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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     38度線を越えた! 青木 輝
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編集者
投稿日時: 2010-11-25 8:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! 青木 輝
 
 はじめに

 スタッフより
 
 本稿は、青木 輝 様 のご了解を得て掲載いたしました。

   --------------------------------------------------

 戦争体験の労苦を語り継ぐために

 『平和の礎』選集


 三十八度線を越えた!

     静岡県 青 木 輝

 「西暦二〇〇〇年までカウントダウン、ついに100日を切りました。皆さん! お元気ですか、さわやかワイド青木輝のハッピーTODAYの青木輝です」と、いつものように私がパーソナリティを務める『SBS静岡放送ラジオ』の番組が始まった。リスナーからのはがきは、一日に何十通と届いた。

 私は、時々放送中に、子供の時にソ連に抑留された話をすることがある。その後すぐに反響があって、「実は私も、満州からの引揚者なんですが、子供でも抑留されたのですか、一度詳しく話してください」というはがきが舞い込んで来たことがあった。
 
 「そうか! 子供でソ連へ抑留されたということは珍しいことなんだな」と思った。そういえば、家に遊びに来る若い社員にこの話をすると、皆目を丸くして聞き入っている。「これは、ちゃんと書き物にして残しておき、こんなこともあった、あんなこともあったんだということを、順序立てて伝えることは意義のあることかもしれない。忘れかけている記憶を呼び戻しながら書き留めてみよう」と決心して書き出した。
              
 昭和十(一九三五)年九月七日に、私は満州国の鞍山(アンザン)で生まれた。鞍山は、奉天(ホウテン)(藩陽)と大連(ダイレン)の中間から少し北寄りにある都市で、当時、東洋最大の製鉄所と言われた昭和製鉄所があったことで有名であった。

 製鉄所に近いところにあった一部の日本人の住宅には、製鉄のために使用する冷却水のパイプが引かれていて、普通の水道の他にお湯も出るようになっていた。これは当時としては大変に贅沢なことであった。トイレも水洗式であり、我が家には電話もあった。また、私たち子供が三輪車に乗って遊ぶ時でも、家の中の廊下で十分であった。

 昔の女性は若くして子供を産み、出産可能な年齢まで子供を作った。私の父は銀行員で、私が生まれた時には既に五十歳を過ぎていた。私の上には四人の子供がいたが、すべて女の子で、五人目でやっと男である私が生まれた。父は花火を上げて祝い、喜んだとのことであった。姉の話によると、私を取り上げた助産婦は私をたらいに入れて、生まれたばかりの体を洗いながら、「この子はおぼっちゃまだから」と言って卵で体を洗っていたという。姉たちは、どうして男の子だと卵で体を洗うのかと不思議でならなかったそうだ。

 昭和六年に勃発した満州事変以来、軍備拡張の波に呼応して、「産めよ、殖やせよ!」の風潮があったので、男の子は特に歓迎された時代だったのである。私を取り上げた助産婦も、父母に対して大サービスをしたわけである。それから五年後の昭和十五年には、父が鞍山から汽車で北へ約四時間ほどの、開原(カイゲン)の銀行に支店長として転勤したので、家族も一緒に関原に移り住んだ。
            
 当時満州の鉄道は、新京(シンキョウ)(長春)と大連との間が日本でいうとちょうど東海道本線に相応するもので、南満州鉄道と言われ、世界でも指折りの鉄道で、そこを走っている流線型の特急『あじあ号』は有名であった。『あじあ号』の車両は、全車両エアコン付きだったというから驚く。『あじあ号』の走る区間の沿線の主な都市は、日本人だけによる街をつくり、日本人だけの幼稚園と小学校があった。

 私が関原幼稚園に入ったのは昭和十六年で、その年の十二月八日に、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争が始まった。そのころ、家に来た客が、「いよいよやりましたね。これで日本の領土がもっと広くなれば、ますます豊かになるでしょうなぁ」と父と話し合っていたが、私には何の事だか分からなかった。そのころ冬休みで東京の大学から帰省していた近所の家の学生が、「日本は馬鹿ですよ。あんなに大きなアメリカと戦って勝つわけがないでしょうよ。僕は戦争には反対ですよ!」と父母に話していたのを聞いた。その学生さんは、私をとてもかわいがってくれたし、よく遊んでくれていたので大好きだった。ところがそんな話をしていた数日後に、戦闘帽をかぶった人が我が家に来て、「あの学生がどんなことを話していたか」とか、「彼は、赤だから注意するように」などと言って帰って行った。母は、「赤は恐いというけれども、あの学生さんは本当に良い人だったね」と話していた。その後、その学生さんは行方が分からなくなり、我が家にも来ることはなかった。

