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     特攻インタビュー(第2回)
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編集者
投稿日時: 2012-1-22 7:30
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その21

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆運命の昭和19年12月14日(4)

 --------出撃した後は隊長機に付いて行くつていう感じだったのでしょうか?

 中村‥そうです。通信士の足立伍長を前方の銃座に移したので、それからは僚機との通信は不能です。なんせ5人しか乗っていませんから、後はもう隊長機の動きに合わせます。重爆の爆撃でも、いざ編隊で爆撃となったら、爆撃手は自分の照準は止めて、隊長機の爆弾が落ちるのを見てるんですよ。安全安全で用心しながらボタンを握っているんですけどね。それで隊長機の爆弾が落ちたのを見た瞬間に、自分の爆弾投下のレバーを握るわけですから。編隊長機が偏流測定から何から全部やって、それに合わせて自分たちも行動するということですね。通常一個中隊は3機。50kgの爆弾を11発積んでいるので、一度にドサッと爆弾が落ちます。

 --------爆弾がドサッと落ちた瞬間は、機が軽くなってフワッと浮いたりするのでしょうか?

 中村‥いや、浮いたりは感じませんけれども、機が軽くなります。

 --------そのときは操縦の微妙な調整をするのでしょうか?

 中村‥ええ、それはあります。敵の高射砲弾が空中でボンボンと炸裂して上がって来る。それに合わせて飛行機の動揺を抑えるというようなこともパイロットの重要な役目です。そうしないと、ちょっとこう飛行機の角度が変わっただけでも、射手の照準も爆弾の照準も、全部変わってきますからね。

 --------そういうときは、敵がパンパン撃ってきても、自分のやらなければならない任務があるわけですよね。恐いとか何とか言ってる暇はないわけですね?

 中村‥そうなんだね(笑)。

 --------よく「恐くないんですか?」なんて聞かれることはありませんか?

 中村‥恐いとか何とか言っている暇はないですね(笑)。だから私らなんかは、戦闘隊形、翼が重なり合うくらい編隊長機に接近してガーツて操縦するわけですから、今考えると、射手なんかもずいぶんやりにくかったんじゃないかと思うんですよ。細かい舵を使ってエンジンをふかしたり、あんまりふかすと編隊長機の前に出ちゃうし、絞りすざると後に下がるし。そこをブーツブーツとやって、編隊長機の傾きに角度を合わせるから、細かい舵を使うでしょ。横向きの機関銃手なんかは、しょっちゅうこうなっている (揺れている)わけですよ。あれは訓練も本当はやっとけば良かったかな、なんて思いますね。

 ざっくばらんな話をすれば、満州での射撃訓練では、戦闘機が大きい吹流しをブーツと引っ張りながら飛ぶわけですよ。我々は飛び上がったら、一回りしてその戦闘機を後から追いかけて、乗ってる射手の人たちが、機関銃やら機関砲やらパンパンと、その大きな吹流しを目がけて撃つわけです。自分の弾には色が付いているので、地上に降りた後でその弾痕を見れば、誰が撃った弾か判るわけです。私らなんかも成績の悪い下士官が乗るとね、後から行って吹流しと編隊を組んでやることがあるんですよ。そうすると通り越せば良いんだけど、そこでウツと止まって、その時パンパン、パンパンと撃つと、自分の撃った弾が一杯当たった形跡が残るんです。後で帰って来て点検してみると、「おっ! 何々軍曹の弾は、いっぱい当たってる!」と。

 本当は吹流しと編隊を組んでやったんですけどね (笑)。そうすると射手が、私のところにお礼を言いに来るわけですよ。「どうも有難うございました!」って (笑)、お土産まで貰いましたね、羊羹貰ったり(笑)、こっちも「おお、そうか!」なんて…。でも、ああいう訓練じゃ実戦ならどうなんだろうと思ってね。それこそ、戦闘隊形をとって細かい舵を使った場合、安定した銃の照準ができるかどうかは難しいですね。もうちょっと実戦に即した訓練の方法があったんじゃないかなと、後になって考えていますが…。
編集者
投稿日時: 2012-1-23 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その22

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆編隊は次々に被弾炎上し海中へ落下(1)

 --------12月14日の出撃も、敵機がワーツと来て、当然射手も撃つのでしょうけれども、そんなときでも編隊長に付いて行くというのが、操縦士の基本だったのでしょうか?

