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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     南十字星の下で (1) ホベン
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2007-7-16 7:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
南十字星の下で (1) ホベン

(はじめに)

  インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものをご本人のご了承を得た上転載するものです。

 (メロウ伝承館スタッフ)


 前書き 97/02/11 06:57

 昨年三月勤めを辞めて、ずっと家にこもる様になってから、なんだかだんだんと太りはじめて、以前より五キロぐらいオーバーしてしまい、六十八キロにもなり,ズボンはチャックが出来なくなるわ、一日一時間と決めていた散歩も大儀になり、掛かりつけの医者に相談したところ、今更運動で減らすのも大変だから、食事を減らす以外に無い、とのことで、困っています、特に贅沢《ぜいたく》な食事をしているわけでもないのに、これも体質なのかと半ば諦《あきら》めてはいますが、勤務中は特に運動をしていたわけでもないのに、現在の生活がいかにカロリーがオーバーになっているかを痛切に感じています。

 それにつけても思い出されるのは、大戦《=第2次世界大戦1939~1945》の末期に南海派遣軍《南方の海に送り出された部隊》で暁部隊の一兵卒として、パラオでの二年間の地獄のような飢餓との戦いが思い出されます。
 玉砕《ぎょくさい=玉が砕けるように潔く死ぬこと》の島ペリリューは三十キロほど離れておりましたが、夜になると対岸の火事さながらあかあかと見え遠雷のような音が聞き取れ激戦の模様がうかがえました。
 同島の玉砕後は敵が何時こちらに上陸してくるのか、分からない中で,兵站《へいたん=物資補給機関》を絶たれ自活を余儀なくされ、文字どうりに木の芽草の実、蛇トカゲとあらゆる物を食べて生き長らえてきました、その間半数の仲間は日本の土を踏む事も出来ずに散っていったのです。 終戦の知らせがあってから、張り詰めていた気持ちが一気に崩れ診療所に身を横たえることになり、帰還船に乗る時点での体重測定は日本人の生死の限界点の二十七キロになっていました、自らの血肉を糧にして生き長らえていたのです。

 今は只《ただ》自分の強運を神に感謝するとともに、この繁栄した日本の姿を見ることも出来ずに、嫁も取れずに散っていった戦友たちのご冥福《めいふく》を祈るのみです。


 塩と兵隊 10726/10757

 戦争体験記のようなものをかいてみましたが、発表の場がなくて、自費出版をする余裕もないので、ボツボツとそのエピソードを取り上げてみたいと思いますが、興味の或る方は覗《のぞ》いてください。

 南海のパラオでは戦争も末期に近く主食の米は言うにおよばず、味噌《みそ》、醤油《しょうゆ》、塩までも底をついたのである。ご存知のように空気、水に次いで塩は必要不可欠のものである、そこで上層部では製塩班なるものをつくり、海水からの製塩に踏み切ったのである、海水の取得は簡単であるが、問題はドラム缶にくみ込んだ海水をいかにして、蒸発させるかにあった、ペリリュウ島に米軍の飛行場が設営されてから、四六時中敵機の監視下にあったので、昼間は全く動けなかったのだ、農民や牛が畑で機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機が低空で機関銃で狙い撃つ》でやられた話はよく聞いた,製塩は恐らくは海岸に近いジャングルで煙が出ないように、炎をたてないようにで、大変の苦労があったものと思う。そして一昼夜も炊くとドラム缶の底に赤茶けた数センチのびしょびしょしたニガリのある塩が残るのである。

 そのまた出来た塩の分配が大変で携帯燃料の空缶 4cX 4cぐらいのものに一杯が一人一ヶ月分で、配給された、つまり早くなめてしまえば、塩絶ちの日が何日か続くのだった。兵隊はそれを宝物のように大事に扱ったのである。
 事件は帰還の船中で起こった、我々の船は第2回目の船だった、1回目は赤十字船で担架で運ぶ程の重病人を300人ほどが乗船していたのだが、空き腹に急に米の飯が出たため消化できずに、下痢患者が続出して、約半数が死んだとのことだった。そこで我々の時は乗船から下船までずっとお粥《かゆ》と梅干しだった、それすら泣くようにして食べたのを思いだす。船は海軍の元揚子江に配備されていたと言う底の浅い砲艦《河や沿岸を警備する小型の軍艦》だった、行くときの貨物船の2,500人乗った蚕だな《=蚕の棚のように幾つか重ねた寝台》とは違つて学校の教室のような平らのところに250名程が雑魚寝《ざこね》だった。水兵は痩《や》せさらばえた我々を異様なものでも見るような目で見ていた。途中グアムに寄港して、祖国に向かっていた、そしていよいよ明日は浦賀に入港するという前の晩に一人の兵隊が炊事場に入り飯盒《はんごう=炊飯も出来る弁当箱》に一掬《いっきく=一すくい》の塩を掠《かす》め取り、水兵に捕まり、班長を呼んでこいと責められて、思いあまって入水自殺したのである。班長に申し出ても、殴られるか説諭ぐらいで済んだと思うのだが祖国の土を踏める前の晩の出来事だった、今にして思えば真っ白い塩は彼には宝石程に見えたのかも....なんと哀れの話だろうか。
編集者
投稿日時: 2007-7-17 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
南十字星の下で (2) ホベン

 南十字星の下で その1 97/02/28 07:22

 パラオに上陸したのは 日にちはよく覚えていないが昭和19年の2月の初旬だった。我々は分遣隊《ぶんけんたい=本隊から分けられた小隊》で2班七十数名だった、そしてこの2班は生死の分岐点で全く異なった運命をたどるようになろうとは、この時点では知るよしも無かった。

 今ではパラオと言っても、知らない方も多いと思うので、あらましの説明しておきます。
 それはオセアニア (大洋洲)とも言う、 カロリン諸島中西部 北緯7度36東経134度30にある群島で、
      バベルチェアブ(本島) コロール、ペリリュウ、
      アンガウル、等の200程の島から成っている。

 1543年スペイン人 ビリヤ.ロボス発見し、以来スペインの勢力下に1897年ドイツが買収し第一次世界大戦後日本の委任統治領《第一次世界大戦(1914~1918年)後、赤道以北は日本が統治した》となった。
 この時代にはパラオは内南洋の中心としてコロール島に南洋庁、同パラオ支庁、南洋興発会社、南洋拓殖会社、日本水産会社、等がおかれて最盛時の日本人は2万人を越えたという。アンガウルは良質のリン鉱石で知られている。原住民はカナカ族、46,000人 チャモロ族 3,500人 (1935)年調べ、住居は切妻屋根《きりづまやね=本を開いて伏せた形の屋根》方形《=四角形》杭上《=高床》住居、日本の神社に似たもの (床上式)である屋根はトヤカルで葺《ふ》き、外壁はトヤカルや椰子《やし》の葉で造って、床は割竹やビンロウで敷いた物である。もとっも我々が行った頃はトタン屋根の掘っ建て式のものが多かったと思う。

 戦前《=第2次世界大戦前》は日本人の指導により、農産物としてはコブラ、タビオカ、パインアップル、等、水産物としては真珠貝、タカセ貝、かつお節 などが揚げられる、さらに遠洋漁業の基地として商店も多かった。 気候は年中日本の真夏のような暑さなので季節感が全然無いのは驚きだった。

 ソロモン群島での山本元帥《やまもとげんすい=山本五十六、海軍大将・元帥(統率者)1943年戦死》が戦死されて以来、大本営発表とは裏腹に、戦況は余り芳しいものではなかった。当時パラオは南方へ送る物資の中継基地で船舶の出入りが激しかった。 我々もここで船を乗り換えてさらに南に行くことになっていたのだが、そのころいたるところで日本の船団は敵の潜水艦や飛行機の餌食《えじき》となり、なかなか船団を組むほどの船が集まらなかったらしく、本部からの連絡待ちということらしかった。宿舎はコロールの埠頭《ふとう=船着場》から程近い掘っ建て小屋のようなお粗末のところに落ち着くことになった、宿舎には広島で編成された軍属《=軍に所属する軍人でない文官や技術者など》の一団が先着として場所を取っていた。周りにみえる樹木は内地のものとは全く違い椰子の木の様なものが多く遥《はる》けくも来しものとの感が強かった。


 南十字星の下で その2 97/03/11 23:11

 先着の軍属は船舶関係の技術者で30名ほどの集団だった、年齢は中高年の人が多かった。我々兵隊とは一線をかくしていたが、規律は軍ほどではないからおおらかなものだった。
 中に異色だったのは、エセ文士風の人がいて今のポルノ風の小文など書いて回覧していた、彼は器用な男でアブナ絵《=きわどい絵》までこなしていた。ラジオや他の娯楽もない所で彼なりの青春を発散させていたのだろう。
 またそこでは台湾の高砂《たかさご》族と半島《=朝鮮半島》からの荷役作業のための軍属が各2千名ほどいた。桟橋《さんばし》は浅く大きな船が接岸できないので荷物は殆ど《ほとんど》がハシケ《=陸と船の間を行き来する小船》からの揚げ下ろしだった。ジャワ米は白い麻袋入りで(40)キロで彼らはそれを2袋かつぎ揺れる踏み板を調子を取りながら上がり降りして運んでいた。
 中には3袋を担ぐものなどいて、クレーンやフォークも無い頃のその貢献《こうけん=寄与》度は大きかったものと思う。
 戦友の岩井は編成前からの仲間だった、G県出身で自分と同じ第2乙《=徴兵検査の結果 甲種、第一乙種、第2乙種、丙種に分類された》で体は細かったが力は甲種合格者より強かった、関東のべらんめい調でポンポン喋り《しゃべり》まくるから関西人の多いわが班では、言葉が悪いとか生意気だとかよく言われていたが、上州《=群馬県》の国定忠治《江戸時代の侠客=ばくちうち》もかくやと思はせるほどの男気のあるいい男だった。頼りにしていたその岩井が突如野戦病院に入りあっけなく死んでしまった、原因はパラチブスだったとか、東本願寺パラオ支部での葬儀には戦友代表で参列した。 ところがこのお寺が数週間後のパラオ大空襲で跡形も無く破壊されたのである、短い間に2度死んだ彼のご冥福《めいふく》を祈る。