 昭和十七年の四月には小学校二年生になったが、その前年から小学校は国民学校と呼び名が変わっていた。入学してすぐに、「元気で勉強、嬉しいな。国民学校一年生⊥という内容の唱歌を習った。国語の教科書の最初は「アカィ、アカィ、アサヒ、アサヒ、コマイヌサン、アァ、コマイヌサン、ウン」ですぐに覚えて暗唱して両親を喜ばせた。

 当時の国民学校にはどこも、奉安殿と言う神社を小さくしたような拝殿があって、朝登校して教室に入る前に、必ずそこで最敬礼をしてからでないと教室に入ることを許されなかった。私の教室は、奉安殿とは逆の方向にあって、拝礼してから教室に行くと三分ほど余計に時間がかかった。

 ある日、時間ぎりぎりに登校した時、既に始業ベルが鳴り終わっていて、奉安殿に寄ると絶対に間に合わないと思ったが、必死に走って奉安殿に向かい拝礼してから教室に行った。教室に着いたら、案の定授業が始まっていて、私は遅刻の罰として廊下に立たされた。常月頃先生からは「拝礼をしなかった者は神様が見ていて、きっとばちが当たる」と言われていたので、私は奉安殿に行かずにばちが当たることを思えば、ここで立たされた方がいいやと考えて、一人で満足したこともある。
編集者
投稿日時: 2010-11-26 8:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その2 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集

 満州では、人が乗る馬車をマーチョと呼び、輪タクをヤンチョウと呼んでいた。街にしかない銀行の支店長だった父には、毎朝銀行からの差し回しのマーチョが迎えに来ていた。私は、いつも父の横に乗っており、冬には中国人の御者が足に掛けてくれる温かい毛布に包まれて、小学校まで勇躍して登校していた。言わば、「おぼっちゃま」だった。そのマーチョの御者をしていた王さんは、私を随分とかわいがってくれた。

 ある日、王さん.の家に連れて行ってもらったことがあった。王さんの家は、日本人街からマーチョで十五分ほど行った所にあり、十世帯ぐらいが住んでいる長屋の一角であった。土を固めて作った塀の中に入ると、豚やアヒルが鳴きながら寄ってくるので、私はびっくりして王さんの家に駆け込んだ。家の中に少し高くなった部屋があったが、そこには畳が敷いていなかった。土の上に油紙のようなものが張ってあって、床全体がぽかぽかと暖かかった。いわゆるオンドルである。オンドルに座っていた王さんのお母さんが、にこにこ顔で私を迎えてくれたが、そのお母さんが立ち上がった時、私は「あっ!」と息をのんだ。お母さんの足はまるで赤ちゃんのように小さかったのである。歩くときも、ちょこちょこしていてやっと歩いているようだった。お母さんの友達が私を見に家に入って来たが、その人の足もお母さんと同じように小さくて、やはりちょこちょこと歩いていた。私はまるで小人の国に迷い込んだような気持ちになってしまった。言葉は分からないが優しそうな人で、「タンホーロ」という甘いアンズのお菓子をもらって、再び王さんのマーチョに乗って家に帰った。私は家に戻るとすぐ母に、王さんの家の様子をやや興奮して話したが、母は当然というような顔をして、「中国では昔から女の子が四歳か五歳になると、両足を布で固く巻いて足の発育を止めてしまう風習がある」と話してくれた。更に、「それは女の人が家族から逃げないようにするためだったんだよ」とも話してくれた。しかし私には理解できず、王さんのお母さんのことを、かわいそうに思っていた。後にこの風習が『纏足(てんそく)』というものだと知った。

編集者
投稿日時: 2010-11-27 8:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その3 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集


 国民学校の二年生になり、汽車が好きだった私は日曜日になると、一人で駅に行っては汽車を眺めていたが、だんだんと見るだけでは満足しなくなり、乗ってみたくなってきた。ある日曜日、両親に内緒で駅に行き、改札口のすき間からするりとくぐり抜けて、プラットホームに停車していた客車に飛び乗った。小学二年生が一人だけで乗る汽車の旅は、スリル満点であった。たちまちいたずら無賃乗車の虜になってしまった。それでもあまり長く乗っていると恐いので、次の停車駅で降り、反対側のホームで停車している汽車に乗って開原駅に戻ってきたが、とにかくこの日は大成功であった。

 これに味をしめた私は、両親や姉弟や友達にも言わずに、日曜日になると決まって駅に向かって走
った。今まで何度か成功しているので気が大きくなり、今度は降りる駅を少し延ばしてみようと思っていた。

