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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     村松の庭訓を胸に《増補版》
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編集者
投稿日時: 2011-3-23 9:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
村松の庭訓を胸に《増補版》

 スタッフより

 この投稿は、
  大 口 光 威 様
 のご了承を得て転載させていただくものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 は じ め に (増補版の刊行に当って)

 村松ご在住の皆様、或いはご関係の皆様。皆様は郷土資料館の中に堀家三万石の藩政時代を偲ぶ数々の遺品に並んで「村松陸軍少年通信兵学校」関係コーナーが設けられ、其処に三冊の書籍「かんとう少通第九号(集約保存版)」 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 「西海の浪、穏やかに 殉国散華した少年たち」が展示されているのにお気付きでしょうか。

 これは、先の大戦中、戦局の急迫に伴って、全国から十五、六歳の少年達が志願して来た村松陸軍少年通信兵学校に纏わるもので、前二者は同校で行われた教育訓練の実態、の出陣直後の遭難の詳報、戦後における慰霊碑(村松及び平戸島)建立の戦後まで秘匿され続けた十一期生経緯大きな反響と高い評価を得、国会図書館、防衛庁の戦史研究室、靖国神社の借行文庫等にも収録され、同時に村松ご当局の温かいご配慮によって本資料館への展示が実現しました。

 ご承知のように、村松は明治二十九年九月に新発田から歩兵三十聯隊が移駐して以来終戦まで略半世紀に亘って軍都としての歩みを続けましたが、この間、昭和十八年に陸軍少年通信兵学校が招致され、爾来同校では少年生徒を迎えること三回二千四百名に及び、町当局並びに官民一致の温かい支援と清浄な雰囲気の許に練武砕魂、教授一体の猛訓練が展開されました。そして昭和十九年十一月、戦局の更なる緊迫により、第一回入校生徒(十一期生)の一部約三百名に対し繰上げ卒業が命じられ、直ちに比島、台湾等に、また、残る五百名も翌二十年三月に卒業、満州、中国、朝鮮、樺太並びに内地の師団、軍などに夫々配属されましたが、とりわけ繰上げ卒業組は僅かその十日後、南方に向かって輸送される途中、待機していた敵潜水艦の攻撃を受け、五島列島沖或いは済州島沖に於いて、あたら錬磨の腕も空しく、一発の電鍵すら打つことなく水潰く屍と散華し、幸いに難を免れ比島に上陸した者もまた、悪戦敢闘、その多くが彼の地で玉砕し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。

 ここにおいて、戦後、生き残った私達は、昭和四十年八月、此処・村松に於ける「戦後二十周年記念の集い」を契機に「全国少通連合会」を結成、同四十五年には村松公園内に慰霊碑を建立、この一角を聖域と定め、全国からご遺族をお招きして毎年或いは定期的に日枝神社神官による手厚い慰霊祭を催すなど三十余年に亘って英霊の鎮魂に努めて参りました(現在慰霊碑には少年通信兵八百十二柱の御霊が合祀されています)。

 ところでその後、これら慰霊行事も関係者の高齢化が進むに連れてその継続が危ぶまれるに至り、平成十三年十月の合同慰霊祭を最後に全国少通連合会が解散に踏み切ったのを皮切りに各地に誕生していた少通会もその大半が順次解散し、これに伴って毎年十月十一日を 「少通慰霊の日」 に定め、その後は各自の「自主慰霊」 に切り替えることを申し合わせるに至りました。

 しかして、上記三部作のうち、「村松の庭訓を胸に」 は、平成二十年秋に刊行されましたが、その反響は私どもの予想を遥かに上回るものがあり、その一つに地元有志の方々による 「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会」 の誕生がありました。そこで改めてこれらの動きまでを含め、更に内容を精査し、その後に入手した文献等も加えて編集し直したのが、増補版としての本書です。