 中村‥そうです。加速度をつけながら降下する9機編隊が、だいたい時速350kmくらいの速度で、これ以上の速度だとフラッターを起こすけど、なにくそっ!とばかりに編隊長機に合わせて食い付いて行くわけです。そこへ敵が後上方から、攻撃をかけて来ます。編隊長機の後上砲射手・戸田軍曹が一番よく敵が見えるので、彼が歯を食いしばって20mm砲をガンガン撃ちまくってるのが見えました。後で考えると、本当は何で敵の船がいないのに、特攻隊の編隊を出動させたんだろうと。考えてみれば軍司令官の命令でしょ。丸山大尉は、なに馬鹿なことやったんだろうと、こう思ったんですよ。だから、丸山大尉はどうすることもできない。現場に行ってみたら敵の船がいない…、自分は48名の部下の責任者を命じられている。さあ、どうしようと、丸山大尉は悩んだんじゃないかなあと思いますね。私がもし特攻隊長を命ぜられた丸山大尉の立場だったら、どういう判断をしたんだろうと思って…、なんせ敵艦が全然いないんだから…。上空にはアメリカの戦陣機サンダーボルト (P-47) が18機くらいで待っていたって、秦郁彦さんの調査では書いてありましたけどね。

 降下していったはいいんだが、高度計が100mになったとき、今度は突然隊長機が突っ込みながらの急角度の右旋回を始めました。時速350kmくらいで行ったやつが、ここでレバーを絞らないと(手振りで)こっちに出ちゃうわけですよ、私らなんか。あるいはこっちに出ちゃう。内側の私は仰向くような形で旋回する。レバーを絞るので速度が急激に落ちます。海と島影が目に入る…。体当たりする敵の船はどこだ?と一瞬思ったが、失速寸前の今はそれどころじゃない。これは大変な旋回をやってるねって瞬間思って、こいつはこう出ないと俺のほうが落っこっちゃうから、長機の下を向こう側へ潜り込んで抜け出ようと思ったときに、敵の弾が私の機に当たったんですね。旋回のときは機体が失速するから狙われやすい、敵はそこを突いて撃ってきたんでしょう。

 幸い右旋回中だったから、私はすぐに右エンジンの回転を上げ、プロペラスイッチを下げて片発飛行に移りながら右上方を見ると、さらに旋回半径が大きい3番機は、グワングワンとエンジンをふかして長機を追っかけないといけないのですが、その3番機の久美田軍曹機も敵にやられて火がついて、私の目の前で主翼から真っ赤な炎と黒煙を噴出させながら、海中に突っ込んでゆきました。操縦席の後ろで、日の丸の鉢巻をしめた機上機関の富田軍曹が別れの手を振ったように見えました。あれは本当に気の毒でしたね。私の飛行機も、そのときボコツという衝撃と一緒に、左のエンジンに敵の弾を喰らって、ガガツと火が出て黒煙を噴出し空転しだした。ああ、こりゃダメということで編隊を離脱しました。2番機は離脱、3番機は火を噴いて落ちて、大音響を上げて爆発を起こす。編隊長機はそのままダーツと、右へ旋回を続けていくと。それが第1編隊ですから3機、それから第2編隊、第3編隊とあるわけです。他の5機はどうしたか分からないけれども、私が編隊離脱するときに2機火を噴いて落ちてゆきましたから…。3番機が落ち、2機が先に落ち、私の機が片方のエンジンをやられて落ちると、あのときは第1撃で合計4機が落ちたと思いますよ。海上のあちこちで我が方の機であろう爆発が相次いで、ガソリン特有の真っ黒な煙と真っ赤な炎が噴き上がっていました。
編集者
投稿日時: 2012-1-24 6:39
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その23

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆編隊は次々に被弾炎上し海中へ落下(2)

 --------9機編隊の半分近くが、その時点でやられてしまったのですね…。

 中村‥そうです。それでも私は単機になって海面スレスレに飛び続けました。左エンジンがやられているんで左旋回ができないから、右旋回・右旋回で少しずつ旋回しながら敵の攻撃をかわして、なんとかして島近くへ不時着をしようと思いながら逃げていたんですけど、敵もさるもので、私が (手振りで左側) こっちしか回れないもんだから、こっちから弾を流して後上方から執拗に撃ってくるんですよ。機関の河井軍曹が副操縦席から必死で左エンジンのレバーをあおっている。こう(右側を)見てると、アメリカ軍の曳光弾が光の帯になっていました。日本の曳光弾は7発に1発しか入ってないから、あまり光の帯っていうことにはならないけれども、アメリカ軍の機関銃には3発に1発の曳光弾が入っているので、ガーツと出れば黄色や赤の光の帯です。それが右の方から、こういう風に流してくるんですよ。で、私の機はこっち(右) にしか回れない(笑)、どうしても機に弾が当たってしまうよね。

 --------曳光弾の光は記録映画では見たことあるんですが、生で見ると恐怖心が湧きますでしょうか?