 ある日曜日、朝早くから家を出て駅に行った。この日はいつもよりきれいな汽車が停車していたので、嬉しくなって客車を一両ずつ歩いて回り、車内をのぞいた。とてもきれいだった。そのうちにいっもの風景、いつも降りる駅が近づいてきた。今日はこの駅では降りないぞと腹を決めていたのだが、乗っている汽車はその駅には停車せずに、スピードを上げて通り過ぎてしまった。そのままスピードを出して、次の駅も、またその次の駅も停車しなかった。急行ということが分からなかったのである。満州は広いだけあって、鉄道の駅と駅との間が長くて、普通列車でも三十分ぐらいは走り続ける。まして急行列車となると一時間以上も止まらないのは当たり前のことである。さすがの私も、だんだんと不安になってきた。ともかく早くどこかに停車してくれることを祈っていた。二時間ぐらいは走ったであろうか、やつと大きな駅に停車した。そこは、開原と新京とのほぼ中間の四平街(シヘイガイ)であった。私は何も考えることなくすぐに飛び降りて、隣のホームに停車している列車に向かって走った。いつものように機関車が関原の方向に向いていることを確かめてから乗り込んだ。ほどなく列車は出発した。これで開原に戻れると思い、ほっとした。おとなしくじっとしていれば開原に着くと安心していた。                            
 しかし、落ち着いてから車内をよく見ると、今乗ってきた客車に比べ、車内は暗くて薄汚れている。しかも乗っている客はほとんどが中国人で、満員だった。中国人は話好きで車内はにぎやかだったが、話している内容は全然分からない。一つだけ空いていた席にそっと座り、しばらくは黙って窓から外を眺めていた。さっきの列車に比べてスピードが出ていないことに気がついた。と同時に車外の風景も違うような気がしてきた。時間が経つにしたがって、その様子がますます違ってくるようだった。だんだんと民家が少なくなってきて、私の家の日本間に飾ってある掛け軸の水墨画のような風景が現れてきた。そのとき私は、これは開原の方向ではなく別の方向に行く汽車に乗ってしまったのだと気がついた。私は停車した駅で降りようと思ったが、そこは無人駅のようで、今降りると水墨画の風景の中にただ一人取り残されることになるので、とても降りる気にはなれなかった。「どうしょう」と思うと悲しくなって自然に涙が頬を伝わってきた。

 前の席に座っていた中国人の年寄りが、心配そうな顔をして話しかけてきたが、言葉が全然分からない。そのうちに、三つばかり先の席にいた体の大きな男の人が私に手招きして、「ショーハイ、ライラ」と言っているようだったので見ると、青っぽい中国服に丸い中国帽子、八の字に生えた口髭、典型的な中国人の金持ちのように見える人だった。彼は私を自分の隣に座らせると、鞄の中から馬の写真や象の写真を出して見せてくれた。そして馬に乗るような格好をして、自分と一緒に来れば馬に乗せてやるということを言っていた。その時、以前母が私に何度も何度も言っていた言葉を思い出した。「日本人街は安全だけど、少し離れると、まだ日本人の子供をさらってサーカスに売ったりするから、一人で遠くに行ってはいけないよ」ということだった。私はその言葉を思い出すと、すぐに逃げようとした。するとその中国人は、私の腕をつかんで恐い顔になった。私は思いきり大きな声を出して泣いた。周りの乗客が、その泣き声にびっくりしてこちらを向いたので、その男は私の腕を放した。私は泣きながら次の客車まで逃げた。その客車は二等車だった。

 私は、日本人がいて気付いてくれないかと思って、周りに聞こえるように大きな声で泣きながら、二等車の中を行ったり来たりした。その時、片言の日本語で「坊や! どうしたの?」と声を掛けてくれた人がいた。その人は背広を着ていて、医者のようだった。私は、何かしら久し振りに日本語を聞いたような気持ちになった。私はその人に、初めて一人で汽車に乗ってしまったが、開原に帰りたいということを告白した。その人は、この汽車は路線が違うから開原には行かないし、一人では危ないからと言って、次に停車した駅で中国人の駅員に訳を話して私を預けてくれた。その駅員は、次に来た四平街行きの汽車の車掌に事情を説明して頼んでくれて、やっとのことで四平街に到着した。四平街駅で日本人の駅員に引き渡された。

 四平街から乗った汽車は、急行『はと』で、その展望車の特に大きなソファーに座らせてもらった。何人かの善意のある人の手を経ているうちに、私がいたずらで乗った汽車の旅が、家族旅行中に両親からはぐれてしまった「おぼっちゃん」になっていたようだった。この車両には、女優さんみたいなきれいな人や、立派な軍人さんなどが座っていた。開原に近づくにしたがって、丁重に扱われ、お菓子の入ったかわいらしい箱をもらった。懐かしい開原駅に着いた。車掌が改札口まで見送ってくれた。

 朝早く家を出てきたのに、満州特有の大きな赤い夕日は、とっくに地平線に沈んでいた。私は幸運にも、無事に両親のもとに戻ることができた。もし支線に乗ってそのまま奥地に行ってしまうか、あの見知らぬ中国人にどこかに連れて行かれていたら、今頃はどうなっていたことだろうか、私の運命は大きく変わっていたのかもしれない。
編集者
投稿日時: 2010-11-28 9:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その4 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集