 従って、今回の本書にもまた、私共生き残った者の先輩十一期生に捧げる鎮魂の思いと、亡き彼等も抱いたであろう村松に対する尽きない愛惜の気持が込められています。

 歴史は学ぶべきもの。最近国際情勢の緊張を背景に再び各種の防衛論議が横行し始めていますが、被爆した我が国だからこそ世界の先頭に立って核兵器の廃絶を訴える資格があると同様に、軍都としての長い歴史をお持ちの皆様に、こうした冷巌な史実を踏まえた上での自由な平和論議が為されることを期待してやみません。

 本書が村松関係の皆様を中心に、お一方でも多くの皆様の目にとまるよう念じっつ、読後感などお寄せ頂ければ真に有難く泉下の英霊に対する何にも勝る供養になろうかと存じます。

 平成二十三年春


 旧村松陸軍少年通信兵学校                                    
   第十二期生徒  大 口 光 威                                  
   第十二期生徒  佐 藤 嘉 道
                   
編集者
投稿日時: 2011-3-24 7:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
村松の庭訓を胸に《増補版》 苦難のルソン山岳州(抄)

 苦難のルソン山岳州 (抄)

 十一期  金 子  博

 翌日より通信器材等一式を、各人が分離分担し、個人装備と一緒に背負って、狭隘悪路の峻険な山岳行に入った。当初から食糧難で肉体的に皆疲労していたが、軍人精神と云おうか其の気力や、まさに意気軒昂たるものがあった。

 然し急峻な悪路の登り降りに加えて、雨季に入って居り、道は泥濘(ぬかる)み谷川の水は溢れて激流となり、足を取られて其の儘下流にて斃れる者も出る有様となった。更に地上許りでなく、ジャングル地帯では、上方から山蛭が音もなく襲って来た。此奴は衿首だけでなく露出している手や足にも吸いつき、気付いた時は既に遅く丸々と太って中々とれない。そして天幕を通す豪雨の中、飯盆炊さんでは水分を含んだ松の木は燃えにくく (通常は松脂を含み燃え易い)煙がやけに目にしみて痛い。漸く出来た雑炊 (米の量は小匙一杯で他は南方春菊) を食べる水膨れの腹は直ぐに凹む。体力は一段と衰えたが、然し我々は頑張った。そして更に奥地に向い、バグダンを過ぎて二、三日後から、多数の避難邦人と行き交う。彼等は何れの地に向うのだろう?比の辺では原住民のバハイ(民家) は見当らず、遠くに散見された。私の主食は南方春菊と、時折入手する薩摩芋と其の葉であり、他の隊員も大同小異であった。尚ゴキブリは皆無、蛇は二、三度見たが逃げられた。家鼠は食べたいと思い、短小銃で狙ったか果せなかった。そして米も底を尽き、遂に雑草で露命を繋ぐ状態となり、大半が半病人となった。

 其処で小隊長は完全病人組と元気組(半病人) とに編成し、器材のピストン輸送に切替えた。方法は諸兄先刻御承知の様に、最初は目的地四粁迄個人装備を夫々が運搬し、其処で病人組が全員の装備を監視し、元気組が現地迄引返し、通信器材を搬送するのである。

 又此の辺は細道の左右に、栄養失調やマラリヤ、心臓脚気、其の他の病に確り行き繁れた無数の将兵が横たわり、其の周囲には蝿が群がり、死臭が強く鼻を突いた。中には気息奄々乍らも眼を此方に向けて、力なく手を伸ばす顔は土気色にむくんでいた。無論周囲には蝿が群っているが、追う体力も気力もない。残念乍ら我々はそんな彼等を見ても、何の感懐も持てない過労と栄養失調状態にあった。もはや物の哀れや悲愴感等はなく明日は我が身、救助や穴を掘って埋めてやる体力はもう離れてなかった。正に餓鬼道、地獄と云うべきか。

 時は恰も昭和二十年七月初旬の頃と思う。此処で約三日間滞留したが、仲間の三、四名が、栄養失調とマラリヤ等のために病没し、無念の涙をのんだ。

 我々は遺体に合掌し比の地を離れた。相変らずピストン輸送の毎日で、落伍すれば其れで終焉である。又脱走も一匹狼と同じで、ゲリラや原住民にやられる。如何に苦しくとも集団で行動しなければならない。しかし私には全く食糧の持合せがなく、他の元気組も日に日に衰え其の半数が完全病人となった。

