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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     続 表参道が燃えた日 (抜粋)
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編集者
投稿日時: 2011-10-15 7:37
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 61

 母親の悲しみ
 村井 恵以子(むらい けいこ)その3

 当時、父は軍属でインドネシアのセレベス島メナドに通信基地の所長として駐在。長兄は海軍気象隊の一員としてマニラへ、二十年一月一日玉砕戦死、十九歳でした。次兄は予科練習生として中学三年十五歳で入隊、終戦の八月十五日未明神風特攻隊として出撃の予定でしたが、出撃直前隊長から待機の命令、そして終戦、命拾いをしました。

 母はどんなに心細かったかと思うと心が痛みます。そしてその強さには頭が下がります。二十年八月終戦。親に引き取られて帰京するもの、親の疎開先に行くものと、だんだん少なくなる中、私たちは家もなく、母は知り合いを転々としている状態で引き取りに来られませんでした。翌年二月帰京した私は、予科練から帰って来た次兄と中野の西武線都立家政で焼け残った桶屋さんの二階六畳間を借りて住み、昭和二十一年三月には戸山小学校を卒業。妹は生活が出来ないので養護施設に預けられました。その後父が復員してきて妹を引き取り、親子五人で成城に暮らすようになりました。

 母が八十九歳で亡くなってから十四年、私も人生の終盤に差しかかり、今つくづく思うことは、母が子供を失った(長男戦死、末娘行方不明)苦しさ、悲しさのあまり口に出せなかった気拝が理解できるようになりました。今後、民間人が戦火の中を逃げまどい、身内を失う悲しさ、辛さを二度と経験しませんようにと祈るばかりです。

 (淀橋区百人町三丁目)

編集者
投稿日時: 2011-10-16 9:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録 1

 付録















 1945年5月17日撮影        同5月28日撮影

 空襲前後の表参道のけやき並木(米軍撮影空中写真)
   米国公文書館所蔵((財)日本地図センター)


 昭和二十年五月二十五日~二十六日の空襲について

 五月二十五日の夜半に始まった空襲を一般に「山の手空襲」といっているが、実際には山の手地域だけではなく、焼け残っている都心部を壊滅する、いわば「仕上げ」の空襲であった。

 三月十日、米空軍は下町一帯を盲爆し、十万人もの生命を奪った。四月硫黄島全滅、沖縄上陸、五月ドイツ降伏。四月中旬の西部、南部への空襲に続いて最後の焼夷弾攻撃が準備されていた。

 日本側では海軍記念日の五月二十五日が噂されていた。

 五月二十五日の空襲の被害状況について、警視庁などの調査を以下に記載する(東京大空襲・戦災誌第三巻より引用、一部省略)。


編集者
投稿日時: 2011-10-17 7:28
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録2

 警視庁消防部空襲災害状況

 一、警戒警報発令   午後一〇時〇二分
    空襲警報発令  〝 一〇時二二分
    空襲警報解除  二十六日午前一時〇分
    警戒警報解除    〃   一時三〇分

 二、来襲機数

   B29 約二百数十機

 三、攻撃方法

   房総半島並駿河湾ヨリ侵入 午後十時三十分頃ヨリ約二時間余二亘り単機若クハ小数機編 隊ヲ以テ都心部ヲ始メ広範囲ノ市街地二対シ主トシテ焼夷弾二ヨリ低空ヨリ攻撃ヲ為ス

 四、投下弾

   爆弾(二五〇正級)一五一個 焼夷弾(油脂 黄燐 エレクトロン)大型約一八一六個 小型約一四六七五〇個

 五、気象

   天気晴 風位南 風力強 湿度五五%

 六、焼失区域

   中野区 四谷区 牛込区 麹町区 赤坂区 世田谷区 本郷区 渋谷区ノ各大部
   目黒区 杉並区ノ各過半部
   小石川区 江戸川区 下谷区 京橋区 淀格区 足立区 神田区 荏原区 豊島区
   王子区 日本橋区 板橋区 向島区 滝野川区 荒川区 葛飾区 城東区 浅草区
   大森区 品川区ノ各一部
   立川市 北多摩郡ノ各一部

 七、焼失程度

   一二六七三七棟一五四五七二世帯 二八五〇三九三坪

 八、火災発生及延焼状況

   本空襲ハ主トシテ劃域焼夷ヲ行ヒタルモノニシテ爆弾及油脂エレクトロン 黄燐等各種ノ焼夷弾ノ大小型ヲ極メテ濃度二混投セル絨毯爆撃二シテ民防空ハ最近二於ケル徹底且大
   規模ナル空襲二其ノ戦闘意識ヲ殆ンド喪失シ居り為メこ初期防火全ク行ハレズ火災ハ全被
   弾地域二及ビ加フル二折柄ノ強風二煽ラレ一大火流ヲ現出シ帝都ノ大部ヲ焼失スル二至レリ

