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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     特攻インタビュー(第2回)
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編集者
投稿日時: 2011-12-28 8:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回)

 特攻インタビュー(第2回)その1

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏 


  特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
  特攻ライブラリー取材スタッフ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「編注・当協会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員により「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当協会事務局(担当大澤)までご連絡下さい。」

   ◇   ◇   ◇

 中村 真 氏 軍歴 (略歴)

 逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所陸軍曹長
 陸軍飛行第九五戦隊第二中隊 百式重爆撃機二型「呑龍」操縦士
 菊水隊 フィリピン・ネグロス島沖にて突入

   ◇   ◇   ◇

 ○特攻ライブラリー取材スタッフ (五十音順)

  及川 昌彦  世話人
  神崎 夢現  進行・構成
  倉形 桃代  記録
  堤橋 律子  世話人
  須貝 智行  写真撮影
  高橋  暢  映像撮影
  長尾 栄治  インタビュアー

 ◇    ◇    ◇

 撃墜され全滅していたはずの陸軍特別攻撃隊「菊水隊」救出され捕虜となり唯一の生還者となった中村 真さんに真実を訊く

編集者
投稿日時: 2011-12-30 7:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回)その2

陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆将来は飛行機乗りだ!(1)

 --------中村さんのお生まれは何年でしょうか?

 中村‥大正12年の3月3日、桃の節句です。関東大震災が起きた年です。

 --------お生まれが、福島県の郡山市ということですね?

 中村‥福島県の郡山です。あのころ父親が橋本製糸工場の支配人をやっていましたので、そこの社宅で次男として生まれました。

 --------旧制安積中学卒業後は、どうされたのでしょうか?

 中村‥追浜にあった海軍の航空技術廠に就職をしました。

 --------それは、普通に就職試験みたいのを受けられたのでしょうか?

 中村‥そうです。なるべく飛行機に近い仕事に就きたかったもので、海軍航空技術廠だったら飛行機に触るくらいはできるんじゃないかなと希望を持って行ったんですが……結局、総務部の事務員でね、タイピストの間を駆け回って書類を集めて配る、というような仕事になってしまいました。

 --------やっぱり子供の頃から空への憧れっていうのは、強かったんですか?

 中村一子供の頃というより中学3年生頃から私は「将来は飛行機乗りだ!」と思っていました。ある映画を観たときに、鈴木傅明という冒険の役者がおりましてね、彼が複葉機に乗りガ~ンと飛んで、牧場にいる女の子のところへ郵便物を届けるシーンがありまして、白いマフラーを靡かせてバイバイと飛び去っていくんです。大昔の映画ですけどね。それを観て「ああ、俺もああいうことをやってみたいな」という憧れが子供心に芽生えました。

 --------当時、中学校進学は相当エリートというか、学歴が高い方だったと思われるのですが、当時例えば予科練に行くというのも選択肢の一つとしてありましたでしょうか?

 中村‥ありました。七つボタンということで甲種飛行予科練習生の受験をひとつやってやろうかと。それには体を鍛えなければと思って中学校の放課後、砲丸投げをやったり鉄棒をやったりランニングなどをしていました。あたりが暗くなるまで運動をし過ぎたので肋膜炎になりましてね、それで3カ月位学校を休んじゃったんですよ。肋膜をやったんじゃこりゃ予科練はダメだなと、それで諦めたんです。あと士官学校や海軍兵学校は、頭のいい奴だと中学4年生くらいから、そっちのクラスに入っていましたからね。私はそのクラスじゃなかったから(笑)。

 --------海軍の航空技術廠にお勤めになった後に、逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所の操縦生の募集をご覧になって、そちらを受験されたということですね?

 中村‥そうです。試験の内容を見ると中学3年生修業程度。あ、こいつは受かるわいと。ただ、肋膜炎になったというのは、ちょっと心配だったんですけど、当たって砕けろで応募したら、仙台で行われた身体検査をパスして、翌日に筆記試験を受けました。青葉城下の旅館に宿泊したのですが、あの辺は全然不案内でしたんでね、《旅館》と書いてあるボンボリが下がっている建物があったんで、そこに入っていったら《待ち合い》で、男と女が伸良くするところらしかったんです。夜中に警察による売春の手入れがあったりして(笑)、ビックリしましたけどね。

編集者
投稿日時: 2011-12-31 9:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回)その3

 特攻インタビュー(第2回)その2

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆将来は飛行機乗りだ!(2)

 --------もうそのときには、航空技術廠はお辞めになっていたのでしょうか?それとも勤めたままで受験されたのでしょうか?