 そこで小隊長は手足まといになる病人を切離す為、彼の地を離れて二週間位の後、本部から命令があったと称し 「小隊は特別斥候隊の任につく。依って病人は各集団を作って勝手に自活せよ」 と全員に下命した。そして私は特別斥候隊に入り、此れ迄行を共にした三名の一等兵は極度の衰弱の為、新に病人組となり翌朝小隊から離脱して行った。然し彼等は手持の食糧、塩もなく行く先には死あるのみで、其の足どりは重く、後姿は心なしか生気がなかった。

 元気組も同朝出発、対向の山に向うべく山を降り、深い谷を渡り又登る。然し其の時に思ったのだが、無線器材がない、何処で処分したのか? 私は勿論のこと、他の隊員も一人として背負っていない。それは兎も角私の衰弱もかなり激しく皆についていけず、隊との距離が遠のき急坂を喘ぎ乍ら、漸く宿営中の隊に到着した。

 頃は夕刻、小隊長以下全員が冷たく私を睦める。次いで小隊長の罵声が私に飛ぶ 「貴様何をモタモタしして居る。貴様の様な病人は手足まといだ。此処から直ぐ勝手に立去れ」 と。私は歯をくいしぼって、漸く辿りついた直後のこの雑言、励ましの言葉を期待したのに……一瞬頭に血が上る思いだったがぐっと堪えた。

 もう此の上官に従っても無理であると悟り、それならば先発の病人組に入り、其処で彼等と自活し何としても健康を恢復しようと決心し、私は小隊長に 「帰ります」の「言を残し、重い足を引ずり乍ら山を降った。衰弱して居るとは云え気分がまだ失せず、重い足を引ずり乍ら先刻通った坂道を急いだ。おそらく病人組はそう遠く迄歩ける筈がない、今から後を追っても合流できると判断した。そして、谷川をよこぎり本道に出て其処を左折し約三百米位行くと、仲間の一等兵がぐったりして路傍に横臥しているのに出合った。

 彼等に声をかけると、力のない顔に微笑を浮かべて迎えて呉れた。私はここで今日一日の経過を説明し、病人集団に入るべく皆の後を追って来たのだと話した。彼等は納得しむしろ喜んで呉れた。何故ならば此の集団の中では、私が一番余力があったからだ。そして私も其処へ横になり、今日の昼食兼夕食用の小さな薩摩芋を二本食べ、そして彼等と明日以後の行動と、定住地選定の検討を行った。話合いは階級を離れ、民主的に進められた。私は従来の転進の経験から(一)本道の近傍で水場に近い所、(二)展望がきき万一の時避難できる所、(三)バハイ(民家) の空家探し 但し原住民を追い出して占拠するのは不可(原住民等の反感による夜襲、奇襲がある)、(四)薩摩芋畑に近い所等を提案したところ、大体その線で落着いた。

 翌朝遅く此処を食事なしで出発した。水場があれば水を飲む、峻険な山中での登り降りは病人にとっては苦痛であるが、然し座して死を待つ訳には行かない。路の両側には死屍累々として鬼気迫る。当病人集団始め通過して行く他部隊、或いは他の集団も声なく、無表情に重い足を引きずり乍ら歩く。既に遺体を葬るとか、合掌し其の御冥福を祈る等の正気の沙汰は失せている。否、各人唯歩くだけで精一杯なのだ(今にして思えば大変申訳なく呵責の念に堪えず)。

 数日後見晴しのよい台地に立つ。そして右下の谷に向う細道を発見し、誰ともなくその道を降りたところ、幸な事にバハイが見えて来た。全員が小銃に着剣し警戒し乍らバハイに接近して見ると、誰も居なかった。家の周囲も探ったが人気はなく、近くに小さな川が有り、其処を更に降りて深い谷に達した。又小川を過ぎて百米程行くと薩摩芋畑に出た。然し畑はかなり荒らされていたがよく探せば我々七人の食には事欠かぬと思われたので、此処を宿所と決めた。当初は原住民の襲撃に備え、着剣銃を抱いての起居であったが,何の襲撃もなく四、五日後には警戒心も緩んで来た。
 かくして我々病人は互いに扶け合い乍ら、終戦迄一人の脱落もなく過ごすことが出来た。

