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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第7回)
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編集者
投稿日時: 2012-7-7 8:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その11

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆神雷部隊出撃!(2)

 --------南大東島に不時着するまでの間、どんなお気持ちでしたか?編隊を離れざるを得ず、後ろめたい気持ちもありましたか?

 野口‥それはもう、後ろめたいというか。飛んでいるときには後ろを見てなかったですからね。

 --------無線などで、味方に状況を知らせることは出来なかったのでしょうか。

 野口‥無線も外してありました。代わりに電鍵がついていました。ボイスの方はほとんど駄目でしたから電鍵になっていましたね。零戦で悪い部分は「無線機」と「ブレーキ」で、中島の飛行機も三菱の飛行機も余り良くなかったですね。

 --------ブレーキが良くなかったということは、停まらないということですか?

 野口‥そう、停まらない。片利きになってしまい、機体がぶれるので使わない方がいい。

 --------ブレーキの利き方が中途半端だったということでしょうか?

 野口‥そう。片利きになったり、非常にブレーキが悪かったですね。

 --------島への不時着は海岸でされたのですか?

 野口‥いいえ、飛行場です。草っ原の飛行場があるのです。

 --------万一の時はそういう島を不時着基地として使っていたのでしょうか?

 野口‥大東島だとか、喜界島だとか、種子島がそうでしたね。

 --------不時着する時の指示があったのですか?

 野口‥はい、そうです。

 --------不時着された後は、部隊に直ぐ連絡をしたのでしょうか?

 野口‥いいえ、全然していないです。しょうがなかったのです。

 --------基地には通信設備が何も無かったのですか?

 野口‥無いです。

 --------そうすると、不時着した後はどうされたのでしょうか?

 野口‥電話を掛けるにしても電話番号も分からなかったし、単純に燃料を補給してまた飛び立つだけのことだったのですよ。

 --------では、燃料を補給して飛び立つつもりだったのですね。

 野口‥そうですね。燃料を補給してもらいました。そこでは、山のように積んであった砂糖が燃えていてもったいないなあと思いました。機体を直してもらうにも、まずは穴をふさがないと飛ぶことができないということで、今日は戻ることはできないと言われました。そこで一泊して、翌日帰りました。

- -------帰ったのは鹿屋基地に?

 野口‥はい、鹿屋です。

 --------鹿屋に帰還して報告をされたわけですか?

 野口‥報告をしたところ、9機しか戻っていないと聞かされました。そして、私の本隊である富高へ戻るように指示が出ました。

 --------戦闘機隊だけで9機しか戻らなかったわけですか?

 野口‥そうです。どうやら三〇六飛行隊だけが出撃したわけではなかったのです。二〇三空からも何機か応援に来ていたらしいのですが私達はそれが分かっていなかった。
  
 

 --------3月21日の出撃で三〇六飛行隊は何機出撃して何機戻らなかったのですか?

 野口‥他の隊員と会わないものですから、よく分からない。3月26日には第二〇三海軍航空隊が鹿屋基地の近くの笠之原へ異動したので、私も神雷部隊からは外れました。兵舎の無い、山の切り通しの防空壕の生活となる笠之原に異動してから何人か集まり始めて、「二〇三空で私も3月21日に出撃した」などという話になった。爆撃機18機と戦闘機が40数機行ったと思うのですが、皆、やられてしまったと思います。ほとんどが一撃で落とされていましたからね。

 --------敵襲で一式陸攻は回避行動が出来たでしょうか?

 野口‥一式陸攻は桜花を積載して重量が目一杯で何もできなかったと思います。

 --------何もできずに撃ち落された陸攻や桜花の搭乗員のことを思うと如何ですか?

 野口‥もう、すごく残念ですね。二〇三空に行ってからも3、4回ほど菊水作戦に出撃しているんです。沖縄の伊江島まで行ったことがありますからね。
 一式陸攻が攻撃に出るときに一緒に出撃したこともありますよ。直掩で。
編集者
投稿日時: 2012-7-8 6:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その12

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆桜花突入の瞬間を目撃

  --------昭和20年3月21日後の神雷部隊の出撃に直掩で参加しているのですか?