 世は飽食の時代だ、抱き合わせで買わされたジャワ米をゴミの集積場に出した人がいたとかの話を聞くと怒りが込み上げてくる、そのころから兵隊はあの細長いジャワ米以外は口にできなかった、それもまだ有るうちはよかったが、やがてそれすらも無くなっていくのである。
 ただパラオは日本水産の基地だったのでカツオだけは毎日口に入った暑ところなのにそのころは冷蔵庫などは当然無く、カツオが上がれば取っておけないから朝から晩までカツオずくめである、カツオの味噌汁、カツオの刺し身、煮付けに照焼きとはてはカツオの塩辛まで、そんな時また波止場で日本水産の船などからタバコと交換でカツオ一本をぶら下げて帰る班の兵隊などいて、これにはうんざりである。しまいにはカツオのいない国に行きたくなるのである、そして皮肉にもカツオが食べたくても食べられない方向へと進んで行くのである。


 南十字星のもとで その3 97/03/11 07:03
編集者
投稿日時: 2007-7-18 10:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
南十字星の下で (3) ホベン
 
 南十字星の下で その4 97/03/14 23:58

 パラオ大空襲

 昭和十九年三月三日だったと思う、起床ラッパなど無く当番の起床の声に、起きだして宿舎の庭に出て体操を始めようとしていた時である、東の空から爆音が聞こえてきた、それはだんだんと近ずいてきたそして二~三十機の編隊である、其の時点では日本はたいしたものだ、パラオを守るための航空隊がまだ残っていたのだと、誰しもが思ったらしかったのだが、機銃掃射が始まってやっとそれは空しい願望だったのに気づいた、何とそれらは敵の艦載機《かんさいき=空母などから発進する飛行機》グラマンだったのだ。ターゲットは港湾施設、及び荷揚げ作業などしている船などだったらしいが、それは激しく、しかも執拗《しつよう=しつこい事》なものだった。島の防備もまだ緒《ちょ》についた《=はじまった》ばかりで、空からの攻撃など考えてもいなかったのだ、対空砲火など皆無でとにかく逃げる以外は無かったのだ、上層部からの指示で雑のう《布製の物入れ》に支給された乾パン二袋を入れて毛布一枚を持って宿舎のすぐ裏手の山に逃げた、防空壕《ぼうくうごう》さえ無かったのだ。

 そのころ航空燃料など地下貯油タンクなどは無くニューギニヤやその他へ運ぶためドラム缶は埠頭《ふとう》に山積みになっていたのである、そして弾薬も米も一般食料も総てが野積みで、ただゴムシートを掛けただけのものだった。ドラム缶は機銃の曳光弾(えいこうだん)
=弾道がわかるように光を出して飛ぶ弾》
を打ち込まれ爆発しはじめ次から次ぎえと暴発して10~20メートルも高く飛び上がるのだ、山に逃げたのは賢明の策だったと思う、こんな時波止場でもうろついていたら何が飛んでくるかわからない、一同打ちひしがれて声も出ない状態だった,敵機は弾を撃ち尽くすか、燃料が少なくなると引き返し、また同じくらいの新手の編隊がやってくるのだ。我々は埠頭からわずか500メートルほどの場所にただなすすべもなく傍観しているだけだった、後でわかったのだが唯一《ゆいいつ》戦ったのは海軍の工作艦(船舶修理をする)一隻だけだったとか。

 一番恐ろしかったのは、最後の船団がきた時一旦陸揚げされた付設機雷《ふせつきらい=水中に敷設する爆弾》が南洋庁の広場に並べてあったのであるが、(個数などは不明)それが機銃掃射によって爆発しはじめ正確には分からないが50メートルぐらいは空中に炎があがったと思う其の爆風も強烈で、まさにその凄《すご》さは地軸を揺るがすほどのものだった、この世の地獄もかくやと思われた。敵機来襲は夕方まで続き、地獄の一日目は終わったのだが、爆発、暴発はひっきりなし続いたのだ。  米の山など昼間は真っ黒になって煙が出て燻《くすぶ》っているだけのように見えるが夜になると、こだつの炭火のように真っ赤になって見えるのだ、米は植物性の油が多くよく燃えるのだそうだ、後に知らされたのだがこの日の敵機の来襲延べ機数は2,500だったとか、宿舎に帰ったそして覚悟はしていたものの全員があの恐怖のため打ちのめされたようになっていた、そして眠れぬ一夜をすごした。


 南十字星の下で その5 97/03/21 07:06

 二個の手榴弾

 眠れぬ一夜だったがあちこちでひそひそとささやかれていたのは、これは敵さんが上陸してくる前触れなのか、もしそうな我々は武器らしいものは何も持っていないから、その点につてだった。まんじりともせぬうち夜は明けた。早朝全員が集められて手榴弾《しゅりゅうだん=手で投げる小型爆弾》が二個づつ手渡された、敵に一個を投げ残る一個は自殺用に使えとのことだった、各人がそれぞれ複雑な思いでそれを受け取り雑のうに納めた。また東の方から爆音が聞こえてきた、そして昨日と同様に毛布を持って裏山に逃れた、このときわが22歳の人生もこれで終わりかとの覚悟は決めたのだ。 この日もまた昨日同様ひっきりなしの空襲だった対空砲火は皆無の状態なのでグラマンは思い切り低空してきて撃ちまくり、ひきもきらず新手で攻めてきた、延べ機数は昨日と同様2,500だった。

 燃料も、兵糧も、武器弾薬も、ブーゲンビルやニュウーギニヤ、の前線では喉《のど》から手が出る様な思いで待ち焦がれていただろうに、ここでかくも大量に破壊されたのではと、無念の極みだった。幸いコロールと本島には敵は上陸して来なかった、だが矛《ほこ》先はアンガウルとペリリューに向けられたのだった、彼らはそこに飛行基地を設営したかったのだ。 この日を境にパラオに関して言えば制空、制海権は完全に敵の手中に入ったようなものだった。 正確の数は不明だが相当数いたパラオの軍人軍属はその兵糧自体が危うくなって来たのである。数日後に我が隊は全員が本島に移動することになったのである。飢餓との闘いが始まるのもしらずに.............


 南十字星の下でその6 97/03/27 07:26

 (輸送船で)

 ガタゴト、ガタゴトとタービンが下から突きあげるような音をたてて氣だるそうに、一刻の休みも無く鳴り響いている。貨客船のハッチを急ごしらえに、二つに区切ってさらに蚕(かいこ)棚式に仕切った、兵隊の居間兼ベッドは奥に各人の背のう、雑のう、銃剣&帯革(ベルト)、鉄兜《てつかぶと》、防毒面、防蚊面、南方向きヘルメット、毛布、外被(レインコート)、飯盒などところ狭しと積み上げられた空間に2畳に5人程の居場所があるのみである。出入りは腰を屈めねば不能である、寝るのは文字道り雑魚寝である、ちょっとトイレに行くにも仲間をまたいだり、踏んづけたりで大変である。

 船団は12隻からなっていた、かなりの大船団である、そして我が船は其の中の1番船で“水戸丸”(7000トン)クラスの耐用年数はすでに過ぎたような老朽船で2,500人程乗船していた,そして以下2番船から10番船と続き、それらは煙突に各々その番号が書いてあるそしてその集団を護衛するために駆逐艦と捕鯨用のキャチャー.ボートが爆雷を積んで、絶えず其の周りを巡回しながら目的の港まで送っていくのである。時は昭和19年1月の初旬、宇品港で行き先も告げられずに乗船して下関に敵の潜水艦を避けるために一週間程寄港して、或る夜突然あわただしく出港したのだ。五島群島を過ぎ沖縄の沖に差しかかったころは船内はもう人いきれと熱帯的気温で蒸し風呂のようだった。

 船番号は船の大きさできまり順番になっているのである、そして敵の潜水艦に狙《ねら》われる場合一番船が一番先の標的になり失敗した場合は二番三番とずらせていくのだそうで、其の点から言ってもいやな船に乗り合わせたものだ。
 潜水艦と言えば下関に投錨《とうびょう=いかりをおろす》していた時、たまたま関釜《かんぷ=下関・釜山》連絡船が潜水艦攻撃を受けて救助された兵隊が桟橋に毛布に包《くるま》っているのを目撃したとの噂《うわさ》がひろまり、何処《どこ》へ行くのか何千キロもの航海が待っているのであろう、我が身にしてみれば心中穏やかならぬものがあった。なんせ速度は一番遅い船に合わせしかも夜間は敵の潜水艦の攻撃を避けるためにS字型に航行するのである速度は8ノットだと聞いた、太平洋の真ん中をである、つまり自転車の速度である。

 船での生活は睡眠は昼間とり夜はずっと起きているのである、自分もまだ若かったし船旅は勿論初めてでローリング、ピッチングも話には聞いていたが余り気持ちの良いものではなかった。マストの見張り台には船舶隊の兵隊が交代で立ち潜水艦の出没に備えていた、また3日に一度は避難訓練がある、自分は生来低血圧気味で動作が緩慢のほうなので、しばしば行われるこの訓練はつらかった。装身具を全ぶつけて救命胴衣をまとい甲板まで梯子《はしご》を駆け上るのである。
 総員2,500余名の兵員に対して救命ボートはうまく脱出できてもせいぜい200名程が乗れれば良い方だったと思う。そこえもってきて信州の山国育ちで全くの金槌《かなづち》ときているから救いようが無い、もっとも100メートルや200メートル泳げたところで場所が太平洋の真ん中でやられでもしたら、どっちみち助かる見込みはない、せいぜい鮫《さめ》の餌《え》か海の藻くずでもなるしか無かったのである。

