@





       
ENGLISH
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
メイン
   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第9回)
投稿するにはまず登録を

スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | 下へ
投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2013-7-8 7:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その15
 

 海老澤 善佐雄氏(伏龍特別攻撃隊第七十―突撃隊)軍歴

 1918年(大正7年)      東京都世田谷区に生まれる。

 1939年(昭和14年)1月    横須賀海兵団に現役入団。

 1939年(昭和14年)5月    駆逐艦「春雨」乗艦。

 1941年(昭和16年)4月    海軍省勤務。連合艦隊第一通信司令部庶務部助手

 1941年(昭和16年)9月    海軍機雷学校普通科練習生。

 1942年(昭和17年)2月    水上機母艦「秋津洲」乗艦。

 1943年(昭和18年)5月    横須賀防備隊勤務。

 1945年(昭和20年)6月    海軍対潜学校久里浜第一警備隊 伏龍隊教員を命じられる。

 1945年(昭和20年)7月    第七十一突撃隊付を命じられる。先任教員、先任下士官、先任伍長勤務。

 1945年(昭和20年)8月22日 第七十一突撃隊解散。

編集者
投稿日時: 2013-7-7 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その14

 ◆決起を誓い武器を隠す 2

 -------終戦で停戦命令が出て、その後、隊員や武器はどうしたんですか?

 海老澤‥他の特攻隊はいろいろやっているのに、うちは特攻らしいことを何もしていませんでしたからね。万が一のことがあった場合、特攻隊の連中が集まって天皇陛下を守ろうと、そんな話をしていました。それで、こんな決起書のようなものを作りました。

 「兵に告ぐ。
 我々伏龍特攻隊は、本日を以て解散する。隊員諸君、戦闘訓練を本日修了する。我々は戦闘意欲は十分ある。天城の山で決戦する覚悟でいる。陛下に万が一の場合は皆に集合をかける。諸君の住所、落ち着き先を班ごとに集めて至急、先任下士官まで提出せよ。

 八月二十二日
 伏龍隊先任下士官 海老澤善佐雄」

 -------この決意書は海老澤さんが発意したのですか?

 海老澤‥そうです。伏龍隊の分隊長は予備学生ですからね。私よりも3歳くらい若い人ですよ。学歴で上官になりましたけど、戦争のことも軍隊のことも何も知りませんからね。兵曹長も何人かいましたけど、みんな兵科じゃなく、潜水を知っている人が指導に来ているわけですから、私みたいにテッポウを撃って戦争をするような人間じゃなかったから、眼中になかったですね。
 オレが上だみたいに思っていましたから。

 で、米と武器を予備学生の隊長の家に集めることになったんです。手榴弾500発と米20俵を半日かかりで隊長と2人で運びました。それで、隊長の家というのがよく覚えていなんですが、横須賀の先の山の上あたりだったような気がします。戦後、私は一度もそこを訪れていないし、米をねだったこともないから、その後、米と武器がどうなったかは知らないんです。米はともかく手榴弾はどうしたんだろう……。

 海が近くにあったから、海岸辺りに捨てたと思いますよ。伏龍で使った爆雷も、野比にいた上の連中が海岸近くの防空壕に埋めたらしいです。

 それで、今から10年くらい前ですか、伏龍の破棄爆薬が原因で、野比の民同工場で爆発事故がありました。でも、伏龍の関係者は誰一人名乗り出ませんでした。よっぽど私か名乗り出て、自分の部隊の責任ですと言おうかと思いましたが、新聞沙汰になって槍玉に上がっても困るから黙っていましたけど。本当は軍需部に納めなきゃいけないものなんです。終戦のドタバタであんなことになったんですね。

 -------今日は貴重なお話をありがとうございました。 

 (……了……)

編集者
投稿日時: 2013-7-6 6:06
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その13