 野口‥ええ、そうです。もう、まとまった出撃でなく、戦闘機が5、6機だとか7、8機のときに一式陸攻が1機、2機で付いていきました。そのときも、目的地までは自分が守ってやる、という気持ちでいきました。

 --------二度日以降の直掩で敵機に襲われたことはなかったのですか?

 野口‥それはなかったですね。

 --------では、敵艦隊の近くまで行けたということでしょうか?

 野口‥はい。なので、1回だけ敵艦に桜花が突入するところを見たことがあります。

 --------桜花が敵艦に突入した記録はアメリカ軍にもないようです。それは何の記録に残っているのでしょうか?何年何月頃か分かりますか?

 野口‥記録はないと思う……。二〇三空に行ってからの話です。何時というのは覚えていないですね……。

 --------昭和20年4月か5月くらいでしょうか?隊名は覚えていらっしゃいますか?

 野口‥いや、覚えていません。昭和20年4月から7月なのは間違いないですが……。下の周りが全部、輸送船で勘定していられない。すごい数で。で、我々が上空にいるのが分かると動こうとしてエンジンで白波が出るので、なお良く見えました。

 --------桜花が体当たりしたのは輸送船ですか?

 野口‥いえ、軍艦です。空母ではなかった。空母のいる太平洋側でなかった。軍艦か駆逐艦か、巡洋艦でした。

 --------当たった瞬間はどうでしたか?

 野口‥真っ黒な火柱のようなものが立っていた。しかし、そればかり見ていたら今度はこちらがやられてしまう。一式陸攻を守ってやらなきやいけないから。恐らく、彼等達が戦果報告していると思います。

 --------野口さんは直掩ですが、攻撃の結果報告もするのですか?

 野口‥します。一度だけでした。突入を見たのは。

 --------桜花の戦果がどれくらいだったのか、現在もよく分からないようですね。

 野口‥そう、分かっていないと思います。僕らの時も2回しかないからね。その場で、一式陸攻が敵艦に向けて落としたところは見えていました。

 --------桜花の作戦には3月21日を含めて2回参加したということでしょうか?

 野口‥そうですね。現実に桜花の攻撃には2回参加していますね。後は、僕は行っていません。菊水作戦といって後からデータなんかを見ると、何年何月何日に飛んでると分かるだろうけど、我々も記録を取ってる暇がなかったです。

 --------戦後の戦友会などで、一式陸攻や桜花の隊員の方達と会ったりされましたか?

 野口‥靖国神社で行われた神雷部隊の慰霊祭には、私は1度か2度しか行ったことがないです。そのときは、整備さんとかも来ていたのですが交流はありませんでした。

 私は、三〇六の戦闘隊の人しか知らないですからね。三〇六の戦友会には何度か行きましたけれど。でも、先ほども言いましたように、昭和20年3月26日に二〇三空に移って三〇六飛行隊から離れましたから、戦後、三〇六飛行隊の戦友会に行っても知っている人がほとんどいないわけですよ。たまたま、私が三沢で教えていた13期の後期の人たちが「教官だ」と言ってくれたので、そのとき教えてもらい分かったのですが、私が3月26日に異動した後、新しく三〇六飛行隊が出来たらしいが、私は知らなかったのです。終戦後に知りました。3月21日の攻撃に参加した者で生きているのが私しかいない。生還した者も、その後の戦闘で皆さん、戦死されました。二〇三空に行った者達も皆、戦死されている。

 二〇三空にいた者はその後、笠之原から福岡県の築城基地に行くことになりました。築城では半分の飛行機が戦闘機で、もう半分は爆弾を抱くことになった。投下機がないからワイヤーでくくっていました。なので、そのまま編隊にぶつかっていく。そういう格好で毎日過ごしていました。
編集者
投稿日時: 2012-7-9 6:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その13

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆遊撃戦と特攻待機の日々

 --------野口さんはどちらの方でしたか?

 野口‥毎日が遊撃戦で、いつ爆弾を積んだ飛行機に乗るか決まっていませんでした。遊撃戦で上がるときは爆弾を外しました。8月15日まで猛訓練をしました。実弾で射撃訓練をして、いざ出撃というときに大分から司令官がきて、お前達は攻撃をやめろと言われてやめました。特攻出撃の待機期間は1カ月くらいでした。

 --------いつ特攻命令が来るか分からない日々は、どのようなお気持ちだったでしょうか?