 九、官設消防隊ノ活動 ( 略)

編集者
投稿日時: 2011-10-18 7:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録3

 「警視庁警備総第一八三号」昭和二十年五月二十六日

 五、重要施設ノ被害状況 (一部を省略)

  l、官公街 海軍省、運輸省、外務省、海軍大臣・内務大臣・外務大臣・大蔵大臣・軍需大臣・参謀総長各官邸、麹町・赤坂・淀橋・世田谷各区役所、麹町・淀橋・表町・青山警察署、麹町・渋谷郵便局、渋谷・目黒税務署他

  2、重要工場 日本ペイント、三共製薬、沖電気、日本油脂、三菱電気、共同印刷、日産自動車、藤倉電線他

  3、報道機関 毎日新聞社、東京新聞社、読売新聞社

  4、学校 青山学院、東京農業大学、早稲田大学工学部、成城学院、第一高等学校、女子薬専、女子学習院、白百合高女、都立一商、実践高女、常盤松高女、東京女学館、都立七中 国民学校他

  5、外国公館 満州国・中国・ソ聯大使館、フィンランド・スエーデン・スイス・ベルギー公使館他

  6、交通機関 東京駅、汐留駅、渋谷駅、新宿駅、千駄ヶ谷駅、神田駅他

  7、神社・寺院 愛宕山神社、琴平神社、増上寺、東郷神社、穴八幡神社、吉祥寺(駒込)、氷川神社 (淀橋)、妙園寺他

  8、医療機関 青山脳病院、松沢脳病院、東京病院、済生会病院、鉄道病院他

  9、その他 帝国ホテル、歌舞伎座、新橋演舞場、東横百貨店、新宿三越、日赤本社、増上寺、日比谷図書館、東京中央市場他 (編注・・皇居は記載されていないが、明治宮殿の大半が炎上、飛び火による類焼といわれる)。
編集者
投稿日時: 2011-10-19 6:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録4

 帝都航空本部情報

















 被害数については以上のように様々である。その信憑性については確認できる術がないので概数として捉える他ない。来襲機、投下弾数については米軍の数字が確かと思われるので、東京空襲を記録する会(のちに東京大空襲・戦災資料センターが継承)では原則として米軍の資料により、被害数については、原則として警視庁の調査を用いている。東京都編集の「東京都戦災誌」(二〇〇五年八月復刊)は帝都防空本部情報の数字を使っている。各区でも戦災被害状況を集計しているが、港区(赤坂、麻布、芝区)の場合、「東京都戦災誌」を使用している(死者‥赤坂区五五一、麻布区六六、芝区一二〇)。「港区史下巻」、「新修港区史」に記載されている数値はいずれもやや高い。

 五月二十五日から二十六日にかけての空襲は、三月十日に次いで最も大きな空襲であった。B29の機数は四六四機、焼夷弾の投下数は三二五八トン(いずれも戦災資料センターの数字、本書付録)で、下町空襲の倍近い数だったが、死傷者の数ははるかに少ない。

 このことは地域の立地条件の違いや建物疎開がされた事や空襲の連続で老人や女性、子どもたちの疎開が急速に増えたことも一因といわれるが、三月十日の教訓から、住民が消火活動より早く避難することを選んだためと思われる。

編集者
投稿日時: 2011-10-20 7:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録5

 米軍の「作戦任務報告書」

 五月二十五日の前日二十四日にも、二十五日を上回る大規模な空襲があった。この頃は空襲が続いたため体験者は日を混同されることが多い。二十四日の午前一時〇五分警戒警報発令、東京南部地域を中心に目黒、麻布、赤坂、渋谷など山の手地域が焼夷弾攻撃を受けた。被害は中央官庁、各区役所、学校なども多く、慶応病院、高輪泉岳寺、イタリー大使館、フランス大使館も被災した。B29が八機撃墜 (警視庁警備総第一七六号) されたのもこの日である。

 解禁となった超機密文書の「作戦任務報告書」はマリアナ基地第二一爆撃機集団司令部(司令官カーチス・E・ルメイ)と第二〇航空軍司令部の報告書で、空襲作戦技術書である。この中で東京市街地最後の攻撃計画は、残存している市街地に対して間を置かずに連続して行うというものであった。その第一撃が二十四日の空襲である。そして四十五時間後の二十五日午後十時、第二撃を受けることになる。連続的な大空襲は人心にも衝撃を与えたし、それもまた目的だったかもしれない。

