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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     被爆55年 忘れられないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
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編集者
投稿日時: 2010-10-28 13:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 11 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
              
それはまさに地獄(じごく)列車(二)

 八月九日 長崎
         十五歳 女学生

 暫(しばら)く茫然(ぼうぜん)としていたが、気をとり直して車内に足を踏み入れた。

 車内は、埃(ほこり)と、血の臭(にお)いと、呻(うめ)き声で異様(いよう)なものだった。

 傷付いて動けない人を運び出す作業だが、手を握(にぎ)っても、皮膚(ひふ)がずるずるとむけて手が付けられないので、肩に担(かつ)いでホームに並べて寝かせた。
          
 すでに息絶えた屍体(したい)もあった。
       
 水!水!と縋(すが)り付く負傷者に、手分けして水を飲ませて走り廻った。

 戸板やリヤカーに乗せて、海軍病院や学校等に怪我人(けがにん)を運んだ。










一人で逝ってしまった
             
     八月六日 広島
          十三歳 女学生

 女学校一年生二百二十名は、市内土橋(どばし)で建物疎開(そかい)の勤労動員の作業中に被曝し、全員がな亡くなった。

 一人娘の謡子(ようこ)ちゃんも、全身大火傷(やけど)を負い、救護所まで運ばれた。

 「苦しい、苦しい」「オミズ、オミズ」

 「おかあさん」

 「おかあさん まだあ」

 「胸をさすってえ」

 「おばちゃん 手をにぎってえ」と、苦しみながら、八月六日午後十一時、一人ぼっちで十三歳で逝ってしまった。

 翌日、漸(ようや)くたどり着いたお母さんに会うこともなく、一人ぼっちで。



編集者
投稿日時: 2010-10-29 7:40
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 12 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
ぐるぐる巻きで担架(たんか)に

     八月十一日 長崎
          六歳 幼女
             
 八月十一日の午前、道(みち)の尾(お)駅に、包帯(ほうたい)でぐるぐる巻きにされた人が、担架(たんか)に寝かされていました。

 ただ「水!水!」という呻(うめ)き声を出してうごめいていました。

 汽車が先へ行かないので降ろされて、一瞬見ただけでしたが、その光景は未だに瞼(まぶた)に焼き付いて忘れることが出来ません。

 恐ろしくて、恐ろしくて、一刻も早くその場から離れたくて、見ていることが出来ませんでした。









             
マンホールに避難(ひなん)した

     八月六日 広島
          十九歳 軍人

 「ピカドン」で傷を負った母親は、すさまじい爆風におののき、次に来る災(わざわ)いから身を守ろうとして、爆風で蓋(ふた)を飛ばされていたマンホールの中へ、幼児を抱きしめて必死で逃げ込んだ。

 (マンホールは、焼け野原となった街で唯一(ゆいいつ)の避難場(ひなんば)であった)
     

   爆風に蓋(ふた)をとばされしマンホール
        血みどろの母子をうちに守れり

編集者
投稿日時: 2010-11-1 8:25
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 13 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
水を飲んでくれなかった

     八月六日 広島
         二十三歳 女子挺身隊(ていしんたい)

 どこの水槽(すいそう)にも人が群がっている。

 上半身は裸、指先には黒い糸のようになった皮膚(ひふ)が垂(た)れ下っている。

 小さな男の子が「水をちょうだい」と言って私に縋(すが)りついたが、すぐにばったりと倒れてしまった。 
 
 水のある所に連れて行こうと、その子を抱(かか)えて走ったが間に合わなかった。

 死んでしまって飲んでくれなかった。










幼児を抱き息絶えた母親
               
     八月六日 広島
         二十五歳 軍人

                                
 八月六日午前八時十五分、警戒警報(けいかいけいほう)解除の直後、B29が飛来(ひらい)、一大閃光(せんこう)と共に全市の大半は火の海と化した。

 私の所属していた部隊(ぶたい)庁舎(ちょうしゃ)が、目の前で積み木(つみき)の玩具(がんぐ)を押し潰すように倒れた。

 皆実町(みなみまち)の部隊から、千田町、舟入、十日市町を経由して横川橋に至る道すがら、むせ返る余熱の燻(くすぶ)る瓦礫(がれき)の中で、息絶えだえに水を求めて水栓(すいせん)に這(は)い寄る男たち。

