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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     続 表参道が燃えた日 (抜粋)
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編集者
投稿日時: 2011-10-3 7:55
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 51

 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだひさこ)その2

 忘れられないのは二十年二月の大雪の日、午後の交替をして何人かで駅へ向かう途中で空襲になり、頭上をB29が低空で飛来、深い雪の中で目立つので、機銃掃射が怖くて近くの神社までころげるように夢中で走って回廊の下へもぐり込んだ事、電車は止まってしまい線路伝いに家まで歩いて帰った事など。毎週月曜日は休電目なので登校し普段逢えない先生やクラスメートと話をするのは楽しかった。

 以来、毎日のように空襲があり、警報が間に合わずに爆弾や焼夷弾が投下された事もあった。そんな中私たち四年生はあと一年を繰上げ卒業となり、五年生と共に三月二十八日卒業式に臨んだ。幸いその間は警報も出ず記念にと写真館に寄って帰った。その後も引き続き空襲の被害で閉鎖になるまで工場に通った。

 私たち家族は疎開する縁故もなかったので少しでも安全な所をとの思いで、四月一目に世田谷の松原へ引越した。大きな家具は父の勤務先に依頼して運んでもらい、あとは銭湯で大八車を借りて父、叔母と三人で往復し、半分は青山に残したまま知人に貸していた。京王線代田橋の駅前に和田堀給水場があり、それに沿って左に曲った幅広の水道道路に面した踏切の近くだった。青山に比べると家も立てこんではなく、郊外といった感じで庭も広かったので壕は勿論、菜園も作った。洋子は二年に進級、純子は体が弱くて学童疎開の仲間には入れず、転校の手続きもできないまま家で正昭と遊んでいる状態だった。

 空襲は都内だけでなく、だんだんその周辺にも及んできて、いつ何時警報が出てもよいように、玄関に頭巾と重要な物を入れた手製の袋(救急袋と呼んでいた)と水筒、履物を各自用意していた。
 五月二十三日夜半の空襲は京王線の向こう側に落ちた焼夷弾で何軒か焼けるのを家の前で見ながら避難はせずにすんだ。
編集者
投稿日時: 2011-10-4 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 52

 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだ ひさこ)その3

 五月二十五日は、一昨日より少し早い時間にまたサイレンが鳴った。今夜は大編隊とのラジオの情報で、皆に危ない予感があったと思う。日頃から壕の中には必需品は入れてあったので早くからトタンをのせ土を多目にかけて避難する覚悟をした。引越して二ケ月足らずで日中は工場通いのため近所の地理不案内で心細くもあったが、母からは隣組の皆について行きなさいと云われた。空襲のサイレンが鳴りひびき、いつものように頭巾をかぶり救急袋を肩から斜めにかけて弟妹たちをせき立てて外へ出た。いつにない爆音のすごさに一度玄関にもどり、何を思ってか咄嵯にそこに家族の人数分束ねてあった傘をかついで外に飛び出し、純子の手を握り、洋子は正昭の手を引いて家の裏手の細い道の方へ出た。純子たちが仲よくしていた隣の渡辺緑ちゃん、茜ちゃん達と声をかけ合いながら目ざす先も解らず、ただ皆に遅れまいと付いていくのが精いっぱいだった。根津山を目ざしていたのだ。あとで知った事だが当時根津さんのお邸があり根津公園と云ったそうだ(現在の羽根木公園との事)。どの位歩いたのか、爆音に追い立てられるように声も出さずに自分の息使いと鼓動だけが聞こえるような瞬間があったように思う。