 ◆決起を誓い武器を隠す 2

 海老澤‥戦争が終わって8月22日に訓練を止めた日に、伏龍の戦闘用具を全部、野比海岸に穴を掘って埋めたんです。その時、事故で岩手県の17歳の隊員が兵器と一緒に穴に落ちて、首の骨を折って亡くなったんです。同室の15人と一緒に、野比の焼き場に持って行って焼いて、ふと見たら、みんな足がカタカタ震えてるんですね。かわいそうだから、みんな返して、骨壷なんかないから、木箱に骨を入れて野比のお寺に行ったら、「伏龍隊の遺骨は浦賀に収めているから浦賀に行け」と言われてね。もう、午前2時くらいでしたが仕方なく木箱を背負って……骨壷じゃないから熱くて……木が焦げてるんですね。カチカチ山の狸みたいになりながら、一人で浦賀のお寺に行きました。

 隊に戻ったのは4時くらいでしたね。その後の後始末は、海軍では主計科がやることになっているんです。私は兵科で主計科ではないですから、その後、どのように遺族に連絡したのかは分かりません。戦後、10年くらい経ってから、その遺骨を預けた寺に行ったんですよ。そしたら、「うちには戦没者の遺骨は一つもありません」と言われたので、安心して帰ってきました。亡くなった方の住所も知っていましたので、その家に手紙を出しましたが、「私は嫁ですが、お祖父さんも、お父さんも、兄弟も全部亡くなって、嫁に来た身分で、伏龍に出た息子さんの顔も知りませんからこれから一切、連絡しないで結構です」という返事が来ました。

 -------私たちは戦争体験を後世に残す活動を行っているのですが、海老澤さんは長い海軍体験を通じて何か語り継ぎたいことはありませんか?

 海老澤‥国を思う余り....明治時代の人は国を大きくしたいばっかりに、日清戦争とか日露戦争をやって……戦争をやって勝てば領土が増え、大きくなるわけですよね。戦争をやらなければ国は大きくならないんです。その反面、戦争は絶対嫌だという考えもあるし……。だから、領土問題を考えても戦争はいけない、だけど、戦争をしなければ国は大きくならない、という考えが頭の中に渦巻くんですよね。難しいんですよ。
 
 でも、戦争って、今の人にとってはゲーム感覚なんじゃないですか。家庭を持っていない、親はいない、兄弟もそんなにいない、そういう人は「戦争ゴッコ」をしたくなるんじゃないですかね。日本全国で集めれば、そういう人が何千、何万といるような気がします。もし、徴兵制が復活したら、行かせて下さいという人が結構いるんじやないですか? 生活が行き詰まれば、徴兵制を望む雰囲気が出てくるんじゃないですかね……。当時、海軍に入る人は岩手県と宮崎県出身者が多かったんです。「困ったら海軍に行け。学費がタダだし、小遣いももらえる、着る物ももらえる」って。貧しいから、食べるにも困ったからですよね。海軍兵学校を落ちたら、「じゃあ、下士官でいいから海軍に行け」と言われたといいますよ。
 まあ、戦争中は、我々は死ぬというのが当たり前だと思っていましたから。特攻隊で結婚して、妻も子供もいて、自分が死んだ後、どうするんだろうという考えもありませんでしたね。
 死んだら死んだで、軍人恩給で、米や味噌くらい買えるだろうくらいの考えしかなかったですから……。

 -------戦後70年近くまで過ぎて、今、あの時代は何だったんだろうと思うことはありますか?

 海老澤‥よく生き延びて、ここまで来たなあと思いますよね。士官でもない、分隊長でもない、特攻隊司令でもない……単なる上等下士に過ぎない私が、天皇を守るため、特攻隊の集まる場所まで指定したんですからね。武器や用具まで準備した。天皇を守る一心に……。まあ、実際に特攻に出すこともなく、ここまで来て良かったと思いますけどね。
編集者
投稿日時: 2013-7-5 7:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その12

 ◆「伏龍会」と「海軍十四徴会」

 -------6年間の海軍生活のなかで、海老澤さんが特攻に関わった年月は短いものでしたが、特攻隊の1員だったということは特別な意味を持ちますか?

