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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆
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編集者
投稿日時: 2013-5-5 6:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 24

 終戦復員の章 2

 
 唐津の街に灯が戻り、朝鮮人部落のドンチャン騒ぎの嬌声が梢々下火になった頃、復員下令となった。

 九月十六日。「軍令陸甲第一一六号二依り復員下令」
 九月二十三日。「復員完結。同月同日。召集解除」

 この頃から体に変調を覚えるようになった。立っいるのがしんどいのである。軍隊の食事がひどく高梁飯ばかりだったので、ロクに栄養が取れなかったせいであろう。栄養失調から黄疸になっていた。復員は別府から船で、瀬戸内海を尾道に上陸し、汽車で山科まで(京都に下車すると進駐軍にひっぱられるという噂があったので)帰ったがその間は寝っぱなしで山科の姉の嫁ぎ先へ転がり込むなり寝込んでしまった。一ヶ月程養生をしてようやく頭が上がるようになって、持ち帰ったものを調べると、梱包しておいた軍刀が見当たらない。次兄に買って貰った愛着のある軍刀だったので、山科駅に降りた時車内に置き忘れたのかも知れないと思って、国鉄の遺失物係に頼んで、方々探して貰ったが、遂に判らずじまいであった。
 残念極まりない。

 昭和五十年前後あたりから、深草の旧騎兵聯隊の戦友会(騎兵二十連合会)に出席するようになり、又最終の船舶部隊の戦友会(唐睦会)を組織したりして、会合には出来る限り出席している。又京都護国神社等で挙行される戦没者慰霊祭には必ず出席し、現在の平和が彼等戦没者の犠牲によって齎されたことに思いを致し、感謝の気持ちを新たにしている。

 愚妻も、こと戦友会に関する限り、積極的に協力して呉れているので、有り難く感謝してその厚意に甘えている。
 「我が軍隊的自叙伝」を終わるにあたって、武運つたなく戦陣に斃れられた先輩、同輩、後輩の各氏の霊に謹んで哀悼の意を表するものである。
 広石一郎海軍少佐。湯川勇少佐。野田稔少佐。福山正通海軍少佐。広瀬敏博大尉。川口五郎中尉。横山義一少尉。
 沢井常和曹長。山本定勝伍長。山室勝美伍長。津田武雄伍長。青地直彦伍長。河村道也伍長。遠塚誠治伍長。
 乙坂峰龍伍長。鳥居善七伍長。中野喜代蔵伍長。永井隆一伍長。
 山本旅館の親戚のおばさん。富士見荘の御夫婦。                    
 ー完ー
編集者
投稿日時: 2013-5-4 7:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 23

 終戦復員の章 1

 翌八月十五日は、朝からイヤに静かであった。警戒警報も、空襲警報も鳴らない。船舶部隊へ行くと、正午に天皇陛下の放送があるので、全員営庭に集合するようにと達示があった。正午。船舶部隊の全員がラジオの前に集合した。初めて聞く陛下の玉音なので、一言も聞き洩らすまいと耳を傾けたものの、雑音がひどく全然聞き取れなかった。「時局が重大なので国民に対し奮起を促された」のではないかと思ったが、何か周囲の雰囲気が変なのである。どうも戦争が終わったらしいという声も聞こえる。何れにしてもハッキリしたことは唐津の部隊へ帰ったら判ることだ。兎も角、舟艇を受領する任務を帯びて出張して来ているのだから、一刻も早く任務を遂行して帰隊したかったので、混乱している部隊幹部の尻を叩いて舟艇を受け取った。しかし航海に必要な海図はないという。ない筈はないのだが、混乱の中でそれどころではないのであろう。

 ままよ、適当に行こう。舟艇は十五噸位のポンポン船である。最初は私が舵輪を握り、宇土半島と大矢野島の間の海峡を北に進んだ。海峡を出てそのまま真っすぐに進めば、長崎県の島原半島に突き当たる筈だ。突き当たったら海岸線に沿って右へ廻れば有明海に入る筈だ。有明海に入ったら適当な港を見付けて接岸し、陸路を唐津まで帰れば良い。いい加減なものである。それでも筈だ、筈だがその通りになって、何処かの港に入港した。そして十六日に唐津に帰り着いたと思うのだが入港した港が何処だったのか、この辺りは全く記憶にない。

