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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     続 表参道が燃えた日 (抜粋)
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編集者
投稿日時: 2011-9-3 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 21

 戦時中の出来事
 佐藤 銀重(さとう ぎんしげ)その2


 穏田炎上

 昭和二十年三月一目小雪の降る中、私達六年生は中学校(旧制中学)入学のため帰京した。
 四月から中学校に通いはじめたが、上級生は勤労動員に出かけ学校に来ない日が多かった。三月十日東京下町で大空襲があり、深川方面の空が真っ赤になっているのが、穏田からもよく見えた。
 次は山の手かと、大人の人がつぶやいていた。深川の空襲で焼け出された、二組の人が私達の隣組に転入して来た。空襲の怖さを色々聞かされたが、その時は実感が無かった。四月は時折空襲警報が鳴っていたけれど、軍事教練の合間をぬって勉強もしっかり出来た。そのころから本土決戦という言葉をよく聞くようになり、軍人が隣組に出向き、消火訓練や竹やりの使い方を教えていた。






 穏田は五月二十三日と二十五日の二日間で一帯が焼け野原になった。当日は寝込んだ頃空襲警報で起こされ、ゲートルを巻き、外套を着て、防火頭巾をかぶり待避していた。そのうち照明弾で外が明るくなり「ザアー」という音(大粒の雨が降る時の音と同じ)がして、焼夷弾が一斉に落ちてきた。焼夷弾の一本一本は六角形で縦五十センチ位(次貢図参照)下部に信管がついていて、落下地点で信管に何かが触れると上部の蓋が飛び、中から火のついた油脂が周囲に飛び散り大火災に発展していく。焼夷弾の一本が私の目の前で炸裂したので、今でもその時の状態を鮮明に記憶している。

 運の悪い人は、上空から落ちてくるその一本に当たり(直撃)死亡した人が大勢いる。次に、銀紙を細長く二メートル位に切り、くらげ状にまとめた物体(呼称不明)が、上空からゆらりゆらりと地上に数個舞い降りて来た。これは、敵の電波を妨害する道具だそうで、人体に被害は無いが気味が悪かった。焼夷弾が炸裂した瞬間は、各家の屋根で一斉にローソクを燈したみたいで一瞬椅麗に見えるけど、最後まで消火にたずさわった人の多くは、逃げ遅れて死亡している。

 戦時中防空壕を掘り、防火用水を備えるように指導されていたが、参道の車道と歩道の間に、欅が植えられている場所に防空壕が多数掘られていた。空襲の翌日、そこが死に場所になっていた人が大勢いた。

 商店街の道路にも逃げ遅れた黒こげの人が二~三人いたが、この中に学童疎開で同じ釜の飯を食べた同期のH君もいた。火災になると強い風が吹く、その風が火を運び人命をうばう。明治通りと表参道は火の川になっていた。運命の分かれ道で、明治神宮に逃げた人は助かっているが、青山方面に逃げた人は気の毒なことをした。

 十二歳の私は戦火の中を母に手を引かれ逃げまどったが、くたびれて行き着いたところは長泉寺の門前であった。その当時の長泉寺は今と違って敷地も広く一帯が小さな森になっていて、安全地帯であった。そこに夜が明けるまで居たが、今考えるとよく助かったもんだと思うし、すべて長泉寺のご加護の御蔭と感謝している。夜が明けると隣の救世軍(現京セラビル)で炊き出しをやっていて白米の塩むすびを貰って食べたが、おいしかったことを覚えている。

 焼け跡に掘立小屋を建て、しばらく住んでいたが、その間米軍機が飛んできてビラをまいた。
 日本兵がトラックに乗り血相を変えてとんできてビラを回収して回っていた。何が書いてあったかよくわからなかったが、日本は負けるから早く降参しろという主旨が書いてあった。


 あとがき

 今も昔も変わらないのは表参道の欅並木である。毎年春になると青い芽が吹き冬になると落葉する。戦災で何本かを残し、焼かれて植え変えられたが、焼け残った欅は参道での全ての事象を知っているけれども教えてはくれない、戦災のあったことはいずれ風化し人の話題にもならなくなる時が来るだろう。その時にこの本の価値が始めて出てくると思っている。

 戦災の後、本土決戦という言葉がもてはやされた。もう少し戦争が続いていたら我々の世代の半分は死んでいただろう。悲惨な戦争は二度と起こしてはならない。

 (渋谷区穏田一丁目)
編集者
投稿日時: 2011-9-4 8:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 22

 羅災の記
 島野 敬一郎(しまの けいいちろう)その1






 昭和二十年五月に入ると、敵機による空襲は、大森、池袋あるいは新宿というように、山手方面を目標にするようになった。

 池袋、新宿方面が空襲されたとき、その一機が明治神宮に投弾していった。JR原宿駅近くに住んでいたわが家からも、神官の森の間からパチパチという音を立てて火の粉が望見された。