 海老澤‥海軍に6年いて特攻隊だったのは3ヵ月です。同期にも伏龍隊にいた者がいますが、バカバカしいと言って伏龍隊のことなんか無視する者もいます。だけど、誰かが伏龍隊の面倒を見なければならない。だから私か最後まで面倒をみて……面倒をみると言ったら大げさですけど、関係している状態なんですよ。

 戦後、「伏龍会」というものがなかったものですから、今から35年前ですかね、朝日新聞に当時、木曜日でしたか、戦友会のことを載せてくれるページがあったんです。それに毎週、「海軍伏龍隊の関係者の方、ご連絡ください」という記事を10年くらい出したんです。それで、一人、二人、三人と連絡が入り、それが300何名になって、「伏龍会」という戦友会を作りました。

 今でも「伏龍しか知らないから入れてください」という人がいます。だから、最初は2、3人から始まった会なんです。集まれば、いろいろな話になるんですけど、予科練で三重航空隊に入隊したなんて話が中心になって、伏龍の話は二の次になっちゃうんです。伏龍隊に来た予科練生は三重空出身者が多かったですからね。だから、伏龍しか知らない者は長続きしないです。三重空の戦友会の方が中心になるんですね。

 私の同期も、「長門」に乗った……「陸奥」に乗った……「赤城」に乗った……と、いろいろなフネに乗っていますが、同期が集まるのはやはり、この「海軍十四徴会」です。同期の8割が「海軍十四徴会」に集まりますね。「お前、何年兵?」、「十四徴」、「じゃあ同年兵だな。同期の桜だな」という方が話は早い。それだけで親兄弟以上になるんです。

 -------「十三徴」、「十四徴」……それだけで、どういう経験をしたかが分かるんですか?

 海老澤‥はい。「十四徴」だけで喜びも悲しみも分かるんです。

 -------「十四徴」の方も特攻体験者は多いと思うのですが、特攻の体験談をお聞きになったことはありますか?

 海老澤‥「十四徴会」には1500人くらいいるんですけど、戦後に聞いた限りでは、特攻にいた人は誰もいないですね。特攻隊でも、庶務とか直接関係のない部署にいた者はいるけど、それは特攻ではないですからね。直接、特攻隊に関係しているのは私だけみたいですね。

 -------そうすると、海老澤さんや同期の方は特攻をわりと客観的に評価できると思うのですが、海老澤さんから見て特攻をどうお考えにありますか?

 海老澤‥「特攻とはなんぞや」と問われたら「勇敢な人だな」と思いますね。何よりもまず、勇敢だと思います。「特攻」と言えば、「恐怖」を思いますね。「恐ろしい」、「怖い」と。だから、「恐怖」を乗り越えて特攻に出撃した方、亡くなった方は偉いなと思います。

編集者
投稿日時: 2013-7-4 6:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その11

 ◆甲種予科練と乙種予科練の騎馬

 -------終戦の情報を事前に聞いていたということですが、8月15日の玉音放送は冷静に聞けたのですか?

 海老澤‥ガーガー騒音だけで……ちゃんと聞かせないようにしたのかな(笑)。それで、周りの人に「何て言ったの」と聞いたら、「戦争はこれから激しくなるから、特攻隊員は頑張れということだ」と言うんです。ですから、終戦から1週間、猛訓練を続けましたよ。そのうち、厚木航空隊からビラが飛んで来たりして、あれ、変だなと……。
 結局、訓練は終了するという停戦命令を受けたのは8月22日でした。

 -------その時のお気持ちは。

 海老澤‥ラバウルから帰ってきた時、アメリカ軍を、もう手の付けられない相手と思っていましたからね。その頃、病院に下宿していたんですけど、そこの先生が、「海老澤さん、戦争はどう?」と聞くから、首を横に振りました。「ダメ」と言葉に出したら軍法会議ものですからね。その先生は、その後、疎開しました。

 -------伏龍隊の隊員は10代、20代の青年たちだったと思いますが、海老澤さんから見て、彼らはどのような青年たちでしたか?