 幼児を抱いたまま防火用水に入って息絶えた若い母親。
 
 馬車馬(ばしゃうま)も横倒しになって、ロをバクバクさせて喘(あえ)いでいた。

 まさに地獄(じごく)の様相(ようそう)であった。

編集者
投稿日時: 2010-11-3 7:42
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 14 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
お母さん死にたくない

     八月九日 長崎
         十五歳 女学生

        
 炎天下、全身火傷(やけど)をして死んでいる赤ん坊を抱いて虚(うつ)ろな目で空を見つめていた若い母親。

 悲惨(ひさん)な姿の人が一杯いるが、ただただ自分のことで精一杯、だれが救いを求めても何をしてやる気力もない。

 お母さん 死にたくない!

 いっしょに死んで!

 お母さーん 死にたくなーい!

 声はだんだん小さくなっていった。

 あの声は、未だに私の耳の奥底に焼き付いている。










少年はカつきて その場に倒れた

     八月六日 広島
         十九歳 軍人

                        
 広島では、空襲に備えて、建物の疎開(そかい)作業に多数の学徒が動員された。

 この作業に従事していた十四才の少年は、「ピカドン」で、広島が一面の焦土(しょうど)となったとき、全身に大火傷(やけど)を負いながら、追いかけるように迫(せま)って来る火の車、黒焦(こ)げになった死体がゴロゴロしている、灰燼(かいじん)と瓦礫(がれき)の山、泣き叫(さけ)ぶ人々の群れの中を必死に歩き続け、やっとの思いで我が家に辿(たど)り着いた。
         
 しかし家は既(すで)に例壊(とうかい)し、あたりは焼け野原と化していた。

 家族も見あたらず、カつきてその場に倒れてしまった。


    家族(いえ)求め火傷(やけど)に耐(た)えて帰り来て
         少年は斃(たお)る人なき焼野に

編集者
投稿日時: 2010-11-3 7:46
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 15 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
その夜から墓場で

     八月九日 長崎
         六歳 少女

 あの日のことは六歳の私の脳裏(のうり)にも、しっかりと刻(きざみ)みこまれています。

 歩いていたらよそのおじさんが、「おじょうちゃん飛行機がとんでいるよ」といいました。
         
 家の中に入った瞬間(しゅんかん)「ピカッ」 と光って壁がおち、もうもうと砂煙(すなけむり)につつまれました。
          
 中島川にかかった賑橋(にぎわいばし)近くの墓場に逃げました。

 山の上から向こうを見ると火の海でした。

 私は無心にその火を見ていました。
       
 あたりには怪我(けが)をした人が沢山横になっていました。

 その夜から私たちは墓場で過すことになりました。










変わり果てた母の姿

     八月六日 広島
         十六歳 中学生

 漸(ようや)く火が収(おさ)まったので、私は自宅の焼け跡に行って必死に母を探した。

 そして、やっと変わり果てた母の遺体を見つけた。

 母の脳天(のうてん)は未(いま)だ煉(くすぶ)っていて、白い煙を出していた。

 私は母の黒焦げの死体を抱いて泣きじゃくった。

 次の瞬間、私は狂気のように母の体を叩(たた)き砕(くだ)いた。

 そして、その上を目印の熱い瓦(かわら)で覆(おお)い、

 慟哭(どうこく)しながらその場を走り去った。


編集者
投稿日時: 2010-11-4 8:36
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 16 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
私の見たあの日

      八月六日 広島
         十八歳 女教師
        
 (左上)乙斐駅(こいえき)近くの焼け爛(ただ)れた市内電車の中には、幼児を膝(ひざ)の上に抱(だ)いた母子、吊(つ)り革(かわ)を持った人、座席に座った人々も、皆そのままの姿で真っ黒焦げのミイラ。
              
