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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ
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編集者
投稿日時: 2012-11-21 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 21

 終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴 その2

 2、自給自足

 自給自足を実践するべく、ご多分に漏れず、此処でも農耕は盛んであった。まくわうり、じやがいも、玉ねぎ、大根、トマト等々、見事な収穫をあげた。肥沃な原野が殆ど手づかずの儘の姿で限りなく続いている。さすがに満州である。

 兵舎の裏側の鶏舎からは毎日多くの鶏卵を得ていた。古年次兵の中には、殆ど専属のように農耕や養鶏に専念する者が各中隊にいた。

 私も業間に、初年兵を引率してよく農耕作業に出た。その日も、例によって作業に精出していた。ふと見ると、広い畑の端に渡邊連隊長が単身で姿を現された。
 状況報告する私の顔を、あの温かい笑顔で見っめながら「井上、君は満州の地が合っているようだナ。体に気を付けて、しっかり頑張ってくれよ」と声を掛けられた。紅潮した私の顔には、青春のシンボルが存在を誇示するように賑やかに跛雇していた。日を経ずして連隊長は、ハルピン方面の某部隊に転任された。


 3、満を持して

 来るべき日に備えて、日々の教育訓練も熾烈を極めた。
 屯営から約6 km東南の自土山(パイトザン)を目指す戦闘訓練も厳しいものであった。斥候長となり過酷な訓練に耐えた。夜間訓練も実戦的なものであった。
 訓練は日々厳しさを増しつつ過ぎて行く。

 20年7月頃、中隊の初年兵を主体とした対向通信演習が行われた。トルチハ西北15 km、十八里站に出先通信所を開設することになり、私も桑原少尉と共に出先に付いた。新設連隊では、本物の送受信が出来る者は殆どいなかった。連隊には、我が少通出身者は、8期の池田軍曹、9期の山岡、多羅尾軍曹、10期3名と私達11期7名(うち2名は通化へ分遣)といった状況である。
 15時、通信所開設、初年兵たちの見守る中、私が電鍵をとった。広大な大陸を飛び交う電波が受話器に飛び込んだ。その中へ対所の電波を掴んだとき、皆の中に驚異と安堵の声が流れた。交信は成功した。幸せであった。

 夕方、状況が一段落した時、私は緊張をほぐすために500m程離れた町外れの忠霊塔を訪ねた。沖、横川両勇士のものである。特殊任務を担って敵中深く潜入し粒々辛苦、よくその任を果たしたが、終に発覚した終焉の地である。搭は小さな集落には不釣り合いなもので、高さ30m余、頂上は一辺10mほどの、芝生に覆われた土盛りの上に搭は建っていた。あの赤い大きな太陽が、正に地平の彼方に沈まんとし、逆光の中に聳える塔は実に堂々たるもので、当局の力の入れようが偲ばれた。

 ふと横笛が流れてきた。哀調を帯びたメロデーは、やけに私を印象づけるものであった。現地の「別れの曲」である。やがて現れた若い男女は、ゆっくりと塔への長い石段を登り始めた。時局柄、不似合いな情景であったが、時恰も根こそぎ動員の行われた頃である。満人であろう彼らにも何らかの「別れ」の場であったかも知れない。私は頂上へ上がるのを断念して上がり口の建設趣意書を読み終えて、その場で深々と頭を下げた。黄昏の中の、沖、横川烈士の塔は、私に強い強い黙示を垂れたのである。

 夜間の演習では、主に混信分離に力点を置いた。無数の電波の中から相手電波を探し出す動作に初年兵たちは眼を輝かせながら取り組み複雑な電波の世界を体験したのであった。満を持してその秋に備えなければならない。

  烈々の士気 見よ歩武を 野行き山行き土に臥し
  寒熱何ぞ死を越えて 挺身血湧く真男児 風雲に侍す関東軍
編集者
投稿日時: 2012-11-22 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 22