 合掌

 (昭六三・一〇-第五号収載)


編集者
投稿日時: 2011-3-25 9:13
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
村松の庭訓を胸に《増補版》 シベリヤ回顧(抄)

 シベリヤ回顧(抄)

 十一期  井 上 隆 晴

 入ソして最初のシベリヤの冬は、想像以上にわれわれにとって大敵であった。死の世界を思わせる酷寒の大自然は、一寸の容赦もなくわれわれの前にふさがり、冷酷そのものである。日本人の多くが空腹と寒さにあえなくこの世を去ったのもむべなるかなである。最初の冬は、大隊の大多数が伐採作業に従事した。直径一mもある唐松やモミの原始林で、二人用の鋸とタポール (手斧) で赤軍やソ聯人が使うペーチカ用の薪を作る作業は、大変な重労働である。寒さのため可能な限りのものを身につけておれば、体は自由に動かせない。その伐採場の往復路は凍りついた雪。道らしい道はない。その往復路の途中に一つの変化があらわれだしたのである。毎日毎日四、五〇名の作業員が長さ二m、幅二 五m、深さ二 五mくらいの穴を掘りつづけているのだ。そしてその穴は、一方の端から一晩毎にどんどん跡かたなく埋められている……。ある朝、一人が指さして 「あれは何だ」 と叫んだ。一同が眼をやるといつも穴を掘るあたりの雪の上に黄色いものが山積みしてある。丁度ハニワの人形を無造作に積みあげたようだ。近づいて行くうちに一瞬背すじが硬直した。同胞の死体である!テルマ病院でなくなった死体は丸裸にされ、冷凍人間のようにカチカチに凍ったままで夜のうちにソ連人の囚人がトラックで運び、毎夜埋められていたのが、たまたまその日、穴が不足したのかわれわれの眼にとまってしまった。誰一人口をきく者もなく重い足を伐採場へ運ぶ。以後数回黄色の山を見たことがある。

 丁度その頃私はある日週番についた。当時まだ旧軍隊の階級は生きており、規律もある程度までは維持された時代である。作業隊員を送り出し、残留者を調べると五六人の病人が冷たい大部屋の板の上に横たわっている。その中に内野という一等兵がいた。極度の栄養失調で顔はむくみ、顔色悪く、私の眼にも重態であることがはっきりと読みとれた。私は早速秋田県出身のU軍医に連絡する。テルマ病院は超満員で全然受けつけないという。軍医は脈をとって首をかしげる。瞳孔はうつろである。何とかしなくては……。軍医は私の強引な願いをきいて貴重な注射を一本うつて部屋を出た、内野は既に意識もうろう。私は収容所の各部屋からありたけの薪を集めてペーチカを焚き、ふとん代りに外套をかける。時にうわごとをいう。昼前の巡視のとき 「シャツクリ」 症状を現しているのを発見し、私は駄目だと直感した。軍医を呼びに走り出た。部屋に帰ってみて私は息を呑んだ。内野は、残された力をふりしぼって、広い、うす暗い床の上をはい廻っている。口からもれる声は確に妻子を呼んでいる。私は何をなすべきか?……。私は助け起こそうとした。軍医がとめた。そして内野は力つきた……。私は雪をとかした水を、木で造ったスプーンで口に入れた。ふりかえると、医薬品の殆ど無い診察用の鞄をさげた軍医の姿が私の眼にぼんやりと霞んで写っていた……。

 その夜内野と同姓の僧職出身者に読経を願い、数人の関係者で通夜したのが私にできた唯一のつとめであった。収容所での通夜は前後を通じてそれが最後であった。

 テルマ北部に眠る多くの同胞は、名も知られず地下一五m、万年氷の下に今もなお静かに横たわっていることだろう。

 (昭四三・二!むらまつ第四号から転載)
編集者
投稿日時: 2011-3-26 8:45
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
村松の庭訓を胸に《増補版》 「本誌「村松の庭訓を胸に」の刊行とその反響
 