 海老澤‥20代なんていないですよ。みんな、16、17歳ですよね。私は500人の中の年長者でした。だから、みんな弟というよりも、自分の子供みたいなもんですよね。上官もみんな予備学生で20歳前後の若い人ばかりですから、私が一番の年長者。だから、その頃、私は26歳でしたけど、気持ち的には34、35歳、いや40歳くらいのつもりでいました。

 -------予科練も甲種と乙種がありますが、それぞれ雰囲気は違っていましたか。

 海老澤‥違いましたね。乙種は甲種よりも進級がずっと遅いんです。甲種に入った者はみんな、自分たちは海軍兵学校並みだというつもりでいて、進級も兵学校並みと教えられて来ていますから……。例えば、甲種と乙種に分けて騎馬戦をさせたんです。乙種は甲種に対して、もの凄いライバル心があるから猛烈な団結心があるわけです。甲種は優越感があるからそれほどでもない。騎馬戦をやらせると雲泥の差で乙種の方が強いんです。「甲種の奴らを生かしてなるものか」というくらい闘争心をむき出しにしてやるんですね。
 甲種は幹部候補生として入ってきているつもりだから、真面目だけど乙種に比べて大人しい。乙種は手に竹刀のツバをつけて殴ったそうです。甲種はみんな鼻血を出して倒れてました。まあ、乙種の方が若干、「与太っている」人間が多かったんじゃないですか。

 -------タイプの違う部下をまとめるのに苦労したのではないですか?

 海老澤‥今みたいに、部下に気遣いしたり、部下が上司に自由に意見を言うような時代じゃないですからね。上から一方的に命令するだけですから。上等下士がものを言ったら、百%その通りになるんです。命令には絶対服従の時代でしたからね。部下をまとめる苦労なんて考えてもいなかったですね。

 -------当時の隊員の年齢は今の高校生くらいの年齢ですが、全然違いましたか?

 海老澤‥テレビとかで今の高校生の姿を見てると、今の10代の方が、考え方が大人っぽいですよ。10歳は年が違うような……大人と子供くらいに違いますね。今は、自由に発言出来るから大人っぽく感じるのかもしれません。当時は発言を全部封じられているから子供っぽい……。今、我々が若い人にどうのこうのと言えないですよね。時代が違うから、ついていけないですよね。
編集者
投稿日時: 2013-7-3 7:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その10

 ◆潜水服は150人に1着 2

 -------海老澤さんは先任下士官ですから、隊員に個人的に何かを教えるということはやらなかった?

 海老澤‥個人的に何か教えるとかはしません。言いたいことがあったら、500人なら500人全員を集めるんです。棒機雷の使い方とか、兵器の話は何回かやっています。

 -------回天や震洋など他にいろいろな特攻兵器がありますが、それについては何か?

 海老澤‥戦中は他の部隊との交流がなかったから、全く知りませんでした。入ってくる予科練生も、伏龍が甲種予科練15期、その前の甲14期が震洋、甲13期が回天に行きましたね。回天が出撃した昭和19年10月頃は日本海軍の船もほとんどなくなっていました。でも、士官はかなり生き残っていますからね。何かやらなければならない、何か……ということで、特攻が生まれたと思うんです。飛行機といっても、作ってもガソリンがない、ガソリンがなきや飛ばせませんからね。飛行機以外の特攻兵器で、これはというのは全部やりましたが、今考えると、みんなバカバカしい兵器です。

 -------特攻について何かご意見がありますか?