 終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴 その3

 4、終焉への旅立ち

 8月9日早朝、突如、ソ連が越境侵入を開始した。下達される状況は悲観的なものばかりである。

 8月13日,連隊挙げての転出命令が下達された。日夜の演練を共にし、万全の整備をしてきた通信機材等は、日暮までに何とかトラックヘ積載を完了した。
 絶対量が不足するトラックには限度を超えて積めるだけは積んだ。
 動くかどうか保証の限りではなかったが、やがて派手な排気ガスが怒りを表したようにして、先に出発したのであった。
 兵員の出発も近いであろう。それを予期して夕食もそこそこに、各自身辺の整理に余念がなかった。
 どさくさに紛れて散乱した雑物を片付けさせた。武人としての当然のたしなみだろう。
 国境辺りで死闘が繰り広げられている筈である。
 午後10時出発の命令がなされた。予期していたとはいえ、重苦しい緊張の波が走った。
 その後の運命を誰が予測できたであろうか。・・・
 知らず将兵は粛々と終焉への歩みを進めた。軍靴の音のみが暗黒の曠野に婉挺と響くのみであった。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 そして、終戦後、氏は、進駐してきたソ連軍に抑留され、24年7月の帰国まで、シベリアでの過酷な生活を強いられますが、戦後、その模様を、次のように綴っています。
編集者
投稿日時: 2012-11-23 6:14
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 23

 終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴 その4

 
 シベリア回顧

 入所して最初のシベリアの冬は想像以上に我々にとって大敵であった。死の世界を思わせる酷寒の大自然は一寸の容赦もなく我々の前に立ちふさがり、冷酷そのものである。日本人の多くが空腹と寒さにあえなくこの世を去ったのもむべなるかなである。

 最初の冬は、大隊の大多数が伐採作業に従事した。直径lmもある唐松やモミの原始林で、二人用の鋸とタポール(手斧)で赤軍やソ連人が使うペーチカ用の薪を作る作業は大変な重労働である。寒さのため可能な限りのものを身に着けているから余計身体は自由に動かせない。

 その伐採場の往復路は凍りっいた雪。道らしい道はない。
 そして或る日、その往復路の途中に一っの変化が現れたのである。その後、毎日毎日4,50名の作業員が、長さ2m、幅1.5m、深さ1.5m位の穴を掘り続けているのだ。そして、その穴は、一方の端から一晩毎にどんどん跡形なく埋められている。・・。

 或る朝、一人が指さして「あれは何だ」と叫んだ。一同が眼を遣ると、いつも 穴を掘る辺りの雪の上に黄色いものが山積みしてある。丁度ハニワの人形を無造作に積み上げたようだ。近づいて行くうちに、一瞬背筋が硬直した。同胞の死体である.. ! テルマ病院で亡くなった死体は丸裸にされ、冷凍人間のようにカチカチに凍ったままで夜のうちにソ連人囚人がトラックで運び、毎夜埋められていたのが、たまたまその日、穴が不足したのか我々の眼にとまってしまった。誰一人口きく者もなく重い足を伐採場に運ぶ。以来数回黄色の山を見たことがある。

 このように、テルマ北部に眠る多くの同胞は、名も知られず、地下1.5m、万年氷の下に今もなお静かに横たわっていることだろう!!
 ハバロスクとコムソモリスクの間の原生林の中にある村落テルマの収容所。この辺りの寒さは世界屈指と間く。

 抑留2年目の厳冬。私は小隊員の半数14名を引率して夜間作業に出た。厳冬の然も夜の冷たさは表現の仕様がない。飯金の蓋で雪を溶かした水を飲めば唇に蓋が凍りつき、吐く息は眉に氷の玉を作る。焚火の煙は凍ったように淀んで動かず落ちてきた鼻水は氷の糸を引く。そんな時、偶々私は単身ソ連人の処に用事で行き、隊員の待っところへ引き返す途中、貴重な、将に貴重な拾い物をしたのである。

 それは、雪路に累々とこばれていたジヤガイモである。ソ連では軍隊でも囚人も、抑留者も皆その日の食糧を配給所に取りに行く。夏は馬車で、冬は橇で。その橇がこぼしたものと思われた。辺りを見ても誰もいない。私はかってない敏捷さで残らずシユーバー(毛皮のオーバー)のポケっトにねじ込んだ。連絡に行った甲斐があった。足は軽い。隊員が焼いて食べる顔が日の前にちらつく。
 程なく私は焚火の中にジャガイモを投げ込んだ。隊員は狂喜した。ジヤガイモーつがどれ程の貴重品か、それは、えんどう豆一粒を凍りついた雪路から鍬で掘り出して食べ、蛇を食べ、蛙を食べた抑留者のみが知ることかも知れない。皆は焼けるのを待った。私は得意であった・・・。

 だが、その喜びも得意も、数分後にS上等兵の言葉であっけなく覆された。「小隊長!これはほんとの焼けくそだ」私は泣きながら笑った。隊員達は転げながら笑った。
 貴重な品は馬糞だったのだ。シベリアのジャガイモは黒い土がついてカチカチ.. に凍り、馬糞もカチカチに凍る。昼間でも一寸見分けにくい。