 五月二十三日の夜、このところ東京にはやってこなかった敵機は、渋谷方面に焼夷弾を投下しはじめ、被爆地方面からと思われる火災が見えたので心配していたら、遥か北方の上空で、敵の一機が高射砲弾を蒙り、火焔を吐きながら東方海上方面へ逃げのびようとする姿が目に入った。敵機は間もなく空中分解を起こし、燃料の燃える薄黒い不吉な火の塊が二、三空中に舞い、落下しはじめた。その夜は北風が強く吹いていたこともあって、その主翼とおぼしき火の塊の一つが、矢庭にこちらの方へ流されながら落下してきた。翼の両端からは真紅の炎を吐き、北風に乗って独楽のようにぐるぐる大きく回転しながらこちらの方へ落ちてきた。その翼が近づくにつれて、轟々と音を立て、唸りを生じて物凄い景観を呈してきた。事態はますます険悪になってきたので、家族全員は防空壕に避難した。それでも戸外の様子が気になっていたので、壕の透き間から外をのぞいていた。すると家屋が真昼のように明るく照らしだされ、この世のものとは思えないような大きな轟音とともに巨大な主翼が落ちた。

 戸外の様子を確かめるために急いで壕から飛び出してみると、B29の主翼がわが家の向かい側の家の庭一面に、ところせましとばかりに落下炎上していた。その翼の下には防空壕があり、壕の中で救助を求めている女主人の救助に一苦労した。この作業も一段落したところで帰宅したところ、すぐそばの表参道にある大きな木造二階建ての大礼会館が、いまをさかりに燃えていた。大礼会館というのは確か結婚式場に利用されていたはずだったが、その大黒柱などが盛んに燃えているところだった。その近辺の小さな二階建て民家の一群にも火がまわって燃えていた。ラジオの電波も切れ、その後の被害情報もわからない。朝になって気がついたが、わが家の庭にも主翼の部品ともみられるものが多数散乱していた。

 朝食後、原宿皇室駅附近に行ってみたら、B29の胴体が落ちていた。その焼け爛れた胴体の中には、真っ黒になった屍骸が残され、機体から少し離れた路上には、操縦者たちと思われるいくつかの屍体が蓆(こも)に蔽われて残されていた。その蓆の端からは、うーんと右手を空中にのばしていたり、足などがはみ出しているのが見えた。機体の傍に来た一人の警官が、笑いながら棒の先で蓆から出された屍体の腕を叩くと、鈍い音がして木の枝のように硬直したまま上下に揺れた。

 午後になって恵比寿の友人を見舞った。渋谷から恵比寿にかけての被害も甚大で、見渡す限りの焼野原の中では、今日から新しい生活をしなければならない羅災者たちが、悲愴な面持ちで右往左往していた。
編集者
投稿日時: 2011-9-5 6:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 23

 羅災の記
 島野 敬一郎(しまの けいいちろう)その2

 一度空襲があると、一目おいて再び大挙来襲するというのが敵の常套戦法である。その二十五日の夜、十時ごろになって再度の空襲となった。戸外は真っ暗で強い風が吹いていたので、今夜の空襲では相当にひどい被害を蒙るかも知れぬという予感がした。とは言え、まさかあのような悲惨なことになるとは予想だにしなかったので、大切と思われた書籍を疎開させただけで、私の部屋は一切が平常の生活状態を維持させていた。即ち、机の上には学校で使用していたノート類の数々や、若干の書籍、机の中にはアルバムさえ入っていた。先の二十三日の夜の空襲以来、ラジオが通じなくなってしまったので、敵機の情報が一切入手できず、来襲の状況は専らわが眼と耳を頼りにするだけだった。

 はじめのうちは、敵機は東京湾の方角から侵入して下町方面に投弾しはじめたので、今夜の敵の目標は下町方面かと気を許していた。ただ三十分後、今度はそれとはまるで反対側の西の方から一機ずつ侵入しはじめ、しかもわが家からごく近いところへ投弾を開始したので、私は全く虚をつかれた恰好になった。敵機の飛来行動を見ていると、どうやら山の手方面に矛先を向けているようで、一列縦隊で一機ずつ飛来する敵機のすべてが投弾してゆく。間もなく近所の穏田あたりにも火の手が上がったので、少なからず身の危険を感じさせた。そのうち、B29一機が照空灯に照らされながら浮き出たかのように、なんと頭上にやってくるではないか。そしてこともあろうに、丁度頭の上でパッと焼夷弾が破裂してしまった。壕の中へ飛び込んで様子を伺っていたら、あの聞き慣れた落下音とともに一大音響がしたので、間髪を入れず壕から出てみると、あたり一帯は火で明るくなっている。それっーとばかり火の方角目指して走り出すと、丁度足もとに青い火がチョロチョロ燃えていた。そのすぐ傍らには炭などの燃料が貯蔵されている物置があったので、小屋に引火しては大変と、やっとのことでその青い火を消しとめた。