 中村‥辞めてからです。辞めるのにもなかなか大変でね。海軍の偉い人のところに行って、その理由を述べて辞めなくちゃならない。総務部の石井という上司が意地の悪い奴で、何かにつけて苛められて、事務室の書類箱に頭を突っ込んで泣いたこともあったね。岸壁から見える十二試艦戦(零戦)の試験飛行の勇姿に矢も盾もたまらず、「学校の先生になるつもりです」と言って、航空技術廠を辞めさせてもらいました。

 --------「民間の航空機乗りになる」では、辞める理由として通用しないのでしょうか?

 中村‥そうです(笑)。まだ受かるかどうか判らない段階でしたしね。私の家は兄弟が全部学校の先生なんですよ。だから私も学校の先生になるということであれば通用すると思いました。父親は製糸工場の支配人だったのですが、昭和4年頃の世界的な経済不況で結局倒産してしまいました。それで生活水準がガタツと落ち込んだもんだから、まあ母親としては経済不況になっても生活に影響のない学校の先生というような方面に娘たちをやったのですね。兄弟8人のうち男手が兄と私の2人しかおらず、兄が身体の具合が悪かったので、私が跡取りになっておりました。でも私は乗員養成所に行きたくて海軍航空技術廠を辞めてしまいましたから、母親のような不況を意識した考えはなかったです。

 --------ちなみに、その民間の乗員養成所の募集は、どこでお知りになったんしょうか?

 中村‥横須賀だと思いますね。航空技術廠にいる間に募集要項を見て、あ、これは行けるなと、そっちの方を選びました。操縦生の試験にパスして嬉しかったですよ。これが本当の天にも昇る気持でしょうね。
編集者
投稿日時: 2012-1-1 8:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回)その4

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆民間の乗員養成所へ(1)

 --------乗員養成所での勉強や訓練というのは、どんな内容でしたでしょうか?

 中村‥今まで近くで見たこともないような赤トンボで、九五式三型練習機という複葉羽張りの飛行機でしたけれどね。格納庫から出すのも納めるにも押して入れるというような《触れる飛行機》でした。それが操縦生課程、一週間ほど「気をつけ!」「敬礼!」なんていう地上訓練がありまして、間もなく操舵訓練の飛行機に乗ります。入ったらすぐに飛行服を支給されて、1週間ほどで私は飛行第十班に配属されました。同期生は49人です。仲間と5人くらいで一つの班で、私らが一番最後の班でした。それから九五式一型練習機に移り、卒業間近には九九式高等練習機をやりました。まあこれは場周離着陸だけでしたけどね。

 --------後に軍隊に入られるんですけども、軍隊時代の訓練と養成所時代の訓練というのは、違いましたでしょうか?

 中村‥相当違いましたね。軍隊に入ってからの訓練というのは、我々のコースとしては、すでに2等操縦士、2等航空士の資格を持っていますので、ポッと入ってきた少年飛行兵なんかとは、ちょっと違いました。軍隊に入ったときは、普通の人は二等兵で一つ星で入るんですけど、我々はすでに二つ星で一等兵で入るんですよ。それで半年経ったら伍長になって卒業という形になります。

 --------よく予科練に入った方々の話を聞くと、入隊したばかりのときは、もう散々軍人精神を叩き込まれたところからスタートして、かなり厳しい訓練だったと伺うのですが、その民間の養成所のときには、例えば上官の方に殴られるとかはなかったのでしょうか?

 中村‥いや、それはかえって民間の方がありましたね。宿舎から隊伍を組んで駆け足で飛行場に行く途中で教官に会ったら、「歩調とれ~! 頭~右-」と敬礼をせよと言われていたのに、その敬礼を忘れると「飛行場、早駆け~!」と言って重い落下傘を背負ったまま、仙台の霞目飛行場(陸軍仙台飛行場・現在の霞目駐屯地)を一周走らされたり、格納庫前で腕立て伏せをさせられ「一番最後まで残っているのは誰だ!」なんて脅されてね、そんな厳しいことがありました。

 --------じゃあ、軍隊の教育とほとんど変わらない感じだったのですか?