 氷のきしむ原生林の夜空に一段と高く隊員の爆笑が響いた。

 (むらまつ誌より転載)


 注 井上氏は広島県出身 20年3月卒業、満州電信第18連隊(チチハル西方)派遣、終戦後、シベリア抑留、24年7月復員

編集者
投稿日時: 2012-11-24 5:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 24

 慰霊碑等の建立

 戦後、社会が落ち着きを取り戻すとともに、全国各地で、こうして散華した戦友を悼み、その事績を顕彰したいとの機運が高まり、昭和45年8月15日、村松で「戦後20周年記念の集い」が催され、5年後を目指して東京、村松両校跡に「戦没者慰霊碑」と「記念碑」を建立することを申し合わせました。

 しかし、事態はそう安易には進捗せず、東京少通校跡は既に校舎は総て取り壊され、文教住宅地区に面目を一新しており、其処にこの種の施設を建設することは無理だと判断され、結果的に此処村松(村松公園内)に、45年10月、慰霊碑が建立されました。因みに、慰霊碑正面の「慰霊碑」の文字は高木正賞村松少通校長、裏面の「建立趣旨」は渡邊利興全国少通連合会長の筆になるものです。

 その後、石灯籠の増設と建立文碑の設置を行い現容に至りました。なお、碑内に納められている戦没者名簿は永久保存に耐える金属板に刻字されています。

 また、上記の「記念碑」についても平成16年村松町当局のご厚意により学校正門及び歩哨舎の復元が実現し、更に同23年、東京校跡も東村山市によって同市の文化財に指定され、同地にこの旨を記した銘板が立てられました。

 なお、少年通信兵の慰霊碑は、この村松碑のほか、九州・平戸島の鯛の鼻自然公園に「安らかに眠り給へ 陸軍少年通信兵の霊」と記した石碑(平戸島碑)が建立されており、現在も市丸徹男氏(村松少通校・11期生)を中心とする九州地区少通関係者並びに地元ボランテア団体によって保守管理が行われ、毎年、有志による慰霊祭が営まれています。

 最後に、本誌が「慰霊碑を守る会」ご関係の方々に読まれることを考慮して、では、当時、村松少通校ではどんな教育が為され、これを町民の方々が如何迎えて下さったかを、同校の精神的主柱であった高木校長のご人格に触れた岡本勝造氏(村松少通校11期生)の思い出の文章と、偶々、私(大口)が入手した町民の方に宛てた少通生の感謝の手紙を紹介させて頂きます。

編集者
投稿日時: 2012-11-25 6:16
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 25

 村松少通校・高木校長を偲んで  岡本勝造 その1

 昭和60年のある日、飯田橋のホテル・エドモンドに於いて、教え子の藤田真之助東京逓信病院名誉院長が音頭をとり、恩師・高木正賞先生を囲んで一席が設けられた。それは今回が初めてではなく、戦後間もなく高木先生を囲み、新橋の寿司屋で一席が設けられ、その後も何回か謝恩の会が開かれていたようだ。

 この集いというのは、福島県の旧制白河中学の同窓生の集いであり、其処に恩師として招待される高木先生は異色の存在であった。

 それは、大正末期から昭和の初頭にかけて、軍縮のあおりを受けて師団の数が削減され、多数の少壮将校が職を失う危機にさらされ、窮余の策として配属将校という制度が設けられ、高木中尉も大正14年、同校に赴任したのである。

 当時の風潮として、一般教科の先生ではなく、武骨で兎角敬遠されがちな配属将校の教官が、恩師として敬慕されたのは何故であろうか。軍服を着て長剣を帯びて生徒達を指導されたのにも拘わらず、温情を以て接しられたからである。腕白小僧たちを叱られる時も、慈悲深い気持ちが脈々と伝わってきたからだという。

 先生は軍人というよりも立派な教育者としての資質を備えられていたのだと教え子達は言う。そして辞任の時の挨拶が真に簡明、「気を付けて前へ進め」だったという。ここに培われた生徒と恩師の強い絆がしっかりと結ばれ、半世紀もの永い間、暖かい交流が続けられたのだと思う。

