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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻隊員と遺族の心情
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編集者
投稿日時: 2009-7-7 8:22
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻隊員と遺族の心情
 
 はじめに

 スタッフより

 この記録の転載につきましては

 特攻隊慰霊協会
  事務局 羽 渕 徹也 様

 のご了解を頂戴しております。

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 特攻隊員と遺族の心情
        田中 賢一編

 林  義則少尉 幹候9期
    第一〇五振武隊
    昭和20年4月22日知覧出撃
    沖縄近辺洋上

 ○ 林 義則少尉と将来を約した
              小栗かえで 述

 平成二十年もあと僅かで暮れようとしている。また一つ年を重ねて、戦争戦後はそれだけ遠くなってゆく。そして私は、あの人との間がそれだけ遠ざかってゆくようで悲しい。

  忘れじな いとしき人を激戦の
   空に送りし 遠き日の早春

 戦後六十余年が経ったが、その六十年が長かったのか短かったのか・・・
 私にはあれから六十余年も経っているとは思えない。それというのも六十余年前の印象が強く、戦死した人のことを一生心の中で思い通してきたからか・・・・。

 遥か違い目、戦争の真っ最中、私はまだ若く、村役場に勤めていた。

 昭和十九年三月二十三日午前十一時頃、玄関の戸を開けてさっと入って来た軍服姿の青年がいた。見ると小学校同級生の一人であった。助役の傍らに椅子を勧め、お茶を出してから自分の席へ戻り、皆と一緒に話を聞いていた。そのとき軍服の胸のプロペラの模様の徽章が目立って気になった。そしたら案の定、今までは太刀洗陸軍飛行学校菊池教育隊で戦闘機乗りの基礎訓練を受けていたが、この三月卒業し、今度は満洲に行って本格的に戦闘機乗りの訓練を受ける、と話すのを開いて、ああ空中戦の訓練だなと思った。

 戦闘機・・・・若しかしたらこの人もう生きては帰らない人かもしれないと、一人胸の中で密かに思った。二十分ほど話して帰る時、玄関へ送って靴を揃えて傍らに立つと、小声で「結婚はどうなの」「まだです」と言った時、お互いの瞳と瞳がすっとあった。その時のあの人の瞳は忘れられない。深いところに笑みを湛えた椅麗な瞳。この時に交わした一言一言がこの世で交わしたお互いの大切な言葉になってしまった。

 「じゃあ」と言って左手で軍刀を押えてさっとバス停へ走り去って行った。私は何となく名残惜しい気持ちで暫く佇んで、去って行った後ろ姿を見送った。そしたら、翌々日二十五日夜十時頃、電報で、
  ワレトニツク キミサチアレ ヨシノリ
 一昨日役場の玄関で見送ったばかりだったので、電報には驚いたが、この電報があの人よりの最初の便りで、それから翌二十年四月まで一年一ヶ月の手紙だけのお付き合いだった。その手紙に書き込まれたあの人の心が私の一生を支配してしまった。そんな心の持ち主だった、あの人は。

 お互いにその手紙の中に、愛するだの恋とか好きだとか、そんな文字は一度も書いてなかったけれども、手紙交換のうちに暗黙の約束が出来て将来は当然一緒になると思うようになっていた。ある日の手紙数枚の欄外に小さな文字で、
 「教育も御空も共に国のため」と書いてあった。私はそれを見た時、ああ矢張り忘れていないなと、嬉しい気持ちになった。軍隊生活一色の中にありながら自分の本職のことは忘れず初志貫徹というか初志はきちんと持っていることに感じ入った。

 東京農業専門学校(現在は筑波大学農学部)卒業した時、文部省より「秋田県鷹巣農林学校教諭ヲ命ズ」との立派な辞令を貰っている。しかし一度も教壇に立つことなく軍隊へ、そして特攻戦死してしまう。だから私はどうしても軍隊のこと、そして戦闘機乗りのことを思ってしまうけれども、本当は農林高校の先生が本職である。その姿は脳裏に浮かばない。せめて鷹巣という土地を想像してみる。

 秋田県の日本海側の広い秋田平野につづく鷹巣盆地は、お米やそのほか農産物の産地であろう。また、あの辺りは秋田杉の産地で近くに能代港があり、木材の積出し港とある。そんな土地柄だから農林高校のあるのも当然で、生きていればその高校の先生の筈。あの人のことだから生徒に好かれるよい先生になっていたであろう。せんなきことだが思いは巡る。
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