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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     自由主義者の父と韓国入学生との絆(みどりのかぜ 29号より)
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2011-5-6 7:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自由主義者の父と韓国入学生との絆(みどりのかぜ 29号より)

 はじめに

 スタッフより
 
 この投稿は、韓国におけるメロウ倶楽部の友好団体「KJクラブ」よりご寄贈いただいた「みどりのかぜ」からの転載です。 
 掲載につきましては、編集者の曺京植様および、投稿者の安田 章宏様のご承諾を頂戴しております。

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 自由主義者の父と韓国入学生との絆
 韓国料理で父をサポートしていた母

  昭和一桁生まれの軍国少年時代
  人生最初の一駒からの想い出

 安田 章宏

 緑風会 会員

 1、自宅をレッスンの場とした父

 私の韓国での生活は一九三二(昭和七)年の三歳から一九四五(昭和二〇)年、太平洋戦争で日本敗戦までの約一三年間であった。父は黄海道海州(現北朝鮮)の道立海州高等学校の地歴科と音楽担当教師として母と私を連れて赴任したが、一九四〇(昭和一五)年私が小学校六年になる際に慶尚南道の官立晋州師範学校に転任した。その年の一二月八日太平洋戦争に突入、翌年四月に私は道立晋州中学校に進学した。私の進学希望先は日本人子弟だけの釜山中学校だったのに、父は 「我われ一家は韓国にお邪魔している立場なのだから、生活習慣や文化などを互いに理解しあい仲良く暮らす努力をしなければならない。それなのに韓国人を見下し威張った態度で接して、顰蹙を買い反日感情を煽る日本人移住者が多い。お前は晋州中学で韓国入学生と共に学び朋友を創れ。但し“韓国人のクセに”は絶対に禁句だ」 の言に従ったのだが、入学者は一一〇名で、日本人は一二名だけ。あとの九八名は韓国人で、二~三歳の年長者もいた。

 机を並べた隣席者をU君と呼んだら「クンとはなんだ、サンと言え」と睨みつけられた。父に話すと「それはお前が悪い、韓国は儒教の国だ。自分より年長者には様やサンの敬称をつける(絶対敬語)。これからはUサンと呼んでやれ」と笑いながら言う。これは最初のカルチャーショックであった。

 父は海州でも晋州でも時々自宅に四~五名の韓国人寮生や下宿生を招き会食をした。父は私も相伴(しようばん)させて夕食を共にしながら食事のマナーや、胡坐(あぐら)と正座や椅子(腰掛)などでの立居振舞いの違いなどを例えに、日常生活のマナーも、それぞれ国の文化と歴史に根ざしていて、いわゆる国柄があること。更に“郷に入りでは郷に従え”の格言を引いて、「此処韓国は日本人にとっては異郷なのだから、韓国式のマナーを心得て暮らすべきなのに、逆に日本式のマナーとは違うと嘲笑し“文化が遅れている”という誤った優越感で、韓国人を蔑視する輩(やから)が多くて腹立たしい。反日感情が高まるのは当然だ。いずれ独立回復は果たせると思う。それに備えて私は現在教壇に立っているのだ。いまお前たちがなすべきことは、学問に精を出し世界観や物の見方・考え方などをしっかり身に着けることに専念することだ。独立運動には無関心を装っておけ。一旦運動家だと睨まれたら官憲に付き纏われ、その嫌疑で拘留でもされたら“仲間を吐け!”と拷問されて酷い目にあい、体を毀して学校どころではなくなるばかりか、その累は家族や友人にまで及ぶ」と例え挙げて軽挙妄動に走らぬようにと諌めていた。
編集者
投稿日時: 2011-5-7 8:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自由主義者の父と韓国入学生との絆 2 (みどりのかぜ 29号より)

2、母の韓国料理でのサポート

 こんな父の学生に対してのレクチャー時には母が韓国料理で持て成した。父の事前予告でマンドックやトツク・トッポギ・お握りなどを沢山つくり、加えてキムチや沢庵を大皿に盛って座卓に並べる。鍋物は七輪ごと出して思い思いに自分でつつかせる。時には出前の冷麺を取り寄せたりもした。父も母もニコニコと見ていたが一頻り落ち着いたところで、前述のような独立運動に関する話をする。それは日本人学生や配属将校・軍事教官や、加えて視学官の耳目もあって教室では話せないので、校外セミナーの形式に託(かこつ)けての地下指導だったのであろう。夕方からのブラスバンド部の演奏リハーサルや、校庭で夜明けまで天体観測もしていた。