 その後の軍歴は殆ど副官勤務が多く、今村均、山下奉文40旅団長、川岸、深沢20師団長、また関東軍高級副官として植田、梅津関東軍司令官に仕え、満州事変の折は赫々たる武勲を収めた功により賞詞を受ける第2師団長・多門二郎中将に随行して官中に参内し、天皇陛下に拝謁を仰せつかり、師団長が軍状を奏上申し上げたとの事であるが、面目躍如として副官名利に尽きたものと思われた。

 その後、秋田編成の歩兵223連隊長として出陣し、北支河南省の戦闘に於いて左大腿部貫通銃創の重傷を受けながら、聯隊本部に下がった後も敢然として戦闘指揮をとられたという。其の責任感と剛勇果断の行動が更なる信望を得たという。

 野戦病院を経てやがて内地の病院に後送され、1年に亘る療養生活の後、昭和18年11月、村松に新設された村松陸軍少年通信兵学校(村松少通校)に赴任され私達少年兵の教育に情熱を傾けられた。

 生徒を直接指導される立場におられなかったが、その教育の理念は、旧制白河中学の時と同様、秋霜烈日の厳しさの中に、燦々たる陽光のような温情と慈父の如き寛容さをもって薫陶され、「人を殴って教育するのは真の教育ではない」と申され、私的制裁を固く禁じられた。

 やがて敗色の濃くなった南方戦線に向かって繰上げ卒業して征途についた200名を超す少年兵が五島列島沖、済州島沖において、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて輸送船と共に水漬く屍となられたが、この訃報に接した高木校長は、悲歎にくれ苦悶の日々を過ごされ、「軍の命令とは言え、年端も行かない子供たちを、繰上げ卒業させてまで出陣させたくはなかった」と述懐しておられたという。

 戦後、有志相図り、村松公園の台地に戦没少通兵の慰霊碑を建立したが、高木校長は建立基金と慰霊祭費に多額の浄財を寄せられ、5年に1度の慰霊祭には、はるばる九州の地より奥様同伴で臨席され、年若くして国難に殉じられた少年兵の御霊に、追悼の祈りを捧げられた。そして、ご自宅に於いては朝な夕なに少通兵のブロンズ像に御霊の冥福を祈って居られたという。

 復員後は山畑を拓き、邸に接する畠で野菜を栽培し、鶏を飼って余生を送っておられたが、昭和40年代は少年の人格形成に最も適した方と目された校長は、請われて出身地の星野村矢部村組合立高校寮の舎監として、少年と起居を共にされたが、責任観念や奉仕的精神の欠如した現代気質の少年の啓発指導には随分と苦労されたようである。
編集者
投稿日時: 2012-11-26 7:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 26

 村松少通校・高木校長を偲んで  岡本勝造 その2

 95歳頃までは、自衛隊父兄会、同協力会、郷友会、軍恩会等、旧関係部隊の要職に就き、殆ど自転車を利用しての活動であったという。

 高木校長が99歳の誕生日を迎えるに当たり、期せずして、白寿の祝賀会を催そうとの提案がなされ、募金を行った処、嘗ての生徒や学校関係者から多額の寄付が寄せられ、平成4年5月、筑後市船小屋温泉のホテルに於いて、関係者.. 46名出席のもと盛大に長寿をお祝い申し上げた。そして、校長の肖像額(少年戦車兵出身の画伯にお願いしたもの)と奥様への贈り物である高砂の置物をご自宅までお届した処、既に床の間には旧制白河中学校同窓会、秋田雪部隊親交会(歩兵223連隊戦友会)関係団体等からお祝い品と感謝状が飾られており、校長の人柄が偲ばれた。

 更にその後、103歳の誕生日が近づいた頃、病床に伏して居られるとの報に、私は有志4名と共に入院先の八乙女市の病院にお見舞いに駆け付けたが、この時、高木校長は私達と握手を交わされて、力強く握ることで健在振りを誇示されようとされたらしいが、大阪の仲間は軽く握ったらしく、「君ずるいよ、握手はしっかり握るものだよ」と言って微笑んで居られたが、この面会が今生の別れとなってしまった。

 薬石看護の効無く103歳の誕生日を待たずに、幽明界を異にされてしまったが、息を引き取られる直前、「将校、下士官集合、天皇陛下万歳」と言い残し昇天されたとの事である。

 軍民の多くの教え子や、旧軍関係で組織された団体の方々や、地域の人達から尊敬され信頼され、親しまれた高木校長の生涯は、武人であると同時に、卓越した教育者であり、乃木将軍にも匹敵する高潔な人柄であったと思う。