 (左下)身内を探す人々の喧騒(けんそう)の乙斐駅(こいえき)周辺
 髪はチリヂリに焼け焦(こ)げ、顔は目鼻も分からない程黒く膨(ふく)れ上がり、皮膚(ひふ)は垂(た)れ下がり、男女の区別も付かない、蹲(うずくま)る遺体(いたい)の群。
 この世とは思えない地獄絵(じごくえ)、ここだけ静寂(せいじゃく)が漂(ただよ)う。

 (中央)皮膚(ひふ)が襤褸(ぽろ)のように、赤く垂(た)れ下った裸(はだか)の母親が赤子を胸に、放心(ほうしん)状態で息絶(いきた)え、溝(みぞ)の中に立ちつくす。

 (右上)榎町(えのきちょう)の街と共に、一瞬(いっしゅん)にして燃え尽きた我が家の前に、馬もろとも黒焦(こ)げになった将校の口許(くちもと)に金歯(きんば)が光る。

 (右下)天満川の上手までたどり着き、力尽きて倒れた屍の山。水を求めて川に入った人々の屍(しかばね)で川底も見えず。










救援トラックに載せられて

      八月六日 広島
         十四歳 中学生

 大手町八丁目の自宅で被曝した。

 曝風で潰(つぶ)れた家からやっと這(は)い出して、爆心地から遠ざかるように逃げている時、軍隊の救援トラックに拾われた。

 トラックには被曝した何人かが乗っていたが赤裸(あかはだか)になった火傷(やけど)の腕の皮膚(ひふ)が、手の先にぶら下がっていて、車がゆれて赤肌が触(ふ)れると荷台のあちこちで悲鳴(ひめい)が上がった。

 私達は、広島湾内の似島(にのしま)にある陸軍船舶隊の兵舎(へいしゃ)に収容された。

編集者
投稿日時: 2010-11-5 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 17 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
友の亡骸(なきがら)を茶毘(だび)に

     八月九日 長崎
         十五歳 動員学徒
       
 火の手が収(おさ)まるのをまって、寮友を探しにでかけた。

 爆心地近くになると、黒焦(こ)げの死体が散乱(さんらん)し、真っ赤に腫(は)れ上がった顔で這いつくばり、呻(うめ)きながら水を求める人、それは正に地獄絵(じごくえ)であった。

 寮のあった場所についてみると、建物は全焼。
                          
 朝、手を振って別れた四百余人の友は、無残(むざん)にも黒焦げになって息絶えていた。

 泣きながら友の遺体を次々と焼いた。

    朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて 暮(ゆうべ)に白骨(はっこつ)となる
        原爆に焼かれし友の 亡骸(なきがら)を茶毘(だび)に付す










トンネル工場の中

     八月九日 長崎
         十七歳 女

 何処(どこ)をどう駆(か)け廻ったか、私はトンネル工場の中に入っていました。
       
 逃げる途中、潰(つぶ)れた家の下から「助けて!助けて!」の叫(さけ)び声が、あちこちから聞こえてきましたが、逃げるのが精一杯で、振り返る余裕(よゆう)もありませんでした。

 トンネルの中は真っ暗で、ただ恐ろしさと心細さで震(ふる)えているばかりでした。

 その時、後頭部にガラスの破片(はへん)が突き刺さり頭から血が流れているのに気が付きました。

 大きな釘(くぎ)を踏み付けたのか、足の下から上に突き出ているのに始めて気が付き、自分で抜き取りました。


編集者
投稿日時: 2010-11-6 8:03
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 18 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
川は死体で一杯に