 海老澤‥私は、伏龍隊に行く前は横須賀防備隊にいました。その教育部隊所属の分隊でしたから練習生の教員をずっとやっていて、はたから見ると呑気な配置だったんです。そういう配置に半年か1年いると、その後、一番危ない所に配置転換されるものなんです。ですから、それで私も特攻隊に行かされたのかなあと思います。もっとも、我々の機雷、掃海、爆雷専門の兵隊が乗るフネは危ないフネばかりなんですよ。駆潜艇とか、駆逐艦とか、海防艦とか……。巡洋艦なんかまず乗りません。今思うと、そういうフネに行かないで伏龍隊だった方がむしろ、良かったのかなあとも思いますし。あと、一旦、そういう危ないフネに乗って生き残っても、士官は必ず、また危険な配置に回されるんです。というのは、艦長、副長など長のつく人は艦と運命を共にせよという指令というか、伝統があるものですから、「なぜ帰ってきた」と言われるんですから。海軍というところは、そういうところもありました。

 -------現在だと、「なぜ、特攻」という疑問が湧きますが、当時は、当たり前という考えがあったのでしょうか?

 海老澤‥ええ。それに特権もあるんです。普通の兵隊が死ぬと階級は一つも上がらない。士官は1階級上がるんです。それが、特攻の名がつけば2階級か3階級上がる。私のように海軍省から特攻隊行きを命じられた者は戦死したら4階級上がるんです。上等下士だと、兵曹長、少尉、中尉、大尉……つまり、「海軍伏龍隊、海軍大尉・海老滓善佐雄」になるんです。妻も海軍大尉の恩給がもらえる。だから、戦後、苦しいことがあると、「ああ、特攻で死んだ方が良かったかなあ」と思うときもありました(笑)。

 私は早くに所帯を持っていましたからね。戦争中に子供もいましたから……。当時のご婦人方は偉いと思いますね。私か特攻隊員だった時に嫁に来たんですから。死ぬのを分かっていて嫁に来た。今では考えられないですよね。話は飛びますが、伏龍隊の司令部付きの上等下士が昭和20年8月12日に結婚式を挙げたんですよ。考えられます? どうせ死ぬのだから嫁さんをもらって死のうというのか、あるいは、もう少しで戦争が終わると分かっていて結婚したのか、分かりませんが。

編集者
投稿日時: 2013-7-2 7:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その9

 ◆潜水服は150人に1着 1

 -------海老澤さんも潜水服を着たんですか。

 海老澤‥いや、私は機雷の専門家ですからね。それに、私か特攻隊に赴任した昭和20年6月1日の段階では、兵隊だけはいたけど潜水服も何もないんです。それで毎日、軍需部に行って、懐中電灯がほしいとか、羅針盤がほしいとか、訓練のための用具を集めるのでテンテコ舞いでした。

 -------伏龍隊ではどんな訓練をしたのですか?

 海老澤‥―隊15人が基本なんです。それが10か12隊ほど集まって1個分隊になります。そこに潜水服が一着分しかないんですよ。だから、1日のうち、5分、10分と潜って訓練出来る兵隊と出来ない兵隊に分かれてしまうんです。まず、潜らなければ特攻になりませんから、その準備だけで追われていました。

  
 -------当時の潜水服はどんな感じのものだったのでしょうか?

 海老澤‥潜水服に管を通して、その管に上から空気を送るんですが、この潜水服が重いんです。錘が片足だけで5kgくらいある。両足で10kg。総重量で70kgくらいですからね。海に入るまでは歩くのもままならない。

 だから、15人に対して一着しか用意出来ないから、あとの14人が靴を履かしたり、ズボンをはかしたり、整備をするわけです。日によっては整備だけで終わる人もいるし、潜るのが上手な兵隊は何回でも潜らせるわけです。今思えば、潜る兵隊と整備する兵隊をはっきり分けた方が良かったかもしれません。
  

 -------訓練では船から海中に潜ったそうですが、船にいる指揮官との連絡はどうするんですか?

