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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     続 表参道が燃えた日 (抜粋)
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編集者
投稿日時: 2011-9-23 8:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 41

 山手大空襲
 石井 昭(いしい あきら)その2

 いつの間にか何人かの人達が一緒に逃げています。焼夷弾が直ぐ背後に落ちる度に女性の悲鳴が
上がります。
 その間行く人、すれ違う人の間で慌しく情報がやり取りされます。
 「そっちはどうですか」
 「まだ燃えていません」
 「では僕らはそっちに行きます」
 でもどっちが安全かなんて誰にも分りはしません。何処を如何逃げたのか私達は今の国連大学の辺りでしょうか。

 「梨本宮」(皇族)のお邸の門の前に辿り着きました。周りではまだあちこちで焼夷弾が爆音と共に青白い炎を炸裂させています。迫ってくる炎に追い立てられて私達は宮邸の中へと少しずつ入っていきました。もうこの時には宮邸の建物は炎を吹き上げる「おき」の状態になっていました。家の輪郭をした火の骨組みが次々に大きな音を立てては崩れ落ちる、至る所で青白い炎が燃え上がる、そのうちに物凄く巨大な炎の壁が私達の前に立ち上がりました。見上げるほどの炎の壁。一番恐ろしかった瞬間です。でも幸いにこの炎上から後、火勢は急速に衰えて行きました。その後、私達は宮邸の植え込みの間で身を休めました。林の間で炸裂していた青白い炎も段々下火になっていきます。

 宮邸の中で私自身全く欠落していた記憶があります。宮邸警護の兵隊さんが我々にバケツで水をたっぷりかっけてくれ、なるべく安全な凹地に誘導してくれたことです。どの時点であったことか、私は全く失念しており後日母の話で知ったのです。恐怖の余り記憶が欠落したのでしょうか。

 いつの間にか寝入っていて、夜明けに目が覚め、煙で泣きはらしたようになった眼で一面の焼け野原をわき目に瓦礫の我が家に帰りました。もうあちこちで亡くなった家族の方にトタン板を被せて茶毘に付していました。道端に遺体がトタン板を被せて置いてある、それを小さな女の子がこわごわめくって見て「きゃあ」と叫んで逃げる、親御さんが其れを叱っている、そんな姿も見ました。空襲を免れた神山の親戚の家に家族身一つで転がり込みましたが、戦後落ち着くまでには随分色々な所を転々としました。

 今考えますと、表参道に辿り着けず逃げ惑った路地。あそこですれ違った方々はどうなさったのでしょう。これから火の海になる方向に向かわれたのです。亡くなられた方も多かったのではないかとお察しします。又、我が家の消火が早く済み表参道に着いていたら、そこで命を落とされた大勢の方々と同じ事になっていたでしょう。亡くなった方々の尊いお命を代わりに頂いたのではないか、生かされているのではないか、近頃はそんな思いにも駆られます。

 冷厳な事実としてのあの大空襲の記憶を風化させない為に、出来る事は限られていますが精一杯努力をして行きたいと思います。

 影絵 石井 昭

 (渋谷区金王町)

編集者
投稿日時: 2011-9-24 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 42

 赤坂区一ツ木町
   新町三丁目
   表町四丁目








 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その1


 

  浄土寺 昭和16年頃
  阿川君子氏提供



 私の家は太田道潅開基の浄土寺という寺院で、江戸初期から赤坂一ツ木に寺地を拝領していた空襲当時、父が住職であった。

 昭和二十年三月十日の下町の大空襲から、これはいよいよ危険になって来たという感じで、わが家でも真剣に防空壕を作り始めた。庭の高くなっている所を掘って大きな甕をいれ、そこにお寺の過去帳や地図等、油紙に包んだ重要書類を入れて埋め込んだ。
 三月十日は山の手の被害は少なかったが、下町の浅草、深川などは関東大震災をもしのぐ被害をうけ、死傷者数多数にのぼったという。赤坂から見るとはるか日枝神社から三宅坂方面の空が赤く、下町がやられているらしいという情報であった。サーチライトにとらえられたB29は、高射砲が炸裂する中を悠悠と飛んでいた。翌日から二、三日の間は、舞い上がった煙と塵で空はどんよりと曇り、太陽が赤い丸になって見えていた。