 謹んで、ご冥福をお祈りする次第である。(「青春の絆」誌より転載.. )


 注 因みに、高木校長は、繰上げ卒業性を送るに当たり、「若武者を戦の庭に先立てて汐路の無事をただ祈るかな」と詠まれました。
 また、戦後慰霊の発端になった村松の「戦後20年の集い」に際しては、戦没少年兵の死を悼み、次の献詠を遺しておられます。

 異境に骨を晒す十有余年 鬼哭嗽々誰か憐れまざらんや
 勇躍かって上る遠征の旅 無言いま還る故郷の天
 靖国の宮に御霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に
 戦争の末路何ぞ悲壮なる 涙は送り胸は迫る英霊の前..
編集者
投稿日時: 2012-11-27 5:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 27

 村松町民と少通生の心の交流 その1

 それは、昨秋、「守る会」が催してくれた戦没少通兵の慰霊祭当日のことです。
 式典を終え、直会(なおらい・祭事の後に催す宴会のこと)に移るべく席を立とうとした私は、ふと、一人の中年のご婦人に呼び止められました。
 「私は、波多ハナの娘で・・・」一一一それだけで、私には直感出来ました。何故なら波多ハナ様一一一この方は先年私共が冊子「村松の庭訓を胸に」を刊行した時、真っ先にお手紙を下さった方で、私自身、その後如何して居られるか気懸りになっていたからです。

 そしてその際、ご婦人(ハナ様のご長女で初江様)が云われるのには、「昨年母が亡くなって、その遺品を整理していたところ、一つの文箱の中に、冊子の刊行を報じた新聞記事と一緒に古びた手紙が大事そうに収めてあるのが見っかった。開けてみると、それは昔、私共一家が親しくしていた元少通生からの手紙であり、それだけに、このまま処分してしまうのは忍びず、また一方、この手紙はあの時代を写した一つの資料になりそうな気がしたので、お預けするから、宜しく検討して判断して欲しい」とのことでした。

 其処で私は、帰宅後じっくり読ませて頂きましたが、其処からは、先の太平洋戦争下の村松に於ける少通生の一面と、これを温かく迎えて下さった住民のお宅との心の交流の様子が極めて具体的に読み取ることが出来、正に数少ない貴重な資料だと判断しました。

 ついては、先ず、以下に、この発端になった、波多ハナ様から私が頂いた手紙と、35年振りに念願の再会を果たされた成川茂男氏の波多ハナ様に宛てた感謝の手紙を転載させて頂きます。


 ○波多ハナ様より私(大口)の許へ(平成21年1月9日付)

 前略突然のお手紙をお許しください。12月27日付・新潟日報の「少年兵の悲劇後世に」を読みました。そして、今日1月9日、村松郷土資料館で冊子を頂きました。少年兵の思い出が私にあり、懐かしさの余リペンを執りました。

 遠い昔、私が嫁いできたばかりの頃、昭和18年の暮れだったか、19年の2,3月頃だったのか、義父が屋根の雪下ろしをしていました。其処に通りかかった人が「お爺さん、大変だね」と声を掛けました。義父が「そう思ったら手伝ってくれ」と言ったら「よしきた」と言って手伝ってくれました。その人が「通信兵」だったのです。北海道出身で成川茂男さんです。

 成川さんは、その後、もう一人、通信兵の人を連れて2人で来るようになりました。オオバさんという人です。私の家は農家だったので、お礼に食事をしてもらいました。喜んでいっぱい食べて行かれました。生まれたばかりの私の長女をあやしたりしてくれました。その後、二人が戦地に向かわれ、船が沈んだことを知りました。お二人は戦死したに違いないと思っておりました。

 55年の秋だったか、村松の警察から電話があり、貴女の家を訪ねて行く人がいる、成川さんという人だけど、家を教えても良いか、ということでした。まさか.. と思いました。成川さんが北海道から訪ねて来られたのです。生きていらしたのです。もう一人のオオバさんは亡くなられたそうです。成川さんは「記憶喪失になり、漸く村松を思い出し、訪ねてきたのだ」と説明してくれました。夢のような再会でした。「あの時、赤ちゃんがいたけど、如何してる?」と私の長女のことも尋ねてくれました。成川さんはその日のうちに北海道に帰って行かれました。それから手紙や年賀状のやり取りが始まりました。成川さんからは、北海道のジヤガイモ、カボチャなどが毎年送られてきましたが、平成16年9月4日亡くなられたと奥様からお便りがありました。成川さんのご家族のご住所は、