 帰隊して見ると私達の部隊も混乱しているようであった。副官に聞き質すとやはり戦争は負けたらしいという。しばらくの間呆然自失の状態が続いた。どうすれば良いのか全く判断が付かない。敗戦なんて信じられるものか。我が大日本帝国に敗戦はない。戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るのが帝国陸軍である。何かの間違いに違いない。確かに今は戦況は不利であるが、我が部隊はまだ一兵たりとも傷ついてはいない。現に我々はこうして本土決戦の為に、一意専心戦闘の準備をしているではないか。最後の勝利は絶対に我が軍にあると思ったが、心の空白は如何ともし難かった。

 大隊長の香川大尉が第十六方面軍司令部から帰隊して中隊長集合となった。ここで初めて、天皇陛下の命令に依り戦争が終わったこと。我が大日本帝国が連合国のポツダム宣言を受諾したこと。つまり戦争に負けたこと等を知らされた。そして隊内に暴動などの起こらないように厳重に警戒すること。別命があるまで待機すること等を命令された。私は小隊長二名を呼び、大隊長命令をそのまま伝えて、改めて警戒を厳重にすることを命令した。(殊に百二十名以上の朝鮮籍の兵隊の取り扱いには注意すること)。中隊長室の椅子に腰を下ろした途端、ボロボロと涙が流れて、それからはもう涙が止まらない。

 口惜しくて情けなくて腹が立ってどうしようもない。外へ出ると、やはり同じ気持ちなのであろう。材料廠長の城戸少尉や二、三名の将校連中が、目に一杯涙を溜めて、校舎と校舎の間に立っている桐の木を、軍刀で斬り倒している。私も仲間に加わって、この憤憑やる方ない気持ちを叩き付けた。その日と翌日は一日中泣き通し、切腹して死のうと思つたが(実際にその時切腹していれば、通常の精神状態ではないので、訳なく死ねた筈であるが…)しかし、私は中隊長の職にあったので、部下全員を無事復員させねばならない責任かあった。その責任を果たし、中隊全員の復員を見届けてからでも遅くはないと、踏みとどまったのである。その中、第二小隊長の草野傅曹長が吉田三成当番兵とともに、行方不明になってしまった。彼の行きそうな処を、八方探し廻。た結果、石川伍長と小林候補生の組が、熊本県の山奥の草野曹長の実家に、帰っていたのを見つけて連れて帰って来た。その理由は分からないが、草野曹長には重謹慎何日かを言い渡し、吉田当番兵には重営倉何日かを命じてこの件は決着した。(この逃亡事件は、私の記憶には全く無かったのだが、最近その関係者達から真相を知らされて、記憶を呼び戻したことである)
編集者
投稿日時: 2013-5-1 8:08
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 22

 中隊長の章 4

 一、先づ幹部候補生に合格したこと。
   若し合格していなければ、「安」師団の捜索第五十三聯隊に所属し、ビルマに派遣されて戦死しているかも知れない。

 一、 甲種幹部候補生五名中五番であったこと。

 一、幹部候補生集合教育のため習志野の騎兵学校に派遣されたこと。
   そのため捜索第五十三聯隊から補充隊に転属した。

 一、騎兵学校から帰隊するときの序列が一番であったこと。
   若し二番だったら、川口君と交代で航空通信に転属して戦死していたであろう。

 一、陸軍船舶練習部での成績がビリかビリに近か、たこと。
   若し成績が良かったら、とっくの昔にSB艇に乗船して戦死していたであろう。事実SB艇は殆ど沈められた。

 一、三月十三日の大阪大空襲に、その日だけ大阪を離れていたこと。
   若し当日大阪にいたら果たして無事であったかどうか。

 一、 新部隊編成の為の釜山往復の航海が無事であったこと。

 一、 広島の「新型爆弾」を逃れたこと。

 一、 ソ聯が不可侵条約を破棄し、参戦して北朝鮮に侵入して来たが、一瞬早く内地に移動したこと。

 一、 昨日の長崎本線久保田駅での機銃掃射に無事であったこと。

 一、 今日の三角での機銃掃射も危うく逃れられたこと。


 あれやこれやを考えたとき、私には幸運が付いている。恐らく今後もこの戦争で命を落とすことはあるまい。「いや、俺は絶対に死なんゾ」と妙な自信を待った。
 その通り翌日には終戦となるのだが、前日の晩に死なないことを予見してその翌日だから拍子抜けしてしまった。
編集者
投稿日時: 2013-4-30 6:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 21

 中隊長の章 3

 八月六日。広島に「新型爆弾」が落ちて被害は甚大であるという。陸軍船舶練習部や山本旅館、富士見荘などもやられたのではないか。(事実、山本旅館のあった大手町は爆心地であったし、富士見荘もあまり離れていなかったので、共に被害にあった)。