 四月に入って東京は二度大きな空襲があり、連日連夜のラジオは「敵らしき数目標南方洋上を北上しつつあり」という東部軍管区情報を伝え、敵らしき数目標が伊豆半島を北上して右へ行くか左へ行くか、右へ来れば関東地区空襲警報発令となった。

 五月二十三日深夜から二十四日早朝にかけて大規模な空襲があり、城南地区が大きな被害をうけた。この時、東の空に、丁度花火が破裂したように上空で割れた焼夷弾が無数の赤い点となって落ちて来るのがみえた。モロトフのパン籠という名称だったと覚えている。この空襲で私の通学していた六本木の都立第三高女(駒場高校)が焼けた。大空襲の後は都電が止まってしまうので青山一丁目から六本木へ歩いて行った。六本木から一の橋にかけて一望の焼野原の中に、芋洗坂を下りた所にそびえていた校舎は跡形もなく、グランドピアノの残骸だけが僅かに形を保っていた。

 浄土寺の墓地が桐ケ谷にあり、そちらが焼けたらしいというので父が徒歩で見に行った。焼夷弾がたくさん落ちて墓石が多数倒れ、お堂も焼けて、本尊様だけは防空壕に入れてお守りしてあって無事だった。そこで父が赤坂にお連れしようといって持ち上げようとするといかにも重くてあがらなかったという。一メートル弱のほっそりした木像の仏様なのに不思議なこともあるものと思い、「自分も疲れているから又来ましょう」 と言って帰って来たという。その次の日に赤坂が焼けようとは人間にはわからなかったが、不思議なこともあるものだと父は後年までよく話していた。
編集者
投稿日時: 2011-9-25 7:20
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 43

 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その2

 一夜明けて五月二十五日夜、またしても「B29の大編隊(この頃はこう言うようになっていた)京浜地区に向かいつつあり」というラジオの情報で空襲警報が発令された。

 学校の制服とワンピース等、いろいろ着込んでゲートルをつけ(都立第三は防空服にゲートルを巻いていた)、非常持出し袋と防空頭巾に武装する。親戚の大学生(杉山氏)と一緒に玄関の屋根に上り、空を眺める。

 一昨夜の続きのように東の空に花火のような焼夷弾が落ちるのが見えた。都立一中(日比谷高校)の建物の窓から赤い火が吹き出している。低空で頭上を通過するB29の不気味な爆音がきこえ、爆弾の落ちるカタカタ、ザーツという音がひびく。夜の闇は火をうつしてうす明るく、空も赤灰色に煙ってあたりが見えてくると、赤い火の粉が雪のように吹きつけて来始めた。庭の踪欄の木の毛にバツと炎があがる。老人子供は避難するようにとのことで祖母はお隣の方々といっしょに先に避難して行った。

 立ち木に燃え上がる火を何度か水で消しているうちに火の粉は流れるように激しく吹きつけて来始めた。「もう危ないから逃げましょう」 という隣組の人の声のあとは、人声も全くきこえない。ただ猛吹雪のように火の粉が吹きつけて来る。もう危ないからということで母と杉山さんと三人、防火用水の水を何度も頭からかぶった。大声で父を呼んだがなかなか出て来ない。父は空襲警報になると本尊様を須禰壇からお下ろしして、金銅仏と松平家のお位牌といっしょにうすいふとんで包んであった。仏様をお連れして避難するつもりだったが、とても持ち切れないからと、とっさに池にお入れして来たとのことであった。

