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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     被爆55年 忘れられないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2010-10-17 9:22
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
はじめに

 スタッフより
 
 本稿は「被爆55年 忘れらないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―」よりの転載です。

 なお、転載につきましては、神奈川県原爆被災者の会様 のご了解を得ております。

    ---------------------------------------------------------


用語解説

 警戒警報
  敵の飛行機が近づく可能性がある場合に出された警報。

 空襲警報
  敵の飛行機が近づいて来て、爆弾などを落とされる危険が大きくなった時に出された警報。

 動員学徒
  戦争末期、労働力不足を補うため、工場などで働かされた、中学校・女学校・専門学校などの生徒。

 女子挺身隊
  戦争中、労働力を補うため、地域又は学校単位で編成された女性だけの組織。

 軍属
  戦争中、軍人ではないが軍の仕事をしていた人。男性も女性もいた。

 防空壕
  敵の飛行機の攻撃から身を守るために、地下又は横穴に掘った待避場所。

 建物疎開
  戦争末期、空襲による火災の延焼を防ぐため、密集している建物を強制的に取りこわし空地にした。

 練兵場
  兵隊が訓練などをした、学校の運動場の何十倍もある広場。

 黒い雨
  原爆投下後に降った、放射能をふくみ、灰・油・塵などがまじった雨。

 原爆症
  原爆をうけたために起る病気で、嘔吐・下痢・貧血・高熱・脱毛・紫斑などの急性症状と、後遺症として白血病、ガンなどがある。

(写真は「表紙」です)

編集者
投稿日時: 2010-10-18 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 2 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
発刊のことば

 神奈川県原爆被災者の会
       会長 高尾美智子

 アメリカが原子爆弾を投下したあの日から今年は五十五年になり、神奈川県原爆被災者の会が結成されて三十五周年を迎えます。

 また、先輩の方々が幾多の困難の中で、住所も名前もわからない被爆者を一人一人掘りおこし、「神奈川友の会」 として活動を始めてから四十五年になります。

 平和を目ざし 「核兵器廃絶、被爆者援護法の制定」を求めた諸先輩のたゆまぬ運動の成果が、援護法を制定させ、現在私たちが受けている諸々の援護施策を実現させました。

 私たちはあらゆる機会を通じて戦争の悲惨さ、特に原爆の恐ろしさを訴え続けて参りました。多くの人々が我が子や肉親を助けることもできず、生死をさまよいながら、水を求め息絶えていったあの日の出来事は生涯忘れる事は出来ません。

 今は当然の事と受けとめられている平和と繁栄は、多くの尊い犠牲の上に築かれている事を深くかみしめ、あの戦争の悲劇を忘れることなく、そして原爆の悲惨さをくり返さない事を願い、私たちの脳裡に鮮明に焼きついている被爆の実相を、この度詞画集として残すことになりました。

 被爆当時、若かった私たちも高齢となり、五十年以上、絵筆をもったこともない被爆者にとって頭の中には鮮明に焼きついていることも、絵として表現するのは難しい事でしたが、心をこめて描きました。決して上手な絵とは言えませんが、これは被爆者にしか描けない真実の訴えです。

 この証言詞画集 「忘れられないあの日」 が原爆の生きた証人として、単に個々の不幸な体験の記録としてのみとどまることなく、核兵器もない戦争もない平和な世界と、恒久平和の実現に大きな役割を果たし、平和の尊さを見直す力になることを心から願ってやみません。

 県知事様始めご支援ご尽力下さいました方々に心より感謝申し上げ、お礼の言葉といたします。



発刊に寄せて

 神奈川県知事
    岡 崎  洋

 一九四五年(昭和二十年)八月に広島・長崎に投下された原子爆弾は、人類未曾有の大惨禍をもたらしました。あれから五十五年を経た今なお、被爆者の方々のお苦しみは続いております。国際連合は、西暦二〇〇〇年を「平和の文化国際年」と定め、朝鮮半島では南北首脳会談が開催されるなど、民族の和解に向けた動きがあるものの、まだまだ地域紛争は絶えません。また、未だに核兵器を保有する国も存在しており、世界で唯一の被爆体験国であるわが国の世界平和に果たす役割はますます大きなものとなっております。

 神奈川県では「神奈川非核兵器県宣言」や臨界前を含む核実験に対する抗議などを通じて平和な風土づくりの促進に努めています。八百四十万人の県民一人ひとりが核の悲惨さと平和の尊さを認識し、次の世代に伝えていくことが求められています。

