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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     羽生の鍛冶屋 本田 裕
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編集者
投稿日時: 2010-6-8 7:49
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 13 本田 裕

 羽生近隣の野鍛冶
 
 戦後の昭和を中心に平成にかけて、羽生市近隣地域で 鍬、草カキ、鎌、万能 等をつくる野鍛冶の様子を語りたいと思います。
 羽生を中心に見渡して見ると、北埼玉郡、北葛飾郡、大里郡、そして、群馬県の邑楽郡、茨城の古河市、にそれぞれの町に3軒~5軒の農作業道具を造る野鍛冶がおりました。
 前にも申しましたが、金物店、鉄工所、農機具店、などに転業して行った野鍛冶があったことをお話しましたが 野鍛冶のまま、平成時代に灯が消えるまで、地域の鍛冶屋として、頑張っておりました。幸手市には手スキを専門に製造していた鍛冶屋、古河市には、手スキ、大正鍬、万能、を周辺の金物店に製造、卸をしていた鍛冶屋がおりました。大里郡の熊谷、妻沼、そして、群馬の千代田町等には、板倉町の雷電神社、大泉町の社日様、妻沼の聖天様等の各地の縁日に農道具を並べて売っていた野鍛冶がおりました。

 私には大先輩であり、後輩の仲で熊谷の2代目木島鍛冶店さんは、万能の伝統的製法が上手で、新聞にも、テレビにも何回も出て、有名になりました。私とは、鍛冶屋の技術の研究の話しでいつも、焼き入れの話では、時間を忘れるほどでした。その木島さんも昨年89歳で体調を崩し、製造の仕事を止めることになりました。
 純粋な、農道具をつくる、野鍛冶は、規模をちじめながら、埼玉界隈には、春日部に1軒、千代田町に1軒、そして私と数軒となりました。日本の各地でも鍛冶屋は激減しており、あと、10年~20年後には文化財的存在になるのではないかと思います。

 次回は日本の刃物の産地における、鍛冶屋事情等について、お話したいと思います。



編集者
投稿日時: 2010-6-2 7:47
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 12 本田 裕

 四里の道は長かった。で始まる、田山花袋の小説、田舎教師の舞台になった町が羽生であります。

 私の店、羽生の鍛冶屋は、田舎教師の主人公が眠る菩提寺、建福寺山門前にあります。
 昔にさかのぼりますが、戦後間もない羽生の町は、田舎そのものの家並みで、野鍛冶の殆どが住居の土間を仕事場にして、コークスを燃やして、二人作業の人力で、真っ赤な鉄を叩いておりました。

 私のところから、歩いて1分のところには、足袋底を抜く金型を造る鍛冶屋があって、 小学生の頃から、私は、よく、おやじさん達の仕事を興味深く見ておりました。その鍛冶屋さんも、昭和30年頃、別な場所に引っ越し鉄骨屋に転業して、今は、良くできた息子さんが、鉄骨建設業の二代目として、頑張っておられます。

 また、前回、お話しをしましたが、羽生には、野鍛冶から、転業して日本の乾燥機メーカーになった企業がありますが、もう一軒、金物店に転業して、多角的に、自動車部品加工や、ホームセンターを始めたりした商才、豊かな、鍛冶屋さんもおりました。今は、お孫さんが、インターネットを活用して、ペット関連の大きな事業を展開しております。

 世の中の移り変わりを見ながら、仕事をしていた鍛冶屋さんは、転業を決断して、事業として成功して行ったのですが、職人気質のまま、仕事にしがみ付いていた鍛冶屋さんは、機械化の波に圧されて、鍛冶屋の灯を消して行ったのでした。 

 次回は埼玉近隣の鍛冶屋のお話しをしたいと思います。お楽しみに。
sumidagawa60
投稿日時: 2010-6-1 0:59
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 羽生の鍛冶屋 11 本田 裕
羽生の鍛冶屋さん