 食事は船尾の甲板に近いハッチで炊事専門の炊事班の様な兵隊が造ってくれるので、自分たち初年兵が飯あげに行くのである。トイレは後部甲板上に急ごしらえの木造で十いくつかに仕切られた個室が並び下はポンプで汲《く》みあげた海水がとうとうと流れていた。原隊は金沢の東部五十二部隊(山砲)で特科部隊は食事は良いのだそうで、その頃に比べ船の食事はすこし落ちる程度だった。
編集者
投稿日時: 2007-7-19 7:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
南十字星の下で (4) ホベン
 
 南十字星の下で その7 97/03/30 07:10

 輸送船で (二)


 入隊前の20の時、戦時中の徴用令《ちょうようれい=国民を強制的に一定の業務に付かせる令状》にひっかかり呉の海軍工廠《かいぐんこうしょう=艦船、兵器、弾薬などを製造、修理する海軍の機関》で2年間も機銃弾の信管《しんかん=起爆装置》をを造らされていた、夜勤、昼勤の2交代の繰り返しで労働を強いられて心身ともにくたびれ果てて徴兵検査の時は体重も48キキロと衰弱しきっていた、そして結果は第二乙種というひどいものだった。 金沢へ入隊したのは3ヶ月の教育招集だった、山砲《さんぽう=山地で使うため分解して運搬する大砲》隊は特に強健の体力が要求され、分解した砲身や砲架《ほうか=砲身を乗せる台》を三人で、特殊のヤットコの様なもので頭上より高く持ち上げて、馬の背中に結わえ付け、搬送したり、時には,ひ力搬送と言ってうまの背を借りずに兵隊だけで運ぶ様なことも有り大変だった、非力の自分には持ち挙げるのはせいぜい胸くらいまでしか持ち挙らずその点では砲兵は失格だった。

 3ケ月の教育が終わる頃、暁部隊への転属の話が出た,日ごろ何かと相談にのって呉れていた班長に、自分は呉の工廠には戻りたくない旨は言ってあったので、暁部隊への転属は願っても無い転身だと其の時点では思った。そして50人程が戦友らに見送られて横浜の駐屯地に向かったのである。横浜の門間(まかど)には東日本各地からの500人程が結集した。宿舎は横浜の富豪若尾侯爵《こうしゃく=貴族の階級》の別邸で、海を見渡せる小高い丘の上にあり、門など由緒ある仏閣のそれを思わせる程のものだった。一階は居間をぶち抜き、地階は三台ほどの玉突《ビリヤード》台を取り除いたあとに全員が寝泊まりしたのである。年取った召集兵と古参の二,三年兵が多い中自分と同じ位い若い兵隊は割合少なかった。横須賀に近いせいか陸軍の駐留は当時は非常に珍しいらしく大事にされた、古い兵隊には近所の娘さんと恋愛関係まで進んだ者もいたらしい。炊事場、洗面所など急ごしらえにバラックで建てられたものだった。

 任務は生麦の日産工場で製造していた、ベニヤ板の上陸用の舟艇《しゅうてい=小舟》製造のヘルパーのようなものだった。当時は戦争はたけなわで鉄の生産は追いつかず、ついにベニヤ板と接着剤で造る上陸用舟を考え出したものと思う。南方からきた直径1メートル以上もあるラワン材の丸太を船から下ろし、筏《いかだ》に組み水路を貯木池まで運び、2-3メートルに切断し、時間をかけて煮沸し、柔らかくして両端を固定して巨大の旋盤《せんばん=切削・孔あけなどの工作機械》のようなもので、干瓢(かんぴょう)でも剥《む》くように薄く削っていくのである。そして乾燥させて接着剤で張り合わせて仕上げ、船に仕上げていく一貫作業を当時やっていたのである。仕上がれば完全武装の兵隊を80人も乗せられるとのことだった、エンジンは日産のお家芸のダイハツを載せたものだった。今では技術も進み。ヨットから1,000トンもの船までベニヤで造れるほどになっているそうだが、その時はまだベニヤの船で大丈夫かなと言う危惧《きぐ=不安》のほうが大きかった。

 間門と生麦はかなり距離があるが、当時市電は通っていたが、朝晩の通勤は白の作業衣で飯盒《はんごう》の弁当持参の集団が電車に乗ったのか行軍したのかさえも今ではよく覚えていない、ただ覚えているのは、夕食後に初年兵は便所の裏に集合で、整列させられ満州から転属してきた教育係の古年兵の私的制裁で訳も無く殴られたことである。”お前らこのごろたるんでるぞ”とか”敬礼の仕方が悪いぞ”とかとにかくたいしたことでもないのに殴られるのである。いよいよ理由が無くなると“貴様《きさま=おまえ》このごろよくやるぞ、其の調子でやれ”とか言って、これまた殴られる。陳腐《ちんぷ=古くさい》な言葉だが烏《からす》の鳴かない日があっても初年兵の殴られない日はないのである、まれに初年兵集合の声が掛からない日があると、何か忘れちゃいませんか、といった感じだった。召集兵のN一等兵が”夕方の儀式が無いとなんだか落着かないね”ともらした。我々が入隊した頃から私的制裁はやらないようにとの通達が出ていたとは聞いていたが、余り守られていなかったと思う。

 ”初年兵教育とは殴ることなり”と心得ていた古兵が如何《いか》にはばをきかせていたことか、年月が経って多くの人の顔も名前も忘れた中であの古年兵の顔も名前もハッキリと覚えている。


 南十字星の下で その8 97/04/02 07:22

 輸送船で (三)

 特に辛かったのは対向ピンタだった、初年兵同士が2列に並ばされ相手を殴るのである、戦友同士特に仲の良い同士の場合がいやだった、目で謝り乍《なが》ら殴るのであるが、どうしても手加減をしてしまうのである、それが意地悪の古年兵にでも見つかると大変である、殴るとはこういうもだとお手本をやって見せてくれるのだ、それを又お手本通りにやる、つまり受け身の側は三回も殴られるのである、そしてこちらが殴られる側にまわるのである。

 いま中学生の陰湿ないじめ問題が持ち上がっているが、いじめの原点は我々日本人の心の片隅の何処《どこ》かに巣食って居り時々頭を持ち上げるらしい、そしてそれが子々孫々へと受け継がれていくのでは等と思うと空恐ろしくなる。普通原隊にでも居ると半年もすると、次々と新しい兵隊が入ってきて新兵も順次古兵になっていくのであるが自分の場合は後から入ってくる者は居なかった、したがって殴られどうしで人を殴るチャンスには恵まれなかった、かりに恵まれたとしても自分の性質ではそれは行使できなかったかもしれないが、誰にも恨まれ無くて済んだのだからそれはそれで良かったのかと思っている。

 軍隊生活ではよく物がなくなる、これをそのままにして置くと古兵や班長にこっぴどく怒られる、それはよそから頂いてきて穴埋めするのである、お願ひしてでは無い、黙って頂くのだ、これを軍隊用語で員数を付けると言う、言うまでもなく一般社会ではこれを盗みという、だが軍隊では黙認されるのだ、したがって一つ物が無くなると連鎖反応的に物が無くなるのである、ただしこれは官給品の紛失の場合で、私物となると話はまた別である、物を盗られる方が悪いのだ、罪人を一人つくることになるのだそうだ、この場合上記の対向ピンタになるのだ、したがってそれを避けるため、多くの場合泣き寝入りしてしまうのだ。

 たまの休みは初年兵は大変である、自分の衣類班長殿のシャツ等の洗濯である、それが乾く頃はまた盗難予防の見張りもしばしばだった。田舎からまだ健在だった母と弟が面会に来てくれたのも其の頃だった、場合によっては、それが最後の別れになったかもしれなかったのだが..........
 軍隊で何時までもただ飯を食わして置くはずがなかった、官費旅行《=戦地へ出発する》の時が徐々に近ずいて来たらしく、隊の中がざわついて来た、十一月末に広島に行く命令が出たのである。

 広島の暁部隊の本部と思われる処に全国からぞくぞくと兵隊が集まって来た、其の数はおよそ1500人程だったと思う。とりわけ四国,九州の出身者が多かった、満州からの三年兵、四年兵とか言う軍隊で言う神様的の兵隊から、召集令状で集められた子どもの2,3人も居るような気の毒そのものの様な人も何人か居たのである。 宿舎はかの有名な海軍兵学校のある江田島の対岸だった、2,3週間は江田島の船舶の修理工場に見学者のような格好で通った。波止場にはハワイ《=真珠湾攻撃》で使ったと思われる特殊潜航艇《とくしゅせんこうてい=魚雷を持って潜水艦や母艦から発進する小型舟艇》が展示してあった、今はもう秘密でもないだろうから言えるが、戦争末期の特攻隊《とっこうたい=特別攻撃隊》的の一旦発射されれば後には戻れない式のものだったらしい。

 そうこうするうち、上層部での編成替えはどんどん進みいよいよ発表の段階となったのである、金沢からの初年兵とは別れ別れになったが、幸いのことに横浜で同じ釜《かま》の飯を食べたG県出身の岩井二等兵とは同じ班になったこれは非常に嬉しかった、正確の数字は知る由もないが、編成は少なくとも三十班程には成ったものと思う。恐らくは北はアリューシャンから台湾、香港、シンガポール、南はマニラ、ニューギニヤ等に割り振られたのだ、武運つたなく戦死するか目出度く生還出来るかがこの時点で決まった様なものだったが、それは神のみが知る事だった、運、不運は俗に言う紙一重だったのだ。自分は運良く命長らえて生還できたので、住所の分かっていた金沢時代の戦友の消息を確かめたら、二人とも場所は不明だったが戦死していた。

編集者
投稿日時: 2007-7-20 7:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
南十字星の下で (5)ホベン
 南十字星の下で その9 97/04/04 07:28

 輸送船で (四)

 六泊七日の休暇が出たのである広島から長野県岡谷市までである、今のような新幹線と言ったような早い列車はなく、片道二十二時間の旅だった、それが今生の別れになったかも知れなかったのである、親類縁者会い尽きぬ話に花が咲いた、歓待されたのも束の間、野戦への出発点の宇品にもどったのだった。

