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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第3回)
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編集者
投稿日時: 2012-2-22 9:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その11

 海軍航空特攻 江名武彦 氏
 
 ◆特攻基地・串良へ

  --------4月20日にいよいよ串良に移動されますね。当然、飛行機で移動されたわけですが、特にトラブルもなく無事に串良に着かれたのですか?

 江名‥ええ、そうです。朝、百里原を離陸しましてね。6機でまず編隊を組んで。まあ、100時間も乗ってないような操縦員、偵察員が乗っている訳でしょ。6機編隊を組んでそこでバンクを振って百里原基地を出ませんと、我々の練度が笑われますんでね。編隊だけはとにかく組もうということで編隊訓練もだいぶしましたので、うまく編隊を組めました。見送りの人の帽振れの中、バンクを振って串良基地に向かったわけです。

 --------串良までは、飛行機でどれくらい時間がかかったんですか?

 江名‥途中、名古屋航空隊に寄りまして、そこで四国・九州に空襲があるかどうか状況を確かめ、燃料を補給して、それから串良基地へたどり着きました。着いた時は夕方になっておりました。途中、東京の上空を通ったら、上から焼け野原が見えました。これは大変な事だと思いましたね。そうしましたら、今度は横浜でしょ。それから名古屋、大阪、神戸と、みんなその上空から見ますと焼け野原なんですね。いよいよ日本は追い詰められたなという思いに駆られましたよね。

 それで伊豆の山を越え、駿河湾の所に出たわけですけど、その日は雲が垂れ込めておりました。飛行機がガブるっていうんですか、揺れるんですね。伊豆半島を越えて雲上を飛んでいたら右手に富士山が見えたんです。富士山は大井海軍航空隊の時、訓練で毎日眺めておりました。その富士山を見て、厳かな気持ちで国のために殉ずる覚悟をしました。私の戦友で特攻隊で亡くなった、百里原から出た戦友が作った歌があるんです。当時、我々、学生は万葉集とか古今集とかいろいろ読んでいましたから、和歌を詠む者が多かったです。

 亡くなった戦友は、"伊豆の群山(むらやま)越え往けば、神かも山かも富士が迫れり″と詠みました。霊峰・富士山は、この国を守るには自分が犠牲になる事も止むを得ないという気持ちにさせました。名古屋へ着きまして、四国・九州の方面に今、空襲がないから大丈夫だということを確認して、それから串良に飛びましたけど、私はそれまで2時間以上飛んだことないんですよ。ほとんどの人もそうなんですよね。それが丸一日飛んだわけでしょ。それも編隊を組んでますからね。私は疲労困憊しましたね。串良基地は毎日の空襲で穴だらけで、第一線の殺気立った飛行場に降り立ったわけです。だから、いよいよ戦場に来たという思いがしましたね。

編集者
投稿日時: 2012-2-23 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その12

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第1回目の出撃(1)

 --------11回目の出撃となった4月28日のことを教えてください。

 江名‥艦攻特攻というのは宇佐空と姫路空、それから百里原空の3隊で九七艦攻特攻隊が編成されたんですね。宇佐空と姫路空は五航艦で地元なんです。地元ですから、特攻隊員は串良にたむろしてたんです。その中から出撃の前日に指名されます。特攻隊員として指名されて串良に来て、串良で明日の特攻を指名されるわけですね。外様の百里原空の6機は次の作戦になると、全機出撃で必ず出される覚悟はしてるんですけど、宇佐空と姫路空の人達は前夜に決まるわけです。

 前夜、翌日の作戦会議があります。翌28日は薄暮攻撃で昼間に発進することになりました。宇佐空、姫路空、百里原空の順で、我々、百里原空はいちばん最後でした。それで、いよいよ宇佐空と姫路空が発進して、百里原空の番になったわけです。一蓮托生を誓った6機でしたが、飛び立とうとしたところ、1番機・故障、2番機・故障、3番機が飛び立ち、4番機・故障、5番機、6番機と。だから3番機と5番機、6番機だけが離陸できたんです。

 なぜ、そういうことになったかと言いますとね、初めて800kgの爆弾を着けたんですね。それで、エンジンをふかしましたが、百里原から長距離、串良まで飛んだ私達の老朽機は、飛行機の点火栓の汚れ、ピストンの磨耗、ガソリンタンク・油圧タンクの漏洩などがあったり、また電気系統が故障するとか、百里原空の九七艦攻の老朽化がそこで露呈されました。爆弾を積んで飛び立てないんです。