 根津山に時限爆弾が仕かけられていると戻ってくる人とが狭い道で右往左往している中、B29の編隊がどんどん増えて焼夷弾が落ちてくるのが見え、頭上で幾筋もの光になってヒユーツヒユーツと音をたてながら降ってきた。大声で「伏せなさい」と叫んで純子にかぶさるように身を伏せたが、地面に当たって炸裂して油脂が飛び散り忽ち一面火の海になった。すぐさま立ちあがりその火の上を飛ぶように走りぬける。洋子も正昭も私についてきてくれた。間もなく純子が「お姉ちゃん足がいたい」といった。火の海を渡ってきたので、てっきり火傷したと思い、かついでいた傘を洋子に渡し、救急袋を首から胸の前に下げて純子をおんぶして走った。すれちがう人の中には頭巾がくすぶっている人もいた。分厚く綿の入った頭巾は肩まで覆っているので自分の背中までは見えない。洋子に正昭の手をはなさないように注意し、四人の背中をお互いに確かめながら走り、純子の両足を手でさすってみた。片方は運動靴がない。「いたい?」と聞くと「ううん」と首を横に振って返事してくれた。もうその頃は一緒だった人ともちりぢりになって、どちらを向いて走っているのかわからないが人が行く方へと誘われるように入ったのが給水場だった。普段は入れない敷地だが、非常時で門があけてあったらしい。広い敷地で周囲は低い石垣の上に鉄柵がめぐらしてあり、内側は等間隔に高い木が植えてある。その生木が何本も上の方でメラメラ燃えている。その時ふっと三月十日の下町の空襲で明治座に逃げ込んだ人々が焼け死んだと聞いたのを思い出して、外へ出ようと引き返したが、すでに表裏とも門扉は閉められて外に出る事はできなかった。柵の外の火は見えなかったが空は真赤で煙はひどく、水筒でタオルをぬらして口を覆い中央の給水塔の下へ入った。暗くてよく解らなかったが 隙間のないぐらい大勢の人が身を寄せ合って腰をおろしていた。私達もその中に入れてもらい、純子を座らせてもう一度足を確かめた。靴下一枚になっていたが火傷はなかった。
編集者
投稿日時: 2011-10-5 6:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 53

 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだひさこ)その4

 ここまで火が追ってくる気配はなく、頭上の爆音も少しずつ遠のいて気持も落ちついてきて家の事など気になった。空が白みはじめて警報も解除されると周りの人達は三々五々自分の家へと帰っていった。洋子が家を見てくると云ったがここを動かない方がよいからと押しとめて四人で待つ事にした。

 最後まで残ったのは二家族だった。すっかり明るくなった頃すゝけた顔で母と叔母がリュックを背負い地下足袋で探してきてくれた。この給水場にはもう入れなかったので石垣にぴったり体をつけてうずくまっていたとの事。家のあった一画は跡形もなく水道道路の向かい側の石塀の中の畠に、布団包みとリュックをおいて疲れた顔の父がいた。他に五、六人の知らない人たちもいたが、家の焼け落ちるのをここで見ていたそうだ。家の焼け跡はまだくすぶっている中でキャビネットが焼けて中のレコードが横倒しになだれて灰が白い輪になっていた。まだ片付けずに飾ってあった正昭の等身大の鎧兜は焼けたのに、その脇に刀が落ちていたのを見過ごすことができずに持ってきた。焼け跡の整理をして午後避難した道を根津山の方へ歩いてみたら純子の運動靴があまり汚れもせずに転がっていた。拾って帰りしばらくはそのまゝ履いた。あれだけの火の中をくぐってきたのに、誰も怪我をしなかったのは幸いだったと思う。

 京王線と並行している甲州街道に行ってみたが、新宿から八王子まで焼夷弾を落としていったようで土蔵と銭湯の煙突だけが目について一望千里だった。壕の中の鍋、釜、芋やコウリャンなどの入った米櫓を堀出して何とか食事はできた。焼け跡にバラックを建てた人もいたが、私たちは和泉町の知人宅の一部屋を借りた。

 二日後、まだ電車も動かなかったので父と二人で歩いて青山に行った。東横デパートの裏の渋谷川に木片と共に女の人が二人俯せに浮いていた。火に追われて飛込んだのだろうか。途中常磐松町の母校に寄ってみた。木造校舎だったので跡形もなく、校庭の水飲み場の水が出っ放しだった。その焼け跡で家族を疎開させて自分だけ特別教室で寝泊まりしていらした先生と会い、二言三言話しただけで別れた。

 それから、青山の家までどこをどう歩いたのか、思い出そうとしても中々はっきりしない。ショックが強かったのだろう。五丁目の家の壕は部屋の下に、住めるほど頑丈に作ってもらったのだが、トタンや土をかぶせる余裕もなかったようで完全に焼けおちていた。