 四人で一ツ木通りへ出て足は自然と赤坂見附方向に向かった。強制疎開で広くなっていた土橋お茶屋さんの横を通り、今のみすじ通りを横切り、苗村質店の所から見附方面をみると、煙と火の粉で見通しがきかず、カランカランと強風で空バケツがころがって来た。もう一本下の通りへ出て地下鉄のビルの横へ出る。地下鉄前の外濠通りは人がいっぱいで、宮様の塀の所に都電が二台とまっているのが見えた。あまり人のいる所は危ないように感じて弁慶橋の方へ渡ろうと思ったが、見附の広い交叉点は炎が荒れ狂っていた。角のみよし野喫茶店のあたりから、昔の絵巻物の絵を見るように紅蓮の炎が地を這って、交叉点の中程まで赤い舌をのばしていた。仕方なく永田町の方面へと桜並木の坂をのぼり小学校の角を曲がった。

 永田町小学校の横は煙と火の粉の乱舞で、ポッリボツリと黒い水が落ちて来た。雨かしら、雨なら火が消えて良いと思ったが、どうもこれは池だったらしい。母が「もう苦しいから先に行って」と言った。両脇から手を組んで速足にドイツ大使館の横を通って行った。右手にお邸の冠木門がうっすらと見え、たちこめる煙と火の彩る中を急いだ。

 右側に国会議事堂の外柵の竜舌蘭の見えるあたりまで来た。少しずつ目と鼻が楽になってくる。
警視庁の横まで来た時はやっと煙が薄れ、助かったと思った。祝田橋のお濠の角で本当に気が緩んで歩みもゆるんだ。昼か朝か夜かわからない不思議な明るさだった。遠くの火災のあかりが全天に反射していた。お濠の水を汲んで顔を洗おうと、バケツに紐を結んでおろしたが、手がずれてバケツはお濠の中に落ち込んでしまった。

 皇居の松並木はくろぐろとして空気も冷たく、やっと人心地がついた。松の根元に腰をおろし、
私はこれで万事落着と思ったが、父や母はいろいろな感慨があったに違いない。その時、皇居の
森の中に、宮殿の燃えさかる火の手が盛大に、しかし何の物音もなく望見された。赤や黄、水色、
金色、紫色、それこそ七色の炎が空に立ちのぼっていた。いろいろな貴重な建材や宝物が燃える
炎だったのだと思う。
編集者
投稿日時: 2011-9-26 7:37
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 44

 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その3

 夜が明けて(という感じ)赤坂にもどろうということになった。顔はひりひりするし眉毛や目は痛くてなかなか開けていられず、それでも逃げて来た道を戻って行った。永田町小学校の横あたりから、錫箔のひらひらしたものや、銀色のチューブ状をした焼夷弾のやけがらが散乱し、両側は赤茶けた焼け跡がくすぶっていた。赤坂見附を見下ろすと、一面に赤い瓦礫の平地となって、まだ余煙はくすぶり電線が落ちて足の踏み場もなく、見附のロータリーには虚空に手をさしのべた気の毒な黒い遺体があった。地下鉄の前には昨夜停車していた電車が黒こげの骨組みだけになっていた。地下鉄のビルの前にはやはり車台だけになった自動車の残骸が横たわり、そこここに気の毒な遺体が見えた。足もとのアスファルトはくろく溶けてまだ熱く、靴の底を通してやけるように熱いのでとぶようにして歩いた。

 一ツ木通りを行くと、御影石の門柱がポロポロにかけながらも残っていた。家の跡は赤い灰土と割れ瓦と、黒い炭のようになった木材の切れはしが雑然としてくすぶり、まだ熱かった。水道のあった所だけチョロチョロと水が出ていた。お風呂桶にいっぱいあった水が底から四分の一ぐらい残ってその部分だけ桶も焼け残っていた。お釜の中に昨夜といであったお米が炊き上がってこげていた。つみ重ねてあった本はそのままの形で灰になって、さわるとパサバサとくずれた。本堂は八間四面の土蔵造りで一尺以上ある欅の柱が何本もあったのだが跡形もなく、周囲の礎石を残すだけだった。