 こうした中で、幾多の困難を乗り越えてこられた被爆者の方々が、「ふたたび被爆者をつくらない」 「核兵器もない、戦争もない、平和な世界を」を求め、辛い体験を描かれた「被爆証言詞画集」を出版され、非核の理念の継承に努められることは大変意義深いことであり、深く敬意を表します。同時に、恒久の平和を念願し、人類が二度と同じ過ちを繰り返すことがないよう願ってや
みません。

 神奈川県原爆被災者の会の皆様のご健康と、原爆で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。

編集者
投稿日時: 2010-10-19 8:41
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 3 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
投下された 原子爆弾 の概要


 広 島          長 崎

 原爆投下日時      1945年(昭和20年)    1945年(昭和20年)
                8月6日午前8時15分    8月9日午前11時2分

 爆発高度         約580m           約503m
 原爆の種類        ウラン原爆          プル トニウム原爆
 爆発力(TNT火薬)   約15キロトン        約22キロトン
 放出エネルギー      約14兆カロリー      約20兆カロリー

 当時の人口        約42万人          約27万人

 被爆死没者
 (1945年12月まで)   約14万人          約 7万人

            両市合せて約20万人

 慰霊碑への合祀者
 (2000年8月現在)   21万7137人        12万4191人

            両市合せて34万1328人




 広島原爆

 直径 約0.7m
 長さ 約 3m
 重さ 約 4トン
 「リトルボーイ」


 長崎原爆

 直径 約1.5m
 長さ 約3.3m
 重さ 約4.5トン
 「ファットマン」



編集者
投稿日時: 2010-10-20 7:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 4 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
きのこ雲

「ピカッ ドーン」

 その瞬間、「きのこ」の形をした雲が発生し、それは、次第に傘を広げて、まるで悪魔(あくま)が牙(きば)をむき襲(おそ)いかかってくるような大きな傘となっていきました。

 広島と長崎の両市会わせて死者約二十万人、その六十五%は子供と、女、年寄りでした。

 その内、四十%は未だに行方不明のままです。
 何千年の人類の歴史の中で、これ程大きく、悲惨(ひさん)な出来事があったでしょうか。

                
 この詞画集は広島・長崎の悲劇(ひげき)を体験した神奈川県在住の被爆者が、二十一世紀に向けて、描(えが)き、語り遺(のこ)す真実の証言です。










ピカッ ドーン

   八月六日 広島
       十三歳 女学生
                 
 空襲警報(くうしゆうけいほう)が解除(かいじょ)になり、いつものように敵機(てっき)は行ってしまったと、ホッとした時「飛行機が飛んどる。B29じゃ」「アッ、落下傘を落とした」と友の声。
                         
 その瞬間、何万発ものマグネシュームが破裂(はれつ)したような黄橙色(きだいだいいろ)の閃光(せんこう)が、稲妻(いなずま)のように走った。ハッとその方を向いたとたん、「ドーン」ともの凄(すご)い衝撃(しょうげき)を受け、ガラス混じり、上砂(どしゃ)混じりの爆風が工場の中をどっと吹き抜け、わたしは床に叩きつけられた。

 気がつくと、まともに受けた曝風による鼻血で、制服は真っ赤に染まり、ガラスの破片で、左手の内側がえぐられて血が吹き出し、小さな破片が身体(からだ)中に突き刺さっていた。




編集者
投稿日時: 2010-10-21 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 5 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
被曝の三態
     
 八月六日・七日 広島
         三十六歳 軍人

 ◆絵=上 八月六日八時過ぎ
                
  爆心地から三・八キロ、江波(えば)山上陣地にいた私は、突然、青白い光と共に、シュウという音を聞いた。
  背中が焼けるように熱かった。
               
  山上の陣地から見ると、瓦礫(がれさ)の中から「きのこ雲」が目に入った。

  戦友と「あれは何だ」と話していると、市内の各所から火の手が上がるのが見えた。


 ◆絵=下右 八月六日昼近く
                
  公用外出の時私は見た。江波(えば)山の下の病院に向け、火傷(やけど)を負った人達が、男女の別も判らない姿で、血を流しながら歩いていた。

 ◆絵=下左 八月七日の夜

  瓦礫(がれき)の中、あちらこちらで、木材を積み、遺体(いたい)を焼いていた。









       
痛みを堪(た)えて救護を待つ

 八月六日 広島
         十九歳 軍人

 爆心地から「二キロの路上を歩いていた十五歳の少年は、背面から被曝した。

 衣類と皮膚(ひふ)は丸焼け、全身赤裸(あかはだか)となっていた。

 畑にゴザを持ち出しねかせた。少年はうつ伏(ぶ)せになって痛みを堪(た)え、何時(いつ)来るとも知れぬ救援を待った。

 熱線で焼けただれたる少年は
      呻(うめ)きて待てり来(こ)ぬ救援を

編集者
投稿日時: 2010-10-22 8:35
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 6 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
電車の中で黒焦げに