 当時、日本人が多く在住している主な都市には、日本軍の守備隊が駐屯していて、在住邦人も安心して生活できた。開原には騎兵隊が駐屯していて、独身の将校は在住邦人の家に下宿をしていた。私の家には、背が高く物静かな松尾という少尉が投宿していた。夕方になると、少尉の当番兵が馬の手綱を引き、少尉は馬にまたがって帰ってくる。私は、松尾少尉の姿が堂々としていたので憧れていた。三女の永子姉は、そのころ東京の女子大を卒業して家にいたが、松尾少尉と婚約したことは私は長い間知らなかった。

 国民学校四年生になったのは、昭和二十年四月であった。日本の戦況が良かったころのラジオニュースは、冒頭に軍艦マーチを流し、それから敵機何機撃墜、敵艦何隻撃沈というニュースが放送されていたが、昭和二十年になると戦況は一段と悪化し、ラジオニュースの冒頭は『海ゆかば』になった。

 昭和二十年の八月十五日、私は夏休みの日課であった学校のプールに泳ぎに行こうとすると、母から今日は大事な放送があるから家にいなさいと言われて、出掛けるのをやめた。ラジオの前には近所の人も集まってきて、皆は正座をして聞いた。

 それは、天皇陛下の敗戦を知らせる玉音放送であった。難かしい言葉であったので、よくは分からなかったが、誰かが「日本は戦争に負けたようだ。私たちはこれからどうなるのでしょう」と、目を赤くして言っていた。

 そのころ父は、支店長をしていた開原の銀行を定年で辞め、以前住んでいた鞍山の小さな銀行の頭取となって、単身で鞍山で生活をしていた。二番目の姉は朝鮮に駐屯している軍人に嫁ぎ、家には夫が台湾に出征中の長姉智鋭子、開原騎兵隊から公主嶺(コウシユレイ)の航空隊に転じた松尾少尉と婚約中の永子姉、十七歳のかおる姉、それに母、末っ子の私の五人がいた。まだ子供である私以外は全部女であった。父や次姉とは、もはや連絡はとれない。そのうちに、各地で中国人による暴動が起きてきた。母は、悶々として毎日を過ごしていた。

 そんな日が続いていたある日、松尾少尉が突然に軍服姿で現れた。松尾少尉に「ここは暴動で危ないから公主嶺に来なさい」と言われて、家族は当座必要な衣類だけを詰め込んだリュックサックを背負い、全財産を置き去りにして、長年住み慣れた我が家を後にした。将校の引率のおかげで、何とか汽車に乗れて北に向かった。走ること四時間、私にとっては恐かった思い出の残るあの四平街を通って、公主嶺に着いた。私たちはすぐにその足で軍の官舎に入ったが、官舎は全員が既に避難していて、だれも居なかった。松尾少尉は軍に連絡をとって、夕方までには迎えに来ると言って出て行った。官舎の周辺は静まり返っていて人影もない。中国人からの略奪を恐れ、暗くなっても電気をつけなかったので一層寂しく、恐怖を感じた。私たち一家五人は息を潜めて、松尾少尉の迎えに来るのをじりじりしながら待っていた。そのときである。庭の方で木の枝を刃物で切るような、「ばきっ、ばさっ」という音に気づいた。私は、姉たちの止める手を振りきってカーテンの隙間から外をのぞいて、息をのんだ。

 三人のソ連兵が銃を肩に掛け、サーベルのような刀で生け垣を切り倒しながら庭に入ってきた。
「お母さん、恐い!」と言って、私も姉たちも母にしがみつき、ぶるぶると震えていた。荒々しい足音が玄関の方に向かうなり、靴で玄関のドアを蹴って開けたような「どかん」という音がして、三人のソ連兵がどやどやと土足のまま部屋に入ってきた。手にはむき出しの刀を持っている。恐怖に満ちた私たちの顔を見て、ソ連兵もびっくりしたようだった。部屋の中を一通り物色した後、一人のソ連兵が棚に置いてあったカメラを見付けて手に取って眺めていたが、扱い方を知らないのかレンズの中を盛んにのぞいていたが、何も見えないのでポイと放り投げていた。その時、家の前に馬車が止まった。

