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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     被爆55年 忘れられないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2010-11-9 7:24
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 21 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
材木を集めて子供を火葬(かそう)に

 八月九日 長崎
       二十五歳 主婦

 我が子の変わり果てた姿に、思わずその場に座り込み、夢中で手を会わせました。

 しばらくして、ふと、この子は間違いなく自分の子供かと、不安な気持ちがよぎり、もう一度確かめました。
        
 材木を集めて火葬(かそう)の準備をしましたが、どうしても焼く気にはなりません。
                  
 しばらく添(そ)い寝(ね)してやり、今生(こんじょう)の別れを惜(お)しみました。
         
 何の罪もない無邪気(むじゃき)な子供たちを、このような残酷(ざんこく)な姿にした戦争の無情(むじょう)を恨(うら)みました。










この世の地獄(じごく) 遺体(いたい)処理

     八月八日 広島
           十九歳 軍人

 広島市内から、旧似島(にのしま)陸軍検疫所(けんえきしょ)に送られてきた遺体は数知れず、一部は薪(まき)・油で火葬にしたが、大部分は壕(ごう)を掘って、そのまま埋葬(まいそう)するより仕方がなかった。

 真夏の暑さと、原爆により三日間燃え続けた火災の熱で、遺体は腐乱(ふらん)し、その死臭(ししゅう)は言語(げんご)に絶(ぜっ)するものであった。

 運搬の際、遺体の手首をつかむと、腐(くさ)った肉がズルッと剥(は)げて、直接骨をつかむようで軍手二枚重ねていても、溶(と)けた肉片と血を絞(しぼ)る有り様であった。
                            
 平和な生活が続く今思い出すと、この遺体処理(いたい)は、この世の地獄(じごく)の出来事であった。

編集者
投稿日時: 2010-11-10 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 22 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
 これが志保子(しほこ)のお骨(こつ)ばい

     八月十二日 長崎
          十八歳 女

 「志保子は学校ではないか、工場ではないか、防空壕(ぼうくうごう)の横穴ではないか、途中にぶら下がってはいないか」と必死(ひっし)に探しまわりました。

 住んでいた家へ行ってみました。
                           
 大きかった家は焼きつくされ、一面灰と死体とお骨(こつ)でした。
        
 父は何処からか鉄兜(てつかぶと)の焼け残りを拾ってきました。
                  
 「恵子、これが志保子ばい、この骨(ほね)が丁度(ちょうど)志保子の身長ぐらいで、あうごたるばい、これが志保子ばい、家に連れて帰ろうなー、お母さんには志保子だと言ってなー」
                   
 弟と私は涙で顔を真っ黒にしながら、鉄兜(てつかぶと)の中に志保子のお骨(こつ)を拾いました。志保子の躰(からだ)は腰の部分が焼けきれずに残っていた事が悲しく思い出されます。
                           
 そこにもここにも、まだお迎えに来て貰えないお骨(こつ)が一杯でした。
                     
 私は原爆によって二人の妹を亡(な)くしました。











あちこちに黒焦げの死体

      八月十一日 長崎
             八歳 小学生

 空襲警報(くうしゅうけいほう)が解除(かいじょ)になったので、久し振りに外に出て遊んでいた。

 ピカッ。熱風が、さあっと通り過ぎると、同時に家がゆれ、物が落ち、柱が傾いた。

 うちの前に爆弾(ばくだん)が落ちたと思った。
           
 町の中には、焦(こ)げ臭(くさ)い異臭(いしゅう)が漂(ただよ)い、爆心地近くのあちこちに黒焦(こ)げの死体が転(ころ)がっていた。

 炭のように真っ黒になった人々を車に山積みにして運んでいた。

編集者
投稿日時: 2010-11-11 8:23
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 23 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
広島駅近くの京樽町で
                
     八月六日 広島
         十六歳 女学生
               
 八月六日、私は爆心地の相生橋(あいおいばし)を渡って、広島駅近くの京樽町まで逃れてきたが、ここで見たのはこの世の地獄図(じごくず)だった。

 顔が火傷(やけど)で腫(は)れ、日が見えない兵隊さんが杖(つえ)を突(つ)いて立っていた。
            
 怪我(けが)に白いチンク油を塗(ぬ)った人は、衣服も破れて肌(はだ)が見えていた。

 暑くて喉(のど)が渇(かわ)くので、水を求めてやっと防火用水(ぼうかようすい)にたどりついた人も、気力が尽(つ)きて死んでいた。
                          
 母親が死んだ子を抱き、血を流して、子を抱(だ)いたまま死んでいた。
                          
 広島駅の方から火の手が上がり、こちらに迫(せま)って来た。










片眼を失った友人

     八月六日 広島
           十七歳 軍属
 
 恩師の安否を尋ねるため、千田町の瓦礫(がれき)の続く道を一人で歩いていた。
                    
 突然目の前に現れた人、左の眼球(めだま)がなく、大きくえぐられている、傷だらけのその姿。

 よく見ると一歳年上の友人だった。
 
 私は恐怖(きょうふ)のあまり優しい言葉をかけることも出来ぬまま別れてしまった。

 その後半世紀以上、今でも忘れることが出来ない。

 大切な片眼を奪った原爆への怒りを誰に訴えたらよいのだろう。

編集者
投稿日時: 2010-11-12 8:19
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 24 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
山のような死体を焼く