 八月九日。長崎が同じ「新型爆弾」で壊滅したという。本当かデマか私等には確かめるスベもなかった。もう此の頃は、制空権は完全に米軍に奪われ、B29は勿論のこと艦載機のグラマンまで、我物顔に飛び廻っていた。

 私は熊本県の宇土半島の突端三角に船舶部隊があったので、そこへ舟艇受領に出張することになった。
 「本職儀、舟艇受領ノ為三泊四日ノ予定ヲ以テ、熊本県三角二出張ス。云々」中隊日々命令に、一度は書いて見たかった「本職儀」を書いたが、これが最初にして最後の「本職儀」となった。

 八月十三日朝唐津を出発。長崎本線の久保田駅で早速グラマンの機銃掃射を喰らった。あわてて列車を飛び降り機銃弾が跳ね上げる土煙の中を、傍らの防空壕に飛び込んだ。危うい処であった。その日は宇土半島の付根の長浜の旅館に一泊した。
 旅館の二階に沢山の若い女の子がゴロゴロと寝ていた。聞いて見ると皆、前線へ行く慰安婦で、乗る船が無いので待機中ということであった。三階を私一人が占領して蚊帳を吊って寝ていたのだが、退屈しのぎに、二階の女の子を一人呼び込んで色々と話をしているうち、なる様になってしまった。

 翌十四日。三角に着いて海岸に面した旅館に落ち着き、唐津から私の後を追って来る筈の部下を待った。正午前、下士官一名と兵隊二名が汗ダクで到着した。(実に残念ながら、この時来て呉れた三名の部下が誰々だったのか、未だに判らない)

 「オー、よく来た。暑かったろう。皆服を脱いで褌一丁になれ」私も褌一つになって、これからの予定を打ち合わせているとき、空襲警報のサイレンが鳴った。私等は毎日のことなので「また定期便か」と知らん顔をしていた処、港に有った海軍の舟艇がグラマッを目がけて機関砲を撃つたらしい。あたれば良かったのだがあたらなかった。それでそのグラマンの奴が海軍の舟艇に向かって急降下銃撃をした。その異様な爆音に、私はすかさず「伏せろ。」と叫んで畳の上に突っ伏した。

 間髪を入れず機銃弾が部屋の中に飛び込んで来て、壁土をパラパラ。と浴びせられた。爆音が過ぎ去って、周囲を見回して思わず吹き出してしまった。四人とも褌一つの姿で、一人は横の壁にへばりついていたし、他の二人は押入れの地袋に頭を突っ込んで、おまけに毛布をちゃんと被っていた。その格好が面白くて笑ったのだったが、後であの一瞬の間によく遮蔽物に身をひそめたものだと感心したことであった。その晩あまり暑いので旅館の前の浜で海水浴をした。あたり一面が真っ暗なので、一掻きすると体の廻りに、夜光虫がギラギラ″と光って気味が悪かった。早々に引き上げて、寝間に入ったが中々寝付かれない。フト過去を振り返って見た。幸い今日まで生命を保って来たけれど、それは色々な幸運が重なったからだと思ったので、その幸運の一つ一つを数え上げてみた。

編集者
投稿日時: 2013-4-29 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 20

 中隊長の章 2

 六月二十九日。いよいよ任地に向けて出発することになり、お世話になった野砲兵聯隊の聯隊長以下将校団にお礼を申し上げ、その見送りを受けて鏡城駅を出発した。半月前、私達基幹要員か来た同じ道を、今度は有蓋貨車で釜山に向かった。

 有蓋貨車は両側に一間位の鉄扉のついた出入口がおり、他には鉄格子の嵌った小さな窓が前後に一つ宛あるだけだったから両側の出入口を警戒しさえすれば脱走は出来ぬ筈であった。毎食事はその時間帯に停車する駅々に用意してあり、駅で全員下車して点呼、食事をして乗車前に点呼、そして乗車の繰返しであった。こうして釜山港に到着するまでに、この厳戒にも拘わらず各中隊共一・二名の脱走兵が出た。幸い私の中隊からは一名の脱走兵も出さなかったけれども、点呼・乗車・下車・点呼の間に居らなくなるのだから、何時どんな方法で脱走するのか(列車走行中にとしか考えられないのだが)実に不思議であった。