 四、五時間前までは青々とうっとうしいほど茂っていた庭木は跡形もなく、赤茶けた土と石の平面になっていた。一抱えほどある木も何本かあったけれど根元が僅かに残っているだけだった。池は焼けトタンや鯉の死骸が浮いた水たまりとなっていた。幸いなことに、緑色の唐草模様の風呂敷包みの焼け残りの中に、阿弥陀様のお首と両手首が焼けずに残っていらした。父がとっさに投げ入れた書類や研究資料を詰めた革のトランクがやけこげて浮いていた。

 別行動をとって先に避難していた祖母も幸い無事で庭石に腰かけて痛む目を拭いていた。祖母は赤坂区役所のあたりで同行の隣人とはぐれ、御所の空濠の中にかがんで飛んできたトタン板をかぶって難を避けていたそうである。区役所前の電車通りに沢山の焼夷弾がまるで大きなろうそくを立てたように火をふいていたという。
編集者
投稿日時: 2011-9-27 7:20
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 45

 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その4

 赤坂方面の避難場所は氷川小学校ということでとりあえず氷川小学校に向かった。坂を登って行く途中、自転車を引いた戦闘帽姿の本間先生(赤坂小学校時代の担任)にばったりとお会いした。「ヤア大丈夫だったか、がんばれよ」 と元気な笑顔で声をかけて下さった。

 母の実家が三田の豊岡町にあり、幸い焼けなかったので迎えをよこしてくれて、その夜から座敷の蒲団で眠ることができた。不思議なことに、こわいとか悲しいとかは少しも思わず、あ、これで焼けてさっぱりした。もう焼けるものは無いのだから、さあがんばって戦い抜こうというすっきりした明るい気特になったことを覚えている。池からひきあげた鞄の中の濡れた原稿用紙を祖父が一枚一枚丹念に植木棚にひろげて乾かしていた姿が目に浮かぶ。

 浄土寺は江戸時代に何度か火災にあっているので江戸末期に建てられた本堂はなまこ壁の土蔵造りで窓や出入口の戸は厚い鉄扉と土の扉の二重になっていた。父は最後に本尊様をお出しした時、戸の閉め方が甘かったのではないかと大変気に病んだという。しかし後日、本堂の横に住んでいた方から「本堂の屋根を破って焼夷弾が落ちたのでもう駄目だと思って逃げた」という話を聞いて、やっと気が楽になったようである。

 それから九月末に赤坂に焼けトタンのバラックを建てて移るまで三田に住んで、都電の消えた焼け跡の町を三の橋から一の橋、六本木、防衛庁の横から赤坂へと、焼け跡片付けに毎日往復した。昭和三十六年に漸く本堂の再建築が出来、焼け残った阿弥陀様のお首と両方のお手に合わせて坐像を復原することが出来た。仏師の人が特殊な薬品で洗うと、鎌倉時代の金箔がよみがえってそのまま新しいお体の金箔と調和して全く違和感がなかった。

編集者
投稿日時: 2011-9-28 7:02
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 46

 赤坂の空襲
 阿川 君子(あがわ きみこ)その5






 戦後六十五年、人間の一生ほどの時が過ぎたが、あの空襲の時の思い出は今も昨日の事のように鮮明である。あの時代は、一分違えば、一メートル違っていれば死んでいても不思議ではなかった。私の家族は四人とも体の動きの良い年齢であり、無意識の中に走った道筋と、通過したタイミングが良かったので無事であったとしか言いようがない。先に避難した祖母も、六十二歳でまだ体力があり、越前松平家の御家中の出身で怜悧な人だったので、無事に難を避けることが出来たのだと思う。青山御所の空濠の中で大勢の方が亡くなったことを知り、今更ながら驚いている。祖母と途中で別れた隣家の御家族三人はとうとう行方がわからなかったという。
 赤坂見附の焼け跡で目にした悲惨な姿、ただよう空気の異様な匂いはとても書きあらわすことは出来ない。私の主人は中学校の勤労動員で飛行機工場で作業中爆弾の直撃を受け、二十一人の同級生の中、十八人を失った。その時の光景はとても筆にする事は出来ない、しかし忘れられない、忘れてはいけない事だと言っている。

