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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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投稿者 スレッド
編集者
投稿日時: 2010-4-3 9:12
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その6 本田 裕
 羽生の鍛冶屋に羽生市立南中学の先生が訪ねてきました。
 子供たちに、職場体験学習を、お願いしたいということでした。3年前のことであります。
 8年前にも、やったことがあるので2度目の依頼であるので私は、快く引き受け、前回、準備不足があったので、3年前は、順備もしっかりとやって、安全を第一に、2日間10人の1年生の生徒に、真っ赤な鉄を曲げたり、押し切りで鉄を切らせたり、鉄と鉄を溶接をしたり、そして、私が、手を貸しながら、くわを造る体験をさせました。

 子供たちは、オー、オーと声を出し乍ら、体を斜めにしながらも、10人の生徒が、交替しながら、立派に使えるくわを完成させました。
 2日目は、カマと庖丁の研ぎ方を教えました。手助けしながら、ねぎ、大根、トマトなどを切らせて、切れるようになった庖丁に、うわー、すげーと声を出しながら、ハシャイデおりました。      
 午後は研いだカマで、鍛冶屋さんちの庭の草取りをさせ、体験学習を終えました。

 これも、昭和30年代に技能訓練所での、技能訓練を受けた経験が、子供たちに体験させる機会をつくることが出来たのだと思います。
 技能訓練所で学んだ基礎技能は、沢山あります。何年か先には、大人を対象に、生活に役立つ技能指導の日を設けた工房を考えて見たいと思っております。

 中学生の子供たちは、夏休みの終りに絵入りの体験作文を書いて届けてくれました。、
 そして、私が嬉しかったことは、数人の生徒の父兄が、貴重な経験をさせて頂き・・・とあいさつに見えられたことでした。


















sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-29 22:43
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋・その5 本田 裕
羽生の鍛冶屋さん

その5もなかなか読みごたえのある文です。
鍛冶屋さんのトテティンカン、々、という音が聞こえてきます。

ところで、短歌については、小生は門外漢ですが、
なかなかよい生活短歌と思います。
が、
中段の「鉄のにおいのなかにして」の「して」には何か
特別の思いがありますか?小生は勝手に、「なかにいて」のほうが良いと思うのですが?僭越ですが。ご教示ください。

編集者
投稿日時: 2010-3-29 7:17
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その5 本田 裕

 村の鍛冶屋のうた

 昨年、羽生市の音楽愛好グループの皆さんが文化ホールで「村の鍛冶屋」の歌を合唱しました。
 村の鍛冶屋の歌は大正元年につくられました。作詞作曲は不詳で4番まで歌詞がありました。
 私たち、昭和生まれの世代では昭和60年頃までは、小学生の音楽の時間に2番まで唄った記憶があるのではないかと思います。
 戦争に突入したり、終戦になったりして、歌詞は部分部分変えられたりしました。私も気分が良い時などは、ハンマーでリズムをとりながら、口ずさむこともあります。

 鍛冶屋の仕事は、鞴(ふいご)で風を送り、800度に加熱した、真っ赤な鉄をコークス炉から取り出して、素早くハンマーで叩くと、飛び散る火花は、歌の如く、鍛冶小屋に火の花を咲かせるのです。
 羽生の鍛冶屋さんの入り口の壁に、1番の歌詞が書いてありますので添付いたします。

  コークスと 鉄の臭いの中にして 日々鍬をつくる 春待ち乍ら








sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-26 23:05
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋・その4 本田 裕
羽生の鍛冶屋さん

鍛冶屋の職人技を、どのようにして身につけられたのかが、よくわかりました。職業訓練所と就職された企業での修行の中で、鉄の扱い方を身をもって覚え、独立されてから、いろんな現場の中で、鉄の扱いの技を磨かれ、お爺さんの遺伝子をよみがえらせたのですね。
素晴らしいことです。普通は、お父さんのもとで修業をして、技の伝承となるものですが、自らの努力によって道を開かれたのは、並みの苦労ではなかったとしのばれます。
でもそういう、努力の中から、日本の伝統である職人技が、よみがえったことは、獲得されたメダルとともに、賞賛に値します。
どうぞ、これからも、8代目鍛冶屋の技を、磨いてください。
編集者
投稿日時: 2010-3-26 11:32
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その4 本田 裕

  銀メダルに喜んだ父

 私の父親は鍛冶屋を継がずに上京して、大学の学問の道に進みましたが、それなりの、事情や縁があって、昭和の初めに、田舎町、羽生に住むようになりました。縁あって、羽生の農家の生まれの母親と一緒になって、羽生町で暮らすようになりました。