 中村‥いや、ほとんど音は聞こえないです。ただ、光の帯がサーッと来て機体に当たればボコボコと穴が開きます。こっちは恐怖心というよりも、操縦しながら「ちっきしょう!」 っていう悔しい感じですね (笑)。あのときに後上砲の藍原少尉とか尾部の小林光五郎曹長はどうなっていたか、よく分からないなあ。藍原少尉の撃つ後上砲20mm機銃の射撃音も途絶えがちだったし、前方に通信の足立伍長を移したから、13mm機銃で応戦しているものの、うまく当ててくれなかったんじゃないかなあ。敵が落ちたっていうのは、全然感じなかったものなあ…。こっちがやられて落ちたって感じでしたね。これが戦闘機だったらなあとつくづく思いましたよ。
編集者
投稿日時: 2012-1-25 8:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その24

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆空中戦で撃墜され海上に不時着(1)

 --------空中戦で撃墜され海上に不時着されたときは、命拾いしたっていう思いなんでしょうか?

 中村‥「やられたな!」っていう感じでしたね。敵の追尾は戦闘機4機。海面すれすれに飛びながら、辛うじて墜落を防いでいた私は、足下を飛び去ってゆく海面を見ているうちに、これはここで死ぬのかなと一瞬思いました。でも死ぬときは、父母や姉妹の顔が走馬灯のように思い浮かぶという話を聞いていたけど、ちっとも浮かんで来ない。降り注ぐ光の玉を4~5回かわしているうちに、光の玉から逃げないで向かって行ったら何とかなるのではないか、えいっ!ままよ、と光の玉の流れに右旋回で突っ込んだ瞬間、操縦席にまともに敵弾を喰らいました。私の耳元でパパパパッていう弾の音、目の前に並ぶいろんな計器盤が一瞬にしてすっ飛んで砕け散りました。あっ!と思った瞬間、飛行機は右の翼端から海中に旋回する形で突っ込んだ。

 海水がもの凄い勢いで操縦席に飛び込んでくる。息を詰め目をつぶって、私は操縦桿にしがみついて両足を踏ん張り力一杯引っ張りました。操縦桿を前に抑えたら飛行機はグイと海の底へ落ち込む、操縦桿を引っ張り上げていれば尾部が下がる。海水が入って来ても空気の流れと水の流れと同じだから、操縦桿を引っ張ってれば何とか頭から機首が海底に突っ込まなくて済むんじゃないかと、とっさに思ったからですね。

 顔や身体が変形しそうな勢いの海水の流れを全身に受けました。ガーツ!と凄い水圧で、こりゃ大変だと。私らの飛行機の操縦席の計器盤の、このぐらいの厚さの鉄板が置いてあって、背中にも同じような鉄板が置いてあるんですよ。「これはぶつかったらサンドイッチだなあ!」なんて言ったことがありましたけどね。そういう飛行機に乗ってたわけだから。そのせいかも分からないけれど、ああいう具合に火を噴いて落ちていく自分の友軍機を見ると、あんな鉄板はあまり防弾としての効果はなかったかなと…。なんせ爆撃機の弱点っていうのは、両サイドと前方の上なんですよ。
機関銃やら機関砲が後と前を向いてありますが、横と前の上っていうのは爆撃機の弱点なんです。そこには何もない。そこを狙われるといっぺんに逝っちゃいますね。

 海水の流れを全身に受けて何秒何分が経ったか、気が付くと機はぽっかりと海面に浮かんでいて、機関係の河井軍曹が浮かんでいる飛行機の左の主翼端に出て、まさに海に飛び込んで泳いでいくところでした。あの間、私は失神していたといいますか、気が遠くなった瞬間があったんじゃないかなと思いますね。まあ、あのときはいろいろ感じましたよ。あれれ、河合軍曹が海に飛び込んでいっちゃう、さあ、俺はどうしようかと。私が操縦席から「おい!河井軍曹! どうするんだ?」と訊ねると、河井は「向こうに見える島まで泳いで行く」と言いながら、航空長靴を脱ぎ捨てて飛び込んで行ってしまった。見ると、遥か水平線の彼方にうっすらと島影らしきものが見える。

 私は操縦席に座ったまま腰まで海水に浸かっていたので、持っていた航空地図を破り捨ててゆっくり左主翼の上に出ました。
編集者
投稿日時: 2012-1-26 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その25
 
 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆空中戦で撃墜され海上に不時着(2)

 --------機体の被害状況はどうだったのでしょうか?