 野口‥1日のうち、午前中が特攻待機で午後から遊撃に上がるとか。あるいは、その反対の流れですね。そして、夜になったら夜間戦闘機と交代。なので、夜になると帰ることが出来た。敵の攻撃の来る時期や編隊の状況によっては爆弾を抱えたまま行かなければならないということもあるし、そうでなければ戦闘に上がる。

 --------昭和18年ごろのお写真と特攻待機中のお写真とでは顔つきが違うような……。

 野口‥そうですね、全然違いますね(笑)。でもね、怖いと思うことはあまりなかったです。やはり、鍛えられたせいなのかなと感じますね。沖縄へ爆撃機を直掩して行ったり制空に行ったりして、敵機が2、3機でも見付けた時は、「こんちきしょう」と思って攻撃したりしていますからね。私だけでも4機くらいは落としています。

 --------それと、二〇三空に行って間もなくでしょうか、笠之原から遊撃戦で上がって……いつ頃だったかちょっと忘れましたけども、鹿児島の桜島の上空3000mで集合ということがあったのですが、ちょうど私の飛行機は部品を取り替えていたので間に合わなくて、後から編隊の後ろに付いて上がっていったとき、先に上がった編隊が敵機に攻撃を開始しようとしていたのですが、敵機4機が私の方に向いて、撃ち落されてしまったのです。搭乗していた戦闘機が火を噴いてしまったので落下傘で脱出して、錦江湾に3時間ほど浮いていたことがありました (笑)。3時間ほどで直ぐに助けてもらえたので、その晩には笠之原基地に帰ることが出来て、戻ったら隊長から「お前がやられたところが見えていた」と言われましたね。

 --------その頃には野口さんもベテランの一人になっていましたか?

 野口‥そうなっていましたね。

 --------入隊したての頃とベテランになった頃とでは、色々違いがありましたか?

 野口‥そうですね。でも、仲が良かったと思いますよ。ああいう状況での仲間というのは大事でした。上も下もなかったと思いますね。笠之原の防空壕にいたときは軍医長と一緒でしたが、一緒に酒を飲んで、「もういい加減、酒はやめろ」などと話して仲が良かったですよ。

 --------その頃には乙種も甲種も関係なかった?

 野口‥もう、関係なかったですね。予科練のときだけちょっと色々ありましたが (苦笑)。
編集者
投稿日時: 2012-7-10 6:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その14

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆終戦と復員で心が崩れかける

 --------昭和20年8月15日の玉音放送はお聞きになりましたか?

 野口‥聞きましたが、訳が分からなかったですね。ジャリジヤリと雑音がひどく聞き取れなかったので、「一生懸命やれ」というふうに理解して猛訓練に入りました。そしたら、そうではないということで訓練から攻撃に切り替えようということになりました。太刀洗の陸軍が、「海軍はまだ訓練をしているのですか?爆弾をください」と言いに来ましたね。

 --------では、放送を聞いた時に敗けたという意識はなかったわけですか?

 野口‥全然なかったですね。その後、軽挙妄動は止めろということを言われ、解散するから自宅へ帰るよう指示が出て帰ったのですが、後ろ髪引かれるような思いでしたね。

 --------帰れ、というのは自宅へという意味ですか?

 野口‥はい、そうです。

 --------帰るにしても、空襲などで交通手段も破壊され、大変だったのではないですか?

 野口‥私なんかは、そのまま飛行機で帰れと言われました。ちょうどその時、親は群馬県の桐生にいたのですが、東京なら帰ったことがあるんですが、桐生には帰ったことがなかったので、佐藤少尉(今年の3月に亡くなられた方なのですが) が桐生に住んでいたことがあるというので一緒に帰りました。飛行機に乗って帰っていいと言われたのですが、故障したら困るし、燃料とかもどうしたらよいか分からないので乗っては帰りませんでした。

 --------飛行機はどうなったのでしょうか?

 野口‥銃弾は海に向かって撃ち込んできました。それで、飛行機はひっくり返して海に放り投げて帰ってきました。

 --------九州からの復員の途中、広島や大阪などを通ったと思いますが、廃墟となった街を見てどう思いましたか?