 七月二日釜山着。三日程釜山で過ごし、七月五日釜山港を出帆した。輸送船三隻が船団を組み、その前方を海軍の駆逐艦が蛇行しながら警戒して呉れた。玄海灘は静かだったが、敵の浮遊機雷が漂っていて不気味であった。(香川隊長の後日談であるが、我々部隊の基幹要員が櫛ヶ浜の原隊を出発する時、内地-釜山間の往復航海の安全性を参謀に尋ねた処、「マア七分三分だな」「七分安全ですか」「イヤその反対だ」つまり、日本海・玄海灘あたりは、敵の潜水艦がウヨウヨしていて、何時魚雷攻撃を受けても不思議ではない程、非常に危険であった。ということである。)

 斯くして幸運にも、敵の潜水艦の攻撃を受けることもなく、七月六日。佐賀県の唐津港に無事入港した。何かの都合で、そのまま輸送船上で二泊。七月八日。ようやく唐津に上陸した。内地の土を踏みしめた時の嬉しさ。たったの一ヶ月内地を離れただけなのに、「故郷」の有難さをしみじみと感じさせられたことであった。降り立った海岸の砂の上で四股を踏んで土の上に居ることを確かめた。上陸して唐津城趾で小休止をしていたとき、当番兵が「隊長殿、虱取りをさせて下さい」と言って来た。「何だ。貴様たち、虱をわかしているのか」「隊長殿も福絆を脱いで下さい」「ナニ、俺は虱など、わかして居らん」「イヤ、必ず居ります」ということで福絆を脱いだ処、襟の縫い目に虱の奴が一列縦隊にズラリと並んで居た。

 唐津に入って駐屯地が決まるまで、市内の民家にお世話になることになった。宿営は二日間だったが、この二日間に私の中隊から二名の脱走兵を出してしまった。唐津に着くまでは、脱走兵を出すまいと警戒の上に警戒を重ねて来たのだったが、やはり任地に着いたという安堵感の何処かに油断があったのだろう。二名共朝鮮人の兵隊であった。分厚い顛末書を憲兵隊へ提出して後始末をお願いした。やがて、駐屯地が唐津実業青年学校と決まったので、全員そちらに移った。

 我々海上輸送第三十大隊は、前述の如く本土決戦に備えて新設された第十六方面軍の直轄部隊で、兵器や兵員、糧株等の輸送が主な任務であった。しかし、肝心の輸送用の舟艇がまだ無いので、それを集めなくてはならない。十五、六噸の漁船を出来るだけ多く徴発するのが、各中隊長の仕事であった。
編集者
投稿日時: 2013-4-28 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 19

 中隊長の章 1

 六月十三日。「第四中隊附」
 到着して直ちに、聯隊幹部に「お世話になる」旨の御挨拶を済ませ、すぐ編成業務に取り掛かった。その日から一週間は目の廻る程の忙しさであった。羅南の師団司令部へ兵器の受領に行ったり、召集兵や入営兵の受入れをしたり、身上調書を整理したりして毎日を過ごした。営庭から見える白頭山の頂は、まだ雪が残っている。六月の中旬だというのに肌寒いので、セーターを着込んだ。北朝鮮は緯度が高いので大分内地とは気温が違う。

 六月二十日。「編成完結。同月同日。第四中隊長ヲ命ゼラル」
 海上輸送第三十大隊の幹部は次の通りであった。
  大隊長  香川純一大尉   副官  大谷剛一郎少尉
   本部中隊  長 千田清一郎少尉  
   本部附 副島 益雄見士  田中  江見士  伊藤田 豊見士 谷口 快男見士(経理)  安藤洲二郎見士(軍医)

   第一中隊  長 小倉 忠清少尉  中隊附 山本  実見士
   第二中隊  長 柳井 義正見士  中隊附 木戸 光彦見士
   第三中隊  長 小森 和男少尉  中隊附 三村 正三見士
   第四中隊  長 緒方  隆少尉  中隊附 鈴木健一郎見士
   第五中隊  長 松原 信定少尉  中隊附 野中 正義見士
   材料廠中隊  長 城戸 純彦少尉  中隊附 鈴木千賀治見士

 戦争末期、如何に下級将校が不足していたかが伺われるスタッフである。中隊長が見習士官とは恐れ入る。大谷、小倉各少尉は第七期、千田、城戸各少尉は第八期、小森、松原、私は第九期の幹部候補生、柳井見習士官は第十一期幹部候補生、その他の見習士官は全員、第十二期の幹部候補生であった。