八、本誌 「村松の庭訓を胸に」 の刊行と、その反響

 それにしても、上述 (七五頁) のように、全国少通連合会による合同慰霊祭が関係者の高齢化を理由に平成十三年にその幕を閉ざしたあと、常に私達の脳裏から離れなかった懸念は、「我々亡き後の村松碑の保守と管理を如何すべきか」 の問題でした。
 ここにおいて、私ども二人 (佐藤と私) は折々相談した結果、「この問題を解決するには現地・村松にお住まいの方々のご厚誼にお槌りするより他はない」 との結論に達し、そのご理解を頂く方途の一つとして考えたのが本誌の刊行であり、これを郷土資料館に常備することによって、関心をお持ち下さった来館者に無償で差し上げることでした ( 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」・初版、平成二十年十月刊)。

 ところが、この直後の十二月、現地の 「新潟日報」 は、その誌上に本誌の刊行を取り上げ、「少年兵の悲劇 後世に」 と題して七段抜きで大きく報道してくれました。
 そして、これを契機に、ご覧下さったご遺族を始め沢山の方々から続々お手紙が寄せられたほか、その反響は私どもの予想を遥かに上回るものがありました。ー--それらの内容はおよそ次の通りです。

(一) メロウ伝承館によるインターネット上への全文掲載
    明けて一月、同伝承館の代表の方から 「私自身、内容に深い感銘を受けた。これをぜひ後世の人たちに伝えさせて欲しい」 との要請があり、承諾しましたところ、全文が、難解な語句には若い人にも理解できるよう注釈を付けられるなどして広く一般に公開する途が拓かれました。

(二) 東村山 (東京少通校跡) における有志による供養会の開催
   某日、東村山にお住いのご婦人からお電話があり、「庭訓を読んで、自分の子供が通っていた学校が旧東京少通校跡に建てられた学校だったことを知って衝撃を受けた。同じ年頃の少年がこのような悲惨な最期を遂げたとは…:‥‥。護摩供養をしたいので戦没した少通兵の氏名と、その出身県と戦死した場所を教えて欲しい」 との依頼があり、二十一年六月、地元有志による盛大な供養会が営まれました。護摩壇では八百十二柱の護摩木が焚かれ、その前には、食べ盛りの少年たちにとっては、さぞかし辛かったであろうと沢山の赤飯が炊かれ、清浄な水まで供えてくださるなど、参列者の一人は、その光景を主催者の声涙ともに下る挨拶とともにきわめて感動的であった、と伝えてきました。

(三) 新潟明訓高校放送部によるPVD制作・発表
    これも同じく庭訓をご覧になった同校の放送部顧問の先生からNHKの全国高校放送コンクールに出展したいから、と取材の申込みがあり、これを基に 「十五歳の決断」 と 「終わりなき追悼」 の二編が完成しました。共に地区大会予選を首位で突破し全国大会に駒を進めましたが、特に二十一年秋の十三期生による慰霊祭の模様も含めた 「追悼」 は、二十二年夏の宮崎大会で見事 「優秀賞」 を獲得しました。

(四) 村松碑の洗浄
    「庭訓」 刊行当時、村松碑は建立から四十年、多年の風雪に晒されて碑正面の 「慰霊碑」 の文字も白色の塗料が剥落するなど碑全体としても相当の汚れが目立ってきました。そこで、その洗浄を、かねて少通校に多大のご理解をお寄せ下さっている現地の伊藤勝美氏 (上述 「軍都村松の悼尾を飾る村松少通校」九百参照) にご相談申し上げましたところ、氏はご快諾の上、高圧洗浄機を使って碑全体を建碑当時の姿に見事復元して下さいました。
編集者
投稿日時: 2011-3-27 9:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
村松の庭訓を胸に《増補版》 「終わりなき追悼」

 九、終わりなき追悼
   --現地有志による「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会」 の誕生