 中村‥そうですね、軍隊では少年兵ではなくて一等兵で入りましたから、そういう体罰的なものはほとんどなかったわけです。ただ、《飯あげ》って言いますが、自分たちの食事をこういう木の桶に入れて2人で担いで、自分たちの宿舎へ持って来るんですよ。それをみんなに分けて、今度そのバッグを炊事に返納するんですけど、そのときに炊事の上等兵が、そのバッグを検査するわけですよ。そうすると、古いバッグの材木の節目や割れ目にご飯粒が引っかかってると…「おい、これは何だ!」ってなことで、こんな長いシャモジでバーンなんて殴られましたね。

 ところが奴は上等兵でしょ、こっちは一等兵。2カ月経つと私の方が上がって今度は上等兵、もう2カ月経つと今度は兵長だ。2カ月経ったらこっちの階級が上になりますから、奴に「おう、何だ貴様!」ってことになる (笑)。

 --------立場が逆転しちゃうわけですね。

 中村‥そうですね (笑)。


 中村氏の乗られた飛行機

















































編集者
投稿日時: 2012-1-2 17:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回)その5

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆民間の乗員養成所へ(2)

 --------ちょっと話を戻します。乗員養成所時代、昭和16年12月8日にアメリカとの戦争が始まるのですけれども、そのときのニュースを聞かれたときのご記憶とかありますでしょうか?

 中村‥早朝に非常召集がかかりました。廊下に全員順々に並ばされて、何ごとかと思ったら、「我が国から宣戦布告があった」と上官から聞かされました。誰もが一瞬、身の引き締まる興奮を感じましたね。そのときちょうど我々の乗員養成所の裏手の太平洋側に、九四式偵察機(中島キー4) という古びた軍用機がボソボソポソボソ飛んでたんですが、こういう飛行機に乗ってアメリカと戦争を始めて、こりゃどうなんだろうね、なんていう感じがしました。

 --------12月8日に大東亜戦争が始まる前に、アメリカから日本への輸出が禁止されるとか、すでに経済封鎖が始まっていますが、いかがでしたでしょうか?

 中村‥我々は民間飛行士が希望ですから、どうせ戦争が始まるなら伍長になった後の方がいいと考えていました。というのは予備役下士官候補者という制度がありまして、伍長になりますと予備役編入になって戦争に行かずに済むだろうと考えていましたので、早いとこ軍隊で飛行機の操縦を覚えて伍長になろうと思っていました。まだその頃は戦争はあまり意識していませんでしたね。

 --------昭和17年の3月に乗員養成所を卒業されて、2等飛行操縦士になったわけですね?

 中村‥ええ、2等操縦士と2等航空士の技量証明書というのをくれるんですよ。軍隊に入ってしまえばもう役に立ちませんけど、それを持って今度は中央航空機乗員養成所というのが松戸にありまして、そこへ入ると1年位で1等操縦士と1等航空士になりまして、旅客機を操縦できます。仙台では一所懸命、帽子を斜めに被って挙手の礼をして、「中村、サイゴンに出発」とかいうような練習をしていましたよ。

 --------松戸の中央航空機乗員養成所の方へも行かれたのでしょうか?

 中村‥いや、行きません。仙台を卒業したら岐阜の飛行第二戦隊っていうところへ入れられましてね、そこへも一等兵で入りました。

 --------陸軍飛行学校に入ったのは、志願ではなかったのでしょうか?

 中村‥そういうコースは予め決まっているんです。乗員養成所を卒業するともう《予備役下士官候補者→予備役下士官》のコースを踏まないと民間に出れないということが決まっていますんでね。予備下士コースに一等兵で入り半年で伍長になって、卒業・除隊・予備役編入になります(1927年以後は幹部候補生、中学校卒業者で乙種幹部候補生の教育を受けた者は平時ならそのまま除隊し予備役に編入された)。それで中央の方に行かない人は、各養成所の助教さんという嘱託みたいな形で教官の助手をやるようになります。

編集者
投稿日時: 2012-1-3 6:53
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回)その6

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆卒業式当日に現役軍人(1)

 --------一般的なコースとしては、陸軍の飛行学校に入って下士官候補生の過程を終了したら、そこで軍隊生活はお終い、というはずだったのでしょうか?