 作戦任務報告書では攻撃の照準点をきめているが、航空写真で示された二十五日の目撃地区は不鮮明だが、都心の東京駅から南へ京橋区内と、芝公園近く、赤坂区・渋谷区、麻布・赤坂の溢谷寄りの四点になっている。実際には第一の標的の中心部だけではなく、山の手地域、西部へと大きく拡がった。同報告書は二十四日、二十五日の空襲を一つの報告にまとめており、両方の焼夷面積を二二、一平方マイルとしている。この面積は三月十日の時の面積を上回って最大である。

 米軍は二十五日の空襲によって東京を大規模空襲のリストからはずした。まさに仕上げの大空襲であり、とどめの空襲であった。





 左の写真は五月二十七日付「共同新聞」(新聞社の焼失により発刊されたもの)。空襲の惨状について、大本営発表をそのまま掲載している。被害は詳細が伏せられ、戦果を誇大に、そして皇室、宮城の状況にふれるというパターンができていた(「東京大空襲」一九八五年二月朝日新聞社刊より)。
 当時、夕刊は発行されなかった。
編集者
投稿日時: 2011-10-21 11:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6

 遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へー その1

 昨年暮れ、戦時中青山北町に住んでいたという男性の訪問を受けた。昭和二十年五月、このかたはまだ小学生で、父親を残して能登半島に縁故疎開していたそうだ。父親は青山車庫で働いていたが、空襲のとき表参道の銀行の方へ行くのを職場の同僚が見ている。そのまま行方不明になった。母親が探しに上京したのは二か月後で、隣組の人の話でもわからないということだった。母親は多くを語ることなくやがて亡くなった。ご本人は父親は銀行前で亡くなったと思い、近くの善光寺に時々栃木からお参りに来ているという。横網町の慰霊堂のことも、空襲犠牲者名簿のことも何もご存じなかった。当時子どもだった人、東京から離れて情報が入らなかったこのような人たちは、今でも大勢おられることと思う。

 五月二十五日から二十六日にかけての空襲で、青山、原宿の表参道周辺では多くの人が火炎に巻かれ亡くなった。翌朝、身元が識別できるような遺体は道路に並べられたが、銀行前に山と積まれた遺体や道路や防空壕の焼死体は、軍のトラックが来て、荷台にシャベルで投げ込まれ、青山車庫(一時的)や青山墓地などに運ばれた。探し回っている遺族がこれから見にくるかもしれないのに、早々とまるでゴミを片付けるかのような扱いだった。仮埋葬地は赤坂区では青山墓地、渋谷区では大山公園が主なようだったが、寺院などでも手厚く埋葬した所があったようだ。
              
 当時、赤坂区田町にあった成満寺(じょうまんじ)では、五月二十四日と二十五日の空襲の後、近所で収容された焼死体が境内に運び込まれた。検分に見えた遺族も何人かおられたが結局無縁仏になった遺体何体かを地中に埋葬し、墓石を積み石碑を建てた。成満寺が昭和三十七年に聖蹟桜ケ丘に移転する時には、墓地を掘り数十体土葬骨とともに運んだ。何名かの方々からお申し出もあったが、それから三十年以上を経て、平成になって改めてまとめて納骨し、永代供養しているという。


 青山墓地 (現港区南青山二丁目)

 正式には都立青山霊園という。面積二十六万平方メートルある敷地の南東のはずれに仮埋葬地があったといわれる。その跡地には昭和三十二年に都立高校が建てられた。青山墓地が自宅から見える所に戦時中から住んでいる人の話では、三月十日の空襲直後から遺体が運ばれてくるようになった、遺体を北側を頭にして並べているのを見たという。最近、霊園事務所の人に聞いたが、仮埋葬など聞いたこともないし、記録もないといわれた。

 東京都編集の「東京都戦災誌」によると、青山墓地には当時の京橋、神田、大森、四谷、麻布、赤坂、目黒、芝、淀橋の各区内で発生した遺体を仮埋葬したとある。


 大山公園(現渋谷区西原二丁目)

 当時の都立公園で、渋谷区内で発生し引き取り先のない遺体を仮埋葬した。六十五年後の今、訪ねてみると、公園入り口近くには大木があり奥に野球場がある。多分その一画ではないかと想像した。事務所の人に聞いてももちろん何もわからない。
編集者
投稿日時: 2011-10-22 7:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7

