メイン 実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期) 羽生の鍛冶屋 本田 裕 | 投稿するにはまず登録を |
スレッド表示 | 古いものから | 前のトピック | 次のトピック | 下へ |
投稿者 | スレッド |
---|---|
編集者 | 投稿日時: 2012-1-7 6:41 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 20 本田 裕 退社への選択 昭和40年代、日本は高度成長の時代を迎えた。私は、大手電機メーカーで働いていた。増産増産の勢いが工場の中にも表れ、毎日が残業でそれでも間に合わない位、受注が増え続いていた。臨時工が毎週50人ずつ募集され、私が入社した昭和36年には1600人であったが、埼玉工場の従業員も43年には3000名近くまでになっていた。 その反面、会社組織の拡大の中で辞める者も多く、組織に順応出来る人、出来ない人が目立つようになっておりました。 私と同期に入社した30名の内16名が6年間の内に公務員への道を選び夜学から大学へと選択した者、運送業、建築業、洋品販売業、電気部品組み立て業、設備工事など自営業独立の選択をして辞めて行きました。同期の16人が辞めていく中で、私も、いつか独立したい目標が芽生え始め、入社7年目は、一生会社人間でいるより、もっと幅広い経験を積んで独立したい方向に気持ちが傾いて行きました。高度成長の始まった昭和40年代には、仕事には不自由をしない下請けからの起業を起こすチャンスが転がっておりました。私も、今の技術に磨きをかけ、鉄一筋の武者修行の道を歩むことに決意が固まり、入社7年で退社の選択をしたのでした。 私に多種の技能を学ばしてくれた重電機メーカーを昭和43年3月28日退社・・・さあ、羽生の鍛冶屋はどこへ行く? |
sumidagawa60 | 投稿日時: 2011-5-8 0:03 |
登録日: 2008-4-29 居住地: 埼玉県羽生市 投稿: 57 |
Re: 羽生の鍛冶屋さん、なんとか続きをお願いします! 5000件の閲覧ヒット、おめでとうございます。
ところで、昭和の初めにお爺さんの代で、一旦は、 火が消えた羽生の鍛冶屋さんが、どのようにして この平成の世によみがえったのか、その辺のいきさつを 是非、語ってください。 今、全国のどこの町でも、所謂”職人技”が消えようとしてます。 もったいないことです。 もうすこし、この国のリーダーがしっかりしてれば、こういうことにも関心を持って取り組んでくれるのでしょうが、残念ながら、今の政治家は庶民の思いには疎いようです。 そうです、なんでもそうですが、個人が、できることから始めることが大切かと思います。 引用:
|
編集者 | 投稿日時: 2010-8-8 8:22 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 19 私の人生観に幅を持たせてくれた”大学講座”との出会い 前回まで、刃物産地の鍛冶屋事情等を話して来ましたが、昭和40年代の私の個人史に戻り話しをて参りたいと思います。 昭和40年、重電機メーカーで働いておりましたが職場の人から、「通信教育大学講座」という、生涯教育の受講の勧めを受けました。知られざる教育者、生涯教育の先駆者、「高瀬兼介」先生との出会い、18人の指導教授との出会い、日本全国、北海道から九州までの、何千人もの受講生との出会いの機会を得ました。 鉄と共に歩んで来た5年間でしたが、鉄とはおよそかけはなれた、文化系の学問=”大学講座”に出会えたことは、私の日常の生活に変化をもたらし、私の人生観に幅を持たせてくれたと思います。 通信教育という指導教授の教科書をもとに、ゼミナール、地区学習会、等を通じて、2年間で選択科目最低4科目以上の論文の提出と合格点が卒業の条件でありました。12年間で30707人入学し、9227人が卒業を果たしました。私は最低で卒業させて貰いましたが、20科目提出の優秀な受講生は28人おりました。 戦後、女子高を対象とした文集、「いづみ」から出発して、誰にでも学べる、大学解放をめざし、高瀬主幹の生涯教育に賛同した18人の指導教授は、全国の受講生に、また、狭い視野の中で生きていた私達に、広がりのある知識を与えてくれました。 当時、各大学の教授であった「青木生子、一番ヶ瀬康子、氏家寿子、大石康彦、佐藤慶二、佐藤輝夫、高村勝治、田中美知太郎、森進一、辻ひかる、戸川行男、中野卓、二戸田六三郎、松木光、松田寿男、湯浅明、吉田精一、和久利誓一」の主幹を入れて19人の先生方の書かれた日本古典文学、社会福祉、生活管理、経済学、現代思想、フランス文学、英米文学、哲学、ドイツ文学、心理学、社会学、宗教学、栄養学、世界文化史、科学史、生物学、日本近代文学、ロシア文学、政治学、人生論、の教科書は、”心のこもった愛の書”でありました。 