 このように、冊子「村松の庭訓を胸に」刊行の反響は、当初の私どもの予想を超える分野まで急速に広まって行きましたが、更に二十二年秋、突然、最大の吉報が私どもの許に飛び込んできました。即ち、前記伊藤氏は、村松碑の洗浄に関連し 「村松碑を守ることは我々地元の務めである」とおっしゃって有志を募り善処することを約束して下さっていたのですが、これが現実のものとなり、現地に「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会(仮称)」が結成され、十月十一日の 「慰霊の日」 に、その 「慰霊の集い」 を営むことになった旨伝えてこられたのです。
 式典は、急なことで連絡が間に合わず少通関係者の出席は数名に止まりましたが、地元の方々四十数名参列のもと、碑前に於いて愛宕神社の神官によって厳粛に営まれました。
 ついては、その席上、私は、「慰霊の言葉」を述べる機会を得ましたので、これを次に掲げます。


 慰霊の言葉

 本日、ここに「慰霊の目」を選び、村松在住の有志の方々による慰霊の式典が挙行されるに当たり、旧村松陸軍少年通信兵学校生徒の一人として、謹んで戦没先輩の御霊に対し、追悼の誠を捧げるともに、一言、所信を申し述べます。

 思えば、昭和四十五年の十月十一日、此処村松に本慰霊碑が建立されて以来、毎年の有志による参詣会や定期的な全国少通連合会の手による合同慰霊祭が、夫々厳粛に営まれてきましたが、その後、年を経るに従って関係者も次第に高齢化し、遂に平成十三年の合同慰霊祭を最後に総ての公式な慰霊祭はその幕を閉じ、以後は個々の自主慰霊に委ねられることになりました。従って、残された私ども関係者にとって現在の最大の悩みは、今後の碑の維持や管理をどうするか、にあったと言って過言ではありません。

 然るに、こうした現状を前に、去る六年前の学校正門の復元、昨年秋の碑の洗浄等々、戦没者の慰霊と顕彰に数々のご業績を重ねてこられた前村松町長であり、現五泉市長でもあられる伊藤勝美様が、この程 「村松少通校の歴史を後生に語り継ぐことは我々現地に住む者の務めである」 とのお考えのもとに、同志を糾合され、見事、今日の慰霊祭挙行に漕ぎ付けてくださったことは、真に有難く、この碑に眠る御霊のお喜びはもとより、全国に散在されるご遺族の皆様も、さぞかしご安心なさったことと存じ、ここに、旧少通関係者を代表し、伊藤様並びに氏を支えてお力添えを賜った有志の方々のご厚誼に対し哀心より御礼申し上げます。

 而して、陸軍少年通信兵は昭和八年、東京杉並の陸軍通信学校内に生徒隊として一期生が誕生して以来、終戦までにその期数は十三を数えましたが、この村松碑には村松少通校に学んだ十一期生にとどまらず先の大戦で戦没した全期にわたる少年通信兵の御霊八百十二柱が合祀されております。また、少年通信兵の慰霊碑としては、この村松碑の外に九州の平戸島碑がありますが、これは五島列島沖で遭難した十一期生を悼んで建立されたもので、碑の本体は正にこの 「村松碑」 にあり、この意味においても、村松碑が今回永久安堵されることになった意義は真に大きなものがあると存じます。
 また、こうした中で、私は少年兵教育のメッカと言われた村松少通校と地元村松の関わりには、何か格別なものがあったように感じております。
 村松少通校では、高木校長の 「少年兵は純真であれ」 の訓育方針の下に、「厳しい軍律の中における慈しみの教育」 が施され、これが明治二十九年来の略半世紀にわたった軍都としての威容と伝統を誇る村松町民の気風にマッチして、町当局を始めとする官民一体となった暖かいご庇護に結びつき、十一期生はその 「庭訓」 を胸に勇躍出陣して行ったのだと思います。---尤も、それは、戦後明らかになったように、出航直後の魚雷攻撃による五島列島沖並びに済州島沖での遭難、上陸した比島が待ち受けていた 「生き地獄」 にも等しい飢えとマラリア更に 「異国の丘」 の歌そのままのシベリア抑留による苦難等々、十一期生の辿った道は、南に北に、私共の想像を遥かに超える厳しいものでありましたけれども………。