 野口‥やっぱりひどいものでしたね。

 --------原子爆弾のことは、既にご存じでしたか?

 野口‥はい、聞いていました。最初は「新型爆弾」ということで聞いていました。

 --------そういう話を開いてアメリカに対して敵愾心を強くしましたか?

 野口‥はい、強くなりましたね。大有りでしたね。

 --------やり返してやるぞ、というような?

 野口‥はい、はい。広島も戦後行ってみてびっくりしました。

 --------途中で進駐軍に会いましたか?

 野口‥進駐軍には会いませんでした。まだ昭和20年8月19日頃でしたから。拳銃を持ったまま帰りました。その後、9月17日くらいに呼び出しが来て、また築城に行ったんです。行ったら、もう既に兵舎も何も無くなっていました。そこには残務整理の人がいて、お金をもらったんですが、幾らだったか忘れました。その時、4人いたのですが米一俵をもらいました。その帰りに熱海の「志はみや」 (しおみや) という旅館に寄って……今でもありますけど、もらった米がある間……5日間ぐらい 「志はみや」に居て (笑)。お金を使い果たして帰りましたね (笑)。

 --------基地にいた頃、一般の人々との接触はありましたか?

 野口‥民家にいましたのでありました。

 --------戦中と戦後で、国民の態度が変わったと感じたことはありましたか?

 野口‥終戦直後の頃にはまだ、何もなかったように思います。ただ、大阪で「敗残兵」と言われて大喧嘩したことはありました。列車で帰る途中、陸軍も一緒に乗っていましたが、乗っていた電車が混んでいて、「敗残兵ばかり乗るから、俺たちが乗れないんだ」と。当時は開けっ放しだった電車の窓から聞こえてきたので喧嘩になりましたね(笑)。

 --------軍隊への反感は時間が経つにつれ大きくなっていったのでしょうか?

 野口‥そうですね、ありましたね。戦後、民主主義などというそれまでは聞いたこともないような言葉で、これからは一生懸命生きろと言われても、それまで一生懸命、人殺しをやってきたのに、いきなり生きろと言われてもどうしたらよいかというジレンマはありましたね。

 --------戦後、いわゆる「特攻崩れ」などという言葉も出てきましたが。

 野口‥そうですね。カチンとくるようなこともありましたし、半分崩れちゃったような感じにはなりましたよね。価いっていう感情がなかったので、親も心配しただろうと思いますね。この先どうなってしまうのだろう、と。

 --------野口さんも、崩れたような部分がありましたか?

 野口‥ええ、ありましたね。怖いものがないから喧嘩でも何でもやっちゃうっていう感じでしたね。

 --------野口さんにとって戦争が終わったという実感は、いつ頃、感じたのでしょうか?

 野口‥そうですね。家に帰ってノンビリしてからですね。あぁ、これでもう死ななくてすむなと。しかし、すべてのものに手が付けられなかったですね。そこで父の会社に入れてもらったのですが、落ち着いて仕事はできなかったですね。

編集者
投稿日時: 2012-7-11 6:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その15

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆民間航空会社に就職

 --------その後、民間のパイロットにられたということですが。

 野口‥ええ。講和条約が締結された昭和27年に航空再開ということで、直ぐに飛び込みました。ですから、一番早い口だと思いますね。で、航空局というのができていまして、「おおとり会」というのがあったのですが、これは民間人たちの会でね。軍の出身者でも良いかと聞くと大丈夫だったので、そこへ入会して、手伝いをしながら勉強して、民間のライセンスを取らせてもらった。昭和28年12月に、民間の操縦士、通信士、航空士の試験を受けて、昭和29年1月にライセンスをもらいました。その後、海軍の予備学生出身者などが作っていた民間の航空会社に就職しました。

 そうしたら直ぐに、「また鉄砲の付いた飛行機に乗らないか」と誘いがきました。しかし、もう民間の航空会社に就職したので、と自衛隊には行きませんでした。民間のライセンスがあるなら三尉で入隊させてやると言われましたけどね(笑)。それから、ずっと民間航空会社でした。

 --------戦後の人生の中で、戦時中のことを思い出すことはありませんでしたか?