 海老澤‥綱だけなんですね。船の上で綱を持っている係があって、「上がれ」とか「もっと深く潜れ」とか、簡単な信号だけを綱で送っていたわけです。

 -------海中で100メートルほど歩く訓練だったそうですが、隊員も怖かったでしょうね。

 海老澤‥怖かったでしょうね。あの班で誰々が亡くなったとか、隣りの班で誰々が亡くなったとか、よく耳にしましたからね。俺は潜るのが嫌だって、駄々をこねた兵隊も多かったようです。班長の中には、15人の中から何人か整備担当を選んで、全員が潜らなくてもいいようにした人もいたようです。

 -------伏龍が、もし実戦で使われたらどうなったと思いますか?

 海老澤‥そうですね……。分隊長が予備学生なんです。戦場での体験がない人が上に立っても何も指導出来ませんよね。私みたいに、ラバウルに半年もいて、ガダルカナルにも行って、砲爆撃を毎日、朝昼晩受けて……アメリカはどのくらいの弾薬を使って敵前上陸してくるかを目の当たりにしているんです。ですから……当時は駄目だとは言えない。ただ、命令されたことを忠実に守るより他ないですから。言われた通りに訓練をしましたけど。

 アメリカの敵前上陸なんか、守っている日本車の陣地が息もできないほどの砲爆撃をやって、日本の兵隊がいなくなったという状態になってから上陸してくるわけです。上陸してくれば50mか100m飛ばす火炎放射器で掃討するわけですよ。海岸線100mくらいは全部、砲爆撃して、それから上がっていきますからね。伏龍なんて、攻撃に出る前に吹っ飛ばされちゃいますよ。ラバウルにいた時、ガダルカナルまで行った古い兵隊に聞きましだけど、アメリカが上陸してくる時は、こっちから大砲を撃つことも何も出来ず、引っ込んでいるしか他にないそうです。どうすることも出来ない。ですから、伏龍が実戦に出ても……まあ多少の成功はあっても期待するほどの成果はなかったと思いますね。

 私のように6年も海軍にいると、同年兵かが通信兵、信号兵の幹部でいるわけです。終戦が近いということは電信兵の幹部から耳に入るわけです。で、食事の時間なんかに、「海老澤さん、もう、駄目だね」って言われて。だから、命令通りに訓練して、やるより他にないなと思っておりました。
編集者
投稿日時: 2013-7-1 7:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その8

 ◆特攻兵器「伏龍」 2

 -------海老澤さんが教育に当たった場所はどちらでしたか?

 海老澤‥私は最初から関係していましたから、最初は久里浜海岸で、その後は野比でした。久里浜では犠牲者が多かったですね。日によっては7名くらい亡くなるんですよ。最初はちゃんとお坊さんを呼んでお弔いをして、遺骨は全部、国許へ返したんですけど、余りにも多かったんで、隊によっては海岸で火葬したという話を聞きました。

 私はその都度、火葬場に行って焼いてもらったんです。
 ところが、火葬場の人がスムーズに焼いてくれないんです。火葬場の係長に「なんで焼いてくれないんだ」と聞いたら、「お腹が空いてて死体が運べない」と言うんですね。物がなくて、食事も満足に摂れないんですね。「海軍さん、米を少し分けてくれないか」と頼まれて、主計科で米2トンと缶詰30個くらいもらって渡したら、すぐ焼いてくれました。一時が万事、そういうわけなんです。

 犠牲者が多かったもう一つの原因が酸素ボンベなんです。伏龍で海に潜るのに、酸素ボンベを2本背負います。
 当然、ボンベの中の酸素は満タンじゃないといけないのですが、酸素会社がまともに入れてくれないんです。ボンベを50本とか100本頼んでも、10本くらいしか、ちゃんと酸素を入れてくれなかった。見ただけでは酸素が入っているのか、空なのか分からない。教員も、俄か仕込みの教員ですからね。

 助かった人に聞くと、海中に潜って酸素が満杯あると思って見たらゼロと表示されて、それを見た瞬間、もう駄目だと思ったらしいです。余りにひどいので、交渉に行ったら、酸素会社の人も海軍のOBで、「先任下士官、タバコを都合しろ」と言うんです。それで、酒保に飛んでいって、タバコを7000本くらいですか、当時、段ボールがなくて木箱ですぐ届けたんです。そしたら、あくる日から酸素ボンベ全部が満杯で来るわけです。その後、酸素ボンベが原因の犠牲者は出ませんでした。