 では、何故、当時十五、六歳の少年たちは、それまでの平穏な学業を放棄してまで、敢えて、こうした厳しい「志願」 の途を選んだのでしょうか。-ー-私は、それは、幼くあっても、あくまで純粋に祖国を信じ、祖国存亡の危機に臨んで、進んで 「昭和の白虎隊」 の気概を持って国を護ろうとした日本男子としての本懐であり、それが、まさしく当時の少年たちが選んだ 「十五歳の決断」 だった、と思います。

 ここにおいて、私は、これらの史実を明らかにすべく、同期の佐藤嘉道君と協力し、これまでに小冊子 「西海の狼、穏やかに」 と 「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」 の二書を公にしましたが、 「村松の庭訓を胸に」 は、予想以外の反響を呼び、版を重ねたほか、メロウ伝承館によってインターネット上に全文が掲載され、その閲覧者は既に四千名を超えました。また、昨年秋の十三期生による慰霊祭の模様は新潟明訓高校の放送部の諸君によって 「終わりなき追悼」 のタイトルでDVD化され、この夏の宮崎の全国総合文化祭では見事「優秀賞」 の栄冠を収められました。

 これは真に有難いことで、私は、最近の国際情勢がまたまたキナ臭さを漂わせ始めたいま、昔のことなど、全く顧みない風潮の中で、現代の若い人々が、こうしたことに関心を持ち、史実を正しく見つめ直すことによっていのちの大切さと平和の貴重さに気付いて頂けたら、これに勝る喜びはありません。

 私は、八十路を超えたいま、十一期生と私たちと僅か半年の入校時期の差が、その後の人生にこのような大きな違いを齎した運命の過酷さに打たれるとともに、益々鎮魂の思いを深くし、これからも生ある限り、生き残った者の務めとして、これらの史実を更に正確に現代に語り継いで行くことをお誓い申し上げます。

 とまれ、今日、村松の皆様のお力添えで、碑に安泰の途が拓かれました。)
 在天の御霊よ、どうぞ安らかにお眠りください。そして、貴方がたにとり、また、私どもにとっても 「心のふるさと」 である此処村松を末永くお守りください。
 --以上、式典に臨み些か所信を申し述べ、謹んで私の追悼の言葉と致します。

  平成二十二年十月十一日

  旧村松陸軍少年通信兵学校

  第十二期生徒 大 口 光 威


 次いで、この式典の後、 「慰霊碑を守る会」 から私どもに 「今後は、この慰霊碑の由来などを広く地域に伝えるとともに地元有志でお守りして行きたい」 「この慰霊の集いを契機として少通関係の皆様と五泉市の交流が益々発展することを願っている」 (注・いずれも原文のまま)との手紙が届きました。

 思えば、この慰霊碑が眠る村松公園は、日露戦争を記念して設けられた軍都村松の象徴であり(前掲の 「軍都村松の悼尾を飾る村松少通校」 及び巻末の写真を参照)、其処に建つ忠霊塔や忠魂碑には、以後の数次にわたった戦役に於いて散華された幾多の英霊が祀られている正に文字通りの聖域です (忠霊塔に至る参道脇には、有志による 「村松陸軍少年通信兵慰霊の樹」 と書かれた十月桜一基も供えられています)。

 では、そうした環境の中で、先の大戦の結果、新たに仲間入りさせて頂くことになった少年通信兵の 「慰霊碑」 は如何に在るべきか。ーー-この点、私は、最近、この種の施設の去就を巡って他の自治体等で色々厳しい対応が取沙汰されている現状を見聞きするたびに、この碑が此処・村松に建てられて良かった、万一、当初の計画通り東京校跡の東村山に建てられていたら如何なっていたか……と、しみじみその幸運を思わない訳には参りません。