 野口‥戦後、昭和20年8月から桐生の家にいたときは毎日寝てましたね。昭和21年のときに父の会社に入れてもらったのですが、戦後の何も無い状態でしたし、仕事は何ができるのかと問われても何もできなかったですから、すさんだ生活を送っていましたね。

 --------戦争のことを冷静に話せるようになったのは、もっと後になってのことですか?

 野口‥そうですね、戦後に民間の飛行機にカムバックするまでは、余り戦争に関する話はしませんでしたね。
編集者
投稿日時: 2012-7-12 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その16

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆特攻で死んだ人を忘れないで

 --------当時と今では価値観や考え方が違いますが、なぜ特攻というものが行われたか、野口さんのお考えはありますか?

 野口‥特別な考えはないです。戦争だから仕方がない、としか思っていなかった。
 16歳程度の、余り世間に出ていなかった若者でしたから、言われるままに、教育されるままに従ってきていたというのが事実だと思います。だんだん後になって、色々考えることは出てくるのですが、心に秘めています。世の中は変わってきたと感じるが、一人でわめいたって仕方がないと思い、生きてきたという感じですね。

 --------特攻について、特別な思いというものがありますか?

 野口‥特別攻撃隊というのがなくてもね……例えば自分の飛行機が火を噴いてしまっていて、敵がそこにいたらぶち当たっていくということをやった人がいるわけですよね、結果的には。だから、それだけじゃ足りないというので特攻ができたのではないかと思うのですがね、それが一人の人間の命を奪うわけですからね。今は一人殺しても大変なことになるのに、戦争ともなればそういうことがなくなってしまうわけですから、二度とそんなことはあっちゃいけない。アメリカ人が特攻をクレイジーと言うのもね、納得ができると思いますよ。私がボーイング社に行ったとき、ちょうど12月8日でした。さっきのジャンボ機の話で行ったときですけど。そのとき、昔、零戦に乗っていたのだと言ったら、戦争を、特攻を、日本人は好んで行ったのかと聞かれたりもしましたね。だけど、我々としては命令もさることながら、国のために命を捨てることは、当時の我々としては承知したことだと伝えましたら、左右に首を振っていましたね(笑)。

 今、特攻の話を盛んにしてほしいとは思わないけれど、そういう人たちも日本人としていたんだなあと思ってほしいですよね。私はね、この一生は、慰霊には常に行きたいなと思っています。強要できるわけではないし、これからあってほしいことではないですからね。この大東亜戦争で特攻があって、そして終わったと。だから、亡くなった方にはね、生きている間は一生、慰霊をしていきたいなという気持ちです。

--------慰霊ということでは靖国神社に行くのが一番多いですか?

 野口‥はい、多いですね。同期や色々な地方での集まりというのがほとんどなくなってしまいましたから。

 --------乙飛16期で戦闘機乗りの同期生は60名ぐらいとのことですが、戦死された方は相当多いですか?

 野口‥はい、多いですよ。戦闘機専修で60名くらいですが、水上機から上がってきたのは数知れないですから、どれくらいかは分からないですね。戦闘機乗りになってから死んだというのは、ずいぶんいると思います。戦争で水上機の使い道が少なくなっていましたからね。なので、水上機から陸上機へどんどん上げていった。結果的には戦闘機乗りで死んでいるわけです。

 --------予科練の頃の集合写真を拝見しましたが、戦後も生き延びられた方というのもあの中に何名かいらっしゃるのでしょうか?

 野口‥いたにはいたのですが、今は皆、亡くなっていますね。民間航空会社でも亡くなっています。まだ旅客機までいかない小さい飛行機の時に亡くなっている方が4人も5人もいます。

 --------戦友が亡くなられるというのは、ただの知り合いが亡くなるということとは気持ち的に違いますか?

 野口‥そうですね、違いますね。なので、年賀状の前に喪中はがきがくれば、私は必ず電話しています。奥さんとかにね。
編集者
投稿日時: 2012-7-14 8:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その17

 海軍航空特攻  野口 剛氏
 
 ◆零戦について

 --------野口さんは零戦の52型に乗っていらっしゃったのでしょうか?