私は、一生懸命勉強をすることはありませんでしたが、高瀬主幹との出会いが、丁度、技能五輪大会への県大会に向けての時期であったこともあり、高瀬主幹の人生論を読んだ私は、励まされ、自分に負けてはいけないと、熱い闘志を燃やすのでした。 「希望、真実、愛情、信頼」の精神が、後の鍛冶屋人生の中で、困難を乗り越える時、人の幸せを願う時、お客さんの笑顔が見える仕事をめざす時など、大学講座で学んだ多くのことが、今の私を前向きに進ませてくれております。 |
編集者 | 投稿日時: 2010-8-4 9:00 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 18 東京の刃物 東京は刃物産地とは言われていないが、日本の中心だけに、商工業文化の先端が集まっていると云って過言ではない、刃物文化に於いても、少ないながら、今でも、多種の鍛冶職人が伝統を守っている。 昭和を頂点に東京の鍛冶職人が造った、庖丁、理容ハサミ、鉋、ラシャ切ハサミ、等も東京製として、市場に出回っていたが、騒音の問題で近県に移転したり、地方への下請け依頼等に切り替え、東京都内での、鍛冶屋刃物の生産は、昭和の50年頃から減少して行きました。 しかし、東京製刃物の中で、刀匠の系図を引き、明治7年生まれ~昭和32年没(本名加藤廣)の「千代鶴是秀」の鉋は有名であり、また、昭和の高度成長期には刀匠「水心子」の銘で庖丁や握りハサミが刃物専門店で販売されておりました。 東京刃物は、戦国、江戸時代からの刀鍛冶が明治になって、実用刃物への転換をして東京刃物として形成して行ったのでした。 日本刀製法技術が原点の東京製刃物には、優れたものがありましたが、私は、ラシャ切鋏を高く評価したいと思います。「長太郎、正次郎、長勝、兼吉、増太郎、庄三郎、菊和弘、本常正、団十郎、聡太郎」などの銘がハサミに刻印され、日本全国の縫製業者を中心に工場から服装学院、家庭に至るまで広く愛用されていたのであります。 平成になった今日、東京で鍛冶屋として刃物を製造している軒数は10軒程になっているのではないかと思います。 しかし、東京はなんと云っても日本の東京です、浅草、日本橋、築地、合羽橋と東京には有名刃物店、道具街、があり日本の刃物産地から、ドイツ、海外から、刃物、利器、道具が集まり、販売競争にしのぎが削られているのです。 |
編集者 | 投稿日時: 2010-8-1 8:43 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 17 越前刃物 越前市には、ナイフビレッジという武生の鍛冶職人の共同作業場がある、公的援助によって出来た作業場は、観光スポットになっており、見学ができ、作品展示場もあって、即売もしている。武生はそれほど大きくない刃物産地であるが、今は、主に生産は工業団地内でナイフ、庖丁、山林刃物等が製造されている、平成になって産地は縮小の傾向にあるが戦後の昭和時代には鍛冶職人も多くいて盛んに鎌などが造られていた。 武生には、小さな鍛冶屋、問屋が多かったせいか、播州や三条の大問屋が、武生の問屋に売り込んだという、昔からの慣習で、県外産地のメーカーと大問屋が、武生の問屋組合に売り込む時は、問屋達を料亭、旅館に招き、持て成しをして、そのあと、商談に入ったのだと昭和40年、50年頃の慣例取引の話しを問屋から聞かされました。 武生は眼鏡フレームで有名な鯖江と合併して越前市になりましたが、焼サバのおいしい所で、刃物に関しても、小規模産地になったのですが、佐治武士氏のナイフは有名です。また、2メートルほどの、まぐろ解体庖丁を造る清水制作所は貴重な存在となっております。 私が、武生へ行ったのは、平成11年のことですが、その後、庖丁類で新しい鋼素材で、挑戦する職人が居て、頼もしいところがあります。 それに加えて、私の店に昭和60年から、毎月、関東地区を電車を乗り継ぎ、数十軒のお得意回りをして、重いカバンを持って、夜行列車に乗り、夜行列車で武生に帰る問屋の根気強さと経費節約姿勢には、「たいしたもんだ」の褒めことばを贈りたいほどの、営業の基本を見習うところを感じます。 問屋業の厳しさ=小売業の消滅、この現実の中で、技術を身に付けることが出来たことに、感謝の思いで火の鉄に向き合って行きたいと思います。 |