 これより先、六月十五日。第十六方面軍の隷下に入った。第十六方面軍は本土決戦のために新設され九州地区を担当する方面軍で、軍司令官は横山勇陸軍中将であった。

 さて、編成を完結したとはいっても、小銃は十人に一挺。しかもその小銃たるや遊底覆・照尺板・木被・下帯顧環・床尾顧環・負い革等は全て省かれ、床尾板は木製。最も肝心な腔綾は無く、まるで散弾銃である。コンボ剣の鞘と水筒は竹製。
 何ともひどい装備で、これでは戦争に勝てないと思った。
 私の中隊は、私以下六十八名。現地召集者は全部日本人で、現地入営の新兵は全部朝鮮人であ。た。彼等は比較的早婚で新兵の半数以上は妻帯者であった。六月二十八日。中隊長会議があり、任地までの輸送計画を打ち合わせた。

 1、朝鮮の人は、朝鮮半島を離れる(自分の意志以外で)のを極端に嫌う。だから任地は鎮南浦と発表すること。(行先を釜山だと発表すれば、半島を離れることが察しられるので脱走する恐れがある。殊に新婚が多いのでその公算が大である)
 2、脱走兵を出さないことを最重点とすること。
 3、(以下略)
編集者
投稿日時: 2013-4-27 9:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 18

 船舶兵科の章 3

 三月二十日。「第三次機動艇乙種学生トシテ陸軍船舶練習部二分遣ヲ命ズ」  
 大阪造船所が壊滅したので、また広島で教育を受けることになったが、二度目なのであまり戸惑いはなかった。今度は皆実町あたりの富士見荘アパートに下宿することにした。時折、山本旅館の親戚の娘さんが遊びに来た。彼女はこの五ヶ月の間に結婚したそうだが、先方との折り合いが悪かったらしく、早くも離婚して帰って来ていた。焼棒杭に火が付きかけたが、やっぱり単なる話し相手だけに終わってしまった。今になって思えば、ちょっと残念な気もする。

 富士見荘の親父さん夫婦は、若い時分アメリカに渡って働いていたが、戦争前に此方へ帰って富士見荘を経営して居られた。その親父さんが或る日、「緒方さん。内緒の話だがこの戦争勝てるだろうか」と言う。巷ではラジオが毎日勇壮な軍艦マーチを流していたが、敗勢は私等下級将校にもハッキリと感じられていたので返答に窮した。親父さんの話では、例えばアメリカの西海岸の近くに露天掘の鉄鉱山があり、毎日毎日貨車で何十台何百台となく、西海岸の製鉄所へ鉄鉱石を運び出しているが、一向に山の形が変わったように思わない。それ程物資の豊富なアメリカに対して、果たして資源の貧弱な日本に勝ち目が有るだろうか。というのであった。私は「成程物資では勝てないかも知れないが、精神力では日本人の方が強いと思う。勝てないかも知れないが、必ず敗けるとも思わない」と訳の解らない返事しか出来なかった。

 五月一日。「第一中隊附」

 五月十五日。「教育終了二付キ帰隊ヲ命ズ。同月同日第五中隊附」

 六月七日。「陸機密第二一八号二依り海上輸送第三十大隊二転属ヲ命ズ」

 櫛ヶ浜の原隊に帰ってしばらくした頃、右の転属命令が出た。新しい部隊を編成することになったのである。大隊長が誰なのか一番気になったので、部隊本部に問い合わせた処、何と大阪指導班の班長であった香川純一大尉であることが判った。
 人情味のある温厚な人格の方なので大変嬉しかった。編成担任部隊は朝鮮羅南の部隊なので、羅南まで行かねばならない。
 直ちに出発の準備に取り掛かった。編成基幹要員は我が機動輸送隊と海上駆逐隊の各補充隊から選抜された、将校・下士官兵、百五十名程であった。大阪で一緒だった小森和男少尉も基幹要員であった。

 六月十日。我々基幹要員は櫛ヶ浜を出発して、その日の夜山口県の日本海に面する仙崎港から出帆。六月十一日朝釜山着。

 すぐ京釜線に乗り京城(現在のソウル)に向かった。車窓から見る景色は内地とあまり変わらないが、ポプラの木がやたらに多いのに気が付いた。窓からポプラの木が消えることがない。それと川に橋がないし、水もない。やはり内地とは大分違うなと思った。その日の晩、京城駅に着いたが予定より二時間程も延着した。京城駅では我々の乗って来た列車に連絡して、羅南・清津方面行きの列車がおる筈だが、二時間も延着したのではとても待ってないだろう。とっくの昔に出発したのではないかと思っていた処、チャンと待っていて呉れたのには驚いた。私達は直ちにその列車に乗り換えて出発した。朝鮮半島を横切って日本海側に聳える金剛山の麓を通り過ぎる頃には、京城駅で失った二時間を取り返していたのには再び驚いた。