 野口‥神雷部隊のときは52塑ですね。訓練は21型22型に乗っていましたけれ
ど。

 --------零戦の操縦について野口さんの印象は?

 野口‥舵の利きが良いですね。僕は乗りやすい飛行機だと思いますね。零戦以外の戦闘機には乗っていないので、他は分かりませんが乗りやすい機だと思いますね。それから、戦後、日本にマスタングP-51が零戦と一緒にきましたよね。あれを見に行ったんですけども、零戦は全重量で2・7tですけど、マスタングの方は5tからあるんですよ。ですから突っ込むと加速度がついてね、スピードがどんどん出る。零戦は軽いから、パワー一杯入れても浮こう浮こうとするから抑えていなければならない。それで、スピードがなかなかつかない。

 だから戦闘機としては、昔は巴戦とかのために、ひねり込みとかの技を習得させられたのですけれど、どちらがいいのかなと言いますと、今は巴戦なんてやらないですからね。その後に出来た紫電なんかの方が良いね。空戦が始まるときに紫電なんかだと、空戦フラップといってGかけるとひとりでにフラップが出るようになっていたわけですから。51のと、その半分の2・71くらいの飛行機じゃ、なかなか一撃必殺とはできないですよね。

 --------坂井三郎さんの著書に、特攻で突っ込むときに最後に機体が浮いてしまって失敗した例も数多くあるのではないかとありますね。

 野口‥そうですね。300ノットくらい出たら、頭が上がろう上がろうとするからスパッと抜けるんです。それで、それだけスピードが出ていると引き上げようとするときにもすごく重たいんですよ。だから、翼の付け根のところにシワが寄って塗料が剥げるくらい飛んでもぶっ壊れない飛行機ですからね。そのかわり、2Gから3Gかかっちゃうんだよね。だから、よだれは垂れるわ、鼻は垂れるわね(笑)。今のジェット戦闘機に乗る人はGスーツを着るからそういうことはないと思うけれども、我々のときは腹にこんな厚いベルトをして、腹をぎゅうっと空戦バンドって言ってね、腹を一杯締めてやっていないと臓物が下がっちゃうぞと言われてましたけどね。飛行作業をやっていて、ゼロ戦のリブを2人で肩に担がされたこともありましたね。そのくらい上がってしまうんですよ。だけど、いい飛行機でした。ま、自分が乗った飛行機は大抵いいって言うんだけどね(笑)。

 ショルダーハーネスがあるのですけどね、これはかけてられないですね。ゆるゆるにしておかないと。後ろを七分、前を三分見なければいけないから。バックミラーは無いですからね、とにかく後ろを見ておかなけらばならない。最初に教わったのは、まず高度をとって、いきなり戦闘ばかりせずに、隊列から外れていくような敵機を撃ち落とすとかね。自機の弾が吸い込まれていくように行って、敵機がバッと火を噴くと気持ちいいですからね。あるいは機が反対になって落っこちていくところが見られます。そこでやめておかないと、上にいつ敵機がついているか分からないので。
編集者
投稿日時: 2012-7-15 7:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その18

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆零戦について(2)

 --------ショルダーをゆるくして、激しく動く空戦で困らないのですか?

 野口‥大丈夫です。腹のベルトをしっかりしてるから。たとえ背面になっても、重力がかかってますからなんともないんですよ。背面飛行をやって操縦桿をぽんと前に押せば遠心力がなくなってぶらさがってしまいます。宙返りをやるんだったらベルトがなくてもいいくらいです。速度が速いので遠心力でぐーっと抑えられているから。

 --------特殊飛行や曲芸飛行をするとブラックアウトというような視界が真っ黒になると言いますが、そのような経験はありますか?

 野口‥引き起こしの時にはなりますね。目の周りに星が飛びますね。だからフットバーに足を掛けておくよりも計器盤に足引っ掛けて。飛行機はすべってくれるから何とか上がってくれるけれども。

 --------映画でのように行儀いいものではない?