 空襲前の赤坂は平和で秩序のある町であった。高級住宅地といわれて宮様の御所も多く、夕方など散歩に出られる官様のお忍びのお姿が見られる時もあったという。大きなお邸や近衛連隊があって、一ツ木通りには親しみやすい商店が連なり、三味線の音の聞こえる粋な花柳界もあり、本当に落ち着いた町だった。それが僅か数時間ですべて失われて多くの犠牲者を出した。渋谷から赤坂、新橋、銀座まで一望の焼野原となったのである。焦土と化した赤坂見附から見る西の空には箱根、愛鷹(あしたか)の連山を従えた富士山の麗姿が望まれた。

 焼け跡の防空壕の中で生活し、焼けトタンと焼けこげ赤坂の空襲た植木の幹で仮小屋を作って、ドラム缶のお風呂に入り、焼けた電線を伸ばして電気を引き…という生活から始まって今日の隆盛な町の姿になった。「赤坂にお住まいですか?」と羨望の目で見られる時もあるけれど、私達の意識の根底にあるのは、あの空襲で一夜にして失われた赤坂の生活である。

 そして戦後の百八十度価値観の変わった変転極まりない時代を私達は過ごして来た。私達の生きた八十年は、二百年にも三百年にも匹敵する変化の年代であったといえよう。この時代を生き抜いて来た私達の世代は、何事も自らの目で見て判断し、たしかな自らの考えを持つ、そして互いに相手を尊重する、という柔軟な、確固とした姿勢を身につけた。私達は、私達の世代しか知らない数々の事実、私達の見たもの、経験したものを、しっかりと次代に伝えなければならない最後の年代として重い責任があることが痛感される。

 平成二十二年記

 (赤坂区一ツ木町)
編集者
投稿日時: 2011-9-29 7:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 47

 弁慶堀に一晩浸かって
 安藤 要吉(あんどう ようきち)その1


 



 昭和二十年五月二十五日の山の手大空襲は赤坂新町三丁目(現在の赤坂三丁目)で羅災した。
 このとき私は五才十ケ月で、就学前だったため学童疎開の対象ではなく家族と一緒だった。家族は祖母と父、母、私、三歳の弟、同居の伯母の六人だった。父が商売をしていたのと、「死ぬときは家族皆一緒に」という母の考えで誰も疎開をしなかった。だからB29の空襲を映画でも写真でもなく、肉眼で見た記憶が残っている。ただ、その記憶が五月二十五日の夜のものであったかどうかは定かでない。

 五月二十五日の空襲の夜は、祖母と伯母と三人で弁慶堀(堀がホテル・オータ二のほうへ曲がる前田外科病院の前あたり)に浸かっていた。堀から首だけ出して戦闘帽(当時の軍国少年は皆かぶっていた)で頭から水をかぶり続けていたことを記憶している。堀の水深は浅く、立つと子供でもちょうど首が出るほどだった。石垣に近いところだったのかもしれない。水をかぶっていても顔だけ火傷していたと後に母から聞かされた。堀は大勢の人でいっぱいだったように思う。新町から弁慶堀までかなりの距離があるからたぶん火の中を逃げ回って行き着いたのであろうがその記憶は全くない。

 その夜の記憶は今も鮮明だが断片的で、赤坂見附の弁慶堀に一晩中浸かっていたことと、翌朝の父との再会というそこだけ切り取ったような二シーンだけである。

 記憶は断片的で、堀の次のシーンは翌朝祖母、伯母と三人で山王神社の鳥居の根もとに坐っていたところに飛ぶ。全身濡れて叔母の膝の上で寒さに歯の根が合わなかったのを覚えている。そして、次は父のメリヤスの下着を着せてもらい、その暖かさに心底ほっとしたのを覚えている。自転車を引いて探しにきた父と再会したのだった。記憶はそこまで。暖かさに包まれた後の記憶は溶けるようにない。