 晋州師範勤務時代からは太平洋戦争突入で官憲の監視の目が特に厳しさを増し、学生の検挙も多くなってきた。師範学校の学生一五名が一斉検挙された時、父は単身で憲兵隊舎におもむき抗議し、即時釈放させた。中でも首謀者と睨まれたNは「仲間を吐け」と拷問され全身疵だらけだったが彼だけを伴って連れ帰ってきて「酷いことをしやがる」と怒っていた。Nは「悔しいです」と泣いていた。
 母は「そんなことして、大丈夫なの?」と案じたが、「ウン、覚悟しておけ」と答える父。そのNを「寮の食事では体力回復は覚束(おぽつか)ない」と、一ケ月近く我が家で名目は保護観察として静養させたが「お前と彰宏は兄弟だな」と言うと、Nは私を見て嬉しそうに微笑む。その二カ月後に軍歴もない四三歳の父に召集令状が届く。「東候の奴メ、やりやかったな。お母さんを頼むぞ、そしてお前は不肖の子になるな」との遺言をして応召した。

 翌年八月一五日に日本敗戦の報、更にその翌日には母の急死で途方に暮れていたとき、夜半に韓国人夫妻が訪れて「どうしても日本に帰れぬ時は息子Nの兄弟になって暮らせばいいから心配せずに元気を出しなさい」と慰め励ましてくれた。(この詳細は「緑の風」一九九七年の秋号に「幻の父母」として既載)

 母の急死も知らぬままに帰還した父は母の遺骨と位牌を前にして頬に涙を滴らせる。父の涙を見たのは生まれてからこのかた初めてのことだった。勤務校の残務整理を済ませた父が家で引き揚げの荷造中にNが訪れてきて「一緒に日本に」と懇願する。父は「何を言うか、これで韓国は独立出来たのだ。これに備えてお前たちを教育してきたのだ。いよいよお前たちの出番なのに国を捨てる気か。いずれ平和になったら再会できる。そのときを楽しみに今は別れよう」と、泣くNを振り切るようにして別れた。

 引き揚げてから五年後には父も五一歳で他界した。その間、父と妹は同居してはいたが、私は大学での寮生活で、二人とは別居生活だったので、父の人生観や思想、韓国に移住した理由などについては聞かず仕舞いのままに過ごしていた。ただ父は再就職に際して 「教師の就職先はいくらでもあるが、二度と教師の道は歩まぬ」 と、戦中に日支事変早期終結論の社説で、廃刊に追い込まれた時事新報の復刊に参画し総務部長のポストに就いた。

 この「二度と云々」の父の心情を理解し得たのは父他界の五年後に、自分が教師になってからのことだった。それまでの五年間は妹が高校卒業するまでと父の実家に世話を頼み、私は奨学資金とアルバイトで大学を卒業し得たが、この間なぜこんな苦労を?と悲嘆に暮れることもしばしばあった。しかし戦災孤児の姿など、戦禍での様々な惨たらしい実態が明らかになるにつれ、「不幸な目に遭って苦しく悲しい思いを抱いている人々は数え切れないほどいる。それに比べて自分たち兄妹の苦難は小さい」と思った。そして想い出すのは敗戦の日の晩に、妹と口喧嘩したとき、具合が悪く臥せていた母が起きて正座し、二人を前に引き据えて、いつになく厳しい口調で、「もしも、お父さんが戦死していて、私も死んだらお前たち二人は力を合わせて生きていかなければならぬのに、喧嘩なんかして‥、お母さんは悲しくて情けないよ」と両手で二人の肩を抱えるように抱き寄せた。これが母の遺言になるとは。その翌朝に容態が急変し、医者の手当ての甲斐もなく、私と妹の手をとりつつ三八歳の生涯を閉じてしまった。
編集者
投稿日時: 2011-5-9 7:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自由主義者の父と韓国入学生との絆 3,4 (みどりのかぜ 29号より)