編集者 | 投稿日時: 2010-7-29 7:35 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 16 播州の刃物 私が、播州小野市、三木市の刃物と深く関係を持つようになったのは、昭和52年からです、問屋を通じて、播州鎌、握りハサミ、大工道具、を扱うようになり、兵庫県小野市、三木市も訪れるようになり、周辺の鍛冶屋事情を知ることになりました。その中でも昭和40年~50年代の播州の鎌は、日本でも、信州鎌、山形の三九郎鎌、越前鎌と競い、日本一の生産の座を守っておりました。播州の鎌鍛冶は、農家の副業としてやっていた人が多かったのですが、手打ちの鎌を造る職人は年々減る一方で、昭和50年代には数十人いた鎌職人も平成の今日に於いては、プレス抜き物鎌に圧され、鍛造手打ちの鎌職人は、私の知るところでは数人になってしまいました。 「材質、火造り温度、鍛造、焼き入れ温度、焼き戻し温度時間、角度、反り、刃付け、バランス、等によって決まる鎌の切れ味」これから先、人の手が加わった手打ち鎌を造る鎌職人は、産地以外も含めて、日本全土で、数人になるのではないかと推測されます。 しかし、播州には一部のメーカーで機械力による、鎌の製造に工夫が見られ、手打鍛造品には届かなくとも、その向上には賞賛するものがあります。 その他の播州刃物は機械力が進み、科学の力を取り入れて利器工具の進歩には凄い物があります。ただ、海外生産品が増加していることが、心配の種であります。 私も、羽生の鍛冶屋から、埼玉の鍛冶屋へとエリアを広げ、刃物店、刃物修理を通して、「お客さんの笑顔が見える仕事を目指す」これをモットーに時代のニーズに合せた変身をして行かなければと、64歳の飛躍をしょうとしております。 つぎは、越前に行くことにしましょう。 |
編集者 | 投稿日時: 2010-7-11 9:54 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 15 三条の刃物・2 私が、三条、与板の問屋を通じて、鍛冶職人の手打刃物と関係を持つようになったのは商売を始めた昭和50年代のことですが、かんな、のみ、鋸、工具、盆栽はさみ、握りはさみ等を扱うようになって、過去の歴史を知ることになりました。 江戸を販売先として、金物問屋、鍛冶屋が総意工夫の努力を積み重ねて、三条の金物は明治、大正、昭和に全国へと販路が広がって行ったのですが、その原動力となったのが、鍛冶職人でありました。 何百年もの続いて来た、三条金物文化の中で、各分野に、名工と云われた鍛冶職人が居りました 私も、取り扱い商品の中で、大工道具の、大工さんの間で、あこがれの「中屋伊之助」の鋸を扱ったことがあります。また、鉋では、与板の碓氷健吾氏のものを販売しました。 私は、問屋を通じて、鍛冶職人の最高峰の技を知り、野鍛冶の私に、教科書として、刃物の奥深さを教えてくれたのでした。 そうした、名工の居た、三条周辺の鍛冶職人の世界にも、一人、二人と鍛冶屋の灯を消す時代が訪れる時が始まるのでした。 その、鍛冶屋の灯の消し役となるのが、大量消費時代に向けて、大量販売競争に伴ない、手仕事から機械力へと、技術が人間の手から、機械に託され、ホームセンター出現から、価格競争が加速され、海外に技術を移し、低価格商品をもって、さらに、大規模ホームセンターの出現によって、鍛冶職人の手が加わらない電動刃物工具が消費者に選択されてしまったのです。 消費者が、ホームセンターで買い求めるようになってから、金物店も、三条の問屋も、鍛冶屋も激減してしまいました。伝統技術を継承した匠の刃物工具がこの世から、なくなる日は、そう遠くないでしょう。 しかし、燕、三条は生産場所を工業団地に移し、大量生産の基地として日本トップの金物産地の地位を守りつづけております。 昭和から平成へと時代が流れて行く中で機械力製造品の飛躍で手づくりの鍛冶職人の商品は、販売競争に敗れたのであります。 三条には何度か問屋、職人との交流の機会で足を運びましたが、 燕、三条と云う所は、器用な職人が多く、苦境に強く、新しい利器製品を開発する素晴らしい技術集団が生まれる所なのです。 つぎは、何処の産地を語りましょうか。お楽しみに! |
sumidagawa60 | 投稿日時: 2010-7-7 8:43 |
登録日: 2008-4-29 居住地: 埼玉県羽生市 投稿: 57 |
Re: 羽生の鍛冶屋 本田 裕 14 おはようございます。