 家族はいつも二組に分かれて避難していた。この頃、母は溜池の読売病院に入院していた。そのため空襲警報が鳴ると父は三歳の弟をおぶって自転車で病院に母を迎えに行って三人で避難し、祖母と伯母と私の祖母組と父組はバラバラに避難するのが定まりになっていてこの日もそうだった。
編集者
投稿日時: 2011-9-30 8:05
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 48

 弁慶堀に一晩浸かって
 安藤 要吉(あんどう ようきち)その2
 
 後日談で父組は弁慶堀の反対側の東宮御所に逃げ込んで無事だったとのことだから、弁慶堀の中の我々とは道路一本隔てた目と鼻の先にいたのだ。翌朝探しに来た父は途中の焼け野原の惨状を見て私との生き別れを覚悟したと後に言っていた。

 余談だが、同じ夜赤坂榎町にいた従兄の姉弟は二人で逃げ、躊躇したあげく地下鉄の赤坂見附駅に逃げ込まなかったため助かったと、これも後に聞いた。地下鉄構内では多くの人が死んだという。一瞬の判断が生死を別けたのだが、こういったことが至るところで紙一重でおこっていたのだろう。

 幼かった私の記憶に残っている空襲についての他の記憶はあまり多くない。飛来するB29群が夜空を横切っていくのを見たことや、周囲の大人達がその夜空を見上げて(多分地上からの高射砲弾を指していたのだと思うが)「当たった」とか「当たらない」とか叫んでいたこと、家の前に掘られていた防空壕といった程度である。

 テレビで、当時警視庁所属のカメラマンの撮ったという三月十日下町大空襲の写真三十三枚を見た。赤ん坊を抱いたまま焼けて炭化した母親、同じく炭化して丸太のようになった死体の山、熱さに耐えかねて隅田川へ飛び込んだ人たちの死体の山の写真などに涙を禁じえなかった。改めて怒りを感じるのは、無辜(むこ)の非戦闘員のこのような大量殺教(さつりく)である。

 今になって悔やまれるのは、この五月二十五日の大空襲や戦時中の東京での暮らしについて父母や祖母からもっといろいろ聴いておけばよかったと思うことである。疎開をしなかったから私は東京空襲で実際に見たことではっきり憶えていることもあるが、なにぶんにも戦争中が満二~五才という年齢だったので記憶も断片的であったり、前後関係が定かでないのだ。また記憶にないことももっと聴いて知っておきたかったと思うのである。           
                     
 (赤坂区新町三丁目)
編集者
投稿日時: 2011-10-1 7:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 49

 大空襲で焼失した 「戸籍謄本」
 若宮 正子(わかみや まさこ)






 想像を絶する被害を与えた「大空襲」は、戦後六十年を過ぎた現在の生活にも、影響を与えています。亡父は、赤坂表町に住んでいた叔父(私から見れば大叔父)の養子となり、少年時代から青年時代を赤坂表町で過ごしたようです。そして、戸籍については、大叔父だけでなく、親族一同の戸籍が赤坂区役所(現在の港区赤坂地区総合支所)に置かれていました。

 一九六九年父が他界し、そのわずかな遺産相続手続きのため親族の戸籍謄本を取り寄せようとしたのですが、所管の区役所から送られてきたものは「消失につき謄本交付ができないことの告知書」 と称する書類だけでした。

 謄本類が、一九四五年五月二十六日の「山の手大空襲」ですべて焼失してしまったのです。なお、当時は「謄本などの副本(コピー)」は東京法務局で保管していたようですが、三月十日に、東京法務局も被災、ここにあった書類もすべて焼失したということなのです。