 私は6番機だったんです。3番機と5番機と6番機だけが28日に離陸できたわけです。3番機、5番機は先に行き、ほとんど単機飛行になりました。単機で開聞岳を過ぎましたら、エンジントラブルが起きました。油漏れ。パッキングがちょっと悪かったんでしょう。油溢れで操縦席が真っ黒になりましてね。800kg爆弾は800m以上ないと落とせないんですね。高度が低いと自爆します。やむを得ず爆弾を抱いたまま、最寄りの知覧の基地に不時着しました。知覧の飛行隊長から、だいぶ叱られましたけどね(笑)。爆弾積んで降りたもんですからね。だから28日は、百里原空は6機列線にいて3機しか飛び立てず、そのうち私1機が知覧に不時着して、2機しか突入できませんでした。私の機の操縦員は特乙一期の梅本満二飛曹、電信は甲13期の前田長明二飛曹でした。
編集者
投稿日時: 2012-2-24 8:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その13

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第1回目の出撃(2)


 --------特攻隊の名前は?

 江名‥「正気隊」です。その28日に突入した2機は「第一正気隊」という名前がつきました。

 --------エンジントラブルは操縦員から報告があったのですか?

 江名‥操縦席が見えますからね。伝声管で報告がありましたし、エンジン故陣は後席でもわかります。

 --------江名さんの命令で知覧に行くと。

 江名‥ええ。とっさの判断ですが、基地まで帰れないと思い、知覧へ緊急着陸したわけです。

 --------エンジントラブルの九七艦攻は、その後、どうなったんですか?

 江名‥翌日、整備員が機上作業練習機「白菊」に乗って知覧に来ました。そこで整備をして後日、串良へ持って帰ったと思います。その飛行機は特攻攻撃には使用できないということで、私は飛行機がなくなったわけです。で、おそらく、その飛行機は持って帰って、良い部品だけを他の飛行機に使ったんじゃないかと思いますけどね。

 --------知覧から「白菊」に乗って串良基地に戻られたのですか?

 江名‥ええ、「白菊」で串良に戻りました。

 --------報告した後は、また特攻待機に?

 江名‥海軍は陸軍と違って……陸軍には「振武寮」というようなものがありましたでしょ。なぜ、ああいう問題が起きましたかと言いますとね、菅原道大中将の六航軍は福岡にあって、知覧とか万世の特攻機の実情を把握できなかったのではないかと思いますね。

 海軍は字垣中将が鹿屋におりまして、串良、第一国分、第二国分、指宿、出水、笠之原など特攻基地がたくさんありますけど、実情を把握しておりました。優秀な整備関係の士官もおりまして、飛行機の故障は整備が全部チェックします。だから、原因がすぐ判る訳ですね。ですから、次の機会を待てという事で。

 多くの飛行機が不時着して帰って来ましても次の出撃まで待機という事で、陸軍のようなトラブルはありませんでした。私の場合も、知覧で飛行機を点検され、隊長から次の機会を待てと言われただけです。ただ、一度特攻になりますと、特攻から逃れることはできません。次の出撃までは待機ということですね。

 --------では、他の2人のペアも同じ状況で?

 江名‥替わらないです。

 --------その時出撃しなかった他の人達も一緒に待機するのですか?

 江名‥そうです。飛行機を失った私を除いた戦友は、次の菊水五号作戦で5月4日に全員、出撃してるんです。ただ5月4日の時も、結局2機しか突入しませんでした。後の2機はエンジン故障で戻って来たり、飛び立てませんでした。だんだん稼働率が悪くなってきているんですね。

 --------そうすると、2回3回と戻って来る方も多かったということですか?

 江名‥九七艦攻の場合、多いですね。私達の百里原だけでなく、その頃になりますと、姫路空も宇佐空も戻ってきたり、出撃できませんでした。それだけ特攻使用に耐える飛行機が少なくなってきたという事でしょうね。
編集者
投稿日時: 2012-2-25 7:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その14

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第2回目の出撃(1)

 --------新しい機材をもらって再び出撃されるのは、いつ頃になるんですか?