 その後父が仙台に転勤となり、住む筈だった仙台の家も空襲に遭い、家族は福島の現場の宿舎に住む事として、わずか残った荷物を八月十五日午前十一時に渋谷駅で貨車に載せ、帰宅してあの玉音放送を聞いた。そのまま数年間は仙台と福島の二重生活を余儀なくされ、私は東京の専門学校の入学式は出席したものの翌年三月、止むなく退学した。父と私は二十五年に上京したが家族全員で暮らせるようになったのは二十九年春だった。

 五月二十五日、父の勤務先も、私達の通った女学校も青南も、住みなれた青山の家も、松原の家もすべて同じ日に焼けた。病気勝ちで寝床でよく絵を画いていた純子が、紙一枚鉛筆一本なくなって何もできなくなり「空襲ってつまらないね」と云ったのを今も強く印象に残っている。カメラ好きだった父が折ある毎に掘りためてアルバムを作っていてくれたのにすべて灰になった。頭の中に留めていた記憶も最近は想い出と共に薄れてきてさびしく思う。

 現在両親、妹二人は亡くなり、正昭と二人になり、こんなに長生きするとは思っていなかったが、今は戦争中の話は折ある毎に若い人達にするようにしている。平和な日本だからこそ戦争を知らない世代へ伝えてゆかねばとの思いはひとしおである。
                                 
 (世田谷区松原町一丁目)
編集者
投稿日時: 2011-10-8 7:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 54
 
 戦災の記録 YF その1






 森 毅氏の人生二十年四回説によれば、二十年前の自分は赤の他人と言うくらいですから、六十五年も前の事は判然としない有様ですが、印象深かった事のみ書きますので順不同かもしれません。何かの参考になれば幸せです。

 米軍の焼夷弾爆撃を受け、戦災にあったのは昭和二十年五月二十五日の夜から二十六日の朝にかけてです。実家は麻布山の中で一番表通りに近い光善寺(柳川)です。当時は山内に善福寺のほか八か寺ありました (略図参照)。家におりましたのは三歳年下の弟と、長年家におりましたお手伝いさんの「まつ」と私の三人だけでした。四月の空襲の後、祖母、下の姉、下の弟は富山県高岡市の従兄の寺(常念寺)に疎開していました。上の姉は疎開先へお米、調味料などを届けに行って留守でした。

 「まつ」が生存しておりましたら周辺のことなど詳しく書けましたのに残念です。私たちは彼女は稗田阿礼(ひえだのあれ)の子孫などと言っていました。我が家の主のような人で、山元町で生まれ八十八歳で亡くなるまで山元町におりました。檀家のことは言うに及ばず、十番通り雑色(ぞうしき)通りの豆源や更科等の誰彼のことにも詳しく、政治家のことにも関心がありました。南山小学校高等科卒、母も私も弟も同窓です。元気なうちに聞いておけばよかったと思います。

 焼夷弾が落とされた時、私は本堂の軒下で空を見上げていました。空中で油脂焼夷弾がいくつにも分かれて落ちてくる様は5cmX20cmくらいに見える真っ赤な火の棒が一斉に降ってくるようで、恐ろしいというよりも「なんときれいな」と思いました。門の所にも一つ落ち燃え始めました。弟は門の外の防空壕に入っていましたので、家の方には入れなかったようです。家はあちこちで燃え始め天井の途中で下まで届かないものもあり、火たたきなど何の役にもたちません。

 「まつ」は二階に飾ってあった祖父の肖像画を持ち出そうとしていました。家の半分ほどは燃えている中、大声で「まつ」を呼び一緒に逃げました。火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、私は当時十七歳、寝ていた布団を荒縄で縛って背負い、左手にラジオ、右手に番のちゃぼを入れた箱を持って逃げました。ちゃぼの箱は庭とは反対側の風呂場に置いてありましたので、庭から座敷、台所を抜け夢中で持ち出しました。もうその時は本堂の半分ほどは真っ赤になっていました。