 戸籍謄本が焼失などで無くなってしまったときは、関連戸籍を調査して、それにより焼失した戸籍を再作成することが可能であるが、関連戸籍がすべて焼失した場合は、手間がかかる…との説明を受けました。

 このような場合、「一切の責任を持つ」旨の上申書をもって他に相続人がいないことの証明に代えれば、相続手続きは進められると聞きましたが、こちらに落ち度があったわけではない(戦災で謄本類が焼失したのは当時の区民の責任ではない)にも関わらず「一切の責任を持ち、何かもめごとが起きても、関係者ですべて解決し、オカミには何もご迷惑をおかけしません」などという上申書を書くのは気が進まず、そのままにしておきました。

 二〇〇五年、母が亡くなった時にも、亡父の戸籍謄本の交付を依頼しましたが、同じような「告知書」が送られてきました。
 しかし、その時期には、大叔父などは、死亡後八十年以上経っていましたので、父の相続も含めて手続きは何とか無事完了しました。

 こういう体験をされた方は、当時の赤坂区役所管内はもちろん、たぶん日本中に、大勢おられると思います。










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 二〇一〇年九月、法務省は戸籍上生存していながら現在不明の百歳以上の人が全国に二十三万四千人いると発表した。最も多いのは東京都の二二、八七七人、次いで大阪、兵庫、沖縄と続く。港区では一、三一七人、最高齢は百三十五歳だった。戸籍と住民登録のズレは戦災被害や戦後の混乱などが考えられるという。戸籍の管理は法務省で、その事務は自治体が行っている。戸籍と住民登録は連動しているが、自治体が居住を確認できず登録を抹消しても、死亡届を出していなければ戸籍は残るし、戸籍を職権で削除しても民法上は死亡と扱われないので、相続は開始されない。(編注)
編集者
投稿日時: 2011-10-2 9:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 50

 世田谷区松原町・下代田町
 麻布区山元町
 渋谷区幡ヶ谷本町
 中野区新山通
 淀橋区百人町
















 太平洋戦争と私
 依田 比沙子(よだ ひさこ)




 青山北町四丁目の電話局の裏手で生まれ育った私は、昭和二十年当時は南町五丁目の長者丸通りの奥で両親、叔母、女学校四年の私、同一年の洋子、青南国民学校一年の純子、五歳の正昭の七人で暮らしていた。

 女学校入学の十六年十二月八目未明に日本軍が真珠湾攻撃をし戦闘状態に入ったニュースを聞いたのは、授業の休み時間だったと記憶している。黒板横の壁に世界地図を張り、連日ラヂオで知らされた戦績を日の丸印で記入した。しかし日本の優勢も始めの頃だけで戦局は徐々に悪化、本土空襲に備えて建物の強制疎開で町の様子は一変、縁故疎開する人もいた。三年生になると学校工場と称して厚生省から持ち込まれた書類整理や、恵比寿の電機工場で電球を作る勤労奉仕もあった。

 十九年七月にはサイパン島玉砕も報じられ、学徒動員令により大田区武蔵新田にあった軍需工場「日本内燃機」で七月二十八日入所式を行い、二月の実習の後現場(仕上げ、旋盤、事務等)にふりわけられた。工場は二十四時間のフル稼働で、私たち女学生は朝六時から午後二時まで、二時から夜十時までの交替制で一般工員に混じっての作業についた。私は三尺旋盤を受持ち、ノギス(物をはさんで厚さや直径を計る目盛つきの工具)で削りすぎないように計りながら、長さ五糎位のコケシのような形の飛行機のピストンの部品を作っていた。日中、警報が発令されると職場の中の壕に入る事もあったが、空襲警報の頻度も増えてきて、夜間は工場内は危ない事もあり一本の長い綱を一列縦隊で持ち、はぐれないように闇の中を多摩川べりに避難した事も度々だった。午後の勤務の時は帰宅が十一時すぎになり、夜道は外灯もなく暗やみなので、毎晩父が地下鉄の外苑前駅まで懐中電灯を持って迎えにきてくれた。
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