という事も気に入った事だった。

 丸四日でアンダマン島埠頭に到着。出迎えてくれた事で山上の司令部へ。彼等は海軍司令部へいよいよアンダマン島奮戦記が始まる。前に申しました通りここは刑務所で住民も殆どかつての受刑者との事。印度洋の東南部の群島で基地としての要地として占領したが英印軍は反撃の基地としてアンダマン、ニコパル諸島の奪還を策し、月二回二十数隻(内一隻航空母艦)で艦砲射撃攻撃を行い、私も上陸後数回グラマンの地上掃射をタコツボの塹壕の中で受けた。実害は少なかったと思う。後に申しますが私が戦犯としてキャンプに収容されたのはこの戦況の緊迫して来た状況が原因ですが後記いたします。
 私がアンダマン司令部へ到着した頃、陸軍航空隊のいわゆるゼロ戦部隊の一部が司令部近くの飛行場に数機待機していました。熱帯の飛行場は熱砂のど真中、日中、航空兵は裸でおりました。
                                 
 ビルマ作戦中のアンダマン飛行場は敵にしてみれば咽喉へヒ首(あいくち)を当てられている様な地形上危険な地。毎日偵察飛行で毎月インド洋艦隊で攻撃してくる現況が、それを物語っていますが、私が着任して間もない頃、敵重爆撃機二機を我がゼロ戦が撃墜し、内一機が陸上に墜落していて修理班がそのエンジンを回収して自動車の修理部晶として大変効果を上げたのであります。その時の逸話に地上五千メートル以上の上空の活動は防寒用具で身を固めて軍務に着いていたのに敵機襲来のサイレンから一秒でも早く飛び出さないと敵機を捕捉できないゼロ戦の操縦士はゲタばき半袖シャツ一枚殆ど裸で敵機に喰らいついた。四千メートル位上空の敵機を落とす事は神業という外なしの状態でよく落としてくれたと感涙でした。そして、その敵の乗員をみれば半袖半ズボンサンダルばき。「鳴呼英軍も搭乗服も防寒具もなくなったのか。よしもう少しだ。」と大声を上げて戦果をたたえた事だったが、後に考えられた事は当時の戦闘機の整備が四千メートル極寒の作戦に敵は暖房設備を機に備えていた。そう気づいて話し合った事でした。我々は出征以来いずれの作戦でも一回も敗けた事はない全勝の記線をアンダマンでも樹立すると、そう心に決めたのである。
編集者
投稿日時: 2015-4-5 8:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 7

 秋、九月学徒動員で戦地へ到着した新兵司令部で教育計画が出来ていてトーバ湖畔で部隊全部の教育、打上げに近くの山(私の記憶では「シナブン山」といったと思っていますが今地図をみますと載っていないので活火山シナプンザンとして)へ午後から登り本部直轄部隊のなかで計三百名位だったと思いますが競争で登り(軽装備で)登りは二十番、下りは四番目でしたが私の最高に張切っていた頃でしょうか。二千数百メートルの山ですが中腹位の処に宿舎がありましたが、でもきつい行軍でして夕方四時頃終了、宿舎に入って自室は我が班四十名は廊下を隔てていて反対の位置に班長室があり個室ですが夜中に猛烈な腹痛に見舞ゎれ、大きな声が出ないので暫らくして不寝番が廻って来たので事情を話して医務室へ連絡してもらって軍医さんに診察してもらい過労からの腹膜炎との事、痛み止めをしてもらって翌朝陸軍病院へ行き入院。その為に数日後のアンダマン諸島への展開に間に合わなくなって駆逐艦は出発。その為に数日後のアンダマン島の埠頭に武力上陸の予定に乗れなくなってしまった。

 二ケ月入院して留守隊がいましたので戻った処「班長が退院したお祝いをしよう」となり、その夜叉熱を出して病院に逆戻り。軍医にしぼられたがそのまま手術室へ連れて行かれてお尻からイルリガートル一本下剤をやられ手術室中糞まみれの状態にして面目なし。軍医は乱暴だが正解だった。スッキリ痛みもとれ翌日退院しアンダマン行きの次の便を調べたら司令部着任の調理師三名の便があるというので便船頼んだのが五十トンの便船だ。かえってこの方が潜水艦にねらわれないという。その通りだろう。アンダマン島は英軍のインド洋艦隊に月二回毎月攻撃されている。旗艦は巡洋艦航空母艦を一隻持っていて月二回必ず艦砲射撃をやり続けて艦上よりの掩護を受けて艦載機(グラマンだろう)が地上掃射をして約一時間半位の攻撃が終了。ここには海軍第二特別根拠地隊司令部がアンダマン、ニコパルの両島島嶼の海を護っていたがアンダマンの要塞一つは駆逐艦の猛攻を受けて全滅した。北方近くビルマの南端連合軍の海軍もアンダマンの基地化を恐れて必死だ。アンダマン島を遠くから見ると立派な数階建のビルが一杯だ。これが英国が印度ビルマの統治に反対した者を投獄した刑務所だ。
編集者
投稿日時: 2015-4-4 8:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 6

 私が勤めていた会社の社長の従兄弟に宮内庁に勤めている方がいらっしゃって私の出征をきかれてその大山侍従から皇太后陛下のお手造りになる御守護を授受致し身につけておりましたが終戦時作戦の責任を問い晴れて持ち物を深化に調べた時、この御守護がどう探しても見当たりませんのでその後ずっと気にかかっていましたが今迄の記録を書き乍らこの時私がせまい水中間でひょっとしてもがいていた身から私を助けて下さったのは皇太后陛下から賜った御守護神であったのかと初めて何十年かの謎が解かれた様に心に染み入って来る心地で筆を握りしめました。