 江名‥5月11日の菊水六号作戦。串良基地の私達は九三一空の指揮下にありました。本来は海上護衛の部隊ですが、そこに雷撃隊がおりまして、当時は夜間雷撃が主任務でした。機種は「天山」とか九七艦攻三号機でした。その部隊から九七艦攻一号機をもらい、5月11日に私が出撃したわけです。

 --------その5月11日の出撃の時も、やはり前日に発表されたのですか?

 江名‥前日です。5月11日は、百里原空の残存機は3機なんです。姫路空が3機で、宇佐空が1機。可動機は最後の7機なんです。

 --------また「正気隊」の名前が付けられて?

 江名‥5月4日が「第二正気隊」です。次の11日は3回目でしょ。だから「第三正気隊」です。残った3機と姫路空3機、宇佐空1機、計7機が11日の朝5時黎明に出撃しました。

 --------最初の出撃と2回目の出撃では、心境的に何か違ったことはなかったですか?

 江名‥やはり、再出撃が長引けば長引くほど辛いですね。心の苦悩が深まります。私の場合、2回目の方が苦しいですね。もう一度、気持ちの整理をしなきやいけませんしね。前の晩は、ほとんど寝られませんでしたものね。

 --------ペアだったお2人の方は?

 江名‥2人の下士官は宿舎が違いましたので分かりません。残った一緒の士官は3名でしたけどね。寝返りばかり打ってました。まんじりともしないで寝られなかったと思います。

 --------では、5月11日の出撃の様子を、お聞かせ願えればと思います。

 江名‥5月11日は九七艦攻特攻の最悪の日でした。後で知りましたが、7機飛び立ちましたが、百里原空の1機、私の戦友で操縦の小田切君が乗った飛行機1機だけが突っ込みました。後の6機は不時着。私は黒島の海上ですけど、種子島に2機不時着、他は離陸してすぐエンジン不調で戻ったということで、7機のうち1機しか戦果が上がらなかったんです。

 これも後で知りましたけど、その日をもって、九七艦攻特攻が解隊しました。もう九七艦攻特攻は作戦に使えないという判断を九三一空がしたんですね。4月の6日、12日あたりまでは稼働率も良かったんですけど、それ以後、非常に故障機が多発しまして、老朽機は特攻機に使えないという判断を五航艦もしたのだと思います。
編集者
投稿日時: 2012-2-26 8:54
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その15

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆第2回目の出撃(2)

 --------江名さんの飛行機がトラブルにみまわれたのは、しばらく飛行した後ですか?

 江名‥ええ。ちょうど半ば近くまでいったところでエンジンが息をつき始め、操縦員が「エンジン不調、どうするか」と叫んだので、私は「もうしばらく飛ぼう」と言いました。後席の電信員が記録をとっていましたが、八十番(800kg爆弾)を抱いた機はどんどん高度が落ちてきました。このまま行ったら海没するので、800kg爆弾を投下しました。安全高度は100kg・100mなんです。800kgですから800mの高度が必要でしたが、エンジン不調で高度がとれないんで、やむなく700mで落としました。爆風で持ち上げられましたけど、機体の損傷は幸いありませんでした。それで180度変針しましてね、帰投するため北へ向かったわけです。そしてようやく黒島まで辿り着くことができたわけです。

 --------最初から黒島を目指したんですか?
 
 江名‥ちょうど飛行ルートでしたからね。180度変針すれば黒島へたどり着くことは判っていました。黒鳥の上空を飛んでますからね。東の方に振れば、トカラ列島があるんですけど、目で確認してませんでしょう。だから、黒島、硫黄島、竹島とありますから、どこまで飛べるかということで北へ向かったわけですけど、機は黒島の上空で力尽き海上に不時着しました。

 --------不時着と言っても、そう筒単に上手くいくものではないのでしょうね。

 江名‥私の操縦員が特乙一期生で、あまり飛行時間はないんですけど操縦は上手でした。4月28日、800kgの爆弾を抱えたまま知覧にスムーズに着陸しましたからね。今回も、黒島の沖合い1千mのところに尻から着水しました。機体は1分くらい浮いていて、その間に3人は脱出しました。時化の海上に上手く不時着したんです。彼の腕は凄いなと思いましたね。

 --------3人とも無事に救助されたんですね?

