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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     右側通行? (白雲仙人)
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編集者
投稿日時: 2008-12-26 8:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
右側通行? (白雲仙人)
 私の手許に古い絵が一枚ある。
 私が小学校初学年ころ描いた、北九州市街の絵である。
 私は敗戦翌年に、北九州市(当時は八幡市)の国民学校に入学し、父親の転勤で山口県光市に、三学年のときに転校した。
 絵を描いたのは多分一年生か二年生のとき、つまり昭和21年か22年である。
 最近、変色の激しいこの絵を、スキャナでパソコンに保存しようと思い立った。
 取り込んで見たところで、ふと気がついたのであるが、電車やジープが右側を走っているではないか!。
 ジープはもちろん進駐軍(米国駐留軍)のものである。
 走りやすいように、日本の交通を右側にさせた時期があったのか?
 そこで、いろいろと検索をすすめていたところ、国会の議事録に行き当たった。
 それによると、確かに米軍は自分たちの都合の良いように、日本の車両通行を左側通行にすることを考えたようである。しかし、全国の交通信号や車両の改造、その他交通関係施設の整備に膨大な費用がかかることが分かり、断念したらしいのである。

 当時は街中を進駐軍のジープのほかは、たまにトラックが走るくらいで、絵のなかにあるように、われわれ子供たちは大通りを走り回って遊んでいた。板っ切れで飛行機の形をつくり、下に戸車を打ち付けて、電車道に向けて少し下り坂になっているようなところで、それに乗って遊んだりしていたが、今の交通事情では考えられないことではある。

 ジープが走ると、チョコレートやガムをねだって、子供らが追いすがっていたし、小倉の街では電車通りで浮浪児が空き缶を蹴《け》って遊んでいるのを見かけた、その空き缶を持って食堂の裏口に行き、残飯を貰《もら》って食べている、などと言う話も聞いた。
 老舗《しにせ》の百貨店の建物が接収されて兵隊たちの歓楽の場所になっていたようで、夕方には明々《あかあか》と照明がついていたのを覚えている。のちに知ったことであるが、パンパンと呼ばれた街娼《がいしょう=街頭で客をさそう売春婦》も、そんなところにたむろしていたようである。後年、就職後北九州に勤務した時期に聞いた話では、彼女たちの稼ぐ金は「ピンクドル」と呼ばれ、敗戦後の外貨不足の中で大いに活躍したそうである。

 絵について一言、当時の市街をこのように見下ろせるような高い建物は、付近にはなかった。地上の観察はしていたにしろ、俯瞰図《ふかんず=高所から地上を見おろしたように描いた図》は想像の産物である。
 なぜ右側通行に描いたのかは、本人も記憶が無い。

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