いよいよ、刃物産地の話に入ってきましたね。三条の話、ぜひ続けてください。燕三条は、確か新幹線の駅名ですね。懐かしい思いがします。 小生は、元、旅行業で、世界のあちこちに行きましたが、 刃物の話となると、ドイツではやはり、ゾーリンゲンの町です。 町の名前が”ゾーリンゲン”という世界のブランド名となっているのです。日本のお客さんは、ドイツのお土産というと、何をおいても、ゾーリンゲンの刃物、ハサミなどを空港などでどっさり、買い求めてご満足です。たしかに、物がしっかりしており、小生も、もう40年前に買い求めたゾーリンゲンの爪切りを今でも愛用してます。 そのゾーリンゲンの町に、或る時、農業機械団体の視察旅行で訪れたことがあります。三条の町と同じで、あちこちに、刃物の中小企業の工場が沢山ありました。そこで働いている人たちは結構年配者が多く、日本でいえば職人さんです。ある工場で聞いた話で印象に残っていることは、”マイスター制度”の話です。刃物に限らず、ドイツの産業・技術を支えているのは、Meister:ドイツ語で”親方”といった意味:マイスター制度が伝統産業の底支えとなっている説明を聞いたことです。 日本の産業の再生の鍵は、この辺にあるのではないでしょうか?政権内閣よ、目先のことにとらわれないで、20年先、100年先の日本のあるべき姿をしっかりとらえて、頑張って!若者に夢を! |
編集者 | 投稿日時: 2010-7-7 7:15 |
登録日: 2004-2-3 居住地: メロウ倶楽部 投稿: 4289 |
羽生の鍛冶屋 本田 裕 14 三条の刃物・1 三条と云えば金物、金物と云えば三条と云うくらい、新潟県三条は、金物、刃物、工具等の産地として全国の人々に広く知られているところであります。 日本には、鍛冶職人が伝統を継承している産地があります。 プロ用洋包丁、ステンレスハサミ、庖丁等の産地として岐阜県の関市、 刺身庖丁などの和庖丁の名工職人の居る大阪府堺市、 大工道具、園芸刃物、利器工具等の兵庫県三木市、 小野市は、鎌、握りはさみ等の産地です このほか、庖丁、ナイフ、山林刃物等の福井県の武生(越前市)、ナタ、斧、庖丁などの高知県の土佐山田町、 信州鎌の長野県の信濃町古間、 剪定鋏、鎌等の山形市であります。 そして、東京は明治15年、ラシャ切鋏の発祥の地であり、吉田弥吉の系図を引く、ハサミ職人が平成になっても伝統を守っておりますが、 昭和50年代までは、名工と云われるハサミ職人が10数社に居て、全国の繊維加工作業者に愛用されておりました。 このほか、日本には産地形成の中ではなく、単独工場で、刃物等を製造している メーカーが周辺の他県にも数多く存在しております。 それでは、日本の産地における鍛冶屋事情として、先ず、三条地域から、語りたいと思います。 私が、昭和52年、「羽生の鍛冶屋」刃物店を開業してから、問屋筋との関係ができ、三条、与板周辺、の鍛冶屋の歴史を学ぶ機会ができました。 昭和30年代、40年代の成長期も、三条を中核とした、燕、与板、月潟地区においては、鑿、鉋、鋸などの大工道具、食器道具、手工具、建築金物、盆栽刃物、農具、鎌、ハサミ、庖丁・・・と文明の利器が、鍛冶職人や製造作業者によって、日本の殆どの家庭、工場、農家向けに生産され、それを、大小、400社前後の金物問屋の営業マンが全国の金物店に営業に出かけて行ったのであります。 東京オリンピックを契機に、高度成長時代に向かって、ホームセンターの進出が始まった昭和47年頃から、個人技の鍛冶屋と大量販売に向けての工場機械生産品との販売競争が始まることになるのであります。さて、三条の鍛冶屋さん達はどうなっていくのでしょう。 つづきは、次回と致します。 |
sumidagawa60 | 投稿日時: 2010-6-9 14:28 |
登録日: 2008-4-29 居住地: 埼玉県羽生市 投稿: 57 |
Re: 羽生近隣の野鍛冶のお話 羽生の鍛冶屋さん
野鍛冶の話、面白かったですよ。 そうなんですね、昔は、どの村や町にも鍛冶屋さんが 居たのですね。農業の道具:鍬や鎌、マンノウや備中;確か 私の田舎では、万能のことを備中と言ってたような記憶があります。愛知県の稲沢ですが、:を造ったり修理をする人が必須だったのでしょう。 私も、水飲み百姓の倅で昭和30年代は、田植えも手植え、新潟の方から助っ人を頼んで、その人たちの食事の世話に、お袋が走り回っていたのを憶えています。もちろん、小学生も労働力でした。 当時は、農林水産業に従事する人が日本の産業の主流で約6割が農業、そのほか林業、水産業。サラリーマンは、まだ、少なく、都会の憧れの職業でした。その第1次産業が、今では、数パーセントとか。日本の食料自給率は、50パーセントをきって、危険水域に入ってる。 もう一度、我が国に農業がよみがえる日が来ることを期待してます。その期待に応えるのが、政治なのでしょう。政治家や官僚の皆さん、お願いしますヨ! |
« 1 2 3 4 (5) 6 7 8 » |
スレッド表示 | 古いものから | 前のトピック | 次のトピック | トップ |
投稿するにはまず登録を | |