 庭から墓地を通り、裏の路地を抜けて仙台坂へ出ました。両側の家は焼け始めていました。ラジオは途中で裏の防空壕に入れましたが結局焼けてしまいました。坂を上り有栖川公園手前の塀の所で朝まで座っていました。周辺の様子など見ている余裕は全くありませんでした。

編集者
投稿日時: 2011-10-9 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 55

 戦災の記録 YF  その2

 朝になって麻布山の墓丘に戻ってきた時は、もう家のあたりはすっかり焼け落ちてくすぶっていました。我が家の墓(光善寺の開基明藝之墓)の前で一休みした時、正面に増上寺の五重塔が真っ赤になって焼けていました。しばらくたってから恐る恐る焼け跡に降りて行く途中、焼死した方一人を見ました。焼け跡で弟とめぐり合い、無事でいたことにほっとしました。門の所には消防のホースが蛇のように長々と延びていました。消防自動車はとっくに逃げてしまったのでしょう。弟は麻布山の中からやはり有楢川公園へ逃げたそうで、途中で焼死した方数人を見たそうです。私より三歳年下ですからどんなに怖かったことでしょう。三人共ともかく生き延びられ一安心しました。

 仙台坂の途中まで焼け、坂の上は焼けませんでした。家の敷地、墓地約三百坪ほどの所に油脂焼夷弾六十数発落ちていました。直撃にあたらなかったことで命びろいをしました。今晩から空襲で焼ける心配がないとほっとしたものです。庭の防空壕は蒸し焼きになってしまって、一斗缶に入れてあったお米は真ん中まで黄色く焦げ、お砂糖は黒いカルメ焼きのようになってしまいました。何冊もあった本のあたりも、真っ黒な中に灰色の地に白く字が浮いて見えました。善正寺の防空壕は庭の斜面に建ててありました。二畳ほどの所に担ぎ出したふとんを敷いて大人四人互い違いに寝ました。

 ひとまず高岡の疎開先に身を寄せました。高岡へ行くのもやっとのことで、途中柏崎で一泊しました。その頃はもう食料に困っていました。私は弟を残し一週間ほどで東京に戻りました。それからは乞食のような生活、焼け残った光善寺の石塀(大谷石)にトタンをさしかけ、床には知合いから頂いた畳八枚を四枚ずつ敷いて牢名主のような有様、そんな中でりんご箱を机代わりに使って勉強をしました。教科書少しとノート数冊は墓の、使っていない「カロート」に入れて助かったのです。

 大分たってから、町会に二軒配給の簡易住宅に当たりました。今のプレハブの走りです。疎開から帰った姉と二人で芝公園へ建材を受け取りに行きました。女などとののしられながら、柱何本、屋根板何枚、窓枠何枚(ガラスなし)、床板何校と集め、大八車に乗せて持ち帰り、近所の器用な方に建てて頂きました。六畳、三畳の板の間と、三畳分の土間でした。隙間だらけで冬、朝寒さに目覚めた時は枕元に雪が積もっていました。すべて焼けて全くの無一物になってしまいました。配給物の証明書など数年前までありましたが、もうみつかりません。十センチはどの小さなきれっぱしのような、新聞紙のような紙でした。

 麻布山善福寺の参道は、少し登りで本堂は小高い位置にあり、本堂前の広場右手に、ハリスの胸像がありました。住職の麻布照海師は戦前イギリス、アメリカへもいらしたことがあり、戦争を危倶していらっしゃいました。本堂前に本格的な防空壕が造られていました。父は照海師と親しくしておりましたが、十九年に病死(母は十二年に没)、弟はまだ未成年でしたので照海師が代務住職をしてくださっていました。その関係で光善寺の本尊阿弥陀如来像、開祖親鸞聖人掛け軸、七高僧掛け軸、過去帳など重要なものを防空壕に預かってくださいました。焼失を免れ戦後、光善寺本堂を再建し、寺を復興することができました。