 (中略)

 私は大正9年生れで、随分歳をとりました。あの当時の事が色々思い出されます。冊子を読んで胸が一杯になりました。亡くなられた少年兵を思うと、今でも涙が出ます。私の夫も、長女の1歳の誕生日の翌日、20年2月28日に戦死しました。長女は中学の英語教師になって、もう退職しましたが、成川さんとは年賀状のやり取りをしていました。

 良い冊子を作って下さいまして、故人もうかばれると思います。有難うございました。私も御礼申し上げます。寒さに向かってお体を大切に。かしこ
編集者
投稿日時: 2012-11-29 7:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 28

 村松町民と少通生の心の交流 その2

 ○成川茂男氏から波多ハナさんへ(昭和55年11月24日付)

 前略この度は突然お邪魔し失礼致しました。知らぬことながら当時応召されておられましたご主人様のご戦死を心からお悔やみ申し上げます。

 テレビドラマの様な35年振りの再会に、生きて帰って来られた私の心は弾むばかりでしたが、あの時、お世話になった大場一美君が一緒でなかったことが残念でなりません。でも、奥様のお顔を見た時、間違いない、あの時のお嫁さんだと直ぐ分りました。なお、この手紙は患っている頭の細胞を必死に揺り起こしながら書いておりますので、記憶違いもあろうかとは思いますが、お許しの上、35年前の昔のようにお付き合いさせて頂きますようお願い申し上げます。

(中略)

 私は昭和20年3月の卒業組でしたが、当時は軍事機密で派遣されるその日の朝まで自分の行き先が何処なのか、教えて貰えず、結局、私は満州の奉天でした。終戦後、シベリアに抑留され、23年9月に復員しましたが、可なり遅かったようです。

 満州派遣の前に卒業休暇がありましたので、形見の心算で少通校時代の日誌やお宅様のお名前の載っている住所録など、家に残して置いたのですが、釧路の空襲のどさくさなどで総て紛失してしまっており、それから30余年、お宅様のことを気にかけながらも、お名前が、畑さん?とうろ覚えでは生還のお知らせの手紙を書きようもなく、空しく日々を過ごしておりました。

 10年前の45年10月、少通兵の慰霊碑が御地に建てられました時、村松までは行ったのですが、団体行動であり、生き残りの戦友と25年ぶりの再会で、お互いの生存を喜び合うと共に、俺達がやらなければ誰が亡き戦友の魂を慰めるのか、など、皆興奮して徹夜で語り合い、お世話になったお宅様の住所やお名前を探す暇もなく(私勝手なことではありましたが)そのまま戻ってしまいました。

(中略)

 それから10年後、漸くその機会に恵まれました。偶々孫を四国に送って行った帰り、新潟に回り少しでも時間をとって村松のお宅を探そうと計画しました。大阪から新津駅に着いたのが夜の9時40分、五泉行の最終列車で五泉に着いたのが深夜の11時でした。駅からハイヤーに乗り、何処か宿に、と頼みましたが、時間が遅く町の中では開いているところはないとの返事で、咲花温泉まで調べてもらいましたが、何れも満員で、念々困り果て、「明日村松に行く積りだが、自分の記憶では、村松には2軒旅館があった筈だから、昔の少通兵が慰霊碑をお詣りに行くのだから、どちらかの旅館に起きてもらって欲しい」と頼みましたところ、幸い若松屋旅館が起きてくれました。

 翌朝、警察の派出所に出向き畑さんの住所を尋ねましたが、年配の部長さんが「畑という該当者はいないが、羽田なら可なりいる。何の用事で訪ねるのか」と聞くので、35年前にお世話になったことを話しましたら親身になって探してくれ、波多という家だとお宅を探し当ててくれました。で、直ぐ慰霊碑を訪れ、亡き戦友の冥福を祈った後、大場の霊に向かっては特に念入りに「これから波多さんの処に行くから」と報告して、お宅様に参上した次第です。

編集者
投稿日時: 2012-11-30 9:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 29

 村松町民と少通生の心の交流 その3

 (お宅様との思い出)

 私がお宅様と近付きになれたのは19年の2月頃だったと思います。
 その日は月1回の外出日でした。普段ですと営門から真直ぐに町の方に向かうのですが、その日に限って営門から右に曲がり、こっちの細い道は如何なっているのかな、など好奇心半分で歩いて居ましたら、頬かぶりしたお年寄りが屋根に上って危なげな恰好で雪下ろしをしていたのです。私は冗談に「おじいちゃん、屋根から落ちるなよ」と言いましたら、「そんなら、兵隊さんが代ってくれるか?」と言葉が返ってきました。