 中村‥本当はそのはずだったんです。しかし卒業するはずだったのが、卒業式当日に「陸軍補充令附則第二条により、現役召集!」みたいなことを怒鳴られましてね、あれ?なんだ卒業できないんだっていうことになりました(笑)。

 --------それでは召集は、卒業の日に突然知らされたと?

 中村‥そうです、卒業式のとき突然ですね。

 --------じゃあもう、中村さんとしては「ここで卒業したら、次はようやく民間で国際線のパイロットになれるぞ」と思っていらっしゃったと?

 中村‥そうですね。そのつもりでいましたから…。ところがその《陸軍補充令附則第二条》というやつで、いきなり現役編入です。あ~あ、現役軍人になっちゃったんだということで、すぐに重爆隊に持って行かれたんじゃないかな。浜松の飛行第一〇五戦隊に配属になりました。

 --------岐阜の飛行学校にいらっしゃった時代に、もし陸軍で空中勤務者になるんだったら、戦闘機乗りとか爆撃機乗り、あるいは操縦貝や偵察員への希望に対して、特に選考みたいな形はなかったんですか?

 中村‥希望は聞かれませんでしたね。何で私が重爆に行ったんだろうなあと、今でもいろいろ考えるんですけど、卒業試験がありまして、特殊飛行で私がどうしてもできなかったのが、宙返り上昇反転といって宙返りの頂点でひっくり返るやつでした。これの基準を取り違えてたんで(手まねをして見せて)、この辺で反転の舵を使うもんだから、何回やっても錐揉みに入っちゃうんですよ。試験官の准尉が「中村、おまえ基準の取り方が違うんじゃないの?」ってなことを言われました。
 その時点では、重爆に行くとか戦闘隊に行くとか、そういう考えは自分に何もなかったです。後で聞いてみたら重爆隊行きと……こういうことになってましたからね。

 --------じゃあそれが決まってから、岐阜から浜松の方へと転勤だったのですね?

 中村‥そうです。

 --------浜松の飛行第一〇五戦隊に配属されて、そのままもう重爆の訓練開始になったんでしょうか?

 中村‥その時は《修行者》という名前がついて伍長になっていました。重爆に行ったのは何人くらいいたか人数的には忘れちゃいましたけどね。《修行者》のグループが一緒に寝泊りするための宿舎を借りて、その《修行者》たちで浜松での訓練はやりました。

 --------岐阜の飛行学校にいたときには、練習機でずっと訓練されていたと思うのですが、いきなり重爆といって大きな双発の爆撃機の操縦士になられて、そう簡単に操縦できるようになるものなのでしょうか?

 中村‥岐阜の陸軍飛行学校での最後の方の訓練で、三重県の亀山分校に行きまして、九五式一型練習機、九九式高等練習機という九八直協偵(九八式直接協同偵察機) というやつを改造した実用機向きの訓練と、九七式戦闘機の訓練がありまして、これが非常に操縦性能のいい戦闘機で、乗った飛行機の中では一番運転が良かったです。実用機としては、九八直協と九七式戦闘機「名材号」という愛国号(名古屋材木商工組合による献納)で訓練しました。きっと名古屋の材木商さんたちが寄付したやつなんだろうね。

 --------先ほどの話の続きなのですが、浜松の飛行第一〇五戦隊に行って、重爆は最初何に乗られたのですか?

 中村‥九七式重爆撃機一型(キ21-Ⅱ)です。

 --------今まで訓練では単座飛行機に乗られていたわけですね?

 中村‥そうですね。最初はこんな大きなものが空を飛ぶんだろうかなと思って、ちょっと不安というか不思議だったですよね。
編集者
投稿日時: 2012-1-4 7:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その7

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆卒業式当日に現役軍人(2)

 --------まず最初は副操縦士みたいな形で配属されたのでしょうか?