 六十五年後の今、何と多くの物に囲まれていることでしょう。去年八月、今の老人ホームに移り住みました。自宅に比べると約十分の一、狭い一室で必要最小限のものを持って入居しました。戦災にあった時のことを考えれば贅沢に思われます。シンプルライフを心がけなければと思いながら、少しずつ(電話、パソコンなど)運び込んでいるこの頃です。思いもかけず、この歳になって「戦災の記録」を書くことになりました。はっきりした日記などもなく調べることも出来ませんので覚えていることを書き連ねました。
 
 麻布山略図

 5月25日の空襲で善福寺本堂を含め寺院は焼失した。天然記念物の逆さ銀杏はその後芽を吹き、よみがえった。ハリス記念碑は、戦争中縄でゆわえられ、土で回りを固めてあったが、戦後復活されたという。




 (麻布区山元町)
編集者
投稿日時: 2011-10-10 7:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 56

 焼夷弾が焼いたもの
 永井(ながい) おとよ

 昭和二十年五月二十五日、夜十時頃だったと思います。空襲警報のサイレンが鳴りました。

 幡ヶ谷本町に、支那事変での負傷(頭蓋骨陥没)により除隊となった夫と、その両親の四人で暮らしていました。近所に焼夷弾が落ちて、あっという間に燃えてしまいました。すぐ、逃げる支度をしました。バラバラでもいいから逃げようということで、主人は、親しかったお向かいの子供二人を連れて先に逃げました。義父は警防団で行ってしまいました。生きていたらこの家に戻ることにして行きました。何かを持つ暇はありません。私は、義母と二人で、主人に言われたとおり、明るい方へ、燃えている方へ走りました。中野方面の畑を逃げて行く時、何か塊がすぐ横に落ちました。不発だったと思います。

 火の粉が牡丹雪のように、何時間も降り続けました。とにかく熱いこと、とても熱かったです。もう、中野に近い所だったと思います。中野の方を向いて左側の歩道に、五、六人ずつ並んで、前の人の火の粉を払い、後の人は、私の火の粉を払ってくれました。見知らぬ者同士です。道路を、布団一組くらいが、火だるまになってコロコロ転がって行きました。強い風が起こっていたのです。火の粉を払ってもらっても、首の後ろに二、三箇所火傷をしました。今もひきつれが残っています焼夷弾は、火がついて、空から懐中電灯が降ってくるように見えました。

 そして、空襲が終わり、朝、家に戻りました。見渡す限り、焼け野原でした。焼け跡で最初に会った人は町内会長さんでした。炭焼き小屋から出てきたような顔で、自分の顔も真っ黒だろうと思いました。無事四人揃い、朝は炊き出しのおにぎりを貰って食べました。防空壕はすぐ開けると火が出る、というので夕方開けました。煮炊きをするにも燃すものがなく、お隣りのお姉さんと二人、バケツを持って坂の上にあったバス会社に、コークスの燃え滓を貰いに行きました。咎められましたが、何も無いのだから、と二人で言い、拾わせてもらいました。

 主人の友達の松本さんのお宅は牧場をしていらして男手がたくさんあったことと、家が隣接していなかったことからでしょう、三方焼けても、お宅は無事でしたので、焼け出された日の夕方から一週間、泊めていただきました。本当に有り難かったです。

 その間、甲州街道を黒焦げの裸の人がトラックで運ばれるのを毎日目にしました。荷台に積まれた黒焦げの姿は、何とも悲惨でした。戦争はやってはいけない、と思いました。とても気の毒に思ったことを忘れません。



 松本さん宅にお世話になっている間に、羅災証明書(写真参照)を区役所からもらい、田舎に帰る目処がつきました。証明がないとすぐには切符が買えなかったのです。新宿から東京駅に行きましたが、途中のどこも人があふれていました。

 私達が乗った東海道線はたいへんな混雑でした。六時間かかって袋井(静岡県西部)に着きました。女の人は皆もんぺ姿です。私ももんぺ姿で帰って来ました。

 主人の実家(現磐田市)に落ち着きました。東京のような空襲はもう無いと安心していましたが、六月だったと思います。遠州灘からの艦砲射撃がありました。遠く見るのでも艦砲射撃はすさまじい火です。浜松にだけ大砲が撃ち込まれました。この砲撃で、知人が顔と手にひどい火傷を負いました。