     八月八日 広島
         十八歳 軍人

 尾道の原隊(げんたい)から派遣(はけん)された私達は被曝の翌日から死体収容作業に従事した。

 死体を運搬する作業は、始めは手間取ったが二日目からは作業に慣(な)れて、二人一組で素手(すで)で運び、死体の山に古材と重油をかけて火葬にした。

 遺骨はバケツで運び、近くに穴を掘って埋めた。
 
 終戦間際(まぎわ)に集められた兵隊で実戦の機会はなく、この遺体処理がただ一つの戦争体験となった。しかし、つらい、悲惨(ひさん)な作業で、死者や遺族のことを思うと、五十数年経った今でも胸が痛む。










幼(おさな)かった私が見たもの

     八月六日 広島
         四歳 幼女

 私の家は、広島のはずれの方にあったが、当時、幼(おさな)かった私はあまりよく覚えていない。
爆風で家中の窓硝子(がらす)にひびが入った。

 市内の方から大勢の人が、次から次へと家の前を通るので、廊下の手摺(てすり)につかまって外を見て驚いた。

 子供の私には、幽霊(ゆうれい)のように見えた。

 とても怖(こわ)かった。

編集者
投稿日時: 2010-11-13 8:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 25 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
頭デッカチの髪の毛が

     八月六日 広島
         十四歳 中学生

 爆心地から約一キロの大手町で被曝した。

 潰(つぶ)れた家の天井(てんじょう)の隙間(かきま)からやっとのことで遣(は)い出し爆心地から離れるように逃げた。

 夕方近くになって、軍隊の救援トラックに拾われ、船に乗せられて広島湾内の金輪島(かなわじま)にある陸軍船舶隊の兵舎(へいしゃ)に収容された。

 二週間位経った境から髪の毛がバラバラと抜け始め、数日後には殆どなくなった。悪童たちは、禿(は)げ頭を見て「ピカドン」と笑った。

 数カ月後に伸び始めたのは、先が太く根元が細い、頭デッカチの髪の毛だった。










父と母とわたし

     八月十五日 長崎
          十九歳 学生

 「新型爆弾による損害軽微(そんがいけいぴ)」という発表に反して長崎の浦上は焼野ケ原であった。

 爆心地から約五〇メートル、松山町にあった私の家は跡形(あとかた)もなかった。

 私は両親の手がかりを求めて焼け跡を掘った。
 瓦礫(がれき)の中から真っ白に焼けた人骨を拾った。

 それは母の骨だと思った。
      
     焼跡に漸(ようや)く拾いし母の骨
        その温(ぬく)もりをこの手忘れず

 あの日から半世紀あまり、その時拾い得なかった父の骨は、今も地の底の闇の中に眠っているのであろうか。
 
     人繁(しげ)くなりたる被曝の地の底に
         行くえ知れざる父の声きく

編集者
投稿日時: 2010-11-14 8:29
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 ―26 広島・長崎被爆者の詞画集―
原爆犠牲者慰霊碑などの由来

 慰霊碑々文

 太平洋戦争の最終末の一九四五年八月、広島、長崎に投下された原子爆弾は、一瞬の閃光で両市を壊滅させ、数十万人を殺傷しました。

 この碑は有史以来初めての核兵器の被害を身に受け苦痛の中で生きながらえた本県在住の原爆被爆者が、原爆の犠牲となった人々の冥福を祈り、あのような残虐な戦争を惹き起こさないよう恒久平和を誓い、被爆二五周年を記念して、一九七〇年四月末、ここ大船観音境内に建立したものです。

 慰霊碑の石は、広島、長崎の爆心地の石及びビキニ環礁で被爆した第五福竜丸の遺品を添え千羽鶴を刻んだ橋に乗せ、被爆者が平和の丘に向かう姿を表しています。

 (写真・左から平和祈念塔、原爆犠牲者慰霊碑、原爆の火の塔)