お久しぶりですね。段々とお話が佳境に入ってきましたね。

昭和史の中でも、40年代から50年までは、日本は、まさに高度成長の真っ只中にありました。特に40年から45年の間は、”いざなぎ景気”と呼ばれ、43年には、日本は自由世界第2位の国に成長し、農村は近代化の歩みを急速に進め、一気に農業の機械化が多方面で進んだ時代です。トラクターから、もみすり機、乾燥機、田植え機など、次々と今まで人力や畜力に頼っていた、日本の農業も機械化によって農作業が人手を必要としなくなり、農村から都市への人口の大移動が起こった時代でした。
確か、大阪万博も45年に開催され、まるでお伊勢詣のように、団体旅行が流行った時代でもありました。
農協さんの団体が世界を駆け巡ったことも話題になりました。
一般庶民が生活の豊かさを実感する時代でもありました。
今となっては、ほんとに良き時代、夢と希望ののある時代でした。 :
編集者
投稿日時: 2010-5-31 8:09
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋 11 本田 裕

 私は、昭和20年生まれ、
 昭和の初め頃まで、おじいさんは、鍛冶屋でしたが、鍛冶屋を継がなかった勤め人の父の六男として生まれた私は、鍛冶屋とは無縁の家庭環境の中で、戦後の物不足にお袋と買いだしの記憶と共に、羽生の街中にも鍛冶屋の光景を見ながら、街の移り変わりの記憶を忘れることなく、戦後の昭和を育って来ました。

 そうした中で、自称、羽生の鍛冶屋として街から、地域から、鍛冶屋の灯が消えてゆくありさまと業種転業を書き記したいと思います。
 羽生の町にも、戦後、10軒、鍛冶屋が存在しておりました。ふいごで風を送り、真っ赤に燃えたコークスの中に鉄を入れて、くわや鎌を造ったり、リヤカーの部品を修理したり、足袋底を抜く金型を造ったり、陸田に水をくみ上げる、バチカルを造ったり、カンナを造るそれぞれの分野の鍛冶屋と云われる職人が、街中に、在に、件数が減りながらも昭和50年頃までありました。

 しかし、農業、工業、生活文化の変化して行く中で、農機具や、鉄工所、金物店へと業種を変えて行ったのです。羽生に於いて野鍛冶から、農機具の乾燥機メーカーへと躍進して、日本の農業に貢献している会社があることは、後に、北埼玉から野鍛冶がなくなってから鍛冶屋を開業した私としても、その企業を尊敬しております。

 鍛冶屋は時代の流れの中で徐々に灯が消えていくのですが、それは、次回のつづきと致します。
編集者
投稿日時: 2010-4-16 7:38
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・10 本田 裕

 集団就職

 ところで「集団就職」ですが、お客さんで、昭和40年頃、従業員40人程の縫製工場に就職した人がおりまして、先日、当時のお話しを伺うことが出来ました。                      
 以下の取材内容です

 [社長が宮城出身であることから、同郷からの人が多かった。途中で辞めて宮城へ帰った同僚もいたけれど、私は、辛抱して、ミシンの技術を一生懸命身に付けた。社長が、家族同様に私達を大切にしてくれた。成人式に着物を作ってもらった、羽生に縁あって、結婚する時も、社長が、嫁入り道具を買ってくれた。会社は、もうやってないけれど、私が青春時代過ごした、工場の一部と住まいは残っているので、今は、実家に行くようなつもりで、私と同年代の倅さんや娘さんと兄弟のような気持で、お付き合いをしている。私は、小さな、集団就職だったけど、社長さん達にミシンの技術を教わり、それが、10年前まで、生活の糧に役だった。今は、孫を連れて、実家と想うくらい、社長の家に遊びにいくのが、楽しみで、しあわせである]と語っておりました。