 六月十三日。羅南のひと駅手前の鏡城という駅で降りて、我々の編成担任部隊である羅南師団の野砲兵聯隊に到着した。
編集者
投稿日時: 2013-4-26 6:20
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 17

 船舶兵科の章 3

 昭和二十年三月十三日。午後十一時三十分発の夜行列車で、豊川に向け大阪駅を出発することにした。丁度「空襲警報」発令中で、大阪駅のスピーカーが「B29の大編隊が、二十三時三十分浪速到着の予定」と放送していたのを覚えている。列車は、丁度その時間に出発したのだが、空襲のせいか、京都駅で一時間程停車していた。翌朝、豊川に着いて海軍工廠の正門で面会を申し込み、一、二時間話をしただけで名残惜しかったが、すぐに大阪ヘトンボ返りした。大阪駅へ帰り着いたのは十四日の午後七時頃だったと思う。市電に乗ろうと思って、大阪駅前の安全地帯で待っていたが、待っても待っても、市電が来ない。仕方がないので地下鉄で難波へ出てそこから市電に乗ろうと思った。地下鉄のホームヘ階段を降りて行くと通路の両脇や踊り場などに、沢山の人達がゴロゴロと寝ている。おかしいなと思いながらも、難波駅に着いて地上へ出た。

 途端にビックリした。あたり一面何も無い。昨晩のB29の大空襲でやられたのだ。まだ燃え残りがチョロチョロと燃えている。市電の架線がクモの巣のように垂れ下がっている。無残にも焼死体があちこちに横たわっている。市電が骨格だけになった残骸を曝している。残っている建物といえば、鉄筋コンクリート造の南海高島屋・大劇・歌舞伎座と北の方に大丸・十合の建物だけであった。大阪駅前でいくら市電を待っても来ない筈だ。(この時の大空襲でやられたのは、堂島川以南で大阪駅周辺は被害がなかった。だから何とも思わず難波の地上に出たのだが、罹災地のド真ん中であった。地下鉄大阪駅の通路や踊り場に屯していた人達は皆、空襲で焼け出された人達だったのだと、その時気が付いたが迂閥な話である。)気を取り直して築港に向かって歩き出した。桜川のあたりでトラックをつかまえて乗せてもらい、旅館に帰り着くと幸いにも、旅館の並び一筋だけが焼け残っていた。奇跡としか言いようがない。同僚がみんな私の無事を喜んで呉れた。聞いて見ると大阪造船所は完全に破壊され、焼夷弾の直撃を受けて戦死した兵隊も相当数いたらしい。大阪指導班は焼け出され千歳町の商品倉庫に移ったので我々も行動を共にした。大阪大空襲から一日おいた十五日の夜、今度は神戸が空襲に遭った。私達のいる商品倉庫から大阪湾を隔てた向こうに神戸がある。今なら商店の照明やネオンなどで空も明るいけれども、当時は灯火管制であたり一面真っ暗である。その真っ暗な空の上の方から一筋の尾を曳いて火の玉が落ちてくる。それが途中でパァーと傘を開いて、しばらくすると下で火の手が上がる。その大の玉が何十発、何百発と落ちてくるのだから、空襲を受けている方はたまったものではない。その人達には誠に失礼極まる言葉であるが、対岸の火災で、まるで花火を見るように奇麗であった。しかし、どうしようもない苛立たしさと、逃げ惑っている同胞のことを思うと、腹が立って仕方がなかった。
編集者
投稿日時: 2013-4-25 6:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 16

 船舶兵科の章 2

 八月一日。「叙正八位」
 十月十目。「教育終了二付キ帰隊ヲ命ズ。同月同日本部勤務」
 
 教育が終わって、私のように成績の悪い者を艇に乗せても艇が動くわけはない。だから成績の良い者から乗艇して行った。後に聞いた話を綜合すると、出て征ったSB艇は殆ど沈められたらしい。私は成績不良のお蔭で原隊へ帰り、初めて自分の部隊を知った。部隊は徳山市の東約二粁の櫛ヶ浜に面して海上駆逐隊と向き合っていた。私は徳山市の、とある大衆食堂に下宿して毎日部隊へ通った。部隊では何もすることがないので、昼食を済ませて、日々命令が自分に関係がなければ下宿へ帰った。昼食と命令だけに部隊へ通う毎日が三ヶ月程続いた。部隊には私と同じように、何の用もなくてぶらぶらしている将校が沢山いた。