 遺体の行方-仮埋葬から慰霊堂へー その2


 仮埋葬

 戦災で亡くなったかたの遺体で引き取られたもの、現場で火葬したものを除いた遺体は仮埋葬された。氏名が判別できる遺体は個別に埋葬し、身元がわからない遺体は六尺の穴の中に約三十体を何層にも重ねて合葬した。仮埋葬された遺体数は統計によって異なるが、東京区部全体で一三〇か所、遺体数は八万一六四体、遺体数は頭蓋骨から調べた。場所は都立の公園、学校、広場、民有地の寺院など。区外の多摩、八柱都営墓地や多摩の奥地の山林などに埋められたという話も聞く。管理は都公園課霊園係が行った。混乱のなか、無断で埋葬し、仮埋葬ではなく、埋められたままになった遺体も多いのではないだろうか。


 改葬、遺骨の処理

 仮埋葬された屍体は昭和二十三年から三年間にわたり発掘された。発掘は冬季間の十二月から三月まで、周囲に大きな幕を張って人目を避けて行われた。作業に従事する人は日雇い人夫であり、動員された囚人などであった。

 掘り上げられた屍体はそれぞれの火葬場に送られ改葬された。
名前の判明している屍体は個別に火葬して個別の白木の骨箱に納められ、判明していない屍体はまとめて火葬をし、埋葬地別にして焼骨を大きな骨壷一つに二百体ぐらい、全部で約四百五十個の骨壷に納められ慰霊堂に移された(末尾表参照)。


 東京都慰霊堂と「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」

 墨田区の都立横網町公園の中に東京都慰霊堂がある。この公園は、関東大震災の時に多くの人が焼死した被服廠の跡地である。東京都は震災遭難者の遺骨を納めるために震災記念堂を公園内に作った。戦後、東京大空襲により仮埋葬され改葬された約十万五千人の遺骨を震災記念堂の後室に安置することになり、昭和二十六年九月、名称を東京都慰霊堂と改めた。毎年九月一日と三月十日に慰霊大法要が行われている。
 平成十三年三月、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が公園内に建立された。碑の周り斜面は花で覆われ、内部には東京空襲犠牲者名簿が納められている。ただし名簿はケースの中に置かれ、中を見ることはできない。


 東京空襲犠牲者名簿の作成

 平成十一年度から東京都は名簿の作成を始めた。しかし広く都民に呼びかけるのではないので、慰霊堂を訪れた人、知人から聞いた遺族にしか知ることができない。
 「東京空襲犠牲者名簿登載申出書」は横網町公園事務所、または東京都生活文化スポーツ局文化振興部文化事業課で取扱っている。すでに七万八千八百六十八名が登録されているという。申出書に記入し提出すれば登載されるが、知人が登載されているか調べたくても見せてはくれない。
 この名簿は三月十日の空襲犠牲者に限らず、東京全域での空襲犠牲者を対象にしている。


 遺骨の引取り

 遺骨を骨壷に納めた昭和二十六年頃から、身元が判明している七千三百八十六人(東京都戦災誌)の遺族に通知をし、引取りを望む人には引渡しをしている。
 身元判明者の遺骨名簿は、慰霊堂内の復興記念館事務所に事前に連絡すれば閲覧はできる。
 また、氏名が不明で合葬された遺骨についても、希望する場合には分骨している。
 身元判明者で、その後遺族に引取られたのは約半数で、三千七百五十一人(平成十八年現在)がまだ慰霊堂に置かれている。さらに名前さえわからない多くの白骨が眠っている。(現在時点で何人引取られたか確認できなかった)。
 慰霊堂に集められただけでもこれだけ膨大な数とすると、戦災による死者は、実際はどの調査よりもはるかに多い数だったのではないか、山の手地域でも、と思う。


 戦後、国も東京都も空襲犠牲者の調査をしてこなかった。沖縄、広島のような刻銘碑もない、戦災都市にあるような平和館も記念館も、最も空襲犠牲者の多かった首都東京には何もない。かって東京都平和祈念館の建設を財政難を理由に中止した時、その時集められた三百三十人の証言ビデオがそのまま今も封印されているということを最近知った。戦災の記録は広く伝えるべきものである。そして無念の死を遂げた多くの犠牲者の叫びを受け止めるのは、生き残ったもの、あとを継ぐものの責任ではないだろうか。

編集者
投稿日時: 2011-10-23 7:42
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録8
 
 東京の空襲

 戦争への道

 日清(明治二十七、八年)、日露(明治三十七、八年) の戦争によって、日本はアジアへの侵出に大きく踏み出した。明治二十八(一八九五)年、台湾を清国より割譲、明治四十三(一九一〇)年、韓国を併合。日本は中国東北部(南満州)の利権をロシアから譲り受け、関東軍を配置した。