慰霊碑

 被爆二十五年記念一九七〇年(昭和四十五年) 完成

 神奈川県原爆被災者の会 (昭和四十一年結成) では、被爆二十五年の記念事業として、原爆犠牲者慰霊碑の建立を計画しました。

 当初建設場所が見当たらず困難を極めましたが、尾島良平会長、井上輿志男事務局長等の努力と 「財団法人・大船観音」 の関係者 (代表者・五島慶太氏) のご好意により境内の現在地が無償にて提供され慰霊碑が建立されることとなりました。

 この慰霊碑には、広島のケロイド状の瓦、西蓮寺の地蔵土台石、長崎の浦上天主堂の被爆石、ビキニで被爆した第五福竜丸の遺品が収められています。

 慰霊碑の設計と制作は具象美術会の専門家によって行われ、被爆者が平和の丘に向かって橇をひく姿が表わされています。


平和祈念塔  

 被爆四十年記念

 一九八五年 (昭和六十年) 完成「核兵器もない、戦争もない、平和な世界を」 の碑文は神奈川県内被爆者から公募され、当時の神奈川県知事・長洲一二氏が揮毫されました。


原爆の火の塔 

 被爆四十五年記念 一九九〇年 (平成二年) 完成

 「原爆の残り火」 は、被爆後の広島の書店の地下室に燻っていた本から、福岡県星野村に持ち帰られました。その後 「平和の火」 として燃え続けていたものを、被爆四十五年に分火して頂き、犠牲者のご冥福と平和への願いを込めて燃え続けています。

  所在地=神奈川県鎌倉市岡本
       大船観音寺境内
編集者
投稿日時: 2010-11-15 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
Re: 被爆55年 忘れられないあの日 最終回 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
忘れられないあの日-広島・長崎被爆者の詞画集-

証言及び給をかいた人々

 相原 キク    (横浜)     常葉  堅  (平塚)
故石井 和子  (横浜)     中村 雄子  (平塚)
 石丸 麻子   (川崎)     林 京子   (逗子)
 岩田瑠璃子  (相模原)    久松 恵子  (川崎)
 内田 尚子   (秦野)     平井 千三  (鎌倉)
 大木 公男   (平塚)     贋石 嘉乃  (秦野)
 小川 節子   (横浜)     福元 久雄  (伊勢原)
 加藤 市郎   (藤沢)     古谷三千雄  (平塚)
 兼保 治子   (横浜)     別所 安枝  (横浜)
 佐藤 良生   (横浜)     本田 尚平  (相模原)
 柴 房子    (横浜)      三浦冨美子  (鎌倉)
 杉岡 章     (横浜)     三角 陽子  (横浜)
 高尾美智子   (横浜)     村山 恵子  (横須賀)
 瀧本 書輔  (相模原)    祐野 孝文  (逗子)
 田栗 末太  (逗子)      吉田 勝信  (鎌倉)
 田島 良成  (横浜)      匿名希望三名

詞画集編集委員

 高尾美智子   杉岡  章
 田栗 末太   常葉  堅
 中村 雄子   別所 安枝
 本田 尚平   片山 正午
 古谷三千雄   斎藤  忠
 平井 千三   贋石 嘉乃


 あとがき

 昨年、横浜市原爆被災者の会から、「わたしの見たあの日」 が刊行され、好評を博しました。この度発行の詞画集は、これを発展させた形で神奈川県原爆被災者の会で計画し、制作したものです。

 小学校以来絵筆を持ったのは初めてという人、描きながら当時のことが思い出されて涙が止まらなかったという人、眠れない夜が続いたという人、老齢のため自分では描けないからと、下絵を送って下さった人、亡くなった人の霊前に祈りを捧げながら描いたという人‥‥・。半世紀余り前のことですから、中には記憶違いや、誤った思い込みがないとは言えませんが、これらの一つ一つは被爆者が心をこめて描いた絵と詞書(ことばがき)です。
 今日なお地球上には数万発の核兵器が存在していると言われています。私達被爆者は一日も早く核兵器がなくなり、戦争もない平和な世界となることを願っています。
 この詞画集が被爆の実相の普及と、原爆の犠牲となられた方々の鎮魂の一助となることを望みます。
 終りに種々ご協力を項いた多くの方々に心から厚くお礼を申し上げます。
 
 神奈川県原爆被災者の会
    詞画集編集委員会

 二〇〇〇年 (平成十二年) 八月


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 被爆五十五年・会結成三十五周年記念
  忘れられないあの日
   - 広島・長崎被爆者の詞画集
 編集・発行 神奈川県原爆被災者の会
 二〇〇〇年(平成十二年)十月一日
 印刷・製本 〒二二一-〇八二二
 横浜市神奈川区西神奈川一-八-十三
 電話 〇四五-三二二-八六八九
 FAX 〇四五-三二二-八六〇六
 株式会社レーエ
 〒一〇五-〇〇二二
 東京都港区浜松町二-二五
 電話 〇三-三四三七-〇四五一

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