 十二月二十八日。「機動艇機関教育ノタメ、大阪指導班二分遣ヲ命ズ」毎日遊ばせて置くのは勿体ないから、大阪で勉強をして来い。ということだろう。退屈していたので、喜んで大阪へ飛んだ。

 港区の福崎に大阪造船所があり、そこでSB艇を造っていた。その造船工程を指導監督していたのが大阪指導班で、班長は香川純一大尉であった。申告を済ませ、私は築港の側の旅館を根城にして、私と同じ命令を貰った中・少尉連中五、六名と共に毎日大阪造船所へ通った。

 或る日、同僚の小森和男少尉が腹の激痛を訴えたので、近所の病院に担ぎ込んだ処、腸閉塞の診断ですぐ手術しなければ助からないという。輸血が必要なので彼と同じA型の血液の持ち主を探し廻った。同僚の中・少尉連中や、病院の看護婦、旅館の家族・仲居から近所の人まで、A型の血液を提供して貰った。私もA型なので病院で採血して貰つたが、丈夫だったので他の人よりも若干余分に採血して貰った。採血を終わって病院の玄関まで来た時、略帽を忘れたことに気が付いたので、あわてて採血室に取りに戻った。帽子を被って再び病院の玄関まで来たが、何だか腰が軽い。軍刀まで忘れていたのである。

 また採血室へ戻って軍刀を腰にして旅館まで帰った。旅館の方達が親切に生卵を二・三個呑ませて呉れた。礼を言って部屋へ戻り上衣を脱いだ処、襦袢を着ていなかった。お粗末な話である。採血も多量になると物忘れをするらしい。

 小森少尉は手術のお蔭で助かった。
 大阪指導班長の香川大尉と前記の小森少尉は、私の最後の部隊でまた一緒になるのだが、運命とは不思議なものである。

 ここで女の話。同志社高商在学中に、奈良で仲良くなった女の子がいた。美人ではないが愛敬のある顔をしていた。私が軍隊に入るので一時音信を絶っていたが、任官してから連絡を再開し宇品の陸軍船舶練習部にいるとき広島まで来てくれて約一ヶ月程一緒に暮らした。その彼女が女子挺身隊に徴用されて、愛知県豊川の海軍工廠にいる旨の知らせがあったので、暇を見て是非面会に行ってやろうと思っていた。なかなか暇が取れなかったか、何とか理由をつけて許可を得た。

編集者
投稿日時: 2013-4-23 7:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 15
 

 船舶兵科の章 1

 七月五日。

 「機動輸送隊補充隊二転属ヲ命ズ」とうとう私にも転属命令か出た。さて、命令を受けたものの、機動輸送隊とは如何なる兵科なのか。周囲の上官や同僚に聞いても誰も知らない。ただ[広島市宇品ノ陸軍船舶練習部二集合スペシ]とあるので、或は最近特に活躍している船舶兵かも知れないと思った。取り敢えず、各上官に申告を済ませて翌晩出発することにした。身の回りのものを将校行李にまとめ軍装を整えて、夜行列車で京都駅から出発した。京都駅には石川、長谷川両少尉が見送りに来てくれたと記憶している。他にも来て頂いた方が居られたかも知れないが、残念ながら覚えていない。
 こうして私は住み慣れた京都と別れを告げた。

 広島に来て判ったことは、機動輸送隊とはやはり船舶兵部隊で原隊は山口県徳山市櫛ヶ浜にあるということであった。

 七月十日。

  「第二次機動艇乙種学生トシテ陸軍船舶練習部二分遣ヲ命ズ」私は船舶兵に転科転属して自分の新しい原隊を一度も見ることなく、直接分遣地に来たわけである。船舶兵になったので、紺地に錨と鎖をあしらった船舶胸章を右胸に付けた。(右胸に胸章を付けるのは航空兵と船舶兵だけで、それだけ他の兵科と比較して危険で、死ぬ確率が多い)

 私は取り敢えず落着き先を大手町の山本旅館に決めた。山本旅館の親戚に年頃の奇麗な娘さんがいて、毎日のように手伝いに来ていた。何時ともなく仲良くなって毎日が楽しかった。本人も、母親も私との結婚を望んでいたらしいが、私は何時戦死するか分からない身なので、若い後家を作るような罪なことは出来ないと断り続けた。下宿の私の部屋で私の胸に顔を埋めて泣かれたのには弱ったが、心を鬼にして突き放した。(信じられないだろうが、本当の話である) 閑話休題。