 松尾さんが迎えに来たのだった。三人のソ連兵は、突然日本軍の将校が入ってきたのでびっくりしていたが、松尾さんはわざと優しい顔をして「ニェット、ニェット」と言って手を横に振っていた。敗戦国といっても、まだ軍服を着ている日本軍の将校には、ある種の威圧感があったのだろうか。あるいはソ連兵としても、これ以上、事を荒立てたくないと思ったのか、何やら声高にしゃべりながら出て行った。私たちは、一斉に大きなため息をついた。軍服姿の松尾さんが救世主のように見えた。恐ろしかった話をする暇もなく急いで馬車に乗って、松尾さんが御者となって鞭を振り振り猛スピードで走った。途中で中国人の子供に石を投げられたが、無事に駐屯地の中に入った。そこには既に、四十組ほどの将校の家族が避難していて、私たちもそこに合流した。数日後、その部隊全員が移動することとなったが、私たち家族をどうするかが問題となった。しかし、軍の関係者や家族の代表による折衝によって、ソ連軍側の許可が得られて、行動を共にすることができた。だが、どこに行くのか目的地を知る者は、だれ一人としていなかった。兵隊の隊列との問に挟まれて、家族集団は黙々と歩いた。

編集者
投稿日時: 2010-11-29 8:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その5 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集

 公主嶺の駅には貸物列車が用意されていたが、車両の真ん中のガラガラと開く引き戸のみで、窓はなかった。中は入口を除いて上下二段になっていて、横になるだけで立つことはできなかった。兵隊たちは口々に「もしも、南に向かって走れば日本に帰れるかもしれないが、反対に北だったらソ連かな?」と話し合っていた。そうするうちに、ガチャンといって列車は動き出した。南に向かっている。「おい! 南に向かっているぞ、日本に帰れるぞ!」と誰かが言った。皆の顔が、ぱっと明るくなった。

 しばらく走ると、再び列車はガチャンといって止まった。そしてまた走り出した。不安そうな兵隊の顔をよそに、今度は北へと向かって本格的に走り出した。南に向かっていると考えたのは、路線変更のためだったらしい。
            
 あきらめの気持ちで乗っている私たちの貨物列車は、数日後に満州の北の果て、黒河(コクガ)に着いた。黒河の街中の家々には、多くの弾痕があちこちに残っていて、激戦のあとをしのばせていた。私たちは、すぐにソ連と満州の国境である大河、黒竜江を大きなフェリーで渡ることになったが、こんな大きな船が川を渡るなど信じられなかった。川の向こう岸はソ連領だが、遠くて見えない。一時間以上もかかったろうか、着いた所はソ連のブラゴエペシチェンスクだった。そこから再び貨物列車に乗せられたが、ここからはシベリア鉄道である。満州の汽車よりもひとまわり大きいが、トイレが無いので、貨車の引き戸を一メートルほど開けて、そこに網を張った。おしりを外に向けて、張った網に背中をもたれ掛けて用を足していた。しかし、この動作はスリルを通り越して命懸けであった。中にはカーテンを掛けていたので、無事に用を足しているのかどうか不安で、お互いに声を掛け合っていた。姉が用を足しているときに、ソ連の子供から石を投げられておしりに当たり、あざができたと大騒ぎをしたこともあった。

 シベリア鉄道で西に向かっている私たちは、落葉松林に差し掛かると何日も松林を左側に見て走り、そのうちにバイカル湖に差し掛かると右側に湖を見ながら走っていた。シベリアの広大さに目を見張った。道中では、兵隊さんたちが歌を歌ったり、落語で笑わせたりしていた。しかしその反面、笑えば笑うほどお腹が空いてくるので私は母に、我慢できずに「お腹が空いたよ⊥と言ったが「ここには何も無いんだから、もう少し待ちなさい」と言われた。そのうちにバイカル湖のほとりに列車が止まった。後の車両から伝令がきて「携帯食糧甲」と伝わった。

 軍隊では携帯食糧甲とはご飯のことで、乙といえば乾パンのことであることを知った。皆は「さぁ、飯だ、飯だ」と元気づいてきた。ちゃんと炊事当番がいて、バイカル湖の水を汲み上げてきて、手際良く飯盒炊飯を始めた。しかし、皆に配分されたご飯の量は少なかった。油紙のようなものの上に一握だった。私の前にきた当番の兵隊さんは、私に余分にご飯をくれた。母が「良いんですか?」と言ったら、その兵隊さんは「実は、私にも国にこの子と同じぐらいの息子がいるんですよ。今頃腹をへらしているんじゃないかと思ってね。坊や、いいから食べや」と言った。母は目頭を押さえていた。
編集者
投稿日時: 2010-11-30 8:27
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その6 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 シベリア鉄道に一週間は乗っていたろうか、私たちはバイカル湖のほとりのイルクーツクで降ろされて、日本軍を収容する捕虜収容所に入れられた。ここには千人ぐらいの日本兵が入れられていた。兵舎はすべて二段式の木造寝台だったが、私たち家族は多少優遇されて、広い部屋に病院のようなベッドが置いてあった。収容所の周りには鉄条網が張り巡らされ、監視哨には自動小銃を構えたソ連兵が、四六時中見張りをしていた。冒険好きな私は、ここでも警戒兵と仲良くなり、監視暗に登らせてもらったりした。収容所の便所がすごかった。捕虜となった兵隊たちが、横に長い穴を掘り縦に板を並べて、むしろで囲っただけである。厳冬には氷点下二十五度以下になり、用を足すとそれがピラミッドのように積み重なってしまい、板と板の間から竹の子のようになって出てくるのだ。兵隊さんは、汲み取りならぬ鶴喋(つるはし)で、かっちん、かっちんと、便でできた塔を削ってトラックに乗せて捨てに行くのだった。