     八月六日 広島
         二十一歳 軍人

 広島は市内を七つの川が流れる、静かな町だった。

 夏になると、私達はきれいな川に飛び込んで遊び、秋になると橋の上からハゼを釣って楽しんだ。

 それがあの日、ピカの犠牲(ぎせい)になった大人や子供の死体で埋まった。

 それは正に地獄絵(じごくえ)そのものだった。
                       
 軍隊の人が小船に来って、竹竿で溺死体(できしたい)を収容していったが、数が多くてかなり時間がかかったようだ。

 不思議なことに、この日を境にして、川底に張り付くように一杯いたハゼの姿が消えた。










一回に五十体ずつ焼く

     八月六日、広島
         十九歳 軍人

 八月七日、尾道市に駐屯(ちゅうとん)していた私達に突然広島行きの命令が出た。

 軍用列車で着いてみると、広島は一面の焼け野原、駅の周辺は死体で埋まっていた。

 私達の任務は被曝した人の遺体処理であった。

 無数の遺体を処理するには、個別では間に合わない。

 一回に五十体ずつ重油を掛けて焼いた。

 黒紫色の煙が、東練兵場(ひがしれんペいじよう)から二葉(ふたば)の里(さと)の方に流れていった。

 この悲惨な作業は何日続いただろうか。


編集者
投稿日時: 2010-11-7 9:21
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 19 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
「お母さん!」と叫ぶ子供

     八月十日 長崎
         十七歳 中学生

 「お母さん!お母さん!」と泣き叫びながら、その子は必死に母親を探していた。

 五歳位であろうか。

 わが子を探すお母さん。その人も、服はボロボロに焼け、顔は真っ黒に汚れていた。

 「この子は私の子でしょうか‥‥」変わり果てた子供の姿に、果たして自分の子供かどうか判らない様子であった。

 私も、行方不明(ゆくえふめい)の従姉妹(いとこ)を探(さが)しまわったが、つい遂に発見できなかった。










「原曝症」次は自分か
               
     八月九日 長崎
         十五歳 女学生

      
 夕方、兵頭(ひょうどう)さんが青白い顔をしてふらふらと私の所に近寄ってきた。

 「家に無事でいることを知らせてほしい」とのことで私は家族に電話をいれた。当時としては珍しく彼女の家には電話があったので、すぐ連絡がついて助かった。

 顔色は悪かったが彼女も見たところ変わった様子はなかった。

 お互いに無傷で助かったことを「よかった」「よかった」と手を取り合って喜んだ。

 しかし、秋風の吹く頃に、彼女は原曝症で亡くなった。
                  
 恐ろしい何かが私の身体も蝕(むしば)んでいるかも知れない。

 「次は自分の番ではないか」と、毎日、毎日生きた心地(ここち)がしなかった。

編集者
投稿日時: 2010-11-8 8:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 20 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
 帯のように長く燃えて
               
     八月九日 長崎
         二十四歳 主婦

 青空の中に銀色のB29が見えました。

 警戒警報(けいかいけいほう)も出ていない静かな朝でしたので、「おかしいなー」と、思っていた時、光と風が目の前を通ったように思いました。

 気が付いた時、私は子供と一緒に奥の座敷に飛ばされていました。

 何が起こったのかわかりませんでした。

 それからどれ位経ったでしょうか。私達は近所の人達と山の中に逃げました。

 あちこちから火の手が上がり、町中が帯のように長く長く燃えていました。

 この日のことは忘れることができません。










家族の手をさすり天国へ

     八月六日 広島
       十三歳 女学生
                       
 水筒をぶら下げ、一人ひとりの顔を覗(のぞ)き込みながら、兄を探して歩き廻(まわ)った。
                       
 多くの息絶えた人の顔も確かめて廻(まわ)った。

 「水を下さい!」「水を」
  
 火傷(やけど)や怪我(けが)をした人に何度も抱き付かれたが水は兄に飲ませたい一心で、誰にも上げることが出来なかった。
                      
 やっと見つけた兄は、上半身にひどい火傷(やけど)と傷を負い、息も絶えだえ、折角(せっかく)の水を飲むカもなく、日も見えないようで、家族の者の手を、一人ひとりさすりながら、永遠の別れを告げて、天国に召(め)されていった。

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