 東京では、五月二十五日の空襲の前にも艦載機がたびたび昼間やって来ました。低く飛んで、地上の人間を銃撃するので、それは怖かったです。そのたびに、押入れに布団を垂らして隠れました。ほとんどの場合が防空壕に入る間などなかったのです。


 焦土と化した東京を思えば、新緑に包まれる故郷の地は、まさに別天地でした。けれども茶畑を越えて飛んで来る砲弾がもたらすものは同じでした。
 何といいましても、六十年の余も前のこと、記憶も薄れました。それでいて、断片は鮮明に浮かび上がります。
 私達は東京に戻ることなく、この地に暮らしてきました。





  
 (渋谷区幡ヶ谷本町三丁目)
編集者
投稿日時: 2011-10-11 7:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 57

 戦後六十五年、我が町 南中野
 斎藤 百合子(さいとう ゆりこ)その1






 私の出生地は東京都神田区(現千代田区)です。現在は大電気街の一部になっています。
 昭和初期は、下町らしい人情味のあふれた住居も含めた商店街でした。私も八十歳を過ぎて遠いあの忌まわしい記憶を引き出したいと思います。

 昭和十九年十一月一日昼間、B29、一機襲来があり、その後毎日続きました。そして十一月二十日頃、初めて夜間の空襲、我が家には庭がないので、防空壕はお店の奥の六畳間の畳を上げた床下に掘ってありました。今考えても、あの時焼夷弾が落ちてきたら、絶対に一家全滅だったと思います。でも、あの頃の防空壕は、表通りの人たちにも掘ってありましたが、各家庭のものは皆、家の中に掘ってありました。

 空襲の夜が明けて翌朝、母は姉、私、弟とともに親戚の家作の「空き家」に疎開しました。そこが中野区新山通(現南台四丁目)現在の住居がある場所です。
 昭和十九年頃には麦畑が広がり、遠く富士山も眺められる田舎でした。父だけはお店のある神田に残っていましたが、二月二十五日昼間の空襲で神田のお店の方も焼失して、父も中野に移ってきました。

 その頃の私は、昭和十九年四月から本所区(現墨田区)亀戸にあった「三菱製鋼」に学徒勤労動員されており、私は女学校三年生でした。激しくなって来た空襲の中「旋盤工・ボール盤工」として兵器の部品作り、学業を投げ打って日本の勝利を信じて働いていました。中野からの通勤の時も、空襲で省線(lR)が動かなくなり、亀戸から秋葉原まで歩いたことがありました。

 三月九日の夕方も、工場帰りに友人七、八人と共に亀戸から両国、秋葉原と真っ暗な道を歩いて帰りそれぞれ別れましたが、後になって、その夜の空襲で二人の友人が一家全滅になったことを半月も経って聞き、本当に悲しみました。

 大空襲の後半月ほどして、一部工場が焼け残った「三菱製鋼」へ行きました。行く途中の道路の亀戸駅にも壁には真っ黒に人の油が焼け付き、また、道端には馬や犬の黒こげの死体など、周りを見ると、見るに耐えないと言って、友達と真っ直ぐ前を向いて歩きました。

 軍国少女であった私たちでも、省線の往復で見る焼野原の続く景色を見て「これで日本は本当に勝利するのか」 と口には出せず (言葉にすれば国賊です) 考えたものでした。

 神田の生家の焼け跡には、三月十日の大空襲のあと、たしか四月になってからと思いますが、母と共に行ってみました。一面の焼け野原で残って見渡せるのは、小学校の残骸と外部のみの神田明神、ニコライ堂等が見えました。我が家の焼け跡には重なったレコード盤の中心部分の塊、鉄のガスコンロなどで、後はかたづけられていました。
編集者
投稿日時: 2011-10-12 6:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 58

 戦後六十五年、我が町 南中野
 斎藤 百合子(さいとう ゆりこ)その2

 そして昭和二十年五月二十五日午後十一時、東京西部の空襲です。B29が何百機来襲したのでしょうか。焼夷弾が庭土に突き刺さり、家の天井を破って畳の上で火を噴きました。
 私たち家族も夢中で消火に当たり、どうにかやっとの思いで消火して、出したい荷物を家の前の畑に持ち出しました。私も姉と一緒にミシンや本を持ち出し、僅かばかりの食料を壕に入れたりしました。