 船団は相変わらず大海原をのたりのたりと進んでいる、何処を見ても青い空紺碧《こんぺき=少し黒味を帯びた青色》の海である、時々飛魚《とびうお》がすいすい飛んではまた着水して行く、甲板に降りるあわてものもいたりする、夜は真っ黒い水の中に蛍《ほたる》でも飛ぶようにキラキラと夜光虫が見え隠れする、これで戦争でも無ければなんと浮世を離れた世界を思わせるのだが。 広島での編成でこの船に乗ったのは二班だけだった、我が班は幹部候補の少尉で隣は横浜からの中尉の引率だった。やがて二班ではあるが行き先は違うらしいことが分かって来た、一班の人員は三十数名で構成されていた。

 隣の班は満州からの強者が多く、数人で通路に天幕をひいて数人で車座《=輪になって座ること》になってオイチョカブのお開帳《=賭博を始めること》である、厚紙に手書きのちゃちのカードでプレイするのだ、自分は元来勝負ごとが嫌いで囲碁、将棋、マージャン等は手を出したことすらなかったので、オイチョカブのルールすら分からなかったが、勝ち負けは単純で手持ちのカードが9なら勝ちで0なら負けである、数が少なければ、もう一枚とか言って、さらに配ってもらい勝負をつけるのである。

 本来は船内で賭博が許される筈《はず》が無いと思うが、輸送船内は無法地帯だった。賭《か》けるのはマッチ棒では面白くないらしく、兵隊の貰《もら》う小額の金だった、和歌山県のK上等兵は満州からの四年兵で博才《ばくさい=ばくちの才能》に長けていた、皆の金を巻き上げるんじゃないかと思われる程付に付いていた、隊長の中尉は威勢のいい人だったが横浜では、酒がはいるとよく軍刀で床をトントンと小突いては「貴様らぶった斬《ぎ》るぞ」なと怒鳴っていた、兵隊相手でもめったなことは言うものではないと思うのだが。この中尉どのも海千山千の古い兵隊にはてこずっているのか、何も言えないどころか、時々仲間になって金を巻き上げられていた。

 四国出身の中年の召集兵の中山一等兵は船が動き出すや否や船酔いで寝たきりの状態で、食事も殆ど《ほとんど》取らずに日に日に弱って行った、我々他に何の楽しみもない 初年兵はそんな人の手を付けない食事までも分け合って食べたものだ、また炊事場から時折貰《もら》うおこげは格好のオヤツになった。
 野戦ではこれから何が起こるのか、全く分からないのだが兵隊たちは自分の生い立ち、お国自慢の話、妻帯者は子自慢からはてはおのろけへと話は尽きないのである。
 なにしろ兵隊が多いのだから、洗濯、行水《ぎょうずい=水浴び》もままならぬ、チャンスは一度しか無かったと思う水の余裕が無いのだから仕方が無い。

 敵の潜水艦に脅えての明け暮れだった、出港後四週間が過ぎた頃だったか、頭上を何回も旋回していったのは、頼もしくも日本海軍の哨戒機《しょうかいき=敵を見張る任務の飛行機》のお出迎えだったのだ、翌朝長い船旅も無事に終わり、待望のパラオのコロール港に入港出来たのである。海軍から全船欠けることなく入港できたのは2,3ケ月ぶりとかで日本酒の差し入れがあった、船酔いで食事も取れなかった中山一等兵は担架で運ばれての下船だった。、


 南十字星の下で その10 97/04/05 07:17

 本島へ

 廃墟《はいきょ=荒れ果てた跡》と化した、と言うよりもむしろ焼け野が原になってそしてまだ黒焦げになってくすぶっているコロールの波止場を後にして装身具を付けて本島に移動することになった、しばらく歩き水道を渡し舟で渡ると本島である、湾内を見渡すと無残にもあちこちに六十数隻と言われる船が舳先《へさき》をあげたり、船腹を横たえたりして哀れにも其の残骸《ざんがい》をさらしていた。 湾内は水深が浅いから完全の沈没は免れたのであろうが、恐らく何百人かの死傷者が出たに違いない。

 本島の広さは東京都か、淡路島の大きさらしい、久しぶりの行軍で十数キロも歩いただろうか、小高い丘の上の一軒の廃屋にたどり着いた先住者は多分戦争が激しく成ってくるので引揚げたのだろうか、そこに駐屯することになった、日のよく当たる海の見渡せる良い場所だった。先のことは分からないがこれからは空襲もますます激しくなってくるだろう、そのころはまだ食料も不足ながらも何とかあったし、まあまあの生活はできた、たまには酒も出たりして宴会もした、夕食後には隊長の少尉どのによる士気を鼓舞する《=ふるいおこす》ための軍歌演習などやり、南十字星を仰ぎ乍《なが》ら声をかぎりに歌った。
”暁に祈る”

ああ あの顔であの声で
手柄頼むと妻や子が
ちぎれるほどに振った旗
遠い雲間にまた浮かぶ

 内地でなんとなく歌っていた時と違い、歌う程に涙ぐんだりして来た。少尉は滋賀県の人だった、自分と同年代位に思えた、威張るところがなく兵隊達も親近感を持って接することが出来た。  
 故郷へは初めは南海派遣軍で、2回目は濠北《ごうほく》派遣軍で軍事郵便を出したが、届いたか届かなかったか返事を受け取った人は居なかったようだ。そして1-2ケ月して敵機から目立たないようにジャングルに入るようになった。

 南の方の戦況も芳しくないとの情報が伝えられる最中、4月の下旬に待つこと久しかった満州チチハルからの精鋭の照部隊一個師団がパラオ防衛のため到着した、全員が現役のバリバリの戦闘部隊なのだ、なんと頼もしいことか、彼らもまた途中無事で入港できたのだ、この大船団は敵がやっきとなって後を追っていたものだったとか。51キロ離れたアンガウルに一個聯隊《れんたい=連隊》、30キロのペリリューに二個聯隊が配属されたとかだった。

 轟沈《ごうちん=瞬時に撃ち沈められる》された赤十字船

 この事件は当時は全く報道されなかたらしい重大事件だった。満州からの照部隊の輸送を無事果たした、貨客船”xx丸”は、(残念ながら船名は忘却)昭和十九年五月初旬の出来事だったと思う。
 船体に大きな赤十字マークを書き、戦争も日増しに激しくなる中で、戦禍を逃れて日本に引き上げるための婦女子3,500名を(正確の数字は不明)乗せ、コロールを出て間もなく敵の潜水艦より轟沈されたのである。
 今盛んに騒がれている阿波丸と同様に安全航行が国際的に保証されていながら無視された大事件であった。これは周りの兵隊たちを含めての意見だったが、照部隊のパラオ入港を阻止出来なかった敵の腹いせ的の行動だったかもしれないと、これは日本軍をも含め、勝たんがためには何をしても許されるのかとの問題を含んでいる、助けを求める事も出来ずに苦しみ、そしてやりきれぬ恨みを残して亡くなられた方々の冥福《めいふく》お祈りするとともに、事実は事実としてみ、後世に伝えるのも残された者の義務だとも思いこの機会に述べさせてもらうことにした。
 日本を出る時は心の片隅には南方に行けるのは何か旅行にでも出かけるような軽い気持ちがあったようだが、これを境に戦争とは恐ろしいものだとつくづくと感じるようになった。
編集者
投稿日時: 2007-7-24 7:44
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
南十字星の下で (6) ホベン
 南十字星の下で その11 97/04/07 07:23

 ”ジャングル”へ

 うっそうと言うほどではないが、木漏れ日がさす程度の、ジャングルの空からは見えない場所に我が分隊が宿泊できそうなバラックを建て、そしてそこに落ち付くことになった。
 南方では冬の暖房のことを考えずに設営出来るから其《そ》の点は楽である、屋根は大きな天幕を掛けるだけである、外壁はビンロウ樹か椰子《やし》の葉で代用するが、蚊の出入りは自由である、蚊の媒介はデング熱だけでマラリヤが無くてよかった、デング熱は内地のはしかの様なもので皆一度は掛かった黄疸《おうだん》の様な症状になり発熱するが4,5日で治った。炊事班の小屋は後から建てた、トイレは海水の満ち退きするところに造った、自然の水洗便所だ,潮が満ちてくると魚が集まってきた、落下物をねらってくるのだ背中に斑点のある魚で兵隊は俗っぽく”クソックイ”と呼んでいた。

 敵機に見付からないように、炊事班は朝早く煮炊きをするのだ、それも食料受領のたびにその配給量は減っていくのである。兵糧などもっと本島にも備蓄して置くべきだったろうに、全く残念だった、焼残りかまたは難を逃れた僅《わず》かな食料を遅蒔き《おそまき》ながら分散して保管するようにはなったのだが、ちょっと後手だった。 個人的の煮炊きは庭先の防空壕《ぼうくうごう》の奥に造ったかまどを使ってやった、煙を避けて腹ばいでの難行だった。補給が少なくなるに連れて、流通中に何か不正があったらしい、運搬途上に抜かれる、炊事班に着いてから将校用に抜かれる,炊事班の兵隊が当然の権利として頂く、古手の班長用に横流する、これでは末端の兵隊に届くのは定量の何分の1かになってしまうのだ。

 半年もすると米は全く入らなくなった、補給路が断たれているのだから無理も無い、米が無くなってそれに替わってサツマイモか配給されるようになった、それも握りこぶし位のやつが1日に2個だった、子どもの頃祖母が胸が焼けると言っていた意味が体験を通じてやっと分かって来た。 このぐらいの量で大のおとながいきていけるとは思えない。