 にわか部隊ですから、上の人が酸素の供給まで目が届かないんです。また、酸素会社に行くのは35、36歳くらいの補充兵ですから、帰ってきて士官に、「酸素をもらってきました」と言うだけで、中身を正直に報告していないんです。正直に言って、「なぜ、ちゃんともらってこない」となると、海軍ではすぐピンタが飛んできますからね。
 ピンタをもらうのが嫌だから、補充兵は「全部もらってきた」とウソの報告をするんです。そういうことで、最初の犠牲者が出たと思うんです。
 私か、酸素ボンベのせいで亡くなっているのではないかと気付くまで、7名ずつ、2回亡くなっているんです。
 殉職者の数は正確には分かりません。私は35人から40人くらいと思うんですけど、人によっては百人以上と、毎日何十人も死んだって言いますね。

 -------上官も教員も、分からなかったのですね。

 海老潭‥プロなら分かるんですよ。でも、いないんです。潜水をちゃんと教わったのは、戦艦、巡洋艦、航空母艦などに行っていますから、陸上には、潜水を教える人がほとんどいない。通信兵とか、いろんな人を集めて訓練したのが、にわかの先生ですから。酸素ボンベに空気が入っているかどうかが分からないんです。
編集者
投稿日時: 2013-6-30 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その7

 ◆特攻兵器「伏龍」 1

 -------「伏龍」が誕生した経緯について簡単にご説明いただけませんか?

 海老澤‥アメリカが、中国の揚子江辺りから機雷を海に流すわけですね。また、日本近海にも機雷を撒いたんです。
 その掃海のために、機雷学校を出た専ないかというので特攻兵器として採用され、急きよ、兵隊を送り込んだんですけど、最初は手の空いている兵隊ばかり集めたので、24歳から27歳くらいの年配の兵隊を集めたんです。ところが、呼吸は鼻で吸って、口から出さなければならないのですが、それが年配の兵隊だとスムーズにいかないんです。それで、甲種予科練、乙種予科練出身者に訓練を頼んだら、スムーズにいったので、若手に切り換えて、甲種と乙種だけを召集して訓練をしたわけです。

 -------吸う息と吐く息を間違えるとどうなるんですか?

 海老澤‥苛性ソーダが溶けちゃうんですね。苛性ソーダが溶けて、口の中に入った場合に心臓をやられちゃうわけです。それで生命を落とす人が何人も出たんです。それだけでなく、物がない時の兵器ですからね。溶接に不具合もあったんじゃないかなと思います。

編集者
投稿日時: 2013-6-29 7:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第9回)・その6

 ◆戦地と国内の空気の違い

 -------その後、機雷学校の高等科に入校するため帰国したのですね。

 海老澤‥はい。日本に帰ったら、国内はルンルン気分なんですね。灯火管制はやっているものの、夜、兵舎の屋上から見たらデパートのネオンが輝いているんだもの。びっくりしましたね。
 戦地と比べて全く違う。ガダルカナルの話をしても誰も信じないんですよ。内地では、海軍は強いんだ、勝っているんだ、という認識しかなかったんでしょうね。

 -------そういう国内のムードが変わったのはいつ頃ですか。

 海老澤‥昭和18年の暮れ頃からガタガタし始めたんじゃないですか。

 -------昭和19年10月からは神風特攻が始まり、ニュース映画にもなりましたね。

 海老澤‥映画は見ませんでしたけど、もう、上等下士になっていたから、電信とか通信の同期から特攻のことは聞いていました。まあ、いずれは、自分もそうなってもやむを得ないという気持ちはみんな持っていたんじゃないですか。

(1) 2 »
スレッド表示 | 古いものから 前のトピック | 次のトピック | トップ

投稿するにはまず登録を