 第一次世界大戦(大正三~七(一九一四~一九一八)年)に、日本は連合国側として参戦し、対支二十一か条要求を出して、武力によって実現させようとしたのが満州事変(昭和六(一九三一)年)である。昭和七年、日本の傀儡(かいらい)国家満州国が成立。

 満州を足場にして領土拡大を図る日本は、十五年戦争の時代に入る。日本では二・二六事件(昭和十一年)が起こり、軍部の政治支配力は著しく強化された。昭和十二年七月七日、虚構橋事件が起き、日中戦争(当時日本側は支那事変といった。日支事変ともいう。「支那」という呼称を日本は第二次世界大戦末まで使う)が始まる。昭和十二年十二月、南京占領、蒋介石率いる国民政府は臨時首都を重慶に移し、中国共産党と抗日民族統一戦線を結成する。

 日中戦争が泥沼化すると、日本は豊富な資源をもつ南方進出を計画する。日独伊の三国同盟を結び、東南アジアの仏領、英領、蘭(オランダ)領の植民地への侵攻が始まる。日本の勢力圏拡張の構想はアメリカとも対立することになる。

 昭和十五(一九四〇)年九月、仏領インドシナ北部に進駐。十六年四月から日米交渉が始まり、アメリカは日本軍の中国からの撤退を要求、南方への進出を認めなかったが、日本はその年の七月に仏領インドシナ南部にも進駐、アメリカは日本への石油の輸出を禁止。十一月五日の御前会議で英米蘭との戦争を決意、その時期を十二月初頭と決めていた日本の陸海軍は、作戦準備に入っていた。十一月二十六日にアメリカ国務長官ハルが提示した「ハル・ノート」では日本側の拒否回答に対し新提案もしているが、日本側はアメリカの最後通牒とみなして太平洋戦争 (日本政府は大東亜戦争と呼び支那事変も含むとした)に突入した。

 十二月八日、日本時間午前二時、英領マレー半島侵攻、三時十九分真珠湾を奇襲、米・英・蘭に宣戦。
編集者
投稿日時: 2011-10-24 6:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録9

 東京空襲のあらまし

 東京への米軍の初空襲は、昭和十七年四月十八日のドゥリットル爆撃隊長のB25中型爆撃機による空襲である。B25はミッドウェイ島沖の空母ホーネットから十六機が飛び立ち日本上空に侵入、東京のほか川崎、横須賀、名古屋、神戸を爆撃した。その後約二年半、米軍機は東京には姿を見せなかった。

 本格的に空襲が始まったのは昭和十九年十一月二十四日からである。米軍は十九年七月にサイパン島を占領すると、サイパン、テニヤン、グアム島の飛行場からB29が飛び立った。二十年二月までは主として軍需工場に対して、昼間、約一万メートルの高々度から、目視による精密爆撃であった。軍需工場の上空が雲に蔽われている目には、市街地に無差別爆撃を行った。焼夷弾爆撃も増えてきて、二月中旬には航空母艦からの艦上機が大量に襲来し、機銃掃射をした。三月から五月にかけては夜間超低空のB29よる焼夷弾無差別攻撃。終戦までの東京周辺のB29よる爆撃、艦上機、P51どによる機銃掃射による攻撃が特徴である。


 東京大空襲

 一般に「東京大空襲」というと、二十年三月十日の下町への空襲を指す場合が多い。被害の大きさが東京の空襲を代表しているという意味でもある。三月十日午前零時八分に始まったB29百三十四機による二時間半にわたる無差別絨毯爆撃(焼夷弾一六六五トン)で、下町全域は焦土と化し、死者は十万人を超えた。

 大戦中、二日の死者が十万人というのは広島に次ぐもので、世界にも例がない。

 世界の無差別爆撃による死者数(概算)を示すと、

 一九三七年四月           ドイツ軍によるスペイン・ゲルニカ空爆   二千人 
 一九三八年二月~四三年八月  日本軍による中国・重慶空爆        二万人
 一九四〇年九月~十一月     ドイツ軍によるイギリス・ロンドン空爆     四万人
 一九四五年二月           米英軍によるドイツ・ドレスデン空爆    三万五千人

 三月十日の空襲を指揮したカーチス・ルメイ司令官は、東京以外の都市にも、にも関与した。戦後日本の自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章が授与された。
 二千人二万人四万人三万五千人また広島、長崎の原爆投下にも関与した。戦後日本の自衛隊の育成に尽力したという理由で、日本政府から勲一等旭日大綬章が授与された。

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