 開墾

 生きるための自活の闘いが始まるのである。島民の畑を取り上げるわけにもいかず、ジャングルを切り開いて開墾することになったのである、食べ物が無なり体力も衰えて来た兵隊が一抱えもある大木を切り倒して畑を作るのである、島民から借りて来たであろう鋸《のこぎり》や斧《おの》で伐採していくのである、敵機がくればジャングルに逃げ込み、出て来てはまた続ける能率は全く上がらない100坪の土地を切り開いても倒した木を適当に切ってあちこちに積んで置くので、それに場所を取られるそれに切り倒した木の抜根ができないので使える土地はせいぜい1/3位のものだ、斜面なので一坪《=約3,3平方メートル》ほどの土まんじゅうのような畑が10個所ほどできた、堆肥《たいひ=わらやごみなどの積み肥》の替わりに木の葉や草を埋めて、芋の苗を貰《もら》ってきてそれぞれ2,30本も植えたか、土地が痩《や》せており、たしか鼠《ねずみ》のシッポのような藷《いも》が取れただけだったと思う。帰還後知ったのだが生の堆肥はそれ自体が腐るのに窒素を取るから植物にはマイナスになってもプラスにはならないとかだった。
 労多くして益の無い企画だった。

 苗は植えてから収穫まで4ケ月もかかる、待っているわけにもいかない、今たべるものがほしいのだ、ジャングルの中を木の芽や、動き回るものを求めてさまよった、さつまいもの葉っぱ等はご馳走の部類だった、ジャングルの中は年中じめじめしているので、ビンロウ樹を80センチほどに切って各兵舎間の通路に敷きつめてあった。そこにひ弱そうなキノコが生える、このキノコは便所の床などにも生えるのだが、これを大事に帽子の中などに摘んできては雑炊に中にいれる。
 雑炊と言っても米の一粒も入っていないものだったが、キノコ毒とかなんとかは考えた事もなかった。最近日本農業技術協会の茸《きのこ》に関する本を読んだが世界には毒茸《どくたけ》は結構多くて時には死ぬ事もあるとか、毒があったにしても一度に食べる量が少なかったから良かったのかもしれない。

 或る時蔦(つた)かつらの様な葉っぱを大量に摘んできて大なべで何時間も茹《ゆ》であくを抜いて、食べてみたがゴワゴワしていてとても食べられしろものでは無かった。尾ろうな話だが真っ黒いウンコが出た。こんな中でも初年兵は労働を強いられるのだ、
 薪《たきぎ》拾いから風呂《ふろ》(ドラム缶)の水汲みと休む暇も無い、班長や古年兵はいろいろのルートから栄養の補給が出来るようだが、初年兵にはそんなルートは無いのだ。いわば最低の栄養で最大の労働を強いられるのだ、従って真っ先に倒れるのは初年兵である、初年兵3人の中で一人倒れれば残るものに其の負担が掛かってくるのである、たまったものではない、何時の時代も世の中は弱肉強食なのである、原隊にでもいれば後から来る新兵にバトン タッチ出来る頃なのに後が来ないのだ。


 南十字星の下で その12 97/04/08 10:56

 戦 況

 我々はペリリュウに敵が上陸して来たのはかなり早い時期だとばっかり思っていたが、後で分かったのだが海空からの砲爆撃を加えてはいたものの、敵が実際上陸を開始したのは9月の下旬頃からだったらしい、コロールに近くに小高い山があり、兵隊はこれを哨戒《しょうかい=見張り》山と呼んでいたが、そこに登りマラカル沖を見渡すと60数隻の船舶の残骸《ざんがい》のかなたに敵の大船団が見えたそうだ。
 その軍艦がペリリューに猛攻を加える傍ら《かたわら》時折本島にも艦砲射撃を仕掛けてくるのだ、これは弾丸が大きいだけ恐ろしかった、幸い我々の宿舎は島の裏側らしく直接の被害はなかったが、一方的の攻撃で当方は傍観するのみだった、夜間には砲撃の爆発音がよく聞こえた、これは破壊が目的ではなく威嚇《いかく=おどかし》が目的のものだったと思う。砲兵隊での経験から言えば、砲兵が一旦《いったん》目標をきめれば、初弾が命中しなくても、2弾、3弾と微調整で修正していけば必ず命中するようには成っているのだが、真昼の砲撃は本島にはなかった様に思う。


 びんろう樹

 ビンロウ樹 は年輪の無い南方特有の木で成長が早く葉は一見して椰子《やし》の葉に似ていて、木の芯《しん》は白い繊維を束ねたようで水分を多く含んでいて柔かくて外皮から取除き易い、そして非常に成長が早いが外皮は硬く、竹のようで割りやすく、丸太の場合は柱になり、割った場合は芯を取り除いて床などに張れ、利用度の高い木である、年数がたつとギンナンのようで真っ赤な実がたくさんなり、現地の人達はそれを口に入れて唇《くちびる》を真っ赤にして噬《か》んでいた。その時石灰を少し付けるのだそうだ、酸味を中和するのかもしれない。ビンロウ樹は倒して、これから芽になって行く部分の20センチぐらいの芯を煮て食べた、これはアクが強く旨くはないが腹の足しにはなった。

 椰 子《やし》

 椰子は南方を代表する樹である、各民家の庭先などに多く植えられ高いところに、沢山と花が咲き4ケ月ほどで食べられる、いわゆる椰子の実で貴重な食料となる。民家で子どもに頼んだら10メートメも有る木にするすると登り実を落としてくれた、すこし若いものを蛮刀で、頭部を切り落とし穴を開けてくれた、これが意外に冷えており旨く格好の飲料水となった、また中の硬い殻を割り周りに付いている白色のコプラは スプーンで削れるほど柔らかく美味《うま》かった。
 充分熟した椰子はコプラの肉が厚く堅くなりこれから椰子油を取るのである。コプラは戦前はパラオの地場産業になっていた。 植林した椰子林に行ったことがあるが、当時は管理する人も無く荒れ果てていた落下した椰子の実がゴロゴロと転がっていた、この中で芽の出かけたものを拾いそれを割ってみると中は柔らかいスポンジ状になっており島民の人はこれを椰子リンゴと呼んでいた、本当にリンゴの味がした。

 珍味だったのは隣の班の軍曹が椰子の木を一本切り倒してビンロウ樹の時と同じ要領でてっぺんの芽の芯のところを取り出し50センチほどのもの(普通の筍《たけのこ》の10本分ほど)を煮ておすそ分けして呉れたが、これはあくだししなくても旬の筍以上で、甘みがあり絶品だった。しかしこの椰子の木を切るのは実は堅く禁じられていたのであった。椰子が成長して実を付けるのには5,6年かかるのだから、そして最後に頼れる栄養源だったのだらう。

 タビオカ (キャッサバ)

 タビオカ芋は内地には無い珍しい芋である、主として澱粉《でんぷん》を取る為に植えられるのだ、桑の枝の様な棒を差しておくと半年程でかなり大きな芋になるのである。
 茹でて食べれば淡白でホクホクとして美味く腹の足しにもなる、ところがこれが畑で一年も過ぎれば青酸性を帯びてくるのである、ある兵隊が島民の畑からくすねてきたイモを食べて物すごい下痢症状になりダウンしてしまった、相当重傷だったらしい、それ以来上部から絶対タビオカ畑には近づかないようにとの指令がでた、詰まらぬ事で死にでもしたらたまらない、君子危うきに近寄らずである。
 このイモをおろし澱粉をしぼり、カスを蒸して臼《うす》でつけば餅《もち》になる、これは本物の餅と見まがうものである、実はこれで正月の雑煮を作ったのである。
編集者
投稿日時: 2007-7-24 7:46
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
南十字星の下で (7) ホベン
 南十字星の下で その13 97/04/11 09:49

 帰らなかった漁労班

 南海の魚は色さまざまで美しい、鑑賞用には良いが余り食欲はそそらなかった、鯖《さば》とか鰯《いわし》のような魚は見なかったように思う。 兵糧が底をついた中、動物質蛋白《たんぱく》の補給は欠かせなかった、上層部では漁業経験者を集め漁労班なるものを作った,主力は沖縄出身のパラオ在住の漁民だったらしかった、漁法は網でなく爆薬でとるのだ、まずパインアップル工場での空き缶にいらなくなった50キロ爆弾の黄色薬を詰め雷管をつないだもので、魚の集まりそうな場所を探し発火してそれを投げ込むのであるが、問題はそのタイミングらしかった、早すぎれば魚は逃げ、遅すぎれば危険が伴うのである、うまく行くと魚は死ぬか気絶して海底に沈んでいくらしい、そこで彼らは海に潜り指の間に何匹もの魚を挟《はさ》んだり口にくわえたりして、上がってくるのであるが命懸けの魚法である。本島に来る時、広島からの軍属とは別れたが、其《そ》の中に居たHと言う中年の威勢の良いアニイ?が漁労班のメンバーに入り活躍しているとの話は聞いた、そして或る時期を境に見えなくなったとか、自爆したに相違なかった、これが現在の社会で起きたとしたら大騒ぎになるところだが、戦地ではほんの噂《うわさ》ていどに終わってしまうのだ。

 野 鶏 (やけい)

 宿舎の近くで時を告げる鶏の声をよく聞いた、近くに民家も無いのにと不審に思っていた、たまたま或る時ゴミ捨て場にコウチン《鶏の1種類》を小柄にした様な鶏を見た、焼き鳥にちょうど良いと思い、そっと近づき捕まえようとすると、驚いたことにさっと飛び上がり高々と舞い上がりジャングルを越えて飛び去った、まさに雉《きじ》さながらだった。聞く処に依ると、民家で飼っていたのが逃げて野性化したのだと言う、ここは天敵が居ないので結構野鶏が多いのだそうだ、その後数羽の雛《ひな》を連れた雌鶏《めんどり》が路を横切る様な場面を時折見かけた、我々が素手で捕らえるにはちょっと敏捷《びんしょう》過ぎた。誰かこの鶏の雛を捕まえてきた。生後1ケ月ほどの小さいものだった、普通の鶏よりも一回り小柄だったが動きはすごく機敏だった、なんとか餌《え》付けをしようと試みたが人の与えるものは一切受け付けず間もなく死んでしまった。最近沖縄の”ヤンバルくいな”が話題になっているがそれと同類らしいものはパラオにもいて野鶏と同様、よく子連れで路を横切るのを見かけた、やはり天敵の猫やイタチが居ないから生き長らえていたのだろう。

