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     父の告白(みどりのかぜ 29号より)
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編集者
投稿日時: 2011-5-2 8:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
父の告白(みどりのかぜ 29号より)

 はじめに

 スタッフより
 
 この投稿は、韓国におけるメロウ倶楽部の友好団体「KJクラブ」よりご寄贈いただいた「みどりのかぜ」からの転載です。 
 掲載につきましては、編集者の曺京植様を通じて、投稿者の崔 環淑様のご承諾を頂戴しております。

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 崔 環淑
 緑風会 会員

 朝夕、肌寒さを感じる季節であった。
 私が小学校四年生の秋だったと思う。今考えたら、わずかな記憶が漠然と浮かび上がるだけのものだか、私はその日のことを忘れない。

 早めの夕飯をすませたある日、父は私を連れてどこか出かけた。家を出る時、どこへ行くのか、何のために行くのかさえ全然判らない状態で、薄暗い街を父の後を追った記憶がある。父は私に、また祖母に行き先を話したし、私もその時は納得して後を追ったのかも知れない。目的地に着いて知ったが、歩いて三〇分ほどの距離にある、私たちの新しい母になる人の家であった。父は下に小学校二年の弟、上に姉たちが二人もいたのに、なぜ私を選んだのか、また姉たちや弟はすでに連れて行った後だったのか、それは今でも疑問である。父は私を何と紹介したのだろうか?、その母となる人は、自分の子になる私に何か一言話しかけたに違いない。初印象、人柄、家の様子などなど、私は子供ながらに何かを感じたはずだったろうに、今は何も浮かび上がらない。ただ一つ、どの部屋だったのか知らない、一晩まんじりともせず、翌朝まだ明けきらない時刻にその家をそっと抜け出て、昨日の夕方と同じく薄暗く、冷えた街を、悲しく、寂しい思いをしながら祖母と姉のいる家に戻ってきた。三日月の残骸が空に白く流れていた。それだけははっきり記憶に残っている。しかしそれ意外の事は私の本能が忘れたかったのかも知れない。今考えてみたら、気弱だった私としては、大変な反抗だったと思う。そして二ケ月ぐらい後に新しい母は私たちの家族として迎えられた。

 その後、歳月はかなり流れて、姉たちは勿論私も嫁いでいたし、上の弟も新婚当時であった。なのに父の最愛の新婚早々の長男を失った。大学院を終えた弟は、助教の仕事をしながら主任教授の長い論文の英訳をすませて自宅に届けに行ってその日から寝込んだ。英訳を届けに行く途中、当時ソウルの清涼里に住んでいた私の家が、行き先の途中にあったのでちょっと立ち寄ったといい、原稿の大きな荷を片手にぶら下げていた姿が今でも忘れられない。母が娘を五人産んだ後(私が五女)誠意をこめて、祈って、願って、寺に寄付もしたり、あらゆることをこころみてやっと得た、父の希望のすべてであった長男を失ってしまったのだ。父ははたから見て無残なものであり、感情を抑えている有様があまりにも悲惨であった。

 その頃、父の洋服のポケットから多量の睡眠剤が出てきた。私が父をおきざりに出来ず、父の側にしばらくついている時であった。長男が逝って一週間目に生まれた一粒種の孫息子も、兄と同じ大学に入学したばかりの次男も、父の眼中にはなく、長男の後を追いたい気持ちだったのであろう。私は父が酒でも飲めたら、それで多少とも慰められるのにとも思った。元来寡黙であった父をそばで見守るのは本当に辛かった。私は父に、「傍にいる次男と孫息子を見守ってほしい」と懇願した。

 数日後、父は悪夢に胸騒ぎがするといい、次男の安否が気になり、ソウルに行かれた。二~三日して帰ってきた父は、すべての悲しみと痛みを胸の奥に葬って外見穏やかに見えた。私はその父を残し、後髪を引かれる思いを振り切って釜山に帰って来た。

 その頃、私たちの母になって長い月日が過ぎていた母の存在は冷たく、父にも、私たちにも何の慰めにも、ためにもならなかった記憶がある。父が息子たちにあまり執着し過ぎるのに拗ねたのかと、今なら多少の理解も出来そうな気がする。しかし母が、子供六人が未だ未婚だったし、姑もいる父の所に嫁入りして来たあまりにも無誠意さと、図太さに今でも理解し難い感情である。

 その後、歳月は過ぎ、父はその母も見送った。急死で内出血だったといった。当時次男は軍医で、釜山の第三陸軍病院に服務しており、孫息子は小学校五年だったと思う。父は慎重に私たち子息も皆、喪主として最善をつくし、心残りのないよう出来る限りの礼遇をし、故郷の祖先の墓地に葬った。

 その後、父は遠い親戚の孫娘に家事を任せて司法法律事務所の仕事を黙々と続けておられた。この仕事がなかったら父はおそらく虚脱状態に陥ってしまったに違いない。私は父がその空虚から外見、立ち直っていることが有り難かった。

 その頃であった。何かの用事で、私は釜山から、父は大邱で汽車に乗り合わせてソウルまで一緒に行く機会があった。側に座った七〇の坂を下りはじめていた父の両目は光を失っていた。一息ついた頃、父がぽつりと話した。「この父が今まで真に後悔することが一つある‥‥(しばらく沈黙の後)子供を一回も身ごもり、生んでない女は、子供に対する愛情を本能的に知らない事実を知った。自分の腹を痛めて子供を生んで見てこそ、他人の子供も愛する情が湧くものであった。父はお前たちのために、産まず女(石女)であった母を後妻として受け入れたが、それが一生一代の失策であった。そしてお前たちに淋しい思いをさせた」と、重い口ぶりで話された。長い間、父はこの話をする機会が来るのを待っていたのかも知れない。父はすべてを感じながら、自ら目を瞑り、口を塞ぎ、胸に畳んでいたのである。そして外見穏やかで、何事も起こらない家庭にと望んだ。母はそれに応じて、愛情のこもらないすべての家事を切盛っていた。父は本心を今になって吐き出したのである。私は、自身を苛ませながら感情を抑えて淡々と語る父の心中に目頭が熱くなった。

 その後、父は自分の事務所を閉じ、家も整理して、ソウルの次男の所に移った。当時、弟は結婚前だったし、アパートを父が買い与えていた。父はそこで二年後、肝癌で次男の務めていた大学病院で治療を受け、最期は次男の家で最後の息を引き取った。

 父は生涯色々な波乱と悲哀を胸にたたんで燃え尽きるように静かに逝った。そして私たちを生んだ母のそばに永眠された。七十八歳の生涯であった。

 私は何と、その父の年よりも何年か長く生き延びている。まさに後期高齢者の類に入門したのであろうか。「不老長生」と言う。不老で長く生きられるなら話はまた別だが、老いだけ残って、ただ長生きと言うのは授かりたくない。              

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