 収容所の食事は、黒パンと燕麦(馬のえさと言っていた)で、最初は酸っぱくて食べられたものではなかったが、何日か食べているうちに慣れてしまった。
 捕虜の兵隊さんは、イルクーツクの飛行場建設のために出て行き、夕方になって収容所に戻って来た。その間、家族は収容所の掃除をしたり、ソ連兵の靴を磨いたりしていた。
 食事の黒パンは、ソ連人の運転する車に日本兵三人が運搬人夫として乗り、毎日街へ取りに行っていた。ある日、私は仲良しの兵隊さんに誘われて、荷台のパンを入れる箱の中に隠れて収容所を出た。

 初めて歩くイルクーツクの街で、ソ連の子供たちは石蹴りのような遊びをしていた。窓越しに見える家の中には、スターリンの肖像画が飾ってあったが、テーブル以外の調度品は何もないようだった。パンがトラックに積み込まれて、帰ることになった。収容所の入口までは何事もなかったが、入口に来ると、ソ連兵の門衛が何かしら恐い顔をしてトラックを入れようとしない。出て行った時よりも一人多いというのだった。私にどこから来たのかと言っているようだったが、私の説明は受け付けないその門衛は、私をつかんでトラックから引きずり降ろした。トラックは中に入り、私は収容所の外に一人取り残された。収容所の周囲には人家がなく、辺りは暗くなって冷たい風が吹いてきた。そのうちに、どこからともなく白い恐そうな犬が三匹、私を取り巻いた。息もできないほど恐ろしい。収容所の鉄条網の扉は堅く閉まっている。声を出すと犬が襲いかかってきそうで、ただ震えているばかりで涙がぽろぽろと流れてきた。

 その時、門衛の詰所を見ると、母が通訳と一緒にぺこぺこ頭を下げているのが見えた。門衛とても、私が収容所を出たのを見過ごした弱みがあったのだろう。すぐに門を開けて、入れと合図をした。私は犬のことも忘れて、母の所に飛んでいって抱きついて、おいおいと泣いた。

 収容所では月に一度、演芸会があった。楽団もあったが、ドラム缶を輪切りにしたドラムとか、鍋のシンバル、それにハーモニカぐらいである。演芸会の最後に、皆が立ち上がって肩を組んで必ず歌う歌があった。「帰るまで涙なんかは出しゃしない、笑って過ごそよ今日一日、イルクーツク星の夜空を流れ来る、春のメロディーは、ト、ドントドントドント流れ来る」であった。戦前に流行った流行歌の替え歌であったが、皆涙を流しながら歌っていた。今考えてみると、戦後ヒットした「異国の丘」 のようなものだ。
編集者
投稿日時: 2010-12-1 9:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その7 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 収容所での生活が一年ほど続いた昭和二十一年の秋になって、何の用も成さない家族は日本に帰すという話になった。

 四十組の家族は、ソ連軍の将校と軍服を着た女のドクターに付き添われて、シベリア鉄道を今度は客車に乗せられて東に向かった。車中では、ソ連軍の将校とも打ち解けていた。同じシベリア鉄道でも、来るときの貨物列車に比べると、何と快適な旅であろうか。それでもハバロフスクを経由して終点のウラジオストックに着いたのは四日目で、しかも真夜中だった。電気もついていないところを、ぞろぞろと歩いてポセット湾に着いたときには、皆喉が渇ききっていて、小さな池の水をすくって飲んだ。夜が白々と明けてきたころ、一人の女の子が池から汲んできたコップを見て「キャー!」と奇声を発した。コップの中には、ぼうふらのような虫がいっぱい泳いでいた。皆顔を見合わせたが、後の祭りであった。