 中村‥最初から正操縦席に座り、教官が副操縦席に座ってるんですよ。一応エンジンの始動をやるわけだし、その他は飛行機の幅が広いのと双発だというくらいで、そう違和感はなかったです。地上滑走のときの二本のエンジンレバーの使い分けが難しかったかな。

 --------私など素人考えで思うのですが、単座飛行機だと飛行機の軸線が中央に来ます。重爆とか双発だと正・副で左右に操縦席があるので、少し位置が中央から横にズレるのではないかと思うのですが、このあたりはいかがでしょうか?

 中村‥そうですね。一応こうありますと(手振りで説明)真ん中からウィンドウが分かれます。操縦桿が真ん中に一本ありますけど、それに(横)棒が付いて、こういうハンドル式の物が(左右)両方についてる。単座の飛行機・あるいは練習機ですと、こっち側(左)でエンジン・レバーを動かして、エンジンを噴かすときには後に引く。ところが重爆は前に押してエンジンを噴かすという方式でした。それらについては、いろいろ地上滑走その他の際に教わります。自動車の右ハンドル車と左ハンドル車を乗り分けるようなもので、空中では計器が正しい姿勢を示してくれますから、それに従って操縦すればよいのです。

 --------でも、スロットルレバーが逆だと、時々間違えて逆の方にやっちゃうとか、そういうことはありませんでしたでしょうか?

 中村‥う~ん……それはあんまりなかったような気がしますね。

 --------浜松の飛行第一〇五戦隊にいらっしゃったときには、飛行訓練がメインだったのでしょうか?

 中村‥毎日毎日飛行訓練です。だいたい訓練空域が御前崎の上空3000m、富士山が目標。富士山に向かって「はい、旋回開始!」、グルツと周ってまた富士山が出てきたら「一回転終わり!」というようなそういうショー的な訓練から始まりました。九七式重爆撃機一型というのは旧式ですから、フラップと脚を上げるのは操縦士がこう(手振りで)計器盤がありますが、その下にコックがついているんですよ。脚とフラップを操作するために操縦士が「はい、脚!」と言いながらコックをひねるようになっているんです。そうすると機関係が手押しポンプでキコキコキコと車輪を上げます。そういう方式でした。

 --------手で上げるんじゃ、なかなか大変ではないでしょうか?

 中村‥ポンプですからねえ。フラップもその方式でしたから。
編集者
投稿日時: 2012-1-5 13:06
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その8

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏 

 ◆満州でいよいよ実施部隊へ(1)

 --------浜松にはだいたい半年くらい、その後に満州の方へ向かわれたのでしょうか?

 中村‥そうです。満州の関東軍に単身赴任という形で行きました。

 --------最初は船で行かれた。それから列車を乗り継いで赴任したという形ですか?

 中村‥そうです。満州は初めてで朝鮮を列車で縦断して行きました。鎮東にあった教導飛行第九五戦隊という隊です。そこへ着いた途端にやらされたのは、洗面器に水を汲んできて両手を浸けてハイって上にあげて、それで触感がなくなったらお湯の方にバッと手を入れるという動作でした。その触感がなくなるときが凍傷になるときだからっていうようなことを教わりました。

 --------凍傷にならないように、まず身体で感じさせたのですね?

 中村‥そう、体で覚えさせるということなんです。

 --------今まで日本国内の内地部隊にずっといたのが、満州という外地の最前線の部隊に派遣されて、これは部隊の雰囲気が違うなということはありましたでしょうか?

 中村‥実施部隊ですから下士官室という部屋を貰います。そこでパイロットの下士官4人くらいが部屋に住むようになりました。それまでは浜松の《修行者》たちと、20人なり30人なりが一緒に暮らしていましたから。これでようやく下士官になったということでしょうね。

 --------基本的に教導飛行第九五戦隊では、ソ連と戦うための訓練ということだと思うのですが、重爆の場合、どんな訓練をされたのでしょうか?