 当時は世界大恐慌で仕事もなく、大変な時代であったようです。刀や兜、荒物などの商売をしていたようですが、商売は下手で、うまくいかなかったようです。

 もともと、読み書きに長けていた父親は、町の旦那社長に見込まれ、繊維関係の会社の総務等を任され、収入もなんとか安定して9人の子供を養うことが出来たようです。

 私は昭和20年生まれなので、戦争のことは、知らないのですが、当時は地域をまとめるほどの雷の如く、おっかない存在であったようです。

 家の中でも、私が小さい頃は、兄たちが、よく、怒鳴られていたことを覚えております、内面は悪い反面、外面は良く、町や、県や、国の頼まれ任務をしたり、いろいろな立場の人たちと交遊しておりました。そういうことでしたから、母親の苦労は、語るまでもありません。

 そんな父は、病気で昭和41年に63歳の若さで亡くなりました。
 私の前では見せなかったのですが、後に、父の友人が線香をあげに来た時に、「(裕)が、銀メダルを取ったと、自慢げに褒めていた」ことを父の友人から聞かされました。

 そんな親父の息子が、それから、10年後に「8代目鍛冶屋」の火を灯すことになるのです。
羽生の鍛冶屋
投稿日時: 2010-3-14 18:54
登録日: 2010-2-26
居住地:
投稿: 1
Re: 羽生の鍛冶屋 のデビューおめでとうございます!
隅田川さん、ご意見ありがとうございます。羽生の鍛冶屋が、折に触れて、職人技の素晴らしさ、伝統技術の尊さ、などを発信してまいります。

羽生の鍛冶屋
sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-11 7:35
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 のデビューおめでとうございます!
一日で、11件もの閲覧者が増えましたね!

今、日本の製造業に陰りが見えてます。トヨタの問題も、アメリカの政治バッシングの都合という点を割り引いても、やはり、現在の日本の製造業には、昔のゆとりがなくなって、技能伝承のシステムが失われつつあります。

私は、企業は、こんな困難な時代にこそ、人への投資に力を注ぐべきだと思います。

そんな観点から、羽生の鍛冶屋さんの”職業訓練所”について
大変興味があります。今度は、それについて、ぜひご意見を!
sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-24 7:36
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋・その3 本田 裕
羽生の鍛冶屋さんへ

その3で、昭和40年代の職業訓練所の様子がまた一段と詳しく
紹介されて、それが日本の製造業の発展の大きな力となったことが、よく理解できます。

次は、その訓練所の中での、人間関係のあり様;教官や受講生の
エピソードなど、をご紹介されると、技の伝承風景や技に対する若者のこころがまえなどが浮かび上がってくると思います。
編集者
投稿日時: 2010-3-23 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その3 本田 裕
 昭和40年代の職業訓練所

 昭和40年代は、日本は、高度成長期にあり、日本の産業は、即戦力の現場技能者を必要としておりました。埼玉県には、浦和、大宮、川口、熊谷、川越、本庄、春日部、羽生など、他にも何か所かに、埼玉県が管轄運営する職業訓練所がありました。

 機械科、電気科、自動車整備科、建築家、溶接科、洋裁科などがあり、浦和にあった中央職業訓練所は2年制でしたが、他は1年制の訓練授業を経て、卒業と共に、企業に期待される中、速戦力として、企業を支える技能者として汗をかきました。私も、重電機メーカーにいた時に、職業訓練所から入社した人達に負けじと一緒に仕事をしました。 
                    
 職業訓練所を卒業した人達が高度成長期の日本を、世界一の工業国の原動力となったことは過言ではありません。

 日本全体としては昭和30年代~40年代に職業訓練制度の教育の機会を受けた数十万人にもなるかも知れない技能者が、優秀な人は、中堅幹部として、商才ある人は、会社を興し、中小企業として、日本の大企業を支えた素晴らしい人が数多くいたものと推察されます。

 職業訓練所の名称は、後に高等技術専門校になりましたが、ものづくりの多くが海外に移行し、技術力は、辛うじてあっても、技能者の底辺がなくなって来ている日本の工業の衰退は、昨今、感じる通りです。

 国際競争に打ち勝つためには、「良いものを、早く、安く」つくる技能者を、もう一度、育てる必要があります。そのためにも、昭和30年、40年当時のように、若者の職業技能訓練が必要となる日がやって来るように思えます。「若者に技術を」 日本の技の復活を願っております。
sumidagawa60
投稿日時: 2010-3-22 23:00
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕さんのHPの紹介を!
羽生の鍛冶屋さん

本田さん、ぜひ、ホームぺージの紹介もしてください。

せっかくの、鍛冶屋さんの写真も載ってるのですから。

期待してます。

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