 江名‥ええ、そうです。その時はですね、不時着する時には脱出のため、風防を留めて開けとくんです。それを私が指示しましてね。固く風防をロックしとけということで着水したんですけど、やはり操縦員の方はですね、操縦に専念したから、それを甘くしてたんでしょうね。ペタツと風防が閉まっちゃったんです、着水のショックで。

 電信員の方は電信機に顔をぶつけ、鼻血が出てるんですよね。顔が血だらけなんですよ。電信員は最後に電信を打たなきやなりませんし、暗号書を始末しなければいけませんでしょ。錘を付けて浮き上がらないようにする作業もありましたので、着水の時にまだ作業中だったんですね。電信機にぶつけまして血だらけなんです。

 それで、操縦席が閉まっているので、私はすぐ操縦席の上に跨りまして、操縦員は中から一所懸命、風防を開けようとしてました。幸いちょっとした隙間が開き、上と下からこじ開けて15センチくらい開いたんですよね。かなり大きな男なんですけど、そこから出てきましたからね(笑)上手く脱出できまして、浮いている時間は1分足らずなんですよ。それで3人は飛行機の翼の上に立って、イチ・ニ・サンで飛び込みました。1分間でそれができましたんでね。まだ私達、若かったんでしょうねぇ(笑)。
編集者
投稿日時: 2012-2-27 7:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その16

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆特攻用機材の実態

 --------ある陸軍パイロットの方が、特攻隊にまわされる機材というのは老朽機か壊れてもいいような飛行機ばかりまわされたから途中で不時着したり、落ちたりした人が相当いたんじゃないかと仰っていましたが、やはり、そういうことはありましたか?

 江名‥海軍の場合、特攻の主力の十航艦はもともと練習航空隊で、飛行機そのものが老朽化した訓練用の飛行機でした。私達が乗った二号機は支那事変で使っていた飛行機ですからね。ハワイの時に使った九七艦攻は三号機なんです。三号機は馬力が1千馬力以上ありますが、一号機は750馬力しかないんです。その一号機に800kgの爆弾では加荷重なんですね。

 だけど百里原の場合、第1次の「常盤忠華隊」は6機全部突入しました。2次の「皇花隊」は6機のうち4機突入しました。飛行機の老朽化っていうものは、あれです。優秀な飛行機ほど、最初に持ってってるわけですよね。だから我々の正気隊は、第1回の出撃の時は2機しか突入できませんでした。宇佐とか姫路の航空隊も同じ状況で、機体の劣化から離陸ができなかったり、不時着が多くなるようになりました。

 --------もう10年くらい前になるんですけど、私、串良基地に行ったことがあります。

 江名‥ああ!そうですか!

 --------長い一直線の道路があって、そこが昔の滑走路跡だと教えてもらいましたけど、今も当時とあまり変わらないという感じですか?

 江名‥そうですね。鹿屋は今、海上自衛隊の基地で滑走路はもちろん拡張しましたが、昔の基地の跡が残っています。第二国分は今の鹿児島空港ですけど面影は全くありません。串良の場合は、東西と南北の自動車道路が昔の滑走路です。私は毎年10月15日に串良の慰霊祭に行きますが、桜並木の道路に立ちますと当時のことを思い出します。

 --------近くにある地下通信室も入らせてもらいましたし、洞窟というか壕というか、そこにパイロットの人達が泊まっていたと聞いて、こんな所に寝泊りしていたんだなあと思って。

 江名‥結局、毎日のように空襲がありますでしょ。宿舎は危険で横穴に寝泊りするようになったんですね。私の時はまだね、夜間はあまり空襲なかったから、士官宿舎、ほんとバラックみたいな士官宿舎ですけど、そこに泊まっておりましたけどね。そこも、私が出撃した後、焼けてしまったようですけどね。爆撃で。
編集者
投稿日時: 2012-2-28 8:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その17

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆黒鳥での生活

 --------黒鳥に不時着して、原隊に連絡しなければならないと思うのですが、そういう手段はあったのですか?