 中村‥重爆というのは本来、高度6000~7000mの高度で編隊を組み、上空を戦闘機に守られながら飛んで高高度から…例えば満州国黒竜江の鉄橋だとか、あるいはシベリア鉄道だとかを射程に考えて爆撃するというのが任務でした。訓練は奉天に爆撃場がありまして、私らパイロットの方は、どんなときでも飛行機を揺らさないよう水平飛行ならそれをきちっと同じ高さで保ち、同じ速度で飛び続けるというような訓練が多かったです。

 --------実戦の場合は、戦闘が始まると水平飛行と言ってもそう簡単ではないのでしょうけれども、やはり訓練のときでも水平飛行を保つことは難しいのでしょうか?

 中村‥飛行機の場合、ちょっとでも傾けば角度が違ってきてしまい爆撃が難しくなります。前方の爆撃手が伝声管で「進路何度で入れ!」と指示し、爆撃手とパイロットが連携して直線コースで入ってゆき爆弾を落とします。それには爆撃手が照準眼鏡を覗いていろいろ測定します。斜めに風が吹いていればそっちに流されます。これを偏流測定と言いまして、右から斜めに風が吹いていれば、こちらへ流されてしまうので、右斜めに機首を向けて(手振りで)こういう形で修正しながら進んでいくわけですね。そんな指示が伝声管で爆撃手から操縦士に入ってくるわけです。それに従って羅針盤・姿勢指示器・その他をチェックしながら、速度・高度を常に一定に保てるようにする訓練がありました。

 --------よく陸軍の場合には海軍と違って、その頃はまだ洋上航法とか天測航法とかをやっていなかったので、航法士は飛行機には乗っていなかったので全部操縦士がやっていたのでしょうか?

 中村‥大型機が航法をやる場合は、航法士が乗っていました。

編集者
投稿日時: 2012-1-6 7:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その9

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 ◆満州でいよいよ実施部隊へ(2)

 --------昭和18年くらいには、航法士が乗っていたということでしょうか?

 中村‥はい、その人たちは常に航法盤っていうんですか、書類を抱えて航法専門にやっていました。北海道からフィリピンに出かけるときに、28機くらいの編隊で北海道から立川か宇都宮へ飛んだのですが、操縦していて右の方に海が見えると。どう考えても帯広から飛んで立川までの間に、右側に海が見えるわけがない。左側なら分かるのですが…。そしたら編隊長機の航法士が進路の測定を間違って少し右に飛びすぎて、日本海が右の方に見えてしまった(笑)。辻っていう男でしたけど、だいぶ文句を言われてました(笑)。

 --------昭和18年くらいになると南方では空の戦いも熾烈になり、陸軍の航空隊はだんだんとニューギニア方面へも派遣されていますが、厳しい戦況について当時は耳に入って来なかったのでしょうか?

 中村‥ええ、入ってこないですね。北方警備ということで満州で訓練し、19年の2月に出戦命令が下りました。茨城の鉾田陸軍飛行場に進駐して、何をやるのかなと思ったら東京防空隊というのに編入されて、太平洋上を800km飛んで200加飛んで800km帰ってくるというような、洋上の潜水艦あるいは艦船の哨戒飛行をやりましたね。

 --------大体は一回飛び立つと何時間くらい飛ぶのでしょうか?たとえば哨戒飛行の場合だと、何時間くらい飛行されるのでしょうか?

 中村‥時間はあまり意識しなかったです。800km地点に来たら、角度を変えて200km飛ぶと。そして200km飛んだら、この反方位で基地に向かって戻るということでしたから、時速240kmくらいで飛んだんじゃないかと思うんです。そうすれば約8時間です。高度もあんまり高くちゃ船が判らず潜水艦も見えないだろうと1000mくらいでしたか。
 ある時北海道の沖を飛んでいたんです。「あ!敵の潜水艦だ!」ということになって…それで高度を300mくらいまで下げてみたら、鯨が3頭、潮を吹きながら…潮をプワ~ツプワ~ツと、それが機関銃を撃ちあげているように見えるんですよ。爆撃手の小木曽准尉というのが「じゃあ、これは1回爆撃してみよう」っていうことで鯨を爆撃しました。アルミ弾っていう目標弾を手前に1発落として、直線でその先にまたアルミ弾を1発落とすと。海面で輪がバーツと広がるんですよ。それでまた戻ってきて、その二つのアルミ弾を結んだ線をずっと進んでいって、その間に爆撃手が照準を決め、大体いつも50kgの爆弾を11発積んでいましたので、「じゃあ、1発落とそう」ということでやったら操作を間違って11発全部落としちゃったのね (笑)。「ありや、11発全部落としちゃった!」なんて爆撃手が言うからさ、ぐるっと周って見たら海の色が真っ黒く変わっていました。鯨はもう1頭もいなくなっていましたよ。

 --------その場合、基地に帰った後で、相当怒られるんでしょうか?