 全く予想外の瞬時の出来事だったので、大勢を判断する余裕などあるはずがなく、行き当たりばったりの焼夷弾を消すのに余分の時を費やしてしまった。気がついてみると玄関の天井から火が吹いていた。何気なしにエレクトロン焼夷弾にバケツの水を一杯かけてみたら、消火実験で経験した通り一層勢いよく火花がはね上がった。

 家の雨戸という雨戸はすべて閉めきっていたが、万一のことを想定して、たった一枚だけはあけておいた。庭から縁側にあがり、雨戸の閉めていないところから土足のままで家の中に入ってみると、応接間の方が明るい。行ってみると、玄関の天井の梁が二つに裂けており、その裂け目から猛火が天井裏を這っているのが見える。更にその下にある長い廊下には、数個の小さな焼夷弾がボヤボヤと突き刺さって並んで燃えていた。また便所の内部にも焼夷弾が落ちているらしく、ガラス越しに明るくなっていた。一瞬今夜は風呂に入ったことを思い出し、風呂からバケツに湯を汲んで、なかでも一番火勢が強い玄関の天井めがけて二、三回湯をかけてみたが、何の効果もない。廊下に並んでいる小さな焼夷弾は、バケツ二杯の湯で消すことができたが、あとはどうにもならない。数個所の火元に囲まれ、私は迷い、慌てた。広い平家の中で、私一人で数多くの落下している火と戦ってみたが、どうやら勝ち目はない。家の中は煙が充満し、息をつくのも容易でなくなってきた。「もはやこれまで」と観念し、蒲団を防空壕の中に突っこんでから蓋をし、その上に土をかけた。

 近隣の様子はといえば、向こう隣の家の物干場や、近所の二階屋根からも猛火が吹き出していた。
常々防火演習の場合では、「焼夷弾落下!」と叫ぶと、近所の人たちが集ってバケツ・リレーで水を運び消火することになっていたが、いざ本番で演習時通り叫び声をあげても、誰一人として応援にかけつけてくれる人はいなかった。
編集者
投稿日時: 2011-9-6 6:34
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 24

 羅災の記
 島野 敬一郎(しまの けいいちろう)その3

 ここに到ってわが家の消火は不可能だと即断し、親子四人で互いに叫び声をあげながら、手をとりあい、濡れ蒲団を頭にかぶり逃げにかかったが、どこをどう通ってよいのか見当がつかない。戸外は一面に煙が立ちこめていて、眼からは涙がとめどなく出るし、呼吸すら満足にできなくなってきた。幸いなことに、裏の畑の中を数人の人たちが身体を丸めて明治神宮の方へ逃げていくのを、立ちこめる煙を通してわずかに確かめることができたので、彼らの後を追うことにした。畑の真ん中まで来たところで、雨露と降りそそぐ焼夷弾に遭遇した。私たちのまわり一面に火の雨が降りそそぎ、ブスブスと焼夷弾が地面に刺さっていく。上空を見上げると、焼夷弾の滓(かす)と思われる細かい火がバラバラと降ってきて、まるで火の粉の海の中にいるようだった。

 漸く原宿駅の前を通り神宮の入口まで辿りついて、少し落ち着くことができた。神宮の入口は、本来は暗くて淋しいはずなのであるが、周辺の火災の反映で真昼のように明るく映し出されており、そのうえ大火災から逃れてきた避難民でごった返していた。彼らは、ただ黙って不安な面持ちで脅えていた。

 あれほど幅の広い表参道には、ちょうど参道を南から北へ火勢が横断するような状態で火の波が押しよせていた。泣き叫ぶ子供を背負って逃げてくる母親や、自転車に運べる限りの家財を乗せてきた男の人、バケツを両手にぶら下げて放心して歩いてくるおかみさんなど、多くの人たちが境内に入ってきて、境内の土手に群がっていた。

 もう大丈夫だろうと、私は一人で原宿駅前の坂の上から東方を一望の下に見渡せる場所に立って見ると、穏田には残された家は一軒もなかった。広大な面積の一面に、真っ赤な狐火が静かに燃えているようで、とてもこの世では見出すことのできない美しい光景だった。まるで真っ暗な世界に、火の草花が一面に咲き競っているようで、私は思わず見とれて時の経つのを忘れたほどだった。気がついてみると、私のそばにはいつの間にか数人の人たちが集まってきていて、いずれも放心した態で眼前に展開されている情景を眺めていた。

 東京の夜間大空襲は、五月二十五日をもって最後となった。即ち、わが家は東京最後の空襲で羅災し、あえなく焼失してしまったということになる。

 (渋谷区穏田一丁目)

編集者
投稿日時: 2011-9-7 6:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 25

 私の大東亜戦争
 松田 豊彦(まつだ とよひこ)
 

 当時、私は大学理工学部建築学科に在学していた。
 昭和十八年十月二十一日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が文部省主催で行われた。東候首相の激励の辞のあと、私は三八式歩兵銃を担ぎ、腰に帯剣、ゲートル姿で、泥水をはねあげながら分列行進をした。