 江名‥軍隊もいませんし、警察もいません。ラジオもありません。何にもないんですよ。そういう島でしたからね。島民は500名で食料も窮乏していました。

 --------とりあえずそこに、じっとしているしかないと。

 江名‥毎朝10時頃になりますと、米軍機の大編隊が何百機と黒鳥の上空を掠めましてね、九州地区を爆撃に行くんです。それで、4、5時間たちますと、その大編隊がまた返ってきて、黒島上空で編隊を組み直していくんです。

 日本の特攻のルートも三つほどあり、トカラ列島の列島線を通っていく、これは一番デンジャラスなんですね。敵の遊撃機が待ち構えておりました。そこで東か西へコースを振るんですよね。陸軍の知覧・万世は、みんな黒島の上を通っているんです。海軍でも、串良と指宿海軍航空隊が黒鳥経由で沖縄に向かいました。

 やっぱりナヴイゲータtがいないと、海上を通って行きますでしょ。陸軍の場合、だから誘導機がいましてね。それで連れて行くわけですけど。そうしますと比較的、敵の遊撃機にぶつかることが少ないであろうということで、そのコースを選んでるんですけど。まあ、向こうは電探が優れていますからね、どっちに飛んでも見つけられたと思うんですけどね。

 --------そうすると、B-29が飛んできたり、特攻隊が通過したりと。

 江名‥B-29は飛んできませんけど、グラマンとかシコルスキーの戦闘機ですね。それに艦爆、艦攻、それから重爆の大編隊が毎日のように来るわけです。その時、イタズラして黒島に機銃掃射していく戦聞機がありました。黒鳥の住民は、昼間は何もできませんでした。黒鳥も戦場だったんですよ。

 --------黒島ではどんな生活だったんですか?

 江名‥私達の前に、陸軍の柴田少尉という方が不時着していました。柴田さんは4月13日に不時着して火傷で瀕死の重傷を負っていたんです。柴田さんは先任ですからね。打ち合わせをして、とにかく島の防衛をしろと。俺は動けないから島の防衛は頼むと言われました。敵の飛行機が見えたら、必ず身を隠すとかですね。敵が上陸してきたらどうするかという問題を部落の長老を交えて打ち合わせしました。山にとにかく住民は隠れるということで。その場合に、先任の柴田少尉は、軍人と一般人と一緒にいた方が良いか、それを君、考えろと。一緒にいると、迷惑かけるんじゃないかということもあるわけなんです。だから、軍人と一般人は一緒にいない方が良いのではないかということになりました。

 --------江名さんのペア、部下にはどんな指示を出していたのですか?

 江名‥敵機が来た場合はね、とにかく避難するとか、身を隠せとか。部落が2つあるんです。そっちの部落に桜井兵曹と前田兵曹を行かせて防衛に当たらせました。空襲のない時は、2人は農作業を手伝いました。食料がないでしょ。だから芋を植えたり、それから山へ行ってカズラの根をとって、それを天ぷらにして食べてましたけどね。そういう食料増産のために手伝ったり、海に行って夜釣りして魚を釣ってきたり。昼間は釣れないんです。危ないから。そういった事を、部下達はやっていました。私はやらなかったです。柴田さんの看護もありましたしね。側にいると、彼も非常に気強いんでしょうね。それでまた彼は、いろいろ私に指示をしましてね、だから非常にそういう点では上手くいきましたし、島民の方にも喜ばれたと思います。
編集者
投稿日時: 2012-3-2 13:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その18

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆陸軍小型潜航輸送艇現る(2)

 --------そうしている内に陸軍の小型輸送艇というか、いわゆる陸軍の潜水艦が浮き上がってきたのですか?

 江名‥6月12日に陸軍の特攻機が一機、特操二期の、柴田さんの一つ後輩の中村憲太郎さんという方ですけどね。その方が九七戦で黒鳥の片泊に不時着しました。これで黒鳥には私と陸軍の柴田、安倍、中村の4機落ちたんですね。また、黒島付近の海に海没した特攻隊員も落ちていたと思います。

 7月17日の早朝、いつも朝ね、私は海岸が見える断崖のような切り立ったとこから海を眺めましてね。船が通らないか見るわけですけど、通らないんですよ。というのは、海中にはアメリカの潜水艦がいるわけです。通れば沈められちゃうでしょ。だから、日本の船は全然通らないんですよ。そうしましたらね、17日の朝5時ごろですかね、北の方からウエーキ(航跡)を立てて、私の住んでる黒島の大里めがけて船が近づいてきました。それでもう、いよいよ敵船が上陸かと村中大騒ぎとなりました。島民はみんな山へ逃げました。