 中村‥基地に帰って小木曽准尉がその報告をしたら、もう出戦命令が下っているからというので叱られなかったそうですよ。

 --------笑い話みたいな。

 中村‥そうですね (笑)。
編集者
投稿日時: 2012-1-8 6:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
特攻インタビュー(第2回) その10

 ◆出戦命令から初陣まで(1)

 陸軍航空特攻 中村 眞 氏

 --------出戦命令で、教導飛行第九五戦隊が飛行第九五戦隊になったのですね?

 中村‥そうです。《教導》が取れて。

 --------教導とは教育という意味ではないのですか?

 中村‥いわゆる、教育戦隊みたいな意味合いがあるのかなと思います。何しろ新機種「百式重爆 (百式重爆撃機=呑龍)」 で編成された部隊でしたからね。あの字から見て、教え導くということで教導ですから、そう変わらなかったです。いま爆弾の話をしたように、教導の訓練と出戟命令が下ってからの戦隊としての活動とでは、爆弾を使う量も使い方も違うんじゃないかと思うんですね。

 --------中村さんが書かれた本『死に損ないの挽歌(私家版)』 に、重爆が出撃するといっても出撃するまでには時間がかかって、なかなか大変だったとありましたが、実際にはどうでしたでしょうか?

 中村‥だいたい爆弾を積むのに最低2時間くらいかかるんですよ。特攻のときは500kgの弾を、電気係の曹長が魚雷を吊るための魚雷懸架機という、ガスネジみたいな細かいネジの付いたので持ち上げて吊っていました。私もその作業を手伝ったりしました。

 --------燃料の積み込みや積み替えみたいな作業でしょうか?

 中村‥そうです。あと機関係が整備点検で、毎回航続距離と爆弾の搭載量との関係でしょうけれども、3番タンクをいつも空にするんですよ。まあ、どうしてなんだろうなあ? 私にはその理由は解りませんが、いつも3番タンクは空にして、哨戒飛行は50kg爆弾11発、特攻のときは500kg 1発でした。

 --------もう出戦命令が出た頃には、飛行機も九七武重爆撃機から変わったのでしょうか?。

 中村‥満州に行ったときから機種は変わりました。満州の鎮東に赴任した教導飛行九五戦隊は、私の最後の棺桶となった百武重爆撃機の戦隊でした。百武重爆撃機一型という奴が曲者で、飛ぶ度に火事になるんです。エンジンから火が出てね。それでもう皆で手を焼いて何とかならないかっていうことで、まあ、排気管の関係でエンジンに引火するらしかったので、排気管をいろいろ改造したそうです。それが百式重爆撃機二型となって、ようやく安心して乗れるようになりました。エンジンの馬力も1450馬力が二つ付くようになりましたから、一型と二型では大分変わりました。

 --------二型になってからは、操縦しやすくなったのでしょうか?

 中村‥はい、一型はみんなに毛嫌いされて、大体いなくなっちゃいました。ほとんどみな二型になりました。武装も20mmの機関砲が付いたりね。それから、以前フィリピンの海の底から見つかった重爆には、尾部に13mm機関砲が付いてたっていうようなことがある記事に載っていましたけど、これは記録に一切ないなんてことはないのです。私が乗っていた飛行機にも前方13mmと尾部13mmの機銃は付いていました。パイロットの担当飛行槍というのは決まってないんですよ。出撃するたびに飛行機が違うんです。誰々の…たとえば、機関係・河合軍曹の飛行機、足立伍長の飛行機という具合にね。ですから愛機って言っても、常に「これは俺の飛行機だ」というのはなくて、どの飛行機でも乗れるようになっていましたね。

















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