 この方は、現役の時は、働き者で、腕がよく、だから、私が、鍛冶屋の火を灯してから、ハサミを扱うようになり、東京の名工の造った最高級の裁ちバサミと三条にいた、小バサミ職人の手打ちの製品を何丁も買ってもらいました。

sumidagawa60
投稿日時: 2010-4-14 20:17
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 集団就職列車の時代について
「上野は、おいらのこころの駅だ・・・♪」に代表される原風景について。一言、三言。
町の古老からの聞き語りです。

当時は、羽生も縫製屋さんが景気が良く、どこの会社も商店も人出不足。人材を求めて、総務課長さんは、東北の中学校を歩きまわり、今でいう、逆就活です。

そして、採用された子供たちが集団列車に乗って、上野駅に着く頃、出迎えに出て、旗を振って、そのまま、東武電車に乗せて、羽生まで、延べ何千人という女子を連れ来て、作業場でミシン掛の仕事を覚えてもらって、商売をこなした時代が懐かしいとのことです。

そうして、東北から出てきた、子供たちは、夜は会社が経営する
裁縫学院で、行儀見習いをして、大人になって、町の青年のところに、お嫁にいった子もあれば、途中で、東京に憧れて、夜の街の女性になった方もあるとか。悲喜こもごも、人生いろいろです。

現代版、女工哀史かもしれませんが、間違いなく言えることは、そういう子供たちが、来るべき日本の高度成長時代の原動力となったことは間違いありません。

sumidagawa60
投稿日時: 2010-4-12 7:33
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
Re: 衣料の町羽生について
集団就職の時代、懐かしいですね。

井沢八郎が唄った、「ああ、上野駅」は、間違いなく歴史に残る
日本の名歌のひとつです。昭和の40年代の日本の高度成長期の
一歩手前の30年代の農村から都市へ労働市場が転化する時代の雰囲気を見事にとらえてます。

「どこかに、故郷の香りをのせて・・・♪」

この、作詞者の関口義明氏が羽生生まれで、まだご健在で作詞家としてご活躍中とのこと。

当時は、日本は、繊維産業が全盛のころ、小生の生まれ故郷、愛知の一宮も紡績会社が点在し町はニット産業で栄えておりましたが
、今では、見る影もありません。

時代の、変遷とはこういうものなのでしょうか?



編集者
投稿日時: 2010-4-10 8:18
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・9 本田 裕

 衣料の町羽生とハサミ

 自分自身の鉄の仕事から離れて、昭和の時代に、隆盛を誇った衣料の町羽生の、当時を語りたいと思います。今は、海外に圧され元気がなくなりましたが、昔は仕事が山ほどあり、金持ちが多く、裕福な町でした。

 戦前戦後の羽生は、足袋と被服の製造、販売によって、栄えました。昭和30年代、私の記憶の中には、町の何処へ行っても、ミシンの音が鳴り響き、大小合わせて数百社もあり、1万人以上の市民が、(じいちゃん、ばあちゃん、子供)までが、なんらかの地場産業の衣料に関わっておりました。羽生駅の朝,夕は近隣市町村から被服工場に勤める1000人近い女性が電車に乗降して広場やホームはごった返しました。

 駅通りには衣料問屋が立ち並び、店の中は、地方から、買い付けに来た小売屋さんが、商談をしていた光景が目に残っております。

 また、羽生市には、「ああ、上野駅」の作詞家がおりますが、集団就職の時代、羽生市に昭和20年代から、40年代にかけて、東北から、述べ、一万人を超える若き女性が、被服工場や繊維加工工場に集団就職して、衣料の町で汗を流し、羽生の衣料を支えておりました。

 そこで、被服製造に欠かせないのが、裁ちバサミ、小バサミ、裁ち庖丁、目打ち等です。これらの、刃物は、当時は、東京、三条を中心とした、ハサミ職人が作っておりました。このハサミを羽生市に於いては、鍛冶屋が造ったハサミが被服製造に活躍して、その数は、昭和40年当時の羽生市の人口44000人を上回る(50000丁)前後の裁ちバサ、小ばさみ、が繊維に関する地場産業に、活躍していたものと推測されます。町には、専門にハサミを扱う店や研ぎやさんが目立つ程ありました。