 町へ出ても映画を見るだけだし、これも人助けのうちと思って、代って屋根にの上ったのがお付き合いの始めでした。雪下ろしが終わってから、腹一杯のご馳走を頂きながら伺いましたら「息子はお前さんと同じに召集されて戦地に行っているし、じじ、ばばと嫁で何とか頑張るしかないんだ」とのおじいさんの話。そこで「私で良ければ外出の時は出来るだけお寄りするから」とお約束しました。

 そのあと、何度寄らせて頂いたか思い出せませんが、お寄りするたびにお婆ちゃんが、我が子が来たように喜んでくれて、「何もないけど腹一杯食べてゆけ」と、色々ご馳走を出して頂きました。当時19歳の私にとって、隊内の食事は不足気味でしたので、軍靴の紐をしやがんでは結べない程食べさせて頂けるお宅は真に有難く、お宅が隊内の誰にも教えない私一人の秘密の場所になりました。

 釧路の両親にはお世話になっていることを知らせしなければなりませんが、隊内から手紙を書くことも出来ず、何回日かにお寄りした時に、お宅からお宅様の名前を使って手紙を出したことを覚えています(当時は隊内から手紙を出しますと検閲制度があって皆判ってしまいますし、お宅様から成川の名前で出しますと、局の方で分ってしまう、そんな時代でした)。お寄りした中で、今でも心に残っているのは、ハっちゃん(初江さん)が良く 回らない舌で「おじちゃんアガンナネアガンナネ」と言いながら私の胡坐の中に入って来てくれたことです(私の一番下の妹が当時3歳位でしたからハっちゃんが懐いてくれるのが、とても嬉しかったのでした。

 戦死した大場一美君を、私が秘密にしていたお宅様に連れて行ったのは何の為だったのかよく思い出せませんでしたが、先日お邪魔した時、昔の儘のはざ掛けの木立を見て、秋の稲刈りのとき、おじいちやんから「誰か仲の良い友達と一緒に来てくれんか」と頼まれて、大場君を連れて行ったことを思い出しました。

 畑仕事などしたことのない二人でしたが、若さだけが取り柄で頑張りました。大場君の曰く「兵舎のこんな近くにこんな良い方が住んでいてお付き合いさせて頂いているお前は幸せ者だなあ、今度から外出の時は誘ってくれよ」と。それからは二人だけの秘密の場所として誰にも知らせませんでした。

 20年3月に卒業となり、配属前の休暇が出て釧路に帰りましたが、当時では現地でも中々手に入らなかった鮭の半身を両親が何処からか見っけて来てくれました。「お世話になった波多さんにお土産に」と出された時は、如何して持って行こうかと悩みました。思案の末、油紙に包んで下着にくるむ細工をして、トランクの一番下に隠し、これだけは何としてでもお届けしなければ、と運んできました。
 連絡船では荷物検査がありましたが、こちらが兵士だったためか、細かくは調べられず、無事通過した時は、本当にホっとした気分でした。

 お宅様の玄関を開ける、お土産を差し出す。帰営の門限はギリギリと言うことで、ゆっくりお別れの挨拶も出来ないまま、駆け足で営門をくぐりました。
 あれから、35年、気にかけながらも中々お会いできず、今回、念願を果たすことが出来て本当に安心致しました。

 昔のお嫁さんと言っても、当時のことを考えますと、私が19歳でしたから、4,5歳上のお姉さんだったと思いますし、お名前が中々思い出せなくて記憶では花子さんか、ハナさんでなかったかと思っております。

 先日お邪魔しました時は、初江様にはお会い出来ませんでしたが、余りの懐かしさに話ばかりしていて、昔我が子のように可愛がって頂いたおじいちやんやお婆ちゃんに線香をお上げして来なかったことが悔やまれてなりません。また、帰り際には、このように一人前になった私にお心遣いまで頂き、本当に嬉しく感じました。改めて御礼を申し上げます。

 以上、思い違いがあるかも知れませんが、悪い頭を振り振り思い出すままに、長い手紙を差し上げました。冒頭にも書きましたが、これを契機に私の達者である限り昔の様なお付き合いをさせて頂きたく心からお願い申し上げます。

(後略)