 エスカルゴの様なもの

 体は日増しに痩《や》せ細っていく中なんとしても、動物質の蛋白《たんぱく》は取りたかった、まず目に付いたのは月夜などに、民家に通じる道路や畑のなどに這い回っているカタツムリだった、大きいものは握りこぶし程もあり、ナメクジのようで初めは気持ちが悪くて手が出せなかった、それを拾い集めて食べるようになってきた、まず拾ってきたカタツムリを川端に持っていき石でつぶし、臓物を取り除いたものを針金に突き刺し、それをとろ火で焼くのであるドロドロした粘液が出尽くし、焼きあがるとそれは親指ほどの大きさになる、これを先出の雑炊にでも入れて食べるのである。貝のような味で何とか食べられる、これが食べられるとなると皆で獲《と》るようになるから、なかなか獲れなくなってきた。戦後引き揚げてから5年もした頃パラオでは日本軍が帰還してから台湾マイマイが繁殖して農作物を荒らして其の被害は甚大であるとの記事を新聞で読んだ、我々がエスカルゴの親戚《しんせき》と思って食べていたものは、害虫の台湾マイマイだったのだ。

 動くものは皆動物質蛋白に見えた、棒を持って蛇でも蜥蜴(とかげ)でも追いかけた、島が小さいからかそれらはみな小さ目で、しかも余り捕れなかった。蛇はたしかにマムシだったと思う、よくかまれなかったものだが、骨がありスルメを噛《か》むようで美味くはなかった、蜥蜴は美味かったがそんなに沢山はいなかった。ある時用事があり闇夜《やみよ》のなかを灯《あ》かり無しで歩いた、立ち木を手探りで一歩一歩進んで行った時、ついでに蜥蜴をむんずと掴《つか》んでしまい、飛び上がらんばかりに驚いた、トカゲにしてみれば睡眠中を人間の手で押さえつけられ、さすがの冷血動物も心臓麻痺《しんぞうまひ》でもおこしたかも..........
 京都出身のF一等兵は甲種合格の現役兵だったが「わてはながむし(蛇)はよう食べんは」と言ってあまり動く物の捕獲に熱心で無かった、そればかりでもないだろうが早くになくなった。


 南十字星の下で その14 97/04/14 07:17
 
 飛行機鳥

 若い高砂族のR君が飛行機鳥の捕らえ方を教えてくれた、台湾時代から知っていたこととかで、興味深かった、この鳥は鳩《はと》ぐらいの大きさの水鳥で空を飛ぶ時は飛行機のようにきれいに飛ぶのでそう名づけられたのだろう。帰還後に調べたら ”オオミズナギドリ”のことだったらしい、指の間に膜があり水中深く潜り魚をとる事が出来る、ねぐらはジャングルンの5ー6メートルもの高さの木の洞(うろ)である、明け方に海に餌を取りに出かけるのだが指でつかまれないので飛び立つのが苦手で、一旦2ー3メートル落下する様な格好でやっと飛び立つのである。そして夕方巣にもどる時はまっすぐ自分の巣穴に戻る事ができる、そこを見定めて捕まえるのである。これは今の野鳥保護団体などの人から見ればとんでもない事と怒られるだろうが、50年以上も昔の事なので勘弁《かんべん》願いたい、梯子《はしご》などないから、つたかずら等を足がかりにして登って行って、巣穴に手を突っ込んで捕まえるのである、ギャーギャーと助けを求めるように鳴いて可哀相だったが、翼を交互に組ませて下に落とすのだ、これはそれほど大きな鳥ではないので大人数ではせいぜい汁のだしぐらいのものだった 実際とったのは2回ほどだった。
 鳥の話のついでだが、山鳩がいた、隣の中隊の下士官が上空に敵機が来る時に爆音にかこつけて小銃で撃ったらしいが爆音に鳩が逃げるし、散弾でないから失敗だったらしい。

 タバコの煙のリサイクル

 自分は入隊前から喫煙の習慣は無かったので、タバコの配給がストップしても何も困らなかったが、これがニコチン中毒的の人には大変の事だったらしい、お茶の葉っぱを吸ったり、ちり紙をまいて吸ったり、蔦(つた)の葉っぱを干して吸ったりして、見るも哀れだった、たまに誰かが本当のタバコを手にいれると、皆で回しのみするのである、5ー6人で輪になって、半分程に切ったタバコをマッチ棒に突き刺し一口づつ吸うのである、ちょっと余計に吸うとお前もう次ぎにまわせよとか言って小突かれたりするのである。輪に入れなかった兵隊が、輪の上から金魚のように、人のはいた煙をパクパクと吸うのである、煙のリサイクルである、多分炭酸ガスも一緒に吸い込むことになる。今未成年者のような若い女の子が格好つけてスパスパと煙草を吸い半分ぐらいで投げ捨てて居るのを見ると、しきりにあの頃のみじめな時代を思い出すのである、世の中いい時代になったものだと思う反面、好きな煙草も吸えないで、死んで行った兵隊も居た事に思いをいたすのである。

 水路で見かけた美女

 船舶隊だったので班に一隻のダイハツ(上陸用舟艇)《しゅうてい=小舟》があった、これは多分横浜で造った物らしかった、元小型船舶の船長だった、吉田上等兵を艇長に、漁師あがりの山本一等兵が乗り込んでいた。そして使役の時はこのダイハツでコロールまで出かけた、海の水は澄んで真っ青で下が珊瑚礁《さんごしょう》で白いから船の下を横切る魚がハッキリ見えた、今の東京横浜の汚染された海しか見たことのない人には想像も出来無い事と思う、水路を半分も覆うようなマングローブの茂みは敵機に対して格好のカムフラージになっていた、その日も水路を下りコロールまで行った、帰りに水路に差し掛かった時、一隻のカヌーが下ってきた、恥ずかしそうに胸を隠すようにして乗っていた一人の美女とすれ違った、トップレスだと思った、漕《こ》いでいたのは多分父親だったろう、カナカ族とスペイン人の混血なのかも知れない、南欧的の風貌《ふうぼう》だった。

 なんせ我々は半年以上も女性を目にする事も無い世界にいたのである、一同一瞬息をのんだ、パラオでは昭和初期まで女性は腰みのだけだったそうだが、その後ブラウス、を付けるようになったそうだ、トップレスに見えたのは、何か自分に見たいとの願望の様なものがあったのかも............とにかく目の保養にはなったが、なぜかわびしさだけが残った....
刺激が強すぎたのかも.........
編集者
投稿日時: 2007-7-24 7:48
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
南十字星の下で (8) ホベン
 南十字星の下で その15 97/04/16 07:21

 ボクリュウ.パパイヤ

 ジャングルノ中で奇妙のものを見つけて、見たところ野球のボール程の大きさで周りは茶褐色でキノコか猿の腰掛け《さるのこしかけ=木の幹に付く木質のきのこ》見たようなもので、割ってみると全体が米の粉状でザラザラしていて、余り堅くないので刃物でセンベイの様に薄く切って焼いて食べてみた、美味くはないが毒にも薬にもならないらしかったので腹のたしにと思った、ところが尾ろうの話だが便秘になり死ぬほど苦しんだ。これは一般には薬の増量ように使うとかで、やがて絶対食べないようにとの指令が出た。

 パパイヤは今ではそう珍しくない果物であるが、当時はまだ珍しかった、人間の背丈ぐらいから実が付きはじめるが、年数を経てくると、脚立《きゃたつ=踏み台》でも無いと収穫は難しくなる、色は外側はグリーンぽくて中は柿《かき》色で形状は茄子《なす》をちょっと太くした感じだが味は表現は悪いが腐った柿みたいだが食べつけると結構美味い、若いのを味噌《みそ》漬けにすると甘みがあって絶品だった。その根の部分がゴボウに似ていたので、ゴボウ代用にキンピラにして食べたが最高だった、実の中が空洞なのでちょっと脳足らんの人の代名詞に使った。

 パラオには台湾バナナの様な大きな物は少なかった、ただ島民の家で貰《もら》ったのは大きかったが糖分は無く青い内に味噌汁の実にすると薯《いも》のようにほこほくしてうまかった。普通採れるものは小ぶりのモンキーバナナと言われる物が主流で、瓶(かめ)等に入れて一日、二日地中に埋めておくと甘みが出てうまくなった、これも初めのうちは手に入ったが、その後は難しくなった。

 マングローブ

 マングローブは内地では見られない珍しい木である、海岸や海水と淡水が交わる付近に密生する潅木《かんぼく=低い木》で、枝が垂れてきて地面に着くと、そこからまた芽が出て彦生え《ひこばえ=切り倒した木の根元に出る若芽》のように新たな木になるのである、さらに古い木になると葉巻のような実が枝もたわわに垂れ下がっている、これが実ってきて泥の中に落ちて芽が出て若木が育つのである、従ってマングローブの生えているところは、まさにマングローブのジャングルの様になるのである。
 実はこの実を採集して皮をむき、茹《ゆ》でてあく抜きして、食べるのである、ちょっと固めの芋のようでなんとか食べられるが、島の古老の話に依ればスペイン人でもドイツ人でもマングローブの実を食べる様になった時はそのつど為政者は替わったとのことだった、余り良い話ではなないが、まさに歴史は繰り返すで我々もまたその例に洩《も》れなかったのである。

 マングローブのジャングルは昼間入っても蚊が多くて長くは居れない、椰子蟹《やしがに=大型のやどかり》がいるらしいが、お目にかかった事はなかった、捕獲したものは見たが、人間の手程もあるハサミは挟まれれば指の一本ぐらいは切り取れるとかだった。

 食糧の調達

 スーパーやコンビニに行けば何でも手に入り生協に頼めば何でも届けて呉れる現代社会では想像も出来ないが毎日の食糧の確保は生死に係わる重大事だった。 
 食糧の調達にもいろいろの方法があった、木の芽とかカタツムリなどは可愛い方だ、炊事場やよその貯蔵所などに忍び込んだりする者も出たりしてなかなか大変である、関西出身のインテリ一等兵がいた小柄で目が悪く全く兵隊には不向きの人だった、親は多額納税者で偉い人だったそうだが、腹の減るのは誰も同じらしく或る夜炊事場へ忍び込み捕らえられたらしいが、そんな行動に出たことに対しては同情の目もあったのか余り咎《とが》められもせずに済んだらしかった、この兵隊も時を経ずして死んでしまったのだ。