 その翌年六月北スマトラ警備の任務から次の作戦の為赤道直下で年間平均気温が十八度~二十三度という冬と夏のない避暑地ブラスタギーへ雲の上人として約一年半過しました。すべて原始の世界、竹の家で暮らしました。近くに湖がありまして一帯が演習場で最後の学徒動員で出征して来た人達が綜合訓練をいたしました。その前に昭和十七年八月に召集年令九年兵三年兵が内地へ帰還除隊いたしました。部隊の自動車隊の教官で私の大変お世話になった大川中尉、司令部自動車班の北村軍曹外古年兵が内地の土を踏んだ訳ですがこの方々の大半が帰国早々北東辺海の離島守備隊、再召集で出陣されて間もない春、殆ど大部分の人が全員が華々しく散華されたのです。「一足先に凱旋で悪いナア」と満面の笑みをたたえて郷里へ喜びのさめぬ間のアッツ島玉砕は私達戦友はニュースを聞いて本当に辛かった。私はあれから六十余年の今人間の生死の摩訶不思議なる夢見る心地で思い起こしている。

編集者
投稿日時: 2015-4-3 6:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
私の従軍記 飯塚 定次 5

 話が前後するが俘虜輸送の前四月下旬シンガポールに置いて来た荷物をメダンへ引取りに日帰りでトラック五両で行った時、港の集積場の中央に大きな塔が樹っていて「沼兵団集積場」となっていたので沼兵団は故郷の部隊だ、誰か何か情報が手に入るやも知れんと思って、私の部下に小休止、但し、車輪を離れるべからすと厳命して沼兵団の宿舎を尋ねた処三島銃砲部隊の留守残留隊で出て来たのが郷里の隣組三〇〇メートル隣の宿島仁作君、私より二才下級生、昨年の初年兵でスマトラ上陸から目下ニューギニア作戦の出撃中で私の従兄弟曽根兵長は前線だが元気で活躍中と思いもよらぬ奇遇に抱き合って健康を喜んだ次第。二千キロメートル離れた異国でしかも命のやりとりをしている身で神様先祖様の御導きと思って感激した。お互いの武運を祈り乍ら握手して別れた。ラパール作戦ではみんな戦地で昇天したと思って帰国後話した二人共我が家で待っていてくれて正に奇跡だ夢だと思った。

 荷貨物を受領してロスマウエの部隊本部へ帰ったその夜四十二度の高熱でデング熱と判定され斉藤軍医の手厚い看護を戴いた。一週間の発熱で平熱に戻った処で部署について作戦に参画したが八年間の野戦勤務で大部分の人がマラリヤ熱を患っているのに私はマラリヤに罹らなかった事は稀有で、斉藤軍医のご指導に依る事とずっと感謝いたしております。その斉藤軍医は東京都中野区で帰国後元通り玄関を開かれ斉藤医院を経営していらっしゃいましたが間もなく過労で亡くなられた事を伺いましてお参りいたしましたが遂にお礼の話は昇天された先生の御霊とのお話でした。自動車班長の大川中尉と斉藤軍医中尉は司令部内でも格別親密な間柄で出掛られる時等よくお供をいたしましたので今でも当時の事を考えますと胸が痛くなります。

 停虜輸送が終わりまして間もなく、時間を作って軍事訓練をしていましたが或る日演習を終え点呼をして異常なしとて帰隊した処、岡野一等兵が弾薬盆を一個演習で失ったという報告が来ましたので本人と戦友の神山を呼び出し、神山に側車(サイドカー)を運転させ私がサイドに乗り岡野を神山の後に乗せて出発して鉄道沿いの道路を行きました。道路の両側は線路を作る時線路の両側を掘って土盛りをして両側は深さ一メートル位の堀になっていました。

 十五キロ位いった処で道路が線路を左側へ渡って又併行して走っていたのですが、列車は来ていませんので神山は線路を横ぎるべく道路通りに左へハンドルを切った処、岡野がカーのチェンジレバーを引いてサイドカーのギヤを入れてしまったので「カー」は直進しかできないのですがそこで踏切りでスピードは落ちていましたが神山はハンドルまっさかさまが切れなくなった現況把握出来なくて車はカーの前進圧力で車を右へ倒してしまい莫逆様(まっさかさま)に掘り割りの川へ頭から突込み、運転手の後に乗っていた岡野は飛ばされて川から直ぐ出られたが後で判りましたが突っ込んだカーの私は沼の中へ頭が突っ込んでまず二人の事が気になり、カーのボデーをたたいて返付を待ったが応答なし。私もドロ沼へ逆さにはまり込んだ中、運転手の神山はほうり出されればそんな深い川ではなし、流れが殆どない堀だから助かるかも知れんと少し息をするとズルズルッと沼がのどを通るのが判るのでこれが最後だナと決心をしたのです。どれ位の時間何分程か判りませんがカーが引張られて水上へ出たので十人位の現地の人達がやってくれたのです。ほうり出された岡野が助けを求めて現地の人達に助けられたのですが、運転手の神山もほうり出されて水ですので怪我もなく私もどこも痛まず唯肺に入って行った沼のドロドロはどうなるのかナと気になりましたが後何分か遅れたら当然不帰の身だったナと実感いたしました。岡野に側車に関する知識がなかった事を教育の不足不備と自覚し、報告もし自覚も致しました。泥沼が呼吸出来ない苦しさでズルツ、ズルツ、とのどを動くのを今でも実感いたします。三回程生命の危険を感じた危機がありましたがこの事件が最も厳しい事象でした。弾薬盒は発見できまして岡野も助かりました。
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