   八月六日 広島
        十二歳 中学生
         
 爆心地に近い紙屋町(かみやちょう)の停留所で、電車が焼け爛(ただ)れていた。
                                         
 電車の乗客は、立ったまま、座ったままで黒焦げになっていた。

 運転手の身体(からだ)が、タラップの形のままに折れ曲がって焼け焦げている。

 停留所付近に転(ころ)がった死体は、みんな黒焦げになり縮(ちぢ)まっている。

 赤ちゃんを抱いた母親の縮んだ遺体が哀(あわ)れであった。

 数千度といわれる灼熱(しゃくねつ)を浴びた広島市民の悲惨な最期の姿だ。









被曝十分後、防空壕内で
    
   八月六日 広島
        十八歳 少年兵
                 
  爆心地から約一・八キロの比治山(ひじやま)の麓(ふもと)。
                   
  閃光(せんこう)、続いて「ドーン」の大音響と、もの凄(すご)い爆風。
                 
  兵舎(へいしゃ)外にいた少年兵は皆地面に叩(たた)きつけられた。
                
  上半身裸(はだか)でいたからたまらない。閃光(せんこう)を受けた上半身は全面の大火傷(おおやけど)。塵(ちり)と砂塵(さじん)が舞い上がり一寸先も見えない暗闇(くらやみ)。ゴー、ゴーとうなる地鳴り。
        
  その中を防空壕(ぼうくうごう)へ避難(ひなん)した。
                  
  痛みに耐(た)えられず、ガタ、ガタ震(ふる)える者、イテェ、イテェと叫ぶ者、唇(くちびる)を噛(か)みしめて耐える者。肌の焼けた異様(いよう)な臭(にお)いが鼻をつく。

  舎内にいた者は、ガラスの破片を全身にあび、噴き出る鮮血で真っ赤だ。私も出血がひどく、貧血で倒れてしまった。


   壕(ごう)のなか火傷(やけど)と汗の臭い満ち
          兵らは呻(うめ)く唇(くちびる)を噛み


       




              

  (次回につづく)
編集者
投稿日時: 2010-10-23 15:11
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 7 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
被爆七日目、臨時救護所で
          
         八月十三日 広島
              十八歳 少年兵
  
 大火傷(おおやけど)を負った少年兵たちは、爆心地から七キロ離れた小学校の臨時救護所に収容された。だが薬もなく、三日目にやっと、ごま油を塗るだけの応急処置。

 全員高熱を発し、食事もまったく取れず、痛みに耐えて「イタイ」「イテェ」と呻(うめ)く。「水をくれ」「ミズ」の叫び。火傷(やけど)は膿(うみ)の層が十ミリから二十ミリにもなって、蛆(うじ)が涌(わ)き、取っても、取ってもとりきれない。

 一人が訳の解らないうわごとを言い始めた。聞き直しても返事がない。急に静かになった。息が絶えたのだ。

 「ミズ」「水を」の声も、「イタイ」「イテェ」の呻きも、「クルシイ」「クルシイヨ」の嘆(なげ)きに変わり、やがて虫の息になった。皆苦しみ抜いて、次々に息を引き取ってしまった。

 一番生き長らえた者でも二週間の生命だった。
                       

   兵士らの焼けただれたる背に膿(うみ)の層
          蛆(うじ)が群がりししむらを食(は)む










火に追われて逃げ惑(まど)う

     八月六日 広島
          二十三歳 女子挺身隊(ていしんたい)

 私たちは火に追われて逃げ惑(まど)った。
 
 辺(あた)りの人は全員火傷(やけど)して、手の皮が剥がれて垂(た)れ下っている。

 男女の区別さえ付きにくい、ひどい状態で、ただ右往左往(うおうさおう)している。

 連日の強い日差しで、口の中や傷口に姐(うじ)がわいてきた。

 火傷(やけど)の軽い人でも、数日後には、全身に赤や青の斑点(はんてん)ができ、髪の毛が抜けて死んでいった。



編集者
投稿日時: 2010-10-25 7:52
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 8 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
「黒い両」に打たれた卒業証書