 柴田さんに避難を勧めたところ「俺は動かない」と。彼はそこで自決するつもりだったんですね。柴田さんがそう言いますから、私も柴田さんの家の側でずっと見張ってたんですけどね。船は小型艦で砲身を島に向けていました。しばらく睨みあっていましたらね、小型艦から日章旗をパッと出したんです。艦から手旗で艀を出せっていう信号がありました。

 私は区長と一緒に艀で艦に行きましたらね、マルユの10号艇という陸軍の暁部隊の輸送潜航艇なんです。松岡中尉という艇長がいましてね、お聞きしましたら、これから沖縄作戦に行くので夜まで半舷上陸したいという要望でした。区長は「是非、上がって下さい。食料は乏しいので持参をお願いします」と言われ、それで松岡艇長と10数人が上がってきました。そこで洗濯したり、風呂へ入ったりしてました。

 その時に、沖縄が陥ちたことを知らされました。いよいよ本土決戦になると。この島も戦場になる日が近いと覚悟しました。その時、艇長に、帰りに寄れたら柴田さんだけでも内地の病院に入れて上げてくださいと頼みました。艇長は、これから沖縄へ行くので約束はできないという返事でしたが、帰れたら寄りましょうと、船にあった医薬品とか食料を柴田さんに少し置いていきましてね。その夜、出航して行きました。8月の半ば過ぎにならないと帰れないとも言われました。
 
 そうしましたら7月30日早朝、同じ船が黒鳥に向かって来ました。ああ、これはこの前の艇だという事で安心して、すぐ伝馬船を出して行きましたら、作戦が終わって無事に帰って来れた、ついては船のスペースがあるから、ここにいる搭乗員全員を救出すると。片泊にいた中村憲太郎さんにすぐ連絡しました。柴田さんは担架に乗せて5人艇に乗って、暁部隊の基地である長崎県の口之津へ上陸しました。その時は複雑な思いだったですね、島民に対して。これから戦場になるというその島に、島民を残して逃げて行くようで、それまで受けた恩がありますでしょ。非常に辛かったですけどね。

 帰ったら本土決戦があることは分かっていても、内地に帰れるという嬉しさが出ちゃうんですよね。7月30日に島を離れましたけど、後で聞きましたら、島民はその日から、みんな山ごもりしたといいますね。黒鳥が終戦を知ったのは昭和20年11月なんです。というのは終戦になっても内地から船は来ないでしょ。11月に初めて復員兵を乗せた船が黒島に帰ってきて知ったんですね。膵でみんな迎えに行ったんですけど、復員兵がたくさん乗って帰ってきたので日本が勝ったと思って、みんな万歳したそうですよ。そしたら、敗戦を告げられたということでね。だから、黒島の住民が敗戦を告げられたのは11月なんです。

編集者
投稿日時: 2012-3-3 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その19

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆陸軍小型潜航輸送艇現る(2)

  --------陸軍の 「マルユ」という潜水艦に乗られたという事なんですけど、「マルユ」自体が珍しいもので、それに乗った経験のある方は多くないと思います。乗員は全員、陸軍の軍人さんばかりなんですか?

 江名‥そうですよ。

 --------海軍軍人だった江名さんとしては、不思議な感じではなかったですか

 江名‥マルユ10号艇の方が歌う軍歌は海軍の歌でした。船乗りですから、そうでしょうね。

 --------どんな歌を?

 江名‥何だったかなあ (笑)。ちょっと今、思い出せませんけどね。海軍の軍歌を歌っていたのは確かです。

 --------操艦も全く問題ありませんでした?

 江名‥小さい艇でしたからね。私も潜水艦なんて初めて乗りました。飛行機がガブるのは、ある程度慣れていましたが……「ガブる」とは風でもって揺れるやつですね。マルユ艇は夜間、水上を走ります。昼間は敵の空襲に遭いますから潜るんですね。時化た海上を小さい船が走るもんですからね、艇のローリング、ピッチングで七転八倒しました。

 潜水艦に乗り込みましたらね、黒島よりはるかに美味しいものを出してくれたんです。缶詰ですけどね、ムシャムシャって食べたんですけど。まあ、汚い話ですけど、全部戻しちゃいました。もう苦しいんです。海軍に入って、潜水艦だけは乗らなくて良かったと思いましたけどね(笑)。狭い艇の蚕棚部屋みたいなところに寝かされました。本当に辛い思いをしました。

 --------何日くらい、マルユに乗っていたんですか?