 母は、まだこの辺の地理に詳しくない私たち姉弟三人を気遣って、家は父にまかせ、近くの多田神社の境内に避難しました。持ち物は何を持ち出したのか憶えていません。多くの人が集まっていましたが、私たち家族四人も一所に固まっていました。

 空には真っ赤な火煙が流れ、爆音が響き恐ろしい光景でした。幸い神社の周りの民家は焼け残りました。やっと夜が明け米軍機も引き上げて、私たちもまた、我が家に帰りましたが、家は柱一本も残さず燻(くすぶ)っていました。私たちが避難した後、父も頑張って消火したのですが、天井裏に落ちた焼夷弾が燃え広がったようでした。家の前の畑に出した荷物にも火がついて、風にあおられた写真が数十枚飛び散っていました。私の幼い頃の写真だったので角かどが焼け焦げていましたが、拾って大切に保管しました。庭の防空壕の中の物は残っていたので、大事な米を取り出し、井戸水でご飯を炊き食事をしました。その後、何日聞かは何を食べたか憶えていません。出征していた兄が近衛兵で赤坂離宮(現迎賓館)にいたので、外出が許されて自宅の様子を見に来ました。

 それから多田小学校の校庭に軍隊が来て「炊き出し」があったのを記憶しています。家を失って畳二畳ぐらいの防空壕の中で親子が足を交互にして、両方の入り口を頭にして、重なるようにして寝ました。十日位後に立木や焼けトタンを拾い集めて来て、父が「バラック小屋」を建てました(写真参照)。材料も何一つ残っていず、道具もないのに、その上工具も持ったこともない父や母は、本当に大変だったことでしょう。

 私はそのバラック小屋から亀戸の三菱製鋼に終戦の日まで通いました。戦後、学校の授業も再開されました。我が家のバラックには、昭和二十一年秋頃まで住んだ記憶があります。

 私の空襲体験などは沖縄戦、原爆に比べたら、体験を語るほどの事ではありません。この戦争には何千倍の辛酸を味わった人が多くいます。戦争は絶対にあってはなりません。全世界の平和を祈るばかりです。

 二千十年十月二十八日記





 (中野区新山通)

編集者
投稿日時: 2011-10-13 6:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 59

 母親の悲しみ
 村井 恵以子(むらい けいこ)その1





 私が淀橋区立(現新宿区)戸山小学校に入学したのは昭和十五年で、その年は紀元二千六百年にあたり、十一月には提灯行列や旗行列の祝典がありました。翌十六年四月には尋常小学校は国民学校と呼称が変わり、十二月八目に大東亜戦争(太平洋戦争)開戦。すぐ翌年の十七年四月十七日には米空軍機B25の本土初空襲でした。戸山国民学校の校庭上空を飛び去って行くのを友達と見ましたが、すごく低飛行で、友達はパイロットと目が合った?と言っていました。級友の家が焼夷弾で焼け、近くの早稲田中学では直撃で中学生が亡くなりました。

 十九年八月から学童疎開が始まり、私たちの学校は九月に三、四年生は茨城県の土浦に、五、六年生は新治村柿岡町の五、六軒の寺へ組ごとに分かれ、私たち五年二組は男女組で、半里はど離れた片野村浄土寺へ行きました。

 二十年三月には東京下町大空襲、六年生は卒業のため帰京。四月には低学年生も群馬県に学童疎開開始、五月には新六年生も群馬県へ再疎開。弟、妹のいるものは低学年のいる寺へ合流、私も三年生の妹のいる女子の寺へ、下級生の世話をする六年生三名と一緒に移りました。私の班は十二名でした。
 五月二十五日は山の手大空襲で淀橋、新宿あたりも焦土と化しました。
 六月の大変暑いある日、私は寺の境内で下級生たちを指導して桑の幹の皮むき作業(繊維を取り布を作るため)をしていました。その時、遠い向うから畠の中の一本道を木の枝を杖にした汚い格好をした女の人がトボトボと寺に向かって歩いてきました。だんだん近くなり寺の山門の前に立ったとき、私は一瞬下級生を守らなくてはと門の所まで出て行き、仁王立ちになって「何か御用ですか?」と声をかけました。するとその人は頭にかぶっていた手拭いを取り「恵以子、恵以子」と私の顔を見て言いました。でもすぐには何を言っているのか解らず、「お母さんだよ!」と言われてはっとしてその顔を見ました。