 中村‥操縦席のガラスは厚さ5cmはあった防弾ガラスを含めて全て吹っ飛んでいました。たぶん飛行機は後上砲の部分から真っ二つに折れて、主翼だけで浮かんでいたんだと思いますね。
 主翼の3番タンクが空で浮き袋になっていましたから。最初は浅瀬に着水したと思ったんですが、あんな海の真ん中に浅瀬なんかあるはずがないからねぇ。

 泳ぎには自信がないし、さてこれからどうしたものかと考えていると、「中村、中村!」と私の名前を呼ぶ声がする。見回すと私の立っている主翼の後ろの海の中から、藍原少尉が周囲の海を血潮で真っ赤に染めて、「オーッ」とこう(手振りをされて)手を振っている。私は「あっ!藍原少尉、やられましたね!」って言いながら、飛行機の上に引っ張り上げてやろうと思って手を差し延べたとたん、ウワウワッと(身振りをされて)今まで浮かんでいた機体がまるで吸い込まれるように海中へと沈んでいったわけです。

 考えてみればね、500kgの爆弾を吊ったまんまだから…あれは、本当は途中で捨てたかったんですよ。だけど、敵がいないのに海に捨てるのももったいないし、もしそれが島なんかに当たって爆発した場合に、住民が怪我したり死んだりしたら、また気の毒だし。また海面スレスレに逃げていましたから、高度100mくらいのところであの爆弾を離したら、どういう具合に機体へ跳ね返ってくるかも分からない。だから結局、爆弾を捨てるチャンスを失って、そのまんま海の中に飛び込んだわけだから…。発見されたこの飛行機にも(手記をご覧になって)、500kgの爆弾が積んであるからね、って言ったら(笑)、教えてくれた方が「現地に直ぐに連絡します」と言ってました。その後のことは、聞いてませんけど…。

 尾部には藍原少尉のほかにも小林曹長という射手が乗っていましたが、もう最初からどうなったか消息が全然分からない。この飛行機を海中で発見したウィンズ・インターナショナルの社長に、遺体みたいなものはなかったかって聞いたら、見つかんなかったって言うから…。まあ、60年も経っていればねぇ、人間の骨もなくなっちゃうのかもしれないですね。

 --------まあ、機外へ流されちゃったかもしれませんしね。どこか飛行機とは別のところへ…。

 中村‥そうですねぇ…。なんせ爆発してるんだから、遺体はフィリピンの海の底にあるのでしょうが、どうなっているか分かんないもんね。私の機は爆発しないで平らに沈んだから、多分これは私の機だということなんだけど、確証はないんです。確証はないけれども、ここに今持って来ているビデオ映像には、もう細かくあっちからもこっちからも、イソギンチャクがくつついたような左発動機やら20mm機関砲やら何やらが映っていまして、私が引っ張っていた操縦桿も映ってるので、あの状況から当時爆発しないで、そのまま平らに沈んでる飛行機は、私のぐらいしかないのではと思っているわけです。
編集者
投稿日時: 2012-1-27 6:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その26

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆空中戦で撃墜され海上に不時着(3)

 --------機体が吸い込まれるように海中へと沈んで、藍原少尉と中村さんはどうなったのでしょうか?

 中村‥私は機体が沈んでいったあおりで、海中へと巻き込まれてしまい、再び水面に浮かび上がったときには、すでに藍原少尉の姿は見当たらず、大声で叫んでみたけれども応答はありませんでした。海軍の飛行機乗りが着るような救命胴衣もないし…さあ飛行機が沈んじゃった、どうしようかなと思ってしばらく立ち泳ぎをしていると、沈んだ機に積んであった落下傘の塊がズポッー・ズポツー・と音を立てて勢いよく浮かび上がって来たんです。「これは、ありがたいわい」と思って、天の助けとばかりに私はその一つにつかまって、運を天にまかせてプカリブカリと漂っていました。見上げれば空は晴れて風もなく、波も静かで今まで激しい空中戦があったことなど嘘のようでしたね。敵は撃墜した後も、生存者に対して執拗に銃撃をしてくると聞いていましたが、雲一つない青空には敵機の機影すらありませんでした。「助かったな」っていうよりは「生きてるな」という感じでしたね。手袋やら何から、みんな海の中に捨てて「バイバイ」なんてセンチメンタルになって…(笑)。

 --------他には誰も生き残っていなかったのでしょうか?