 野口‥そうですね。もう一つ、映画などでは空戦が始まると風防を開けるときがありますが、あんなのはあり得ないのです。Gかかってしまって風が入ってきてしまって、とても出来ないんですよ。だから風防かけて眼鏡外しておかないと良く見えないんですよ。

 神雷部隊の本の中に、神雷攻撃のとき、アメリカ軍が言っていることは、日本の飛行機が火を噴いて落下傘降下したというのがあるんですが、あり得ないんですよ。なぜかというと、帝国海軍は攻撃に行くとき落下傘の装帯を付けていかないんです。陸軍は分かりませんが、海軍がよそへ攻撃に行って落下傘で降りることはあり得ない。神宮攻撃に行くときも我々は落下傘を付けていかなかったですから。アメリカ軍が、日本軍が落下傘で降りたと言っているのはあり得ないと思います。

 --------遊撃戦では落下傘を付けるのですか?

 野口‥はい、付けていきます。自分の国の中であれば。

 --------例えば沖縄とかに出撃する時は付けない?

 野口‥はい。だから身軽でした。バンドが無いですから。乗っかったら落下傘の装帯を、ここにカチャっと飛行機につけておけば飛び出せば開くようになっているわけ。尻の下に落下傘を敷いてますからね。

 --------では、野口さんが戦争映画で空戦シーンをご覧になると苦笑する場面が多いと。

 野口‥そう、そう。なんで風防開けるんだよと(笑)。

 --------零戦以外の新しい飛行機に乗りたいと思ったことはありますか?

 野口‥あります。筑波にいる時、雷電は操縦訓練まではさせてもらいました。

 --------雷電は搭乗員からの苦情が絶えなかったといいますね。

 野口‥前が見えないです(苦笑)。雷電は離着陸しかやったことがないですが、まっすぐ進むと前が見えないので、左右に動きながら先に進まないとね。紫電も水上機から改造したものでしたし、紫電改は脚を短くしたものでだいぶ良かったらしいですね。

 --------戦った相手は、グラマンF6Fが一番多かったですか?

 野口‥最初はF4Fでした。F6Fは零戦の上をいってましたからね。
編集者
投稿日時: 2012-7-16 7:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その19

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 ◆民間生活で役立った軍隊経験(1)

 --------特攻について、日本だけでなく外国でも色々論議されていますが、野口さんが、これだけは言っておきたいということはありますか?

 野口‥特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会に入会して、初めて世田谷観音にお参りに行った時に、若い方々が、会員の紹介だとかで協会に入会されていたり、一生懸命、慰霊活動などをしてくださってるということに感激しましたね。それと、零戦会という会があるのですが、搭乗員だった方はご高齢になられてしまいましたから、事務処理から会議の処理まで全部若い方々にしていただいているのですが、本当にそういう若い方々は偉いなと感心しているんです。そういう会議に行くとね、よくしてくれるのです。本来は私達がやらなければならないようなことなのでしょうが、80歳を超えた人たちばかりですから、そういう若い方々がやってくれて我々のしてきたことを少しでも受け継いで、後に伝えてくれたらなぁと思いますね。私一人が語り継いでもたいしたことはないと思うんです。

 戦争をして良いなどとは決して思っていません……。やはり、厳しいですよ……戦争は。人殺しをやるわけですからね。

 余談になりますが、私は社団法人日本航空機操縦士協会の理事をしていました。専務理事、副会長で最後は辞めたのですが。昭和60年にジャンボ機が御巣鷹山に墜落しましたよね?あの時、事故調査委員会が出した事故の嫌疑というので、ああいう状況になったときに、どういう訓練をしておいたらよいものかとアメリカに行って調査してくるという話になったときに調査委員になりました。では、アメリカのどこへ行くかということで、メーカーに行こうということになり、ダグラス、ボーイング、最後にNASAですね。サンフランシスコのエイムズ、NASAへ行くと決まって行ってきました。

 メーカーは飛行機の安全性の説明のみで終わったのですが、NASAでは「日本には航空大学があるではないか、そこではどのような教育をしているのか」ということと、飛行機にも自動車と同じように耐空証明というものがあるのですが、「航空法上で耐空証明がなくなっている飛行機を、どういうふうに操縦するのかということを日本の航空局は調べて来いというのか?」と言われました。続けて、「耐空証明の無くなった飛行機を操縦するということは考えられない。耐空証明のある飛行機の操縦が当たり前であって、それよりも色々な事故のスタディをするということへ頭がいかないのか」と。NASAにはアメリカ中で起きている事故のデータがあるから、幾らでも送るので必要であれば言いなさい、とのことで言われて帰国しました。