       八月六日 広島
              二十三歳 軍属

 原爆投下の後

 一時間ぐらいで

 黒い雨が降ってきた。

 屋根も窓もなくなり

 爆風で飛んだ家具に

 「黒い雨」が降りそそいだ。

 数日たって

 破れかけた卒業証書を見つけた。
               
 白い紙に黒い雨の跡(あと)が

 五十余年たった今も

 そのままの姿で残っている。










荷車の上の産婦

     八月六日 広島
         二十八歳 軍人
             
 私が中隊の兵隊を探(さが)すため比治山(ひじやま)の防空壕の付近まで来たとき、そこには荷車の上に荒延(あらむしろ)を敷(し)いて産婦がヘソの緒(お)が付いたままの姿で苦しんでいました。


 老婆(ろうば)は車輪をつかんで下を向いたままです。

 あまりにも無残(むざん)な姿に、どうしてもそこを離れることが出来ませんでした。

 五十五年が過ぎた今でも、涙がとめどなく流れ、昨日のように思い出します。
                        
 「幸せは平和のうちにあり、戦争は幸せの破壊(はかい)者(しゃ)です。」

編集者
投稿日時: 2010-10-26 7:59
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 9 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
瀕死(ひんし)の少女に上着を

     八月九日 長崎
          十八歳 動員学徒
 
 兵器工場から浦上まで逃げてきて動けなくなった少女が、日照(ひで)りの進路の真ん中に、仰向(あおむ)けに倒れていた。三つ編みの一方がほどけて衣類(いるい)は焼け、全裸(ぜんら)である。

 手も足も肉が剥(は)がれ、時折ヒックと指がつる。

 まだ呼吸はしていた。顔に傷はなかった。
          
 肌(はだ)がろう人形のように透(す)けて、半開きした眼が哀(あわ)れだった。

 上着を脱いで、そっと少女の体にかけた。










瓦礫(がれき)の中に妻と長男の顔が

     八月六日 広島
          二十六歳 軍人

 ドーンという大音響(だいおんきょう)と共に、一瞬(いっしゅん)気を失ったのか、気が付いたら崩壊(ほうかい)した兵舎(へいしゃ)の瓦礫(がれき)の中で、天井(てんじょう)の梁(はり)を背に受け、四つんばいの格好(かっこう)で、力一杯梁を持ち上げていた。

 助かりたい一心だった。
               
 すると、外の明かりが瓦礫(がれき)の隙間(すきま)から差し込み、中は煙が舞っている。どうせ助からないなら落ち着けと、死を覚悟した。
       
 その瞬間(しゅんかん)、平塚の空襲(くうしゅう)で焼け出された妻と長男の顔が目の前に現れた。
 
 「俺(おれ)は助からない。後の事は頼むぞ」と言ったら、すっと二人の顔が消えた。


編集者
投稿日時: 2010-10-27 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
被爆55年 忘れられないあの日 10 ―広島・長崎被爆者の詞画集―
防空壕(ぼうくうごう)にひびく呻(うめ)き声

     八月九日 長崎
          十三歳 女学生

 一瞬、何が起こったか分からなかった。

 私は母に助け出されて防空壕へ急いだ。
                      
 その母も全身傷だらけで血がにじみ、火傷(やけど)で服はボロボロだった。

 壕(ごう)の中では、怪我(けが)や火傷(やけど)をした大勢の人々が治療も受けられず、ただ横たわり、痛さをこらえきれずに呻(うめ)く声だけが、薄暗い壕の中にひびいていた。

 血を流した若いお母さんが、首をだらりと垂れて死んでいる赤ちゃんを背負っていた。

 今も、あのお母さんの虚(うつ)ろな日をわすれることが出求ない。









              
それはまさに地獄(じごく)列車(一)

     八月九日 長崎
          十五歳 女学生

 「救援列車が来る!」

 との事で、私たちはその世話を命じられた。

 入って来た列車を見た瞬間、私は息が止まるかと思う程驚愕(きょうがく)した。
          
 それはまさに地獄(じごく)列車そのものだった。

 焼けただれた顔、皮膚がはがれて赤く腫(は)れ上がった肌。

 髪の毛はほこりと血にまみれて逆(さか)立っていた。
                 
 機関車のありとあらゆる所に怪我(けが)人が縋(すが)りついていた。

 ギョロギョロとした日で見つめられて、足がすくんだ。

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