 中村‥泳ぎ出してからどれくらい経ったんだか、私の浮かんでいるすぐ近くの海中から、足立伍長がイルカみたいに海面に飛び出してきたんです。てっきり河井と私以外はみんなやられてしまったと思っていたんで、びっくりして「足立-・大丈夫か?」と声をかけたんですが、何も言わずに泳いで行ってしまいました。自分だけでも助かろうという極限の人間性剥き出しの行動だったんだか、日露戦争当時の軍歌『戦友』にあるような傷付いた戦友をいたわるような物語は絵空事にすぎないのかと、何とも空しい気がしたものです。しかしながら運命とは皮肉なもので、結局私は生き残り彼らはみんな死んでしまった。パラシュートにつかまったまま、私は海水を吸って窮屈になってきた皮の手袋やお世話になった飛行帽、航空長靴などを次々に「さようなら」なんて言いながら海に沈めてセンチになってたねぇ。まあ、そのうちにどっかの島に流れ着くだろうなんて思いながら浮かんでいましたよ。
編集者
投稿日時: 2012-1-28 7:31
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その27

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆空中戦で撃墜され海上に不時着(4)

 --------どんなふうに救助されたのでしょうか?

 中村‥パナイ湾だから落下傘につかまってプカブカ浮かんでれば、何処かの島へ流れ着くだろうぐらいに考えていたんで、どうにかなるんじゃねえかと思っていたら、ふと気が付くとフィリピン人らしき人たちが4~5隻のカヌーに乗って、海面に浮かんでいる落下傘やらいろいろなものを近くまで拾いに来ていた。落下傘は絹製品だからね。それまで全然気が付かなかったんだ、フィリピン人がそばに来てるってことは。その中の1隻が落下傘の一つにつかまっている私を見つけて寄って来た。「お~う!」っと、落下傘につかまりながら手を振ったら、乗ってる男の一人が「オウ、トモダチ!トモダチ!」なんて叫びながら手を差し延べてきた。

 フィリピン人に助けられて、友軍の基地に送り返されたというような飛行機乗りがいることは何回も聞いていたんで期待して、「オ~、サンキュウ、サンキュウ!」 とか言ってカヌーに引っ張り上げて貰ったね。彼らはいかにも好意を持っているという態度を示しながら、私の着ている飛行服がびしょ濡れだから「ノーグッドだ」と連発して脱ぐように手真似で話しかけてきた。そんでついその気になって全部脱いで、ふんどし一本になったところへ、今まで親切顔をしていた野郎が手にギラギラ光る山刀を振りかざして、ガツと襲いかかってきた。こっちは助けられてホッとしていたもんだから、虚を突かれて奴らに縛り上げられてしまった。だらしがないようだけど、長時間泳いだせいで疲れていたから抵抗する元気もなかったね。両手首を海水の染みた麻縄でギリギリ縛るんですよ。で、彼らは「カポイ、カポイー」なんて叫んで、何がカポイだと思ったら両手首をギユウギユウ縛られましたね。
編集者
投稿日時: 2012-1-29 8:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その28

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆土民に救助されそのまま捕虜に(1)

 --------救助だと思って安心していたら敵に捕まってしまったんですね。

 中村‥そうです。私を乗せたカヌーは少し大きい親船のところへ着きましたが、親船の帆柱には、私を見捨てて泳ぎ去った河合と足立が、首に縄をつけられて帆柱に縛り付けられていましたよ。「何だこれは、大変なことになっちゃったね」なんて…。でも相手はフィリピン人だから、まだ捕虜になったって感じは全然しない。フィリピンと戦争しているつもりはなかったからね、我々は。アメリカ軍と戦ってるんだよ。場所がフィリピンだっていうことだけで、フィリピン人と戦ったという意識はないですよ。

 --------ケガはしなかったのですか?