 真っ黒にすすで汚れた顔、真白な髪、もんぺは薄汚れ、ポロポロの運動靴をはいた、まさに自分の母でした。いつも一緒にいるはずの末の妹がいないので、「章子ちゃんは?」と問いかけると、「死んじゃった!」と言ってその場にうずくまりました。

 身内のことを言うのはおこがましいのですが、明治四十年生まれの母は当時珍しく東京の女学校を卒業し、知的な上、色白で自慢の母でしたが、その変わり様に声も出ませんでした。本堂に上がらせ、水を飲ませ、少し落ち着いた母はただ一言「いなくなっちゃった」と話したのでした。

 五月二十五日の空襲で我が家も焼夷弾の直撃を受けて全焼、末の妹章子が行方不明になったことを知りました。この日は章子の七歳の誕生日でした。
 先生のご好意で、一晩三人で枕を並べて眠り、次の日は母一人で東京へ帰って行きました。妹は後を迫って泣き叫びましたが、母は後ろも見ずに遠ざかって行きました。東京へ帰っても頼る親戚もいないのに、また行方不明の妹を探しに帰って行ったのです。
編集者
投稿日時: 2011-10-14 6:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 60

 母親の悲しみ
 村井 恵以子(むらい けいこ)その2

 それから二十二年後のこと、私の四歳の息子が四階の窓から転落して生死の境をさまよった時、無事回復はしたのですが、私自身の不注意を責め落ち込んでいた私に、母は誰にも話せなかった空襲の時の話を初めて話してくれました。

 家が焼け始め、防空壕から妹の手を引いて飛び出し、そばにあった非常持ち出しのリュックを取ろうとして一瞬手が離れた時、火に追われて逃げて来る近所の人の波に飲み込まれた。名前を呼びながら追いかけ、見つからず、また戻ったりして探し回ったけれど、後ろから火に追われ、道ばたに掘ってある塹壕のような穴に飛び込んだとたん、火が上を這って蓋(ふた)をした状況になったそうです。母は子供もいなくなってしまったし、このまま死んでもよいとへたり込んでいました。

 その時、母と同時くらいに壕に飛び込んできた赤ちゃんを背負い、三歳ぐらいの男の子の手をひいた若いお母さんが大声で「助けて下さい!助けて下さい!」と叫び始め、その声を聞いた逃げる途中の兵隊さんが「水をかけるから飛び出せ!」と言ってバケツで水を頭から何杯もかけてもらって壕から飛び出し、近くの戸山ケ原へ皆逃げて行ったそうです。

 火も治まり子供を探しながら焼け跡にもどり、近所の方々にも子供を見かけなかったか聞き回り、小さな子供の遺体があると聞けば見に行き、新宿から四ッ谷の方まで迷子はいないか、孤児はいないかと何日も探し回ったそうです。母の黒々とした髪の毛は一夜にして真白になりました。ついに諦めた母は私たち姉妹に逢いたくて、上野まで歩いて運行している区間だけ汽車、または荷物列車に乗り、あとは線路を歩き、二目かけて群馬県安中にたどり着き、そこから二里、炎天下を私たちのいるお寺を目指して歩いて来たのです。

 あの時一緒に壕に飛び込み、大きな声で助けを呼んだ若いお母さん、そして小さな二人の子供は無事大きくなったかしら、あのお母さんがいなかったら、私はあの壕の中で蒸し焼きになって死んでいただろうと、つくづく話しました。

 行方不明になった章子は、近くの五日市街道の小滝橋には、東京湾にそそぐコンクリートで固められた下水道が流れていて、火に追われて多くの人が川に落ちたり、飛び込んだりしたそうですが、章子もその川に落ちて海に流されたのではないかと言っていました。
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