 そのうちにトラックが迎えに来て、行き先も分からず乗せられ何時間か揺られているうちに、行き違う人の顔や姿が変わってきた。朝鮮に入ったようだった。夕暮れ近くになって降ろされた所は「朝鮮の東海岸寄りの都市、成興(カンコウ)の駅前であった。付き添ってきたソ連軍の将校と女性ドクターは、すぐに戻ってくると言ってどこかに行ってしまった。しかし何時間経っても戻ってこない。辺りが暗くなってきたころ、日本人援護会の責任者という人が現れて、「皆さんは、ソ連にだまされてここに置き去りにされたんですよ」と言われて、皆は顔を見合わせた。まさかと思ったが、二人はとうとう戻って来なかった。その援護会の人の話によると、「ここは北朝鮮なので、三十八度線を越えてアメリカ軍占領地に入らなければ、日本には帰れない」ということだった。そして日本に帰る手段としては、「やみ船」といって法外なお金を払って漁船を雇い、それでとにかく三十八度線を海から越えるしか方法はないということだった。当時のお金で、一人当たり五百円はかかるとの話であった。「さあ、お金作りだ」と皆一生懸命になった。母や姉たちは、ソ連軍将校の家に行って賄い婦をしたり子守りをしたりして、必死になって働き、お金を作った。

 ある日、Ⅹデー(密航決行の日) が告げられた。その日は翌日であった。
                                     
 当日の未明、準備していた他の引揚者と共にひそかに成興を出発して、港町元山(ゲンザン)に集まった。そこには、やみ契約をした北朝鮮の漁船三隻が待っていた。小さな漁船なので、一隻に五十人ぐらい乗るといっぱいである。日の出前に出港した三隻の密航船は、一路南朝鮮に向かって航行した。元山から三十八度線を越えるには、船で約四時間はかかると聞いていたが、その四時間たったところで、船頭は突然エンジンを止めてしまった。アメリカ軍占領地の様子を見ているのだと言う。しかし、二日経っても三日経っても船を動かそうとしない。食べ物はおろか、飲み水もなくなってしまった。私はもう耐えられなくなっていて、寝るたびにアイスキャンデーの夢を見た。

 船頭は、海岸に人影が見えるので船を着けるわけにはいかないと言う。そして、バケツ一杯の飲み水を五百円で売りつけた。皆欲しがっていたので、なけなしのお金を出して買った。五十人で分けると一人コップ半分にしかならないが、こんなにおいしい水を飲んだのは生まれて初めてだった。五十歳を過ぎていた母は、自分の分も私にくれた。しかし、母はだんだんと衰弱していくようだった。そんな母を見ているうちに、私は自然に涙があふれてきた。そばにいた姉たちが「どうしたの?」と聞くので、「お母さんがかわいそう」と言うと、三人の姉たちも両手で顔を覆いながら声をあげて泣き出した。

 船が元山港を出てから一週間目に、援護会の人が「このままでは我々は死んでしまう。どこでもよいから船を着けてくれ」と言うと、船頭は「アメリカ側にやっと人影が無くなった」と言って、夜中になって浜のような所に船を着けた。私たちは、これで日本に帰れるとばかりに我先に降り立ち、船も猛スピードを出して逃げるようにして去って行った。アメリカ軍の占領地に入ったという安心感で、一週間の船旅の疲れが出て、その場で休んでいた。
編集者
投稿日時: 2010-12-2 8:44
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
38度線を越えた! その8 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 突然に「ダダダダ!」と機関銃のような音が響いた。驚いて辺りを見ると、丘の上から銃を構えたソ連兵が駆け下りてくるではないか。何ということなのか。ここはまだ三十八度線より北だったのだ。船頭がアメリカ側に船を着けるのが怖くなって、私たちをだまして三十八度線より数キロメートルも北に着けてしまったのだ。私たちは、ここでソ連兵に撃たれるかもしれないと震えていると、援護会の代表の人が「皆さん、腕時計を出してください!」と言った。十個ぐらいの腕時計が集まった。長姉は夫からもらった南京虫という高級時計を差し出した。

 代表が集まった時計をソ連兵に渡すと、ソ連兵は銃を置いて自分の左腕にずらっとはめて、得意そうに口笛を吹きながら去って行った。かたずをのんで見守っていた私たちは、腰が抜けてしばらくは動けなかった。でもこのままここにいては危険なので、勇気を奮って、ここを出発して三十八度線を目指すことにした。夜の大行軍が始まったのである。

 母は「私はもう駄目だから、私を置いて先に行ってちょうだい」と言ったが、「何を言っているのよ、お母さん」と姉たちが母の体を支えて歩き出した。私は母の分で二倍になった荷物を担いで、必死になって歩いた。山の中腹は崖道だった。私の前を歩いていた赤ん坊を背負った女の人が、持ちきれなくなった荷物を崖から捨てた。荷物はごろごろと転がり落ちて行った。誰もしゃべる者はいない。皆はただ黙々と歩いた。そのうちにあちらこちらで、耐えきれなくなって荷物を捨て始めた。荷物が崖下に転がり落ちるのが見えた。多くの人が道端に座り込んでいた。しかし、どこからか機関銃の音も聞こえてきて、のんびり休んでいるわけにもいかない。お互いに励まし合って歩き出したが、放心状態だった。