 帰国して、レポートにはNASAにこのように言われてきましたと報告したところ、操縦については何も意見はなく、事故のデータをスタディしていれば自ずと得るところがある人は自分自身で考えるでしょうという内容で終始したと報告しました。次に、自分の会社で、私は査察操縦士をしていたのですが、訓練規定の中に、次はどういうことをやりますよとエマージェンシーにかけて書いてあるわけですよ。だから次から次に、次、何がある。次に何がくるというのは分かっているわけですよね。ですから、操縦させても上手なわけですよ。「あぁ、そういうことか。それじゃあ、それを一つずらしてみようか」とずらしてみると、滅茶苦茶になってしまうんですよ。言われたとおりのことは覚えているけれども、順序を変えたら駄目なんだと。事故はその順序どおりには来ないのだと。その訓練マニュアルを変えさせるということをやりましたね。それが、非常に効果があって、調査に行って良かったと感じましたね。
編集者
投稿日時: 2012-7-17 6:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第7回)・その20

 海軍航空特攻  野口 剛氏

 
 ◆民間生活で役立った軍隊経験(2)

 --------実戦では思い通りにはいかないということと同じですね。

 野口‥ええ、そうです。もう、何が起きるか分からないからね。

 --------搭乗員だったときの経験が、その後の人生に大きく役立ったということですね。

 野口‥はい、大きいですね。やはり、習ったことは忠実に守らなければならないと思いました。基本はどこまでも基本なんだと。基本があって応用があるのだという感がありますね。神雷攻撃にしてもそうです。操縦中は後ろが見えないですからね。前を向いて操縦していて、後ろから敵機が来たらどうするのかという、そういうことは言われましたね。今の民間航空機のように前だけ見て操縦していればいいのとは訳が違います。後ろから敵機が来るということはないですからね。戦争とはやはり状況が違いますね。

 私は、海軍に行って悪かったことなんて一つもないんですよ。例えば日常生活の上においても、洗濯をして洗濯物を干すにしても船が基準ですから、何時に洗濯物を干して何時に取り込むのか、取り込むときには乾いていなければならないわけですから、それには干し方もいろいろあるわけです。そういうことも習ったんです。ほかには、年がら年中、掃除はしていなければならない。それと、団体生活している上では船の上で一人でも風邪を引けば皆が風邪を引いてしまうではないかということ、ほかの病気でもそうです。これらは民間の生活をしていく上でも重要で、それを学んで来れたのだから海軍に行って良かったなと思っています。なので、皆に話して開かせていますよ。

 --------若い人達を見ると、軍隊生活を経験させた方がいいと思うことはありますか?

 野口‥ある、ある (笑)。

 --------どういう姿を見るとそう思いますか?

 野口‥そうですね。電車の中で座り込んでいるのとか見ると、「立てないのかなあ。それだけ腰抜けになつちゃったのかなあ」と思いますよね。だけど、もう時代は変わったのだから、そんなこと考えてはいけないなとも思いますね。

 僕らの学生時代は代々木の練兵場に銃を持って行く教練がありましたけど、そういうのがなくてもいいから、毎日、起きる時間、寝る時間、勉強する時間というのを規則正しくやるような生活をどこかで経験してくるというのも一つの方法じゃないかなと思いますね。だから、予科練なんかでも兵学校と同じように、日中は普通学の勉強をさせるわけですね。で、午後からスポーツをするとか、午前中は普通学を学んで午後は軍事学を教わるとか。夜は夕食をとったら6時から3時間は温習といって、教室へ行って今日習ったことを復習する、明日のことを予習するっていう習慣付けがあったわけです。ああいう教育は非常にいいなと思うわけです。他には、階段を一段ずつ上がると殴られたりしましたね。一段抜かしや二段抜かして、すっ飛んで歩かなければならなかった。隊内で二人で歩くときも並んで走らなければならなかった。そういうことが日常生活に役立ち、一つ一つ節度のある生活ができるようになるのではないかと思いますね。だから、軍隊は否定しないです(笑)。
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