 宇品の陸軍船舶練習部では、他の兵科から転属して来た下級将校達を集めて船舶関係の教育をしていた。船舶兵は新しく設けられた兵科で輸送船が主力であったが、航空母艦、潜水艦(マルユ)、高速駆逐艇、高速連絡艇、肉薄攻撃艇(マルレ)などの船も持っていた。

 さて、教育は甲板科と機関科とに別れていたが、どう間違われたのか私は機関科に配属となった。中学校、高等商業学校、捜索聯隊の乗馬隊という機械と全く縁のない道を歩んで来た私が(機械のことは皆目解らないのに)何故機関科に廻されたのかと不思議でならなかった。その当時捜索聯隊の兵科は、騎兵でも捜索兵でもなく「機甲兵」と称していた。だから私も船舶兵に転科するまでは陸軍(機甲兵)少尉であった。どうもそのあたりが機関科に廻された理由だろうと思う。

 船舶練習部での我々の教育は「SB艇」と称する上陸用舟艇の機関及び汽罐の基礎教育であった。基礎教育とはいってもこの教育か終了すればすぐにSB艇に乗船して戦場へ赴かなくてはならない。だから完全に機関及び汽罐をマスターして、運転し得る能力を付けなくてはならない。教官は佐官待遇の文官教官で、彼の話す言葉の中には、機械に関する専門用語がバンバン出てくる。「ノズル」なんて単語からもう解らない。だからチンプンカンプンで解る訳がないか、何とか解るように努力はしていた。

 註I SB艇とは、全長八〇・五米、全幅九・一米、総排水量八七〇噸、二五〇〇馬力タービンー基、最大戦速十八ノットの上陸用舟艇で、九五式軽戦車なら十四輛、九七式中戦車なら九輛、人員なら一個中隊を載せることか出来た。

 註2 上陸用舟艇にSS艇と称するものがあった。SB艇とほぼ同じ位の大きさで、SB艇のタービン機関搭載に対し、SS艇はディーゼル機関であった。また兵器や人員の載下方式は、SB艇が渡板を前方に倒して行うのに対して、SS艇のほうは艇の舶先が観音開きに開いて、中から渡板を出す方式であったが、もう既に建造を中止していた。

 期末が近づいた頃、実際にSB艇に乗船して、宇品から関門海峡を通過して、山口県の日本海側の萩港までの航海訓練があった。まだその頃は関門海峡は安全であった。海峡を通過して玄海灘に出た時分、日暮れと共に猛烈な時化に襲われた。

 ローリング、ピッチックの連続で、乗組員全員が完全にグロッキーとなった。それでも当直の学生達はヘドを吐きながらも舵輪にしがみ付いていたし、機関や罐を運転していた。私も何度かヘドを吐きにトイレに走ったが、トイレに行き着くまでが大変であった。艇が浪にもまれて波の頂上に上がり、下降するとき停止するその一瞬をとらえて移動して何かに掴まる。

 次の掴まる処を見付けておいて、またその一瞬間をとらえて走るというような状態であった。気分が悪かったので甲板下の兵員室に入って寝てしまった。夜がほのぼのと明け初める頃目を覚ました。海は相変わらず時化ていて、艇もローリング、ピッチックの繰り返しであったが、私は酔いも治まっていて空腹を覚えていたので、傍らに昨夜の皆の夕食が、手付かずで残っていたのを、二人分平らげてしまった。やがて萩港に入港。萩城や松下村塾などを見学した後、再びSB艇に乗船して「同じ航路を宇品へ帰った。玄海灘は相変わらず荒れていたが、昨夜程の高波ではなかった。関門海峡を通過して瀬戸内海へ入ると、艇の前方から大きな艦影が海峡を目指してこちらの方へ進んで来る。「神州丸(陸軍の空母でよく宇品の沖に停泊していた)が来るぞ」と誰かか叫んだ。艦影はだんだんと近づいて来る。よく見ると、何と海軍の正規空母(艦名不詳)であった。旗旅信号が上かっている。【ワレ只今ヨリ出航セントス】皆甲板に駆け上がり帽子を頭上で大きく振って見送った。

 どうか御無事で大戦果を…と祈らずにはいられなかった。宇品ではあまり海軍の大型艦を見たことがなかったので、大きな船は全部神州丸に見えるから滑稽である。井の中の蛙大海を知らずか。
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