 中村‥島に着いてから3人は別々に海岸の太いヤシの木に縛り付けられました。そこで河井が左肘を骨が飛び出すほどの負傷をし、足立は右膝を打って脚が曲がらないようなケガをしていることが分かったけど、2人ともそんな身体でよくまあ泳いで来たものだと感心したね。私は顔の右側にガラスの破片でかすり傷をしていたのと、右脇腹に十円玉くらいの大きさの火傷を負っていたが、他にケガはどこにもなかったね。

 あまりの環境の変化にボヤッとしていたら、アメリカ軍の服を着たフィリピン人の男が、裸馬に女と2人乗りで、海岸の砂を蹴り立てて駆け付けて来た。その男は抗日ゲリラの将校らしく、私らを捕まえた連中と何やら話をしていたんだけど、そのうち話がついたのか、私たちは縛られて裸足のまま別の場所へ移動することになって、飛び上がるほど熱い砂浜を歩いたり、ジャングルの中に入ったりしながら長い間歩かされたんだ。途中で2カ所くらいに大きな鉄鍋が潅木の茂みに隠してあったり、中には塩味の付いた外来米が入っていて、それを手づかみで食わされたが、ゲリラの食糧なんだろうな、美味しいものではなかったね。

 海岸から少し入った岩陰にゲリラの見張り所のようなところがあって、そこへ連行された。3人はそこで初めて話をしたんだ。「どうやら捕虜になったらしいが、故郷の人に迷惑をかけないように変名しょう」と、たしか河井が言いだしたと思うんだけど、私は斎藤十郎、足立が横山道雄になったんだ。肝心の河井の変名は何だか忘れてしまったよ。

 --------いよいよ捕虜への尋問が始まるわけですね。

 中村‥しばらくしてから、見張り小屋で尋問が始まった。尋問するのは日本語の上手なフランス人形のように奇麗な白人女性だったですね。ふんどし一本の私は、ゲリラの兵隊が着用しているカーキ色の半ズボンを穿かされてから、彼女の前に連れ出された。もちろん両手は縛られたまんま、後ろには自動小銃を持ったゲリラが見張っている。彼女の前にある机には、呑龍の図面が置いてあって、それを指差しながら、「アナタノ、ヒコーキノシゴトハ、ナンデスカ?」といった調子だよ。連中は呑龍を「ヘレン」と呼んでいた。

 後で分かったことなんだけど、敵の飛行機をニックネームで呼ぶんだねぇ、それも女の名前だ。海軍の一式陸攻は「ベティ」って呼んでたね。

 私は操縦士だったと言うと、後でうるさく聞かれそうな気がしたので、「私はマシンガン、マシンガン」なんて言って機銃を撃つ仕草をして見せたんだ。でもバレてたみたいね、私が操縦士だってことは(笑)。3人の尋問が終わると、どういうわけか、河井と足立は残されて、私一人だけが奥地の屯所へ行くことになった。いい加減なことを言ったので、これは銃殺されるかもしれんぞと思っていたんだけど、逆の結果になったことを知ったのは後のことだった。もう夜になって暗くなっていたんだけど、私は自動小銃を持ったゲリラ2人に連行されて、珊瑚礁の岩をよじ登り、谷を下ってジャングルをかきわけながら奥の屯所へ向かった。ジャングルの中には、あちこちにスピーカーが取り付けられていてジャズ音楽が流れていたよ。ここが戦場なのかって思ったほどだ。余裕だよねぇ…。

 奥の屯所といっても、ちょっとした空き地とニッパハウス(熱帯地方のニッパ椰子の葉で屋根を葺いた家)が数棟建っているだけで、電灯が点っているわけじゃない。ガソリンを入れたマニラビールの小瓶に布を差し込んで、火をつけたのを灯りにしてるだけなんだ。そこの食堂に連れて行かれ、ゲリラの奴らに囲まれながら、ブリキの皿に盛ったジャブジャブの外来米と魚の唐揚げを食わされた。奴らも食事中だったらしいが、手の指でこう器用にまとめて口に運んでいたね。私がスプーンを要求すると、こっちを見ている連中がオーとか言って声を上げていた。後で聞いたらスプーンやフォークを使うのは将校だけだったらしいんだけど、そのときは貸してくれたよ。
編集者
投稿日時: 2012-1-30 7:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その29

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆土民に救助されそのまま捕虜に(2)

 --------銃殺にならなくて良かったですね。奥の屯所に連行されたのは中村さん一人だったのでしょうか?