 それだけに私は、改めて地元有志の方々の今回のご決断とご温情に心から感謝申し上げるとともに、我々少通関係者としては、これらの有難い動きに対して今後どのような協力の手立てあるかを真剣に模索すべきときだと考えます。--そして、これこそが正に生き残った我々が全体として取り組むべき最後の課題であり、そのためにも私どもは、引き続き先兵としての役割を担いたいと思っています。

 以上、私は、この増補版の稿を終えるに当たって、本誌 (初版) 刊行の趣旨がこのような形で結実したことを喜ぶとともに、村松碑の御霊もまた、地元有志の皆様のお気持ちに感応され、末永く此処・村松をご加護下さるよう祈念してやみません。

(完)
編集者
投稿日時: 2011-3-28 8:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
村松の庭訓を胸に《増補版》 あとがき

 あ と が き

 村松での訓育の十一期生に与えた大きさを踏まえ、敢えて誌名を 「村松の庭訓を胸に--平和の礎となった少年通信兵」 としました。しかし、元々少通校には東京校と村松校があり、夫々学校長の訓育方針が多少異なっていたとはいえ、「通信兵の本領」 自体には些かの違いもなく、従って本書は少年通信兵全体の物語として捉えて頂ければ幸せです

 思えば、散華した十一期生と私たち十二期生とは、入校時期の僅か半歳の差がその後の運命に天地の懸隔をもたらしました。総てに優れていた先輩たちのこと、せめて戦争の終結が一年早かったら、と悔やまれてなりません。

 然らば、生き残った私たちは何を為すべきか。或る年の春、そんな思いを抱き碑前で瞑想に耽っていた私の前に一組の夫婦が通り掛かりました。流石の村松桜もまだ三分咲きとあって人影も疎らな中での会話でしたが、碑の由来については全くご存知なく、私の説明に大変驚いておられました。

 ここにおいて、私は翻然として悟りました。現地のお方にして斯くの通り。戦後六十余年、すっかり忘却の彼方に追いやられてしまった戦争の悲惨さ不合理さを史実に基づいて正しく後世の伝えること、それが語り部としての私たちに課せられた使命であり、平和の礎として散っていった先輩たちに捧げられる唯一の餞ではないのか、と。--これが本紙誕生の動機になりました。

 しかし、どこまでこうした願いが盛り込めましたかどうか。この点、今回は前回割愛したシベリア抑留や比島戦線の実態の記述も加えてみました。また、昨秋の現地村松における 「戦没陸軍少年通信兵慰会」の誕生は特筆すべき出来事であり、この動きも収めました。

 とまれ、昨今のわが国の世情には道義の退廃を始め目に余るものが多々あり、英霊の、自分たちが身を呈して護ろうとした祖国はこんな筈ではなかった、とそんな悲痛な声が聞こえてきそうな気さえ致します。
 編集を終えるに当たり、再度にわたって貴重な機会の与えられたことに感謝するとともに、温故知新、本誌をお読みくださった皆様に改めて思いを当時に馳せて頂けたらこれに過ぎる喜びはありません。

 村松の 山川さらば 出陣の 胸に祖国の 平和希いて

 (故松谷昭二氏母堂・松谷千代様)





























(付記)

 本文に記しましたように、村松碑をめぐる慰霊祭は、一応平成十三年の合同慰霊祭を以て終幕し、以後は十月十一日を「慰霊の日」 とする自主慰霊に切り替わりましたが (平戸島碑は二十一年、但し以後も有志による慰霊が継続)、その後、村松では昨二十二年「戦没陸軍少年通信兵慰霊碑を守る会」 (仮称)が発足しました。因みに両碑の所在地と、「慰霊碑を守る会」 の現在の事務局は次の通りです。

 村松慰霊碑
  所在地 新潟県五泉市 村松記念公園
  交通 JR磐越西線五泉駅からタクシー二五分
      又は新潟駅から村松行き高速バス一時間

 平戸島慰霊碑
  所在地 長崎県平戸市 鯛の鼻自然公園
  交通   平戸市市街地からタクシー 三〇分

 慰霊碑を守る会
  〒九五九 - 一七六四
  新潟県五泉市宮野下六二〇七 - 二  井関 巌
  電話 〇二五〇-五八-二九一三

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