 そんなときだった。前の方から「三十八度線が見えたぞ!」 という声が聞こえてきた。ぐったりと放心状態だった人々が、二斉に立ち上がった。もう速足になっている。「お母さん! 三十八度線だって。もう少しよ」と、姉二人に支えられたもんぺ姿も痛々しい母は、無言でうなずいていた。私には何か恐ろしい物に思えていたが、そこには白いペンキで「38」と書かれたベニヤ板が杭に釘打ちされていて、草の生えている地面には、石灰で消えそうな線が引かれているだけだった。しかし、大人たちは「世紀の瞬間だ」などと言って、「どっこいしょ」と白線をまたいでいた。その一本の細い線が、四年後のあの悲惨な戦争につながっていくことなど、誰も想像しなかった。今度こそ本当に越えたのだ。マラソンの最終ゴールのように、先に越えた人たちが、後から越えて来る人たちを誰ともなく迎えていた。ラインを越えてから再び列を作って歩き始めた。歩いているうちに、白い蒲鉾型の家と、ポールにはためく星条旗とが目に入った。背の高いアメリカ兵に出会った時にはびっくりしたが、手を広げて温かく迎えてくれた。アメリカ製のコンビーフの缶詰を初めて食べ、世の中にこんなおいしい物があったのかと思った。ここは、三十八度線の街、注文津(チュウブンシン)であった。

 港町であるこの一角に引揚者の収容所があり、既に千人ぐらいの人が引揚船を待っていた。私たちが収容所に入って二日目の朝、「万歳、万歳」という歓声が聞こえてきた。私は急いで外に出てみると、海岸に大勢の人が並んで沖の方を見ていた。私もその方角を見て驚いた。大きな日本の軍艦が日の丸の旗を掲げて、威風堂々と入港してきたのだ。敗戦から一年この方、日本軍の話はおろか日の丸を見ることさえなかった。その私たちにとってこの風景は、もう無くなっているかもしれない日本という国が、平和の中にいまだに息づいていたという事実を目の当たりにしたという感激でいっぱいとなった。
編集者
投稿日時: 2010-12-3 8:22
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
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38度線を越えた! その9 青木 輝

 戦争体験の労苦を語り継ぐために『平和の礎』選集
 
 この軍艦は駆逐艦の『花月』で、引揚船に改造したものだった。こうして私たちは、引揚船に乗ることができた。船は対馬海峡を潮風を切って、一路博多港に向かった。私は甲板に出て舳先に行ったが、十月なのに潮風は冷たく頬を刺したが、空は明るく晴れ渡りすがすがしい気持ちになった。内地とはどんな所なんだろうか、内地を知らない私はそう思った。友達と仲良くなれるだろうか。今まで満州やソ連や朝鮮で、いろいろな体験をしてきた。どんな国であっても、どんな苦労が待っていても、私はまだ小学校の四年生だ。それを乗り越えて、勇気を出して頑張ろうと心に誓った。大きな波が寄せてきたかと思うと、舶先にぶつかって割れ、ぱっと水しぶきになって散った。船は荒波を乗り越えながら、刻々と日本に近づいていた。

 博多港に着いた私たちは、岸壁のテント村でDDTの洗礼を受けた後、いろいろな手続きを済ませて、静岡までの切符をもらい、満員の汽車に乗った。都会に近づくと、野菜や米の大きな荷物を持った人が乗り込んでくる。窓を開けろと言って、窓から入り込んでくる人もいた。三十時間かかって静岡に着いたが、静岡を知っているのは母だけだ。ここからは母の引率になる。駅前で焼け残っていたのは、七階建てのデパートだけで、後はバラックの家ばかりだった。それでも商店は細々とやっていた。商店街のはずれに大きな通りがあって、向こう側の角の空き地で戸板に果物を乗せて売っている露天商がいた。

 私は、一瞬はっとなった。父と二番目の姉に似ている。母に「あの人、お父さんに似ているね」と言った。母は「あれ、お父さんと文子だよ」と答えた。私は、大きな声で「お父さーん」と叫んだ。父と姉はこちらを見たが、しばらくは何も言わない。すると姉が、突然こちらに向かって走り出し、母に抱きついた。声を出して泣いていた。

 こうして私たちは、元の家族七人の生活を始めた。銀行の頭取から露天商になった父だが、そのことについては皆何とも思わなかった。家族全員が無事に再会できたことに勝るものはない。姉たちは、教員や商社に勤めて一家を支えた。一年後、二年後には長姉、次姉の夫も無事に戻り、松尾さんも無事に帰国した。

 その後、姉たちは鳥取、福岡、愛媛と夫の出身地に赴き、新生活をスタートさせた。私はラジオのパーソナリティという、社会的にも責任のある仕事に就いて、毎日を生き甲斐を持って過ごしている。これも、父、母、姉たちの温かい支援があってこそ与えられたものと思い、感謝している。

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