 中村‥そこにはその日のうちに海軍の偵察機の2人、翌日になって私らの隊長機の通信士だった出納軍曹、陸軍の偵察機の2人、歩兵の上等兵が1人と、次々と連行されて来た。あと以前からこの屯所にいた陸軍の液冷戦闘機(編者注・三式戦闘機「飛燕」と思われる)乗りだったという男、合計8人くらい、捕虜になったのがあちこちからその晩集められた。みんな不時着や偵察に出て捕まったそうだ。

 陸軍の偵察機の2人のうち、偵察員が尋問で話が合わないという理由で銃殺されてしまった。彼は背丈の大きいキリッとしたハンサムな顔立ちだったが、不時着のショックで顔面を打ったらしく、両眼が真っ赤に充血していたな。奥の屯所に連行されなかった河井や足立もそうだけど、どうやら負傷している捕虜は殺してしまうようだった。それっきり河井と足立の姿を見ていないんだ。後で奥の屯所に来た海軍の操縦士の話では、河井と足立らしき二人がゲリラに連れられて、ゲリラの一人は銃、ゲリラの一人はスコップを担いで、一緒にどこかへ行ったのを見たというんだね。オーストラリアの捕虜収容所で、レイテ島付近のアメリカ軍の野戦病院に収容されてた奴とかから情報を集めてみたけど、そういう者は居なかったということだった。2人はケガをしていたので、やはり処刑されたのかなと思うね。

 奥の屯所には2週間くらいはいたと思うね。出撃が14日で、クリスマスのお祝いをゲリラたちがやっていたから、10日以上は経っていたはずだ。日中はなんということもなかったけど、夜になって眠るときには、逃亡しないようにニッパハウスの竹床の上に、バンザイをした形で手足を丸太ん棒に足首と手首を縛り付けられ、仰向けに寝かされたね。ここでも不寝番が自動小銃を持って見張っていたよ。夜中に小便がしたくなったら、不寝番に向かって大声で「ションベン!」と叫ぶと、私のチンポコを引っ張り出し、大の字になっている体を裏返してくれるので、竹床の隙間から床下に用を足すんだ。下は砂地なのできれいに吸い取ってしまう。そのときは「今度ここへ来たら、絶対爆撃してやるぞ!」と(笑)、そういうふうに思ったね。風呂はすぐそばを流れる川で水浴びをしてた。川の水は茶色できれいな水ではなかったし、ワニがいるとゲリラが言ってたよ。川岸の木の枝には大きなトカゲがとまっていた。

 ゲリラの兵隊は、いつも裸足なんだよ。背が小さくて訓練っていうと竹の筒ですよ。このくらいの(手振りで)小銃の長さくらいの竹の筒を持ってね、こっちにゲリラの下士官がいて英語で号令をかけると、バッハッ!と竹の筒を担いで下ろしたりね。行進するのも、みんな裸足だから。そういうゲリラ兵だったから、私らと仲良くなるのも早かったですよ。下士官が小屋の中からその土民を集めて、「マン!エクササイズ!ワン・ツウ・スリー・フォー!ワン・ツー・スリー・フォーー」なんてやって、こっちも一緒になって体操やったり(笑)、そんなことをやって過ごしていました。

 私らはもう今日は何日なのか、今は何時なのかなどはどうでもよくなったていたね、いつ死ぬか分からない身であれば、死ぬまで生きてやろうというところだ。ゲリラや土民たちとも仲良しになり、彼らも私らの頭髪を刈ってくれたり、ガラスの破片でヒゲを剃ってくれたりしました。海岸に出て、この島(ネグロス島)の多分バコラドの友軍基地を爆撃に行くらしいアメリカ軍のコンソリ爆撃機(B-24) の大編隊を一緒に眺めたりしていました。

 --------〝フィリピン人は敵″という意識がなかったってことですね。

 中村‥そうです。だいたい我々がフィリピン人と戦っているという意識は最初からないんだから。本当の敵はアメリカだしね。だからそんなことで、ただ助かったっていう意識は、ホントないよね。オーストラリアの捕虜収容所に行ってもそうでしたね。助かったという意識はなかった。その前にホーランジャ(現在、西部ニューギニアのジャヤプラ)の捕虜収容所にいたんだけど、そこは大規模なもんで、ジャングルを切り開いて有刺鉄線の柵を張り巡らせた中に、大きなニッパハウスが幾棟も建てられていて、真っ黒に日焼けした日本軍捕虜が、元気な者もそうでない者もウジャウジャといたよ。こんなに大勢の捕虜がいたこと自体が驚きだったけど、その連中が元気に飯を炊いたりしているのを見て二度びっくりだったね。だいたい、日本軍には戦陣訓(せんじんくん)っていうのがあって、"生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残すことなかれ″っていうことが書いてあったでしょ。有り難きご託宣だけど、そんなものクソ喰らえ!のバイタリティだよ。戦陣訓だけなんだよね、何かこう派手にクローズアップされて、いろんなことが語られているのは…。
編集者
投稿日時: 2012-1-31 7:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その30

 陸軍航空特攻 中村 真 氏

 ◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(1)

  --------中村さんはオーストラリアの捕虜収容所で終戦を迎えられたことになるのですが、そのときの心境は今思い起こすといかがでしたでしょうか?