 注 
 
 大場一美氏埼玉県出身、昭和19年11月15日、繰上げ卒業。南方に向かう途中、秋津丸に乗船し、五島列島沖にて戦没。

 成川茂男氏北海道出身、昭和20年3月、卒業。奉天第540教育通信隊に勤務。終戦後、ソ連の収容所で採炭等の労働に従事、栄養失調等に罹患。23年9月帰国。帰国後も脳疾患に悩み、平成16年9月没。
編集者
投稿日時: 2012-12-1 8:56
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 30

 村松町民と少通生の心の交流 その4

 では、これを読まれて、皆様は如何お感じになりましたでしょうか? 勿論、成川氏が「二人だけの秘密の場所」とされただけあって、これは特別なケースで、大半の生徒は、時折、休日に地方から駆け付けたご両親と横山旅館等で懇談し、持参の牡丹餅に舌鼓を打った程度で、私など東京出身者は面会自体も儘ならず、生徒集会所で本を読むか、或いは練兵場の草原に寝転んで空を仰いで家族を思うなど、時折、営外居住の区隊長の下宿にお邪魔して娑婆の空気に触れさせて頂くことはあっても、そう親しく個人的に町の方々と接した記憶はありません。

 でも、そうこうする中、私は、私達を見守る町の人々の目がとても優しく感じられることに気付きました。当時はそれが何故なのか判りませんでしたが、今では、或いはこんなことも原因していたのではないかと、考えるに至りました。

 即ち、その一つが、当時、村松少通校で行われていた教育の内容とその様子です。村松校は昭和18年10月に開校、12月に11期生が入校しましたが、教育に携わる区隊長や班長には東京校からの転任者が多く、その方々が高木校長の「少年兵は純真であれ」の訓育方針のもと、それまでの経験を生かし「新たな教育の場での新たな教育造り」に意欲を燃やし、生徒もまた、此処を人生の修練道場と心得て、陸軍生徒としての品性の陶冶と通信技術の習得に猛訓練を展開しました。

 そして、これに加えて当時の村松町の情勢です。村松は明治29年に新発田から歩兵30聯隊を迎えて以来、軍都としてほぼ半世紀に亘って軍との共存共栄を図ってきましたが、新たに少通校の生徒を受け入れるに当たって、恐らく町民の皆様は、その幼い少年達が必死に訓練に励む姿に、それまでの軍隊には見られなかった「健気さ」といったものを感じられたのではないでしようか。

 この様子を、当時の新間は「11期生が、入校僅か1か月後の19年1月8日の陸軍始めに、村松練兵場の銀雪を踏み、その幼い肩に99式短小銃をしっかり担って、官民環視の中に堂々の閲兵、分列行進を行い、決戦態勢下の陸軍生徒の意気を示したことが印象的だった」と報じています。また、その頃は、多くの家庭に召集令状が届いていましたから、戦地に送った我が子、我が夫を思う気持ちを少年兵にだぶらせて、余計に親近感をお持ち頂けたように思います。この点、当時村松に居られた或るご婦人は、お気持ちを「少年兵の皆様がシベリア卸しの雪の吹き荒れる寒中、厳しい訓練をされていた姿が忘れられません。繰上げ卒業で幼さの残る11期生の皆様が村松駅頭から出征の時は、町中涙で千切れんばかりに日の丸の旗を振りお見送りしました。そして、後に悲惨な事実を知った時は、唯々涙するばかりでした」とお寄せ下さいました。

 いずれにしても、村松少通校の生徒は幸せでした。こうした純朴な町民の皆様の温かいお気持ちに支えられて、村松には東京校とは一味違った官民一体となった環境が整えられ、それが成川茂男氏をしてシベリア抑留の苦しさに耐えさせ、また私共後輩に対しても多感な少年期の人格形成に大きく役立ってくれました。

 そして、この床しい気風が現在にも引き継がれていたからこそ、冊子村松の庭訓を胸に」の刊行を契機に、それが当時の少年兵の思い出と繋がって、いち早く「守る会」を誕生させて頂けたのだと思います。また、慰霊碑が当地・村松公園に建てられたことも、結果的に見て極めて幸運だったと思っています。何故なら其処は日露戦役を記念して設けられた忠魂碑や忠霊塔も建っ「殉国の士を祀る聖域」であり、私共の慰霊碑も、これにお仲間入りすることが出来たからです。

 一一一定めし、11期生の御霊も、今頃は先輩諸霊に温かく迎えられ、共々憩って居られることでしよう。
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