 江名‥7月30日に艇に乗り、8月1日に口之津に入ったので2日間ですかね。甑島に寄りましたけど、それまでは船内を出られませんでした。

 --------部下の方も含めて、みんな船酔い状態だったんですね。

 江名‥みんなそうでした。あれですね、海軍もだらしなかったです(笑)。陸軍の中村さんも七転八倒してました。もうね「こんなんなら帰ってこなくてもいい」なんて言ってましたけど(笑)。時化のすごさを思い知らされました。

 --------そして、島原半島の口之津へ。

 江名‥長崎県の口之津に暁部隊の基地がありまして、そこへ入港しました。着きましたら暁部隊が歓迎してくれまして、寮が雲仙にあるから船酔いを治しなさいと1泊させてもらいました。柴田さんは、そのまま大分の陸軍病院へ直行しました。中村少尉は福間に行くので、雲仙で翌朝別れました。久しぶりにご馳走を頂きました。

 --------その後は3人一緒で行動されたのですか?

 江名‥3人でずっと百里原まで一緒の行動です。もうとにかくね、どこに行って良いか判りませんでしょ。だから翌日は佐世保鎮守府に行きまして報告したんです。そしたら、五航艦の司令部が今、大分に移っているので大分に行けと言われました。空襲の最中、列車に乗りましてね、大分まで行ったんです。そしたら、大分市は1週間くらい前に大空襲に遭いましてね、ほとんど壊滅状態でしたね。それで基地に行って五航艦の司令部に行きまして、特攻の顛末を報告しました。

 --------その後は百里原に戻れということに?

 江名‥ええ。そこで「お前の九七艦攻特攻は5月11日をもって解隊した。それぞれ皆、原隊に帰っている。だから、お前もすぐ原隊へ帰れ」と。それで「あ!お前達は二階級特進になってるぞ」って言われましてね(笑)。すぐこの世に戻りまして、江名「大尉」から江名「少尉」に落ちまして(笑)。

 それから原隊の百里原に向かったわけですけれども、8月7日に広島の街を歩きました。一発の爆弾で10万人の都市が消えたのをこの目で見て、戦争は人類に対する最大の罪悪と思い知らされました。
編集者
投稿日時: 2012-3-5 6:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第3回) ・その20

 海軍航空特攻 江名武彦 氏

 ◆終戦から復員

 --------百里原に戻られた後、すぐ終戦ということになりますね。

 江名‥8月10日に戻りました。それで、海軍航空隊のいい所なんでしょうかね、茨城県の袋田温泉に百里原の保養所がありました。戦地から帰ってきた者は、そこで5日ばかり休暇をくれました。広島を通りましたので、司令から原爆の被害について説明を求められました。原爆対応をどうしたらいいかとか。私はただ見てきただけですが、まあ、白いものを着てる者は放射線を反射して比較的、被害が少ないようだから、白い物を何か着るようにと聞きました、ということを報告しました。一応参考になったと、それでとにかく、袋田温泉に5日ばかり休養して来い。それから本土決戦だから働いてもらう、という事で3人で袋田温泉に行きました。そこで終戦のラジオを聞きましたよ。慌てて隊へ戻ったら、もうテンヤワンヤなんです。それで、17日に搭乗員は復員しました。とにかくアメリカが上陸する前に身を隠せとも言われ、取るものもとりあえず、私もそこで退隊しました。

 --------そこで、ペアの皆さんともお別れを?

 江名‥ええ、別れました。

 --------その後、江名さんは東京に戻られたのですか?

 江名‥父親だけが東京に残って頑張っていました。母親と兄弟姉妹は飛騨の高山に疎開していましたので、まず飛騨の高山に参りました。

 --------特攻出撃から数カ月経っていますから、ご実家には戦死公報が入ってたのですか?

 江名‥ええ、弔慰金も来てました。それを見て、ちょっと考えたんですけど、父親からも「生きて還ったんだから、その金すぐに返して来い!」って言われましてね(笑)。海軍省に返しに行きました。

 --------江名さんが戻られて、ご家族は喜びました?

 江名‥ビックリしてましたですね。戦友から特攻出撃したって事を知らされていますから。それで弔慰金まで来ましたからね。だからピッタリしてましたよ。
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