 理工系の我々はその後もしばらくは通常の授業を続けたが、翌十九年五月からは学徒動員で、陸軍軍需品本廠研究部に配属された。陸軍の種々の物品の調達を行う部署で、建築物も担当していた。後楽園球場の北側、木造のバラック建てだった。グランドには高射砲が数門据えられていた。

 出張先の岩手県で発熱、急性腎臓炎とのことで、昭和二十年の正月は駿河台病院で迎える事になってしまった。退院し仕事に復帰直後の三月十日、下町が大空襲に見舞われた。翌朝すぐ羅災地の調査に出掛けたが、手の出しようがない。唯々被害の大きさに驚くばかりだった。一面の焼け野原、累々と横たわる死体、防空壕の中、防火用水のコンクリートの箱の中で丸まっている裸の焼死体…。初めて見る惨状に、日本の行く末を見た思いであった。

 四月には小石川の役所が羅災し、急遽山梨に疎開することになり、我々は水道橋駅前の府立工芸学校の校舎で、東京事務所として留守業務を担当した。

 五月二十五日の夜、私はちょうど宿直当番であった。机を並べてベッドとし、学生服のまま休んでいると、いつもの様に空襲警報が鳴り響き、しばらくするとB29の爆音と共に、西の空が一面赤くなり始めた。今日はどこが被害を受けたかと思いながら、当直の夜が明けるのを待った。

 原宿駅近くの穏田の自宅に帰ろうと思うが、国電は全面不通という。歩くより致し方ない。水道橋、飯田橋、四谷と、現在の東京マラソンのコースを歩く。次第に焼け野原が広がり、三月十日の本所、深川と同じような惨憺たる光景である。薄煙の中から表参道まで見渡せる。所々に薄煙が広がり、焼け跡にチョロチョロと出ている水道。あちこちに転がっている焼死体。穏田のわが家はどうなってしまっただろうかと案じながら、表参道交差点までたどり着いた。明治神宮の燈籠と安田銀行との間に数多くの焼死体が折り重なっていた。表参道の樺並木も燃え、同潤会アパートも外観は保っていたが、中は焼失してしまったようだ。無惨な姿になった竹下通りを急いで、わが家を目指した。

 焼野が原の一角に三、四軒だけが焼け残っていた。北隣りの家作(かさく)は全焼、南側の家作二軒と向いの一軒とわが家だけが建っていた。
 義兄は家族を福井へ疎開させ、義兄と甥と私の三人が家を守っていたのだが、当夜はたまたま義兄一人だった。わが家に命中した焼夷弾四発を、義兄は孤軍奮闘、すべて消し止めた。女中部屋の畳には穴があき、納戸の和箪笥は直撃弾が貫通し、和服が重なったまま丸いこげ穴を残していた。家の真ん中あたりに落ちた焼夷弾は屋根、床を貫通して土の中に埋まっていた。それが不発弾だったのは幸運だった。しかし、吹き倒されそうな烈しい熱風と戦いながら、隣家からの類焼を防ぐのはさぞ大変だったと想像された。偶然のこととはいえ、義兄をひとりにしたことへの申し訳ない思いでいっぱいだった。

 二十六日からしばらくは、ご近所の焼け出された方々の緊急避難所のような役目を果たすことになった。多くは明治神宮の森に逃げ込んだようだった。第一鳥居をくぐって避難したり、線路をまたいで土手を登り、森に逃げ込んだりして、一夜を明かしたとのことだった。原宿駅の駅舎と、駅からの参道沿いの三軒の売店がかろうじて焼け残ったが、あとはすべて焼き尽くされた。わが家の無事を心から感謝した。

 同世代の多くの若者がこの戦争で命を落とした。顧みると、私はいくつもの幸運な廻り合わせにより、今日、米寿の目を迎えた。
 誕生日が大正十二年十二月。十一月生れの人までが繰上げ徴集で兵役に就いた。また、二十年九月に大学の繰上げ卒業を控え、陸軍技術将校試験を受け、発表待ちで八月十五日の終戦を迎えた。

 大学卒業と同時に、三井建設第一期生として就職、昭和二十二、三年には巣鴨プリズンの営繕を担当し、大東亜戦争の戦後処理にも関わったが、その後は建築技師として戦後の復興、発展に参加出来た事は幸甚であった。

 今日の表参道のファッションの先端としての繁栄や、若いギャルあこがれの竹下通りの賑わいを、当時の誰が予想しただろうか。

   平成二十二年十二月二十一日 満八十八歳の誕生日に
 
 (渋谷区穏田三丁目)
編集者
投稿日時: 2011-9-8 6:26
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 26

 忘れられない五月二十五日
 岩崎 栄子(いわさき えいこ)


 
 私の家はJR原宿駅竹下口から二、三分、駅前の通りからも竹下通りからも一、二分のところにありました。近くの東郷神社は子供達のよい遊び場でした。戦争が激しくなり、私どもは、父一人を原宿に残し、福島県平市に疎開しましたが、昼間留守になる家を守らなければと、平と東京を行ったり来たりしていました。学校も東京と平の両方に席がありました。

 五月二十五日は家族みんなで東京にいました。B29がすごい数で、すごい速さでやってきたので、私は防空壕に入るのが間に合わないくらいでした。妹二人は家の中に取り残され、父が助けに行き、抱えて外に出た時には家は燃え出し、父は軽いやけどを負ってしまいました。ドブ板の下にはガソリンが川のように流れていました。

 父は警防団員なのでみんなと一緒に逃げられません。父と十六才の兄は近所の人や家を守るために残りました。母は九カ月の大きなお腹で、三才の妹をおんぶし、次男十一才は四才の妹をおんぶしました。八才の私は水を入れたバケツを持って逃げました。

 遠くには行けないので、すぐ近くのお召し列車が使うホーム(現在も残っている宮廷ホーム)の中に逃げ込みました。角ばった焼夷弾がホームの屋根を突き抜き、降るように落ちて来ました。逃げようにも柵がぴったり閉まっていて出口がわかりません。はしからゆすり、ようやく出ることが出来ました。

 安全な場所を探し延命寺のところまできた時、解き放たれた軍隊の馬が何十頭もすごい勢いで逃げて来ました。恐ろしさに壁にはりついて、通り過ぎるのを待ちました。そしてまた線路の所まで戻りました。

 身軽な人は止まっている列車の下をくぐり、明治神宮の石垣を登り神宮の森の中に入って行きました。私達は登ることも出来ないので、ホームとお寺さんの百mくらいの間をうろうろするだけでした。よその家の庭の木の下にかくれて夜が明けるのを待ちました。ふとんが燃えているのも知らず頭からかぶっていましたが、木の下でバケツの水で消してやりました。

 私達は駅で待ち合わせることにしていました。家から五、六十メートルの所にいるとは思わず、誰に聞いても知らない、見ていないといわれながら父と兄は遠くまで捜し歩いたそうです。そして、会えた時の、無口な父の嬉しそうな顔が今でも目に浮かびます。

 焼けてしまった家の縁の下に保存していたお米、味噌、野菜を近所の人と一緒に煮ましたが、イブ臭くて食べられませんでした。
 母のお腹は大きく、いつ陣痛があるか心配なので、その日に、空気の抜けたリヤカーに母と妹二人を乗せ、父と兄が引いて、下の兄と私は後押しをし、上野駅まで歩きました。焼け跡の惨状に何度も目をつぶりました。一生忘れる事の出来ない光景でした。

 どうやって平に着いたか思い出せません。平でも警報が出て、身重な母はのろいので怒られながら避難したりしました。
 六月二十六日、無事に弟が生まれ、皆で喜びました。おむつを持って防空壕に入り、泣き声を気にして口をふさぎ壕の入口に坐ったりしましたが、そのあとは家の中で静かにかくれて、避難はしませんでした。

 もうひとつ忘れられないのが五月二十三日の夜の空襲で、B29が撃墜され、その一部が家のすぐそばに落ちたことです。駅前の通りのところです。機体の下に黒こげの頭が見えて、アメリカ人と思い蹴飛ばす人もいましたが、日本人と分かり手を合わせました。ご近所の息子さんでした。

 B29は三つに分解し、他の一つは明治通り近くに、もうひとつは神宮橋近くの大禮会館の所に落ちたそうです。

 戦争が終わり嬉しかったです。
 この文を書きながら、いろいろ思い出され涙が流れます。七年後神宮前に戻って来ました。

 その後、父は五十二才で、母は八十七才で亡くなりました。兄二人と弟も亡くなり、今、五人はあの夜さまよった延命寺に眠っています。当時の家から五、六分のところです。私も七十三才になりましたが、今住んでいる相模原から妹とふたりで年に五、六回お参りに行っています。

 (渋谷区竹下町)
編集者
投稿日時: 2011-9-9 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 27

 戦後六十五年 東京の記憶
 斎藤 伊佐雄(さいとう いさお)




 (写真は、明治神宮の「代々木」)

 これは 「私の八十年史」 のうちの一部分である。
 当時私は十五歳だった。高輪工業高校に在学していたが、校門をくぐったのは三回しかなく、勤労動員で鉄工所へ毎日通っていた。自宅は原宿の竹下通り(当時は竹下町といった)で静かな住宅街だった。隣組の組長さんから若い人がいないので手伝ってほしいと頼まれ、防火訓練に参加して、少しでもお国の為になるならばと頑張っていた。

 それは五月二十五日の夜半の事だった。この頃になると頻繁に警報が鳴るので、夜はズボンをはいてゲートルを巻いて寝るのが当たり前になっていた。隣組の寄り合いの時、今度大空襲があれば山の手だろうと伝達があったので、私もいざという時の用意にリュックサックに当座必要な品々を詰め込んで枕元に置いて寝ることにしていた。

 いつもの如く警戒警報発令と同時に飛び起きて、組長宅に走りラジオにしがみついて「東部軍管区情報」に耳を傾けていた。しばらくしてサイレンの音と共に空襲警報発令のアナウンスが飛び出してきた。組長と目を見合わせた私は通りに飛び出し、「空襲警報発令」 とメガホンで叫びながら走り回った。「今夜は大変なことになりそうだ」と組長は空を見上げながら私の肩に手を置いた。私は身の引き締まるのを感じた。防空壕の入り口に待機していると、聞き慣れた轟音が迫ってきた。いつもと違うのはB29の爆音が頭の真ん中に響いてくる。これは危ないと思い「待避・待避・待避」と連呼しながら防空壕に飛び込んだ。ラジオを膝に抱え込み、情報を聞きながら外の様子を伺った。青山の方の空は真っ赤だった。ヒユーン・ヒユーンの連続音と共にドッ・ドッ・ドッとたとえようのないような音が腹に響いてきた。

 急いで防空壕を飛び出した私は我が家へ走った。店に飛び込んで目についた一発をどうやって消したか記憶にない。奥の居間に入ると二発、火を噴いている。こいつも消した。縁側の一発を火ばたきで庭の池に払い落とし、二階に駆け上がる。もう遅かった。火は襖を駆け登り、天井に届いている。もはやこれまでと急いで降りて、リュックを背負って表へ飛び出した。西側の原宿駅の方は火の手が上がっている。東へ走った祖母は、父は、と頭の中をかすめたのはほんの一瞬だった。組長宅の前まで来たとき、そこの娘さんと出会った。「さっ、こっちよ早く!」ぐいと手を引っぼられながら走った。南側の家並みから火が噴出している。二人は防火用水桶を見つけ出して、頭から何杯もの水をかぶり炎の遠い所へ飛び込んでいった。

 明治通りへ出て火の手が上がっていない北へ走った。千駄ヶ谷の坂道を走っている時、B29の爆音が頭の真後ろからヒユーン…という焼夷弾の落下音が追いかけて来た。「危ない!」 とっさに足下に吹き飛ばされてきたトタン板を背中に背負い、二人は地面に平伏した。バリバリバリ…、ずしんと腹の底に響くような炸裂音に、思わず握り合った手に力が入った。遠のく爆音を確かめながら起き上がった私は思わずうなって絶句した。そこに地獄の美しさを見た。サーチライトに浮かび上がったB29の銀色の機体から紅く青くそして銀色に輝きながら首を振るようにして落ちてくる焼夷弾の群れ。まるで両国の打ち上げ花火のような、いや、それ以上の美しさだった。

 ややあって、私たちは黙って歩き出した。足は自然に神宮の森に向かっていた。何を考えていたのか全然記憶にない。先ほどとは打って変わって静かだ。神官の森が助けてくれたのだろう。
 やがて空がいくらか明るくなってきた。多分このあたりと見当をつけて神宮の森を東へ入り込み、土手を登り、山手線の線路越しに竹下町はと目を向ければ、そこは真っ黒な焼け跡だけが目に写った。はっきりとわかったのは駅の前の風呂屋の煙突と南側の松平邸の大木と、反対側の東郷神社の緑だけだった。あとは薄黒い煙が細々と立ち上っているだけだった。もちろん我が家など消えてしまった。全身の力が抜けていくような無力感に襲われた。

 足を引き摺るようにして我が家の焼け跡に戻った私は、立ったまま呆然として涙も出なかった。
 しばらくして祖母と父の元気な姿を見つけた私は、真っ黒な顔に涙を流して喜び合った。
  
 (渋谷区竹下町)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 明治神宮の戦災

 昭和二十年四月十三日深夜からの空襲で神官境内には一三〇〇発余の焼夷弾が落下、うち二〇〇発余は拝殿、本殿付近に集中し、拝殿、本殿は全焼した。
 五月二十四日~二十六日の空襲では、旧御殿、貴賓館、付属禊場、勅使殿、斎館、社務所、隔雲亭(内苑内)、代々木(地名になったモミの大樹)等多くが被災し、戦災を免れたのは東西南北の神門と回廊の一部、宿衛舎および宝物殿のみであった。
 二十一年五月仮社殿完成、三十三年十月、現在の本殿、拝殿等が完成した。


編集者
投稿日時: 2011-9-10 8:15
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 28

 渋谷区原宿二丁目
 赤坂区青山北町
      四丁目


















 空が赤く燃えた日
 栂野 春野(とがの はるの)






 昭和二十年三月十日、私は結婚式を挙げることになっていました。その日未明の下町大空襲で結婚式は延期され、地下室が完備されていると定評の三越本店に式場を変更して三月二十一日に式を挙げました。幸いにもその日は空襲がなく、式もとどこおりなく済み、原宿の新居に落ち着きました。一か月後、目白の実家が空襲で焼けました。そして忘れもしないのが五月二十四日、二十五日の連爆の目です。

 私、当年とって満八十六歳となりました。四十代のとき、原宿での体験について投稿しましたが (以下抜粋)、あのときの記憶は今でも鮮明に残っております。

 五月二十五日の日、前夜から一睡もしないでうとうととしていた。まさか今夜は、と思っていた夜半、警戒警報のサイレンにとび起き、つづいて鳴り響く空襲のサイレンとともに、敵機B29の爆音が頭上に響いてきた。庭先の防空壕に土をかけるひまもなく、主人とともに、母家の防空壕にかけ出した。

 バラバラと雨のように落ちてくる焼夷弾、ナニクソとバケツリレーで数発消したが、次から次へと落ちてくる爆弾に、みんなで防空壕に土をかけ、家族全員、はぐれないように手をにぎり合い、真っ暗になった路地を、風上へと逃げた。しかし、どうしても煙と火勢に押され、風上へは逃げられず、風下へ、風下へ、と逃げなければならなかった。

 この時、すぐ耳元で「男は逃げるんじゃない、残って消すんだ」。ふりむくと、防護団の制服、腕章をつけた人が居丈高になって叫んでいた。主人がその方に気を取られていた時、義父が「行くな、行くんじゃない」と強く言われた。その時残っていたら、恐らく主人と二度と会うことはできなかったと思う。路地から路地へ、どのくらい逃げ回ったことか、時間も方角もわからない。とある家の防火用水と書かれたコンクリートが目に入った。あったあった。水が一杯に、奇跡的に残っていた。みんなでお互いに身体中、頭からかけ合う。はいていたズック靴の中が、ジャポンジャポンと音がしていたこと、それも半時間後にはカサカサに乾き、口の中はシャリシャリとなり、身体中がバサバサに火勢で乾いてしまった。


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投稿日時: 2011-9-11 8:55
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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 29

 空が赤く燃えた日
 栂野 春野(とがの はるの)その2

 とうとう私達はどこかの兵営の前の土手の下まで逃げてきた。でも兵営のアチコチには銃を持った兵隊が立っていて、一歩も中へ入れてくれる様子もない。その土手の下に、五十センチくらいの水のないドブがあった。そこにできるだけ身体を小さくして、目の前の赤土の広場の向こうから、焼けただれたトタン板がものすごい勢いで飛んで来るのを防がねばならない。もうこれで私達は終わりか、こんな所で死ぬのかと思った時、ふと見上げた空、にぷい赤土色にどんよりと重くたれ下がっていた。いやいやどんなことがあっても、生きのびなければ、こんな所で死んでたまるものか、と私は思った。

 その時「おーい土手を上がってもいいぞ」と大きな男の人の声が聞こえた。まるで地獄で会った仏とは、こんなことをいうのではないだろうか。私達は救われた思いで、必死になって、赤く乾いた芝をにぎりしめ、上へ上へとのぼった。その時兵営もだいぶ燃えはじめていたようで、あんなに頑張っていた兵隊の姿は見られなかった。そこから神宮外苑へと逃げ、やっと青々とした緑の森を見た時、ああ、私達は助かったのだと感じた。一人、二人、あちらから、こちらから、やっとたどり着いた人びと、しめった土の香りを喚ぎ、足を伸ばし、ゴロリと横になる。綿のように疲れた。

 東の空がだんだんと明けてくる。誰いうとなく、点呼があちこちではじまった。私達の隣組でも、何人かの人が抜けているようだ。朝になり、帰る所もない人びとは、各自まだぶすぶすとくすぶっている焼け跡に足を運ばねばならなかった。今しがたまで、あんなに立ち並んでいた家並み、なにもかも焼け落ちて、焼け野原の中に焼けた大きな木が、ぶきみに立っていた。

 我が家の焼け残ったコンクリートのへいの前にきた時、その門の内側に四十八発入りの焼夷弾の大きなカラが、真赤に焼けただれて落ちていた。防空壕ももしや火が入ったのではと不安な気持ちで、みんなは無言で土をどかした。幸いなことに無事であった。主人と私はどうしたことか、煙と火勢に目をやられ、まぶたがはれ、目が痛くて、開けられず、つぶれるのではないかと思った。

 近所のかたが、表通りの焼けビルに 「赤十字奉仕団が来ている」 と教えてくれたので、早速、主人と共に表参道に向かった。明治神宮表参道の両側に規則正しく防空壕がだいぶ掘ってあり、当時、風上となったので、沢山の人が表参道目がけて逃げ、この防空壕でずいぶんと亡くなられたそうだ。ちょうどその時もトラックがきて、まるで真っ黒になったロウ人形のような人びとの遺体を、ボンボンと乗せて行くのをぼんやりと見ていた。樺並木も真赤に焼け、あちこちに焼けただれた自転車がころがっていた。

 現在、表参道ヒルズとかシャレタ名前がつき、当世風の若い男女がカツポしている。六十六年前に多くのかたが亡くなられた事を何人の人が知っているでしょうか。戦災碑が立っていますが、半世紀以上過ぎ去った現在、世の中の移り変わりの早さに驚かされ、「日本とアメリカが戦ったんですッテ!」と、若い女の子がマイクに向かって言ったのには唖然としたより悲しくなりました。

 私事ですが、小学校三年の時に五・一五事件、六年の時は二二一六事件、女学校三年の時は日華事変 (後に日中戦争)、女学校を卒業する時は大東亜戦争、昭和二十年八月十五日終戦、まさに戦争に明け戦争に暮れる青春であったと思います。

 昭和二十年三月に結婚、五月に戦災に会い、その後子供三人(一人死亡)を育て、平和はいいもの、戦争がないとはこんなにも安らかなものかと痛切に感じると同時に、息子や娘、孫たち、ひ孫たちの時代に平和が続きますように祈らずにはいられません。

いま、世界の国々がテロに対しておびえています。やられればやりかえす、これではいつまでも
戦争はなくなりません。私たちが住んでいる地球をもっと大事にして欲しい、みんなで大切にし
ましょう。今の私の唯一の願いです。

 (渋谷区原宿二丁目)

編集者
投稿日時: 2011-9-12 8:12
登録日: 2004-2-3
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投稿: 4289
続 表参道が燃えた日 (抜粋) 30
 それは五月二十五日に!
 平瀬 庸(ひらせ いさお)



 
 昭和二十一年五月、私はシンガポールより復員船になった練習艦「鹿島」で広島の大竹港に向かっていた。艦内の中甲板には白墨で東京空襲の被害図が書き出され、渋谷区辺りは、斜線で被害にあった事が書き出されていた。

 大竹から東京へ、列車は当時二十四時間かかった。途中広島駅で一時間近く停車。市内は無惨にも焼け出され、原爆ドームを見渡せた。翌朝列車を新橋で降り、地下鉄に乗って青山四丁目で降りた。地上に出ると見覚えのある電話局の建物は残っていたが、周囲は焼け野原……。原宿二丁目に向かうが、焼野原の中にバラックがボツポッと建っていた。交番の横の坂を下ると、大谷石のお蔵、コンクリートの塀は残っており、穏原小学校の角を曲った。アンドレーの家の塀はそのまま残っており、我が家へ向かう。道路からの敷石は昔のまま残っているが、中に入ると勿論何もない。二度三度と行きつ戻りつゝしていると、井戸の脇の小屋より顔を出してくれたのが隣の奥さん。そこで、母と妹が熊野神社の近くで亡くなったこと、そして残っていた兄の疎開先を教えてくれた。

 兄の話では、母と妹は、ご近所の方といっしょに、熊野神社から四聯隊の裏門から隊内を通って外苑に抜けるつもりだったが、裏門の番兵が頑として門を開けてくれず、止むを得ず熊野神社より玉屋工場に向かう途中で倒れてしまったとのこと。兄は母と妹を探しに出て、漸く探す事ができた。遺体に名前をはっきりと付け、消防の方にお願いして茶毘(だび)にしていただいたということであった。

 兄といっしょに、その後現場に行ってみたところ、現場のコンクリートブロックには、はっきりと二人の赤くなった焼け跡が残っていた。遺骨は長安寺に納められたが、まだ当時は、ブリキの蓋で囲まれた中に納められた骨壷は、二人を一つの壷に納め、その蓋からは、母が着ていたラシャの布地が垂れていた。

 兄より聞いた話。コンクリートブロックの赤くこげた焼け跡、骨壷の蓋より垂れさがったブラウスの布地を見て、漸く母、妹が亡くなったこと、今まで信じられなかったことが真実であることを納得せざるを得なかったという。父は、当日大阪に出張していて留守であった。

 東京大空襲のあった昭和二十年五月二十五日、私はマレー半島のゴム園の会社に勤めていた。
 当日は給料の支払い日。私はアロガジヤの分遣所よりマラッカの本部にモーターサイクルで給料の受取りに出かけた。毎月この目は分遣所長が乗用車で行くのだが、他の急用で出かけることになり、私が代わりに行くことになった。ゴム園現地従業員数百人の分となると麻袋に一杯となる。モーターサイクルの荷台にくくりつけ、分遣所には電話でこれから帰る旨連絡をして出発した。約三十分で到着する行程である。ところが、マラッカの市内から出て間もなく、モーターサイクルのエンジンが急に止まってしまった。治安のよいマラッカでも、荷物が荷物なので心配である。
      
 修理の工具は生憎(あいにく)と持っていなかった。モーターサイクルを押してカンポンの中まで入ったものの電話もなく困り果ててしまった。三十分ほどしたらエンジンがかかり無事に帰ることができた。分遣所のスタッフも心配していたが、当時は連絡の方法もその他の事など一切ない。漸く事なきを得た。これが五月二十五日をはっきり覚えている出来事であった。

 その後六月十日に現地入隊し、翌二十一年六月に復員。日本橋の本社に挨拶に行ったところ、先に引揚げていた先輩から、五月末に本社からマラッカには電報で「母、妹」の死を知らされていたという事を聞いたが、入営の直前だったので私には伝えてはくれなかった。

(渋谷区原宿二丁目)


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