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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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投稿者 スレッド
sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-16 21:22
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re:第4回技能五輪全国大会の模様
羽生の鍛冶屋さん

素晴らしい、昭和の高度成長期を前にした、我が国の製造業の
先進国に、追いつけ、追い越せのフロンティア精神が彷彿とします。
大会の会場の熱気も、手に取るようです。
まさに、オリンピックですね。

日本の製造業が、再びよみがえるような、ニューディール政策の日本版を、現政権の総理にお願いしたいものです。

               久しぶりに感動を覚えました!
編集者
投稿日時: 2010-3-16 8:01
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 その2 本田 裕
 第4回技能五輪全国大会
 
 昭和41年4月22日~25日の4日間、東京の会場を中心に、旋盤、フライス盤、電気溶接、ガス溶接、構造物鉄工、打ち出し板金、曲げ板金、工場電気設備、建築大工,木型、配管、左官、建具、家具など20職種におよぶ競技が、県大会を勝ち抜いた46都道府県から数百名の、20歳~21歳の技能者が、開会式場の日本青年館に集まりました。
 私は、埼玉県代表として、構造物鉄工部門に出場しました。

 1日目は、開会式と会場案内です、競技会場の江東区の東京汽車製造(株)まで電車で移動しました。競技会場を案内され、競技説明を受けました。この段階で選手にはどんな課題が出されるのかわかりません。都内の宿舎に戻り、付き添いの指導員と明日からの競技に向けての仮定の作戦行程を練り上げました。6年間の積み重ねた技能の実力を、明日と明後日の2日間、にぶつけます。
 
 2日目は、競技初日です、17都府県18名が、構造物鉄工部門に金メダルを目標に、オランダ、国際大会を目指して、会場の東京汽車製造に集合しました。造船会社、電車製造会社、重機械製造会社、重電機製造会社、鉄工製造会社などの18名の選手は緊張の中、競技委員長から制作図面を渡され、材料が渡され、午前9時の笛の合図で2日間、10時間の熱戦が始まりました。私は重電機製造会社からの埼玉県代表です。
 私は、じっくりと30分間図面に見入りました。他の選手は、すでに制作に入っておりました。T形鋼、アングル、パイプ、鉄板が競技課題材料です。定盤という作業台の上で、30分遅れの競技開始となりました。
 卦書き、孔明け、ガス切断、加熱曲げの順番で各部位の制作に取り掛かり、バラバラの状態で1日目の6時間が終わろうとしておりました。他の選手はすでに組み立てに入っていたのです。
 初日が終り、宿舎に戻りましたが、初日の遅れで夕飯も喉を通らず、明日の4時間をどう戦おうと指導員と夜遅くまで、検討しました。そして、私は、明日の展開が駆け巡り、一睡も出来ぬまま、競技2日目を迎えました。
 
 3日目は、8時から競技が始まりました。初日、最下位で終わった私は、開き直って、ラストスパートをかけました。溶接遮光面を口にくわえることで、左手で、溶接個所を動かし右手で溶接を走らせる戦術に切り替えスピードを上げました。遅れをだんだん取り戻し、部品の組み立てが進み下部と上部の接合にまで成功して、制限時間の3分前11時57分に、右手を大きく上に上げ、3番目に難しい課題が完成しました。熱闘10時間の、全エネルギーを出した青春の戦いでした。
 
 4日目は、審査結果の発表です。東京駅前の日本工業倶楽部の前に入賞者の名前が貼り出されました。[構造物鉄工、第2位、埼玉県、本田裕]の名前がありました。一瞬、コブシを握りしめました。 0.5点の差で1位になった兵庫県の佐野君は、オランダ世界大会で金メダルを獲得しました。
 4月26日の新聞埼玉版に「本田君は2位」の記事が載りました。

 職人技の若者の熱き戦い「技能五輪全国大会」は、私に限りない夢と財産を与えてくれました。

 (写真は、技能五輪全国大会の開会式、選手宣誓風景です)


sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-9 12:14
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 のデビューおめでとうございます!
なかなかの文章です。生い立ちと、短歌の中に、本田さんの
人柄と風貌が、面識のない方にもしのばれます。

是非、この鍛冶屋シリーズで、日本の伝統芸の職人技の素晴らしさについて情報発信を続けてください。

編集者
投稿日時: 2010-3-9 7:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 本田 裕

 生い立ちなど

 はじめまして、私は、北埼玉で唯一の羽生の鍛冶屋です。先祖は下北半島で江戸時代から、鍛冶屋を営んでいました。父親は、家業を継がず上京して学問の道に、進んだために、鍛冶屋は昭和の初めに、おじいさんの代で途切れました。

 私のおじいさんは、昭和10年ころまで、おばあさんが手伝って、トンテンカン、トンテンカンとハンマーを振って、真っ赤な鉄を叩いていたと、親から聞いておりました。

 羽生市で生まれ、羽生に育った私は、先祖の血を受け継いだのか、ものづくりの感性が備わっていたのかもしれません。高校進学を断念したのはそれなりの事情があったのですが、大企業が運営する、技能訓練所に入所できたのが、職人技の技能を磨く始まりでした。
 3年間、鉄に関することをみっちり学びました。技能を身につける環境にも恵まれ、さまざまな、技を競う大会に参加しました。一番になることを目標として、技能の向上を目指したのです。  
 その結果、写真にあるように、技能五輪全国大会にも挑戦して銀メダルを獲得することが出来ました。

 若き日に、身に付けた技能が、今の私を支えております。
 職人という、汚れる仕事であるけれど、この仕事が私は、好きであり、お客さんの笑顔が見える仕事を目指したいと、日々仕事に追いかけられております。
 日本のあちこちで職人技の仕事、姿が消えようとしております。日本の伝統文化、技術をことばの褒めたたえだけではなく、行動として大切にして欲しいと羽生の鍛冶屋は願っております。

    作業衣を 三百六十余日着て 鍛冶屋と呼ばれる ことの嬉しさ


 技能訓練所

 大企業が運営する技能訓練所は企業の敷地内にありました。1年生から3年生まで90人ほどが、技能の訓練と知識の勉学に励んでおりました。私は昭和36年に、5倍の競争率を突破して入所することができました。
 訓練所の様子は、午前が4時間の学科の授業、午後が4時間の実技訓練でした。
 内容は工業科目、教養科目の20教科、実技訓練は機械操作、金属加工、など多種技能全般にわたりました。
 実技訓練は、現場実習も含め、製鉄所や、建設中の東海村原子力発電所の見学、他業種の工場見学も、実習の一環でした。
 訓練所卒業までは、前期、後期の学科、実技の試験に一定以上の点数を取らなければならないのは、通常の学校と同じです。
 15歳~18歳の3年間、技能訓練所での経験は、今の私にとっては、感謝しなければならない3年間でした。

 (写真は技能五輪全国大会の銀メダル)


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