 戦友のM一等兵はよせばよいのに、海軍の食糧貯蔵所(物置程度のものかもしれないが)に忍び込んでカンパン一箱を持ち帰るところを捕まったそうだ、少なくとも20キロ程はあるだろうに、班長の機嫌とりくらいの軽い気持ちでやったものと思うが、よくも頑張ったものだ、これは相手が他の部隊だったから、ちょっと面倒らしかった。 陸軍から見ると海軍は羨望《せんぼう=うらやましい》の的だった、これは海軍の何百人に陸軍の何万人の兵員の数の差から見れば仕方が無かったかもしれない、今ここでとやかく言うのも憚《はばか》られるが給与の面でもかなりの差はあったらしい。

 水路の出口に交代で衛兵《えいへい=番兵》に立った、バラックでの仮眠の時毛布の上を鼠《ねずみ》が団体で駆け抜け行ったり来たりで運動会でもやっているようだった、余り気持ちの良いもではなかった、やはり猫とかキツネの様な天敵が居ないから鼠は多かった。
 或る時鼠を捕らえた、既に試食した兵隊の話では,雀《すずめ》のような味だとは聞いていたN一等兵と相談して試食してみようということになったが、なんだか気が進まないので一応班長にお伺いをたてたら、班長は「おまえらに捕まるような鼠は多分病気に違いないから止めておけ」と言われたので試食会はやむなく中止になった。


 南十字星の下で その16 97/04/18 06:45

 紙の爆弾

 八月過ぎた頃からと思うが、敵は ”マリアナ情報”とか ”まこと”等の紙の爆弾、つまり宣伝ビラを多量に撒《ま》きはじめた、上層部では絶対見ないようにとか、拾ったら直ちに届けよとか、の指令をだしたが結局は興味があるから隠れて見てしまうのである。上層部からの戦況についての情報らしいものは何も聞かされない中、タブロイド版《273×406センチ》に日本語で写真いりでサイパンやグアムの攻撃とか瀬戸内海の空爆とかかなり詳しく書いてあった、アメリカは日系人がかなり多かったからそれらの人が書いたであろう日本語は完璧《かんぺき》のものだった。貴方《あなた》の奥さんも子どもも貴方の帰りを待っていますとかも書いてあった。

 これも後で分かったが暗号が敵に筒抜けだったらしく、グアムやサイパンでは守備隊は上陸前に殆ど《ほとんど》敵の潜水艦にやられ守備隊は殆ど居ない状態だったらしかった。パラオの方は制海権制空権を手中にしたので心配なく飛び石的にグアムやサイパンに手を出したのだろう、そんな状態のせいでかそれらの島は案外早く玉砕したらしかった、哀れな話である。

 手に噛《か》み付いた大鰻《うなぎ》

 ある日ボートが借りられたのでN一等兵と潮の退くのを見計らって海に出た、潮の退いた後では大きな牡蠣(かき)が一杯採れた、パラオでは牡蠣を食べる習慣が無いらしく、蠣殻《かきがら》の口にドライバーを入れてこじ開ければ、よく育った牡蠣が面白いように採れた、生がきを食べる習慣も経験も無かったし、前記戦友の岩井の死因が生がきが原因のパラチブスだったので,戦果はそのまま持ち帰った。
 潮の退いたあと、一抱えも或る石を起こしてみると大鰻が丸くなって居るではないか、胴回りは10センチ以上あると思った、鉈(なた)を手にしていたので何回も頭を殴り掴《つか》もうとするのだが、ぬらぬらしていてなかなか捕まらない、てきも命懸けで5センチ程に退いた水の中を逃げ回る、追いかけてやっと捕まえたが、右手の甲に噛み付いてきた、Nが小振りのやつを捕まえて戦果はまあまあだった、噛まれた傷が深くてオールは漕《こ》げなかった。
 鰻は1メートル以上の大物で班だけでは食べきれなかったが、味の方は調理方法が蒲焼き《かばやき》とまではいかず、適切でなかったのか大味で美味くなかった、噛み付くところを見ると鰻ではなく海蛇だったのかなどとも思った。傷はオールの金具でやったことにして衛生兵に三針ほど縫ってもらった、今でも傷痕《きずあと》を見るたびに鰻の事を思い出す。

 手作りのサンダル

 ”衣食足って礼節を知る”と言うが食は言うに及ばず衣もおして知るべしだった、衣類は水をとうしても、なんとか間に合ったが困ったのは靴だった、 パラオに来て半年以上経っても、身の回り品の補給は全く無いのだ、軍靴《ぐんか》は戦闘用に取って置くようにとのことで、裸足《はだし》で歩くわけにもいかず、考え出されたのは、自転車のタイヤを小判型に切り抜いてパラシュートの紐《ひも》で緒をすげて、手作りのサンダルにして履いた、考えれば何とかなるものだ。だがジメジメしたジャングル生活は足が乾く暇も無く、この時からの水虫は五十数年の付き合いとなるのだ。ロビンソン.クルーソー的の原始生活は一見ロマンチック風だが、戦争という黒い陰の下では、そんな生易しいものではなかった。

 トト食わぬ顔

 魚は我々にとって欠かせない栄養源だった、中隊の中から交代で受領に行くことになっていた、たまたま海岸にある漁労班まで魚受領の使役が回ってきた、N一等兵と一緒に朝早く背負いこ(しょいこ)《=背負って荷物を運ぶための木の枠》を担ぎ出かけた、人どうりの少ない山道を10キロぐらい歩いて行くのである。漁労班の或る場所につき、各20匹くらいづつを受領して缶に入れて背負って帰るのだった、若いと言っても体力の衰えている身にとっては山道を戻ってくるのも一仕事だった、帰路山道に差しかかてから二人は話しあって一匹づつ頂いて食べながら帰ろうと言う事に決めたのだ、お頭つきの刺し身と思えばと意見は一致した。悪いとは思ったが滅多に無いチャンスでもあった、中程度のものを取り出してハーモニカみたいに横にくわえて、頭は避けて噛み付き生臭いのもものかわ歩きながら夢中で食べた、汁が指の間をつたってくる、そこえ大きな真っ黒い蝿《はえ》がたかり追っても追っても後からついてくる。骨はジャングルの中のヤブに捨てた、口の周りと手は良く拭《ふ》いて中隊にはトト食わぬ顔で帰ったのである。
 魚受領は初めで最後だった。
編集者
投稿日時: 2007-7-24 7:49
登録日: 2004-2-3
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南十字星の下で (9) ホベン
 南十字星の下で その17 97/04/20 07:08

 農 耕 班

 食糧がどうしても足りないので上層部の計らいで既存の農民の畑を借りて薩摩藷《さつまいも》の栽培にかかったのである。パラオでは三毛作《さんもうさく=1年間に3回農作物を収穫する》出来るのである、苗をおこす必要も無く、ただ芽先を挿《さ》しておくだけでいいのだ、四ケ月畑におけば最高の収穫があるのだが、3ケ月ぐらいから野荒らし《作物を盗む人》にやられるのである、聞くところによると、雨の降る夜フンドシ一本で藷《いも》を盗みに出かけたのが居たとか。やむを得ず実包《じっぽう=実弾》をこめた歩哨《ほしょう=見張り》を立たせるのであるが、いっこうに野荒らしは減らない、つまり歩哨が職権乱用で藷を掘るらしいのである、最後には歩哨を監視する為に将校が見回るようになったとか、何と嘆かわしいことか。

 水

 パラオはよく雨の多いところである、日本のように長雨とか豪雨はないが、にわか雨的のものは毎日のように降る、さっときてはすっと上がる。汗をかいたときなど格好のシャワーの代用である、これでさっぱりする。
水は豊富であるがジャングル内には上下水道が無い井戸は何処《どこ》を掘っても水は出るのであるが、清水と汚水が隣接し過ぎているのである、消毒用のカルキも無いが、水位が高いからしゃがんでいても水は汲《く》め、洗濯やドラムカン風呂の水汲みには便利ではあるが衛生面から言うと寒けがする程のものであった、一旦悪疫《あくえき=悪性の流行病》でも流行《はや》れば相当の被害が出たと思う。そこでこの天水《=雨水》は貴重の飲料水となるのである、大事にドラム缶に溜《た》めておくのである。ところが蚊の多いところなのでどうしてもボウフラがわいてくる。古典落語に同じ話があったが、決してそこからの盗用したのではないが、使う時は缶をトントンと叩《たた》いてはボウフラが一旦《いったん》沈む時にすかさずうわ水を汲むのである、もちろん煮沸して飲むのだが。

 メチール.アルコール

 コロール島を後にしてからアルコールには2,3度しかお目にかからなかった。自分など若かったし、酒は飲めたが無くてはいられない方でもなかったから、平気だったが、左利き《=酒飲み》の人は苦労したらしい、まず皆が目をつけたのは携帯燃料だった、これは蝋(ろう)にメチール.アルコールを沁《し》み込ませたもので、これを乾パンの袋に入れてこすと僅《わず》かなアルコールが残る、これをお茶で割って飲むのである、ろう臭いがなんとか飲める。これが一個や二個ぐらいならそれほど害にはならないだろうが、航空隊の燃料用のものをくすねてきて飲み失明した者が出たとのことだった。 その後上層部からそのような事のないようにとの厳重なお達しが出た。