 昭和40年は、私は重電機メーカーで、鉄に関する技術を修行していましたが、12年後に羽生の地場産業の、縫製に欠かせない、ハサミの修理に、「羽生の鍛冶屋」再点灯と共に、大きく関わることになります。そのお話しをするのは、まだまだ、先になりますが、お楽しみに!
編集者
投稿日時: 2010-4-7 8:04
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・8 本田 裕

 初めての給与

 昭和36年4月1日、私は企業が技能者を養成するために設立した、技能訓練所へ2期生として、同期の30名と共に入社しました。
 一般入社と違い、生産活動をしないために、会社は、3年間で、一人あたり、当時の金で300万の訓練教育費を掛けたようです。
 4月1日に入社式を行い、訓練センターでの、本格的な授業と、基礎訓練が始まりました。
 ヤスリ掛け作業とハンマー打ちの訓練、初めて回した旋盤、毎日、毎日基礎訓練が続きました。一ヶ月も経たないうちに、左手の親指と人さし指は腫れあがり、右手の掌は血豆と共に皮がはがれて、茶碗も箸も満足に、もてないほどでした。

 厳しい訓練が始まって、無我夢中の4月28日に、担任の先生から、印刷された茶封筒が渡されました。「手当」と書いてありました。
 社会に出て初めて頂いた給与です。1年生は6千円、2年生は、7千円、3年生は8千円が給与に当たる手当でした。
 そして、私が、4月に手にした、初めての手当、給与は、家に帰ってから開けて見ました。「3925円」入っておりました。
 封筒の中から取り出し、貧乏の仲間入りをした、わが家のことを考えると食いぶちとして、2000円、おふくろに渡しました。


編集者
投稿日時: 2010-4-6 7:43
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
羽生の鍛冶屋・その7 本田 裕
 
 職場配属への第一歩

 私は、昭和39年に3ヵ年の認定職業訓練、技能訓練所を卒業しました。卒業と同時に重電機メーカーの、変電所や大きな工場にある変圧器、遮断機、配電盤の本体の製造部門の職場に、配属されました。
 3000人近く働く工場の中の、私の職場は100人程の、男だけの職場です。技術的には、溶接、板金、製缶、鍛造、プレスに関する技能をもって、1チーム10人の役割り分担で、製品が造られておりました。                        
 専門的になりますが、変圧器、遮断機、配電盤は、鉄板、アングル、チャンネル、といった、1トン近い重量の鋼材が、図面に基づいて、リーダーの指示に従って、正確に、制作して行きます。私の職場には、溶接、板金等に、高い技を持った先輩がおりましたから、私は、先輩のやっている仕事を盗むことが、仕事の中での仕事でもありました。 
 会社勤めという組織の中は、出世競争が潜在する中、ライバル心が強く、その反面、それが良い意味での、技術の向上の原動力でもあったように思えます。
 技能訓練生という、肩書きをもって、職場に配属された私は、常に、先に出て、上でなければならない、プレッシャーもありました。当時、年若い私は、人間関係の調整が未熟でありました。そんな、大組織の職場で、本庄市から通勤していた高橋さんは、1年制の職業訓練所を卒業した先輩ですが、私には、良く面倒をみてくれた 三ッつ年上の兄貴的存在でした。
 溶接は、金子先輩、板金は羽鳥先輩、製缶は荻原先輩、鍛造は柳田先輩、の指導と技を、「盗む技こそ」が、自分の腕を向上させ、職場の中で1番にならなければならないという「負けず嫌いの私に」成長させたのではないかと思います。
 
    火花飛ぶ グラインダーに 向かい合う 防塵マスクを しっかり付けて










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