 中村‥終戦のときは収容所で「日本が負けた」っていう情報だけですからね。"ジャパン・サレンダー〟 の見出しが出てる新聞を持ってきたオーストラリアの兵隊が喜んでいてね、「サレンダーつて何だ?」 って聞いたら「無条件降伏だ」なんて感じでしたよ。日本が負ける気はしていたんですよ、本当はね。フィリピンで捕虜になって「俺が墜落するようじゃ、これは日本は負けるな」と、そう思っていましたね。それから今度はアメリカ軍に連れられて、ホーランジャやオーストラリアの捕虜収容所や飛行場なんかに着陸してみると、もう凄い物量だもんね。日本じゃちょっと考えられないような、たくさんの物資が敵さんにはワイワイある。それでも、アメリカの雑誌で『ライフ』っていう雑誌があってね、オーストラリアの兵隊がそれ見ながら「うん、こうだこうだ」って話してるんだけど、最初の頃は紙が厚かったんですよ。それがだんだん捕虜生活の終わりの頃になってきたら、その兵隊が持ってくる『ライフ』が紙がうんと薄くなってきた。だから「あ!これは敵も物資がちょっと不足してきてるんじゃないのか」って。「よし!俺もうんと飯を食らって、敵の糧秣を減らしてやろう!」ってなことを言ったことがありましたよ(笑)。

 --------昭和16年に戦陣訓という訓令が示達されて、捕虜のことについてもいろいろ書かれていたりするんですけれども、やっぱり捕虜になったことについて中村さんにとっての特別な思いは、今でもあるのでしょうか?

 中村‥たしかに今も心のどこかに引っ掛かっているね。だから無理に天皇陛下が終戦の詔勅(玉音放送)なんていうのをラジオで放送して、敵に降参してるんだと全軍に公布したんです。日本国民全員が捕虜なんだと思っています。私は終戦後、32年間警察官をやっていましたが、昭和27年の条約ができるまでは、全部GHQの指令で警察も動くわけですよ。丸の内の交差点で進駐軍の憲兵(MP)と一緒になって、笛でピッピーツなんて手振りで踊るような交通整理もやりました。

 --------他の戦争体験された方の話を伺うと、例えば特攻隊にいた方とか、シベリアで抑留された方が日本に帰ってきてから、特攻隊に前にいたっていうのが判ると「あいつ、特攻崩れだから」って嫌がられたり、シベリア帰りだと分かると「あいつ、アカだから」っていう風で、すごく虐めらたとか、それが判ると仕事をクビなったりして、そういうことは絶対に人に言えなかったっていう話は、よく聞きますけど…それは、やっぱり分かるって気がしますでしょうか?

 中村‥まあ、そうだね。私は司法保護団体の伯父のところに行って、1年か2年くらい勤めたのかな。すると少年審判所の所長が視察に来て、私の伯父に「あなたのところの職員には、非常に目つきの悪い男が一人いる」と言うことを、伯父に言ったそうです。そしたら伯父がね、「ああ、あれは私の甥で、空軍の飛行機乗りで、特攻隊上がりだから目つきも悪いんだろうから、それは心配ないから」というようなことを言ったって、伯父が言ってました。特攻崩れじゃなくても、そういう態度があったのかも分からないね。「野郎、どうにでも来やがれー」っていうようなね。オーストラリアから内地へ帰る途中の引き揚げ船の連中が、ろくに食料を出さず横流ししているのを知って、これはおかしいとみんなで一斉に蜂起し、引き揚げ船を分捕ってオーストラリアから積んだ米を全部食ってしまった。あれは一番気持ち良かったね!そしたら大阪商船に勤めていた奴が文句言ってきたよ。それで、第二台海丸っていう引き揚げ船で支給するものをネコババしていい思いした事実があるかどうか調べさせてくれなんて言って来たよ。「おう、調べてくれ」って言ったの。とんでもない野郎がいやがるから(笑)。
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