 機銃掃射

 パラオ大空襲の後は毎日のように敵機は来襲した、爆撃機の場合は大体きまった時間帯に来る、我々はこれを定期便と呼んでいた、多分オーストラリヤあたりから来たのであろう、まれに偵察機の双胴機これは文字通り胴体が二つ或るボートシコルスキーが来た。我々の動きを探るためだろう、爆撃機の場合高射砲の弾幕が散発的に後を追っていた。一番恐いのはやはり機銃掃射だった、畑の真ん中に居てジャングルの上から急に敵機が出て来たような場合、慌てないで恐いのだがじっとして動かない様にしていた、これは上からの指示だった、じっとしていれば石ころぐらいに見えるのだそうだ、下手に動くと一回りしてきて機銃掃射されるのである。農耕用の牛や農夫がやられた話はよく聞いた、機銃弾が当たる50メートル位の範囲に居ると自分がやられた様な気になる。こちらが全くの無抵抗だからジャングルすれすれでやって来る、時には首に赤いマフラーなど巻いて顔まではっきり見えたりするのである。25ミリ機銃《=機関銃》だから当たれば運がよくて足一本悪ければまず一巻の終わりである。

 敵さんは食後の散歩か、ウサギ狩りぐらいの軽い気持ちでやっているのだろうが、こちらにすれば命懸けなのだった。後日自分が独工《どっこう=独立工兵隊》へ転属してから和歌山のF一等兵がやられ足を一本無くしたと聞いた。夜は照明弾(落下傘の付いたもの)など落としては異常が無いか探っているみたいだった。


編集者
投稿日時: 2007-7-25 7:54
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南十字星の下で (10) ホベン
 
 南十字星の下で その19 97/04/23 08:03

 正 月

 正月は蚊帳《かや》の中でタビオカの餅《もち》での雑煮を食べた、もちろん酒ぬきで、そして正月用の特配でこの年最初で最後の米の配給があった、一人当たり ”盃《さかずき》”一杯ほどのものだた。米粒が数えられるほどのビンロウジュ入りの雑炊のようにして食べた。釜《かま》を洗った時のゆすぎ水みたいだった。そして階級制度には否定的だったからつい忘れていたが、暁部隊で入隊一年目頃人並みに一等兵への昇進はあったが、何の感慨もなかった。

 正月そうそうから敵の上陸に備えて、海岸線に戦車壕(ごう)を掘るような話が出たがその後立ち消えになった、今のような土木機械も無い時代に、体がかなり衰弱している兵隊には無理の話だったのだ、スコップとモッコ担ぎで若し強行していたならかなりの数の犠牲者が出ていたに違いなかった。土木機械と言えば”水戸丸”でパラオに来る時船倉にアリューシャンでの捕獲品のスクレーパーと言う飛行場などで使う巨大な地ならし機が積んであった、なんとタイヤが我々の背丈以上あった口には出せなかったが、モッコ対スクレーパーでは”蟷螂《とうろう=かまきり》の斧《おの》”でこの戦争は勝ち目はないものと思った、精神面だけでは戦争は出来ないのである。万一あちらさんが上陸してきた時は敵の戦車のキャタビラーに爆薬を仕掛ける特攻隊の様な話も出たが、どのようにして爆薬を調達するか、いかようにして戦車に接近するかなどの結論は出なかったらしい、やがて立ち消えとなった。

 道に外れた藷《いも》の受領

 食糧の藷の受領の使役が回ってきた、中隊から一人ずつと引率の仮名R上等兵の3名で出かけた。召集兵のR上等兵は東京でお巡りさんだったとか、往路に事もなげに今日は腹一杯食べさせてやるからな、と理解に苦しむことを口走っていた、藷を受領しから背負板(しょいこ)につけてジャングルに差し掛かると彼は物慣れたしぐさで我々を道から外れた水の或る場所に連れて行った、そして薪を集めて来いと言った、つまり藷を茹《ゆ》でるのである、一瞬ためらったがそれに従った、ジャングルにはよく枯れた古木が有りこれは全く煙がでないで燃やす事が出来る、携帯食用の二個の飯盒に藷を入れて茹でるのであるが、茹で上がるまで誰かに見られるのではないかと気が気ではなかったが、三人で分けて食べた三個か四個くらいのものだったと思う、腹は一杯になったが後味の悪いものだった。

 いつものルートに戻り数分したところで、なんと乗馬姿の部隊長にパッタリと出会った、後ろめたさの覚めやらぬ直後だったので心臓は高鳴った、R上等兵の号令で敬礼すると、 ”ご苦労、ご苦労”と言って同行の当番兵に命じて図のうからタバコを一本ずつ取り出してくれた。班に帰って罪滅ぼしの気持ちで一本のタバコを吸ってもらった、この使役もはじめで最後だった。

 逆 上 陸 (一)

 本島からペリリュウへの逆上陸は再三行われたらしいが、最初の時は250名くらいが闇夜《やみよ》にダイハツ《=エンジン(の舟)》で出撃してこの時は成功して本隊と合流できたものの次回はペ島司令官の味方の劣勢の中に本島からの逆上陸は非常に危険であるからやめてほしいとの申込みをしたらしいがパラオの参謀長は1,300名の派遣を決定し敢行したが、この時は敵の警戒態勢が強化されて集中攻撃を受けて、1,000名以上が水際で葬られたとか、悲しい極みである。そしてペ島の11月末の玉砕後は逆上陸の話は一時途絶えたのだが、

 6月の中頃か、”月明を利用してペリリュウ島に逆上陸せよ”との寝耳に水の命令が出たとかで、我が隊はかなりの緊張の度合いが増してきたようだった。船は例のダイハツを積んだ上陸用舟艇だ、当時の自動車のエンジンは実にうるさかった、音波探知器ならずとも、人間の耳でかなり遠くからでも充分探知出来るほどのものだった。武器と言えば各班に機関砲が一台づつは有った、一度古年兵が分解して見せてくれたが、訓練もなにもした事はなかった。古い兵隊の話に依ればこれは役立たずの砲で、ノモンハン《中国東北部の戦地》では何の役にも立た無かったものを、南方に押し付けたものだとの事だった、なんせ故障が多くて使い物にはならなかったらしかった。


 南十字星の下で その20 97/04/25 07:13)

 逆 上 陸 (二)

 自分が工兵隊に配属になったのは出身が砲兵だったのかもしれない、幸か不幸か月夜の晩がなかなか無く、また召集の中隊長の中尉殿が腹痛で寝込んでしまい、だめで、一,二回そんな事が繰り返されているうちに、終戦になってしまったのである。もしこれが強行されていたなら、我々も恐らくペリリュー島の水際で全滅していたであろう。今となってはどうして中隊長の中尉殿が腹痛になったのか、知る由も無いが、考えられるのは極度の緊張から来る神経性胃炎などだったのかもしれないし、あるいは音波探知器などを駆使され、たとえ強行しても全滅するのは眼にみえていたので、数百人の命を救うために一芝居うってくれたのかも知れないし、もしくはもっと上層部から中止の指令があったのか、我々将棋《しょうぎ》のこまの下部の兵隊には何も知らされない永久の謎だがとにかく我々は助かったのである。

 ペリリュウから泳ぎ帰った兵隊

 話は少しさかのぼるが、本島からの逆上陸を試み敵の猛攻撃に合い水際で壊滅的な被害を受けた時だったと思うが、一人の兵隊が島伝いに30キロをコロール島まで泳ぎ返ってきたのだ。彼は隣の中隊の召集兵で関東の某県出身で漁師あがりで泳ぎは得意だったらしい、一度だけ何かで会った覚えはあった、自分より一回りは年上の様だった。これが中隊で問題に為《な》ってきていたらしい、つまり敵前逃亡罪とか抗命罪とか、官物遺棄罪とかに当たるらしい、解釈は泳いで帰れるだけの気力があったらなぜ敵陣に向かって行かなかったかと言う事らしかった。

 彼は隔離された処での生活を余儀なくされていたらしかった、たまたまN班長と其の友人の隣の中隊の下士官とのひそひそ話の場に居合わせた、それは彼を何とかして処刑しなければいけないのだが、いつ何処でいかようにしての話だった、当時の軍の掟《おきて》とすればやむを得ない事だったのかもしれないのだが、なんともやりきれない話だった、その後どうなったか過去形での話はついに聞く機会はなかった、終戦までそれが延び延びになって生き長らえていて呉れたら、助かったかも知れないのにと思うのは私一人ではないだろうが、帰還できなかった確立の方が高かったと思う。

 終戦前後

 体は極度に衰弱してきていたが何とかして生きて帰りたかった。精神力だけが、それを可能にしてくれたと思う、現役で軍に入り自分よりは体がしっかりしていた者が、早く亡くなったりしているのだ、もうだめだと思えば、人間は駄目になるのである、絶対生きてかえるのだという執念が生きて帰らせてくれたのだと思う、中隊長が全員を集めて重大発表をした、忘れもしない8月15日戦争は終わったのだ、発表は多分翌日だったと思う、武装解除が始まった武器らしいものは全部50キロ爆弾で出来た爆撃の穴に埋めた、防毒面も秘密が洩《も》れないようにとの気配りから同様にして穴に埋めた、今更秘密でもあるまいに。

 真っ暗闇《まっくらやみ》のトンネルに入りあっちに曲がりこっちに曲がりで手探りで出口を見出そうとしてあえいでいた日々だったが何も見えなかった、それがやっとのこと彼方《かなた》に曙光《しょこう=夜明けの光》が見えてきたのである、張り詰めていた気持ちが一気に緩んできた、それがいけなかったのか、体調が一度に崩れてきたのである。診療所通いが始まり、ついに病に倒れてのである。戦争が終わったからといって食糧事情が急に好転するものでも無い、米軍給与のビスケケットが一日に2,3枚ばかり出ただけである、野戦病院ではなくて診療所の一室に横たわる身となったのである。

 これは帰還後知ったのであるが、胃腸病で苦しんでいる人たちが良く参加するらしい、断食会なるものが有るが、断食を数週間やると胃の中は空になり、最後に胃壁を削り落とした宿便と言うタール状の便が出るそうだが、我々は巧まずしてその様な経験ができたのである。先客は5,6人いたまだ若い兵隊ばかりなのだが女性に関する話は全く出ず故郷に帰ってから食べたい食い物の話ばかりだった、一人コック上がりの兵隊がいていろいろの料理法など聞きノートに取ったりした、一月程ここに居たものと思う。
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