 3、心の痛みを癒してくれたのは

 母亡き後「なぜこんな辛い目を‥」と嘆もし、母のない寂しさに襲われることも度々あった。そんな時には妹をあやしながら母が歌っていた子守唄(里心)を口ずさんで傷心を癒し、「元気を出しなさい」とのN氏のご両親の言葉を思い出しては気を取り直した。

 この父なきあとの五年間は父の実家に、妹が高校卒業するまでと世話を頼み、私はアルバイトと奨学資金のお蔭で大学を卒業できて教職に就く。同時に妹も高校を卒業した。幼稚園教諭の資格免許を得させるために短大に通わせ幼稚園教諭になり、自活できるようになり、ようやく八年ぶりに妹との同居を果たし得た。


 4、母の味の韓国料理再現への挑戦

 教師としての人生を歩みだしてから、仕事での悩みや疑問に面した際には、父だったらどう対処しただろうかと、教師時代の父を見えざるライバルとして考える。それは応召に際しての出立前夜の「親を乗り越え得ない子は不肖の子、師を超え得ない弟子は不肖の弟子、皆が不肖者だったら世の中の進歩はあり得ない。お前は不肖者になるな」との遺言が脳にインプットされていたからである。この時の父は四三歳だったが、私がその年齢に達した時点では三勝七敗の不肖者、定年退職の時点でようやく七勝で逆転できたと自己採点。

 このように父の思い出は尽きないが、母への思い出は父の叱責から庇ってくれた優しさや、客好きでいつも手料理で来客を持て成していたこと、アイスクリームやカレーやホットケーキなども作ってくれたり、妹と私と三人でカルメ焼きを楽しんだり、納豆作り、沢庵や味噌の漬け込み、秋には近所の韓国人同僚先生の奥さんと白菜キムチ作りで味較べ、私も手伝わされたお蔭で独身時代には母からの直伝の腕を振るったが、家庭を持ってからもチジミやオイ(胡瓜)キムチやマンドック・トツク・トッポツキなどの食材を仕入れて調理する。家族にも好評で度々せがまれる。トルキム (岩ノリにゴマ油を塗り塩を振って焙った焼き海苔)などを肴にマッコリを飲みながら韓国時代の思い出話しもする。
編集者
投稿日時: 2011-5-10 9:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
自由主義者の父と韓国入学生との絆 5 (みどりのかぜ 29号より)
 
 5.思い出の引き出しの把手(とって)はマツコリ

 この夏の猛暑で晩酌は専らビールからマッコリに変え、肴はナムル(薬物?)やキムチ類、明太子、明太の干物、トルキムなどで腹を満たしてから寝床にバタンキューで快眠、六時前後には起床できる。どうもこの年齢に達した体には韓国式での食事が体質にあっているように思える。糖尿病の定期検査でもすべての検査項目はクリアされ、医師から「頑張っていますね、この調子を続けましょう」と褒められた。あとは腹八分目で体重コントロールと毎日一万歩は歩くことを心掛け、車の運転は控えている。但し聴力は衰えて補聴器使用の煩わしさが増えた。

 父が韓国入学生との連携を深め得たのは母の韓国料理での支援があったからだと思う。いわば父の教育信念は母の「内助」によって支えられていたのだといえるが、これは軍国少年時代の私への両親からの遺産だったのだと思うに至り、その後に特に、教師になってからの近現代史の学習や思想形成の縁(よすが)になった。断片的だった思い出の数々は系統的、時系列的に組み立てられて 「そうだったのか」と、その連鎖で近代史が走馬灯のように見えてきて、父が韓国に移住した理由も首肯(うなず)けた。マッコリを飲んではこうした忘却の彼方にあった記憶を引き出している。敗戦後の食糧難の時代を潜り抜け、三人で一緒に暮らそうと言っていた父も、その矢先に五一歳でこの世を去り、その後は生活に追われ、両親の墓を建て得たのは父の他界から三〇年も経ってからである。存命ならば親孝行したいのにと思っても叶(かな)えられない。しかし現在まで生きて来られたのは地下から両親が「私たちの分を生きよ」と守ってくれているのだとの思いで、それに応えて両親の他界時年齢の合計八九歳までは生きることが、せめてもの親孝行と思